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申し訳ない

木曜日の 夜に 塾講師の 案件に 応募したけど、 返信すら 来てないのに、 辞退の メールを 送りました。 生活のペースが 乱れるのが 困る。 具体的には、 冷たい水を 気づかないうちに 飲みすぎてたりとか、 急に 不安感に 襲われるとか。 経験上、 こういう 時は 身を退いた ほうが いい。 後退は しないが、 かといって 足が 止まった わけでもない。 むしろ、 まだ 前へ 進める。 そこを 仕事の 都合で 邪魔 されたくない。 母親の 見守りも、 束縛って いうより、 もっともっと よく出来る 可能性が 見えてきて、 そっちが 大事。 高校受験で 無理しすぎて 高校はいってから ウツ状態に なったことと、 大学で 統合失調症に なったことで、 自分の 内面には いつも 配慮して、 手遅れになる前に 早めの対処が 必要 ということが 身に沁みて わかった。 無意識のうちに 自分の 心の内を 検べたり、 体調の 変化には 敏感に なっている。 就職に関しては、 手札を全部 切ってしまった。 どうせ 市役所の 障害者雇用も、 願書出したところで さんざん 悩んで 1次試験も 受けないのが 想像できるし。 じゃあ、 それで 不安に なるかっていうと、 意外と そんなことは なくて、 自由に 時間を 使える ありがたさの ほうが 勝る。 不安は 不安 だけど、 時代も 移り変わるし、 成り行き任せ で 行くってのも、 結構な 技術 だと 思う。 そういう 遊びの部分が あっても いいと 思う。 むしろ、 グローバリゼーションを もたらした 新自由主義は、 人間の 時間を、 その 存在を、 すべて 経済的な 側面に 還元してしまう ような 側面が あったのではないか。 人間は 本来 もっと 経済的側面 以外の ことを 考える 時間を 持つべき なのではないだろうか? 「合理化」が 進むほど、 人間は かえって 合理性を超えた 領域に 生存可能性を 見出すことは、 アドルノが 指摘する 通りである。 「合理性」で 覆い尽くされた 社会でこそ、 敢えてでも 騙されたい、 という 荻野昌弘の 指摘は 正しい。 人工知能が 発展し、 社会が さらに 「合理化」 されれば されるほど、 人間は かえって 「非合理的な」 行動に走る のでは ないだろうか? あるいは、 そういった 一種の 逃避が、 アウシュビッツの 再来なのか、 それとも 人間の 独創性の 開放なのか、 今は まだ わからない。 しかし、 人間の 独創性の 開放の 名のもとに、 自然との 原初の統一を 試みたり、 あるいは 世界の一体性が 到来する、 などと 鼓吹するのは、 危険な徴候だ、 ということは、 これも アドルノが 指摘した ことである。 アドルノによれば、 理性そのものが、 イデオロギー的な 性質を 持っている。 理性的な 社会を 追求するほど、 かえって 野蛮な 社会が 待っている かも知れない。 ジュリア・クリステヴァが 指摘するように、 現代社会は、 主観と客観の 区別によって 抑圧された アブジェクトを 隠蔽した 社会なのだ。 それでも 人間は 進歩するだろうが、 結局は やはり 社会全体として 見れば、 野蛮な 側面を 同様に 残したまま 社会は あり続けるだろう。

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