もし
政治の世界が
完全に
人工知能に
取って代わられれば、
果たして
理想的な
政治が
行われるのだろうか?
仮に
人工知能が
需要と供給を
完全に
予測し尽くす
ことが
出来たとして、
ならば
完璧な
計画経済を
今こそ
実現させられる
という
のだろうか?
それとも、
もっと
自由放任な
社会を
作り出すのだろうか?
人工知能が
過去のデータから
学ぶために、
前時代的な
偏見、
例えば
ジェンダーなどに
関して
女性に
不利な
過去を学習してしまう
危険性を
スプツニ子!氏
などは
指摘しているが、
人工知能が
学習するという
その
具体的な
範囲は
どこまでなのだろうか?
完璧な
計画経済を
実現しようとするなら、
それは
ディストピアかも
知れない。
確かに
セブンイレブンに
行けば
なんでも売っている。
あるいは
それだけ
魅力的な商品が
揃っている。
あるいは
CMの力によって
そう
思い込まされている
のかも知れない。
いずれにせよ、
こちらの
欲しがる、
欲しがりそうなものが
既に
店頭に揃っている、
ということは、
ちょっと
怖い
ことなのかも知れない。
コンビニに
行けば
なんでも
手に入る、
という
現実は、
個人の
孤立化を
深める
危険性が
あるのではないか?
物資的な
欲望、
それに
附随する
物語性が
満足のいくまで
充足された
消費者は、
私的領域に
閉じこもり、
もはや
公的な問題、
政治の問題
に関心を
寄せなくなってしまう
危険性はないのか?
そこにおいて、
人は
どんな
価値観を
持てば良いのだろうか?
人工知能は
価値観を
教えてくれない
らしい。
価値観を持たない
人工知能に、
政治を
任せる
危険性は
ないのか?
価値観を
持たない
「貧者」は
せいぜい、
自分の身の回りに
関して、
自分は
平均以上の
人間だと
思いたい
と
常に願いながら、
むしろ
必死で
経済的豊かさを
渇望することに
終始して
しまうのではないだろうか?
1. 序論:『それから』に映し出される明治期の近代化 本稿は、夏目漱石の小説『それから』を題材に、日本の近代化がもたらした状況と、それが個人の経験に与えた影響について考察するものである。特に、経済的豊かさが生み出す「自家特有の世界」への耽溺と、それが最終的に経済の論理に絡め取られていく過程、そしてテオドール・W・アドルノが指摘する、社会の合理化と精神世界における非合理への慰めを求める人々の傾向を、作品を通して分析する。 日本の明治時代(1868-1912年)は、長きにわたる鎖国状態を経て、1853年の黒船来航を契機に世界と対峙し、驚くべき速度で西洋の制度や文化を取り入れ、「近代国家」への道を歩んだ画期的な時代である 。この時期には、鉄道、郵便局、小学校、電気、博物館、図書館、銀行、病院、ホテルといった現代の基盤となるインフラや制度が次々と整備された 。政府は「富国強兵」や「殖産興業」といった政策を推進し、工場、兵舎、鉄道駅舎などの建設を奨励した。また、廃藩置県や憲法制定といった統治制度の変更に伴い、官庁舎や裁判所、監獄などが建設され、教育制度の導入は学校や博物館の整備を促した 。 西洋化の影響は日常生活にも深く浸透した。住宅様式においては、外国人居留地を起点に西洋館が普及し、やがて庶民の住宅にも椅子式の生活スタイルが段階的に浸透した 。食文化においても、仏教の影響で長らく禁じられていた肉食が解禁され、西洋列強との競争意識から日本人の体格向上と体力増強が期待された 。洋食は都市部の富裕層を中心に広まり、カレーライスやオムライス、ハヤシライスといった日本独自の洋食が定着した 。大正ロマン期(1912-1926年)には、西洋文化と日本独自の文化が融合し、「モガ」や「モボ」と呼ばれる若者たちが洋装に身を包み、カフェで音楽や映画を楽しむ「自由でおしゃれな空気」が醸成された 。経済面では、明治後期から軽工業が発展し、日露戦争前後には鉄鋼や船舶などの重工業が急速に発展し、日本の近代化を加速させた 。第一次世界大戦期には工業生産が飛躍的に増大し、輸出が輸入を上回る好景気を享受した 。 『それから』(1909年発表)は、夏目漱石の「前期三部作」の二作目にあたり、急速な近代化が進む日本を背景に、個人の欲望と社会規範の...
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