2023年6月29日木曜日

漱石とホモソーシャル (再掲)

俺:高級なと言っては手前味噌ですが、いわゆる知識人層のホモソーシャルは、お互いを信用できる、という意味でのみならず、時には抑制を効かせてくれる、という意味でも、安定的であるような気がします。 たとえお互い家族を持っていたとしても。 それが、なぜか中国を理想とする古典の世界と同一視されている気がします。 ただ、野卑な連中の、お互いのナアナアだったり、無駄に党派的だったりするところと違うところがまた、安定的でもあり、居心地が良かったり、という気もします。 平成のバブル真っ盛りの頃から、その崩壊後しばらくの間信じられていた男女の性愛結婚という幻想が崩れたいま、人は人を信じることを放棄するか、あるいはボーイズ・ラブのようなある種の強度なホモソーシャルの世界にしかリアリティーを感じられないのかも知れません。  先生:「ホモソーシャル」は、「友愛」の名の下に構築される社会的関係なので、近代(的個人)の成立が要件かと思われ、古典漢籍にその理想を見るのは、近代が中国古典時代を捉える「振り返り」の眼差しが作り上げたもののように思えます。興味深いのは、『行人』の一郎が逃げ込む場所がここで、同時にまた『それから』の父・長井得も漢籍の素養が深い人物として造型されています。そして『明暗』の津田は、漢籍に通じない男であると規定されている‥。『明暗』は後期の漱石にしては珍しく、ホモソーシャルが後景に退いた作品です。 漱石は「ホモソーシャル」が女性のみならず、男性の関係性、ひいては一個人としての男性を抑圧する(偽装された社会関係の抑圧性)装置であると考えていたのでは、と私などは思っています。『それから』で「平岡」との関係を通してその機能・作用を自覚した漱石は、それを『行人』で徹底分析、『こころ』ではその呪縛を免れるべく「K」そして「先生」の死を描き、「私ー先生」の関係に期待を込めますが、結局、「私」は「奥さん」との間に個人と個人がふ触れあうような一瞬を体験しながら、やっぱり死んだ「先生」の元へ帰還してしまったのではないか‥。 絶筆『明暗』が再び、「眉の濃い・黒目がちの瞳」をしたラファエル前派もどきの強い女・お延を登場させ、彼女との闘争の中に自己を模索するしか術のない主人公、津田を描かざるを得なくなった所以のようにも思われるのですが。この辺り、また検討し直してみたい、とお便り拝読してつくづく思いました。

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