2023年2月28日火曜日

国会中継

なんかもう、 野党の パフォーマンス の場にしか 見えねえんだよな。 テレビに 映ってるところで、 自分の 議席のために 政府与党の 揚げ足を取って 騒いでるだけ。 どうせ 政策立案能力なんか ありゃしない。 東日本大震災が よりによって あの時期に 起きたのは、 日本の政治史において、 悲劇だったのかもしれない。 自民党への 対立軸が しっかりしないまま また 自民党に 政権が 渡ってしまった という 点で。 その後の 安倍独裁を 考えれば、 東日本大震災 以降 岸田政権までの 時期は、 黒歴史と 言っても過言ではないだろう。 もっとも、 東日本大震災への 対応が お粗末だった という そしりは 免れないだろうが。 でもまあ、 この国の政党政治史を 振り返れば、 関東大震災が なかったらってのも あるけど、 そもそも 地震大国なんだから 言い訳かな、 とも 思うけど。

ハムの人

障害年金はいったから、 高島屋で 寒中見舞いと 称して 姉夫婦に ハム贈ったけど、 ようやく 自分は 敵じゃないという ことを 理解してもらえたようだ。 気づくのおせえんだよ。 40年掛かって やっとか。 変に 等価交換しようとせずに、 ありがとうと 言ってくれれば それでいいんだよ。

遊びの社会学 (再掲)

(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93

2023年2月27日月曜日

公務員事情

https://bunshun.jp/articles/-/60884 文春オンラインいいね! タブーを 恐れない 文春の姿勢 いいね。 スマホの記事も なかなか 悪くないね。 これで 本買うように 誘導するんだろうけど。 まあいいよ。 買うわ! ・・・コンビニ行って アマゾンカード買ってきて、 ダウンロードして 読み始めたよ。 最初の 10ページくらいで もうキツイ。 いやだ・・・こんな仕事。 たぶん 相当正直に書いてあるんだろう。 生々しい。 ・・・だめだ。 辛すぎる・・・ こりゃ メンタルやられるわ。 素の文からして、 強アルカリ性なんだよ。 聞いたことない 出版社だから、 読者の リアクションを 想像し切れていないのかも しれないが、 あまりに 正直すぎる。 この本読んで 本気で 公務員になろうと 思える人は、 是非なったらいいと 思う。 自分には無理だ。 こういう 強烈な文章を これでもかと 書ける人が 上司だったら、 確実に メンタルが おかしくなる。 以前、 前橋の 群馬学習センターで 面接授業受けたとき、 群馬県庁の方と おぼしき方が 2人ばかり いらしたけど、 なんていうか、 メンタルの表皮が 異常に厚くて、 もちろん 体力もハンパなくて、 そんでもって プライドも高い、 そんな 感じだったね。 ・・・気を取り直して また少し読んで みたけど、 最初が 強烈なだけで、 実際には ほんとに 知られざる 地方公務員という 職業の リアルが 描かれていて、 非常に 有益な情報を 提供してくれているのは 間違いない。 自分が 職員に向いているかは 別として。 ふと、 自分は 障害者という地位に こだわり過ぎなのではないか? と 思えてくる。 障害者雇用の場合、 配属先が 決まっているようだが、 基本的に ゼネラリストを 育てたい 役所という 組織の中では、 必然的に 異端的存在になるだろうし、 自分にとっては そのほうが 都合が いいだろうが、 障害者だから 楽な仕事を させてもらえる、 と 期待するのは お門違いのようだ。 そのへんのことは 書いてないが。 いずれにせよ、 役人というのも 分相応に大変そうだ、 ということは わかった。 もちろん 向き不向きも あるだろう。 向いてる人にとっては 最高の環境だろう。 自分に 適性があるかどうかは、 もっと読み込まないと わからない。 ・・・キンドルだと 眼がしんどいから あらためて 新書版買いました。 このほうが 読みやすいね。

WBC

https://number.bunshun.jp/articles/-/856594 こういうことも あるよね。 外野手って 内野手に比べて 簡単と 思われがちだけど、 例えば センターを 例にすると、 少年野球で センターを 守るほど 上手じゃなかったが、 ゴールキーパーとしての 経験から言うと、 (⇐筋違いだが) 自分に向かって 真正面に 強烈な打球が 飛んでくるって、 メチャクチャ 難しいよね。 距離感を 掴むのが ものすごく 難しい。 それを 一瞬で判断して 走って取る、 というのは 並大抵のことではない。 栗山監督は 確か 外野手だったはずだが、 ちゃんと センターを 守れる 選手を 選んだんだろうか? そもそも、 監督としての 実績から言っても まったく 成果を挙げていない 人物を、 なぜ 国際大会の代表監督に してしまうのか。 結局 巨人つながり? もう 叶わないが、 一度でいいから 野村監督が 日本の 代表監督を やるところが 見たかった。 なぜ 栗山なのか? なんの 期待感もない。

2023年2月26日日曜日

「本当は、ずっと愚かで、はるかに使えるAI」 山田誠二 日刊工業新聞社 (再掲)

なんだ、AIってのはこんなもんか。 世間が煽り過ぎの側面は多分にありそうだな。 実際には、企業がAIを導入したはいいが、さんざん失敗した事例があるが、表沙汰になかなかならないだけで、そういうことは山ほどあるらしい。 そーだよね。 なんか2040年にシンギュラリティーがどうのこうのとか言って脅してくるが、なんか今の段階でAIが目覚ましい成果を挙げたという事例が、意外と少ないな、 とは思っていたが。 翻訳ひとつとっても、通訳だの翻訳だのは、近いうちに完全にAIにとって代わられる、と情報の専門家から聞いていたものだから、 てっきり俺の英語学習はすべて無駄だったのか・・・と思っていたが、案外そうでもないっぽい。 むしろ、日本語と英語は文の構造が全く違うので、Deepl翻訳を使うときでも、日本語をそのままDeepl翻訳につっこめば、自然な英語が自動的に出てくる、ということは、むしろ少ない。 もとの日本語を人間がいじってやる必要がある。 著者が主張するのは、AIが得意なこと、人間が得意なこと、をしっかり理解して、共存共栄を期することのようだ。 いいじゃないか! 新井紀子さんの著書とあわせて読むと、より納得がいく。 お二人とも多分同僚だから。 よく、研究者が、複数の自動車を模した模型たちが、自律的に動き回っているのを見せて、 はい、現実の世界もいずれこうなります、みたいなデモンストレーションを行ったりするが、 モデル化された実験室の中と、現実に自動車が行き交う世界というのは、少なくともAIにとっては次元の違う話らしい。 それが可能だと思えるのは、むしろ人間が、生育する中で、自然と身につける、自覚すらしない「常識」を身につけているが、 AIはそういう「常識」がまったく欠けていて、プログラマーがいちいちプログラミングしないと、 AIはそういう当たり前の常識がまったくわからない、ということのようだ。 この話を聞いて、 自分はもしAIが自動運転する自動車が開発されたとしても、怖くて乗れないと思った。 アマゾンの物流倉庫で、 商品を積んだ輸送マシーンが自由自在に動き回っている映像を見る機会が増えてきたが、 それは、 AIの特性をよく理解している、ということではないか。 日本のように、むやみやたらになんでもAIに任せようとして失敗している、ということは、ザラにあるらしい。 AIに職を奪われることを過剰に怖れるのではなく、 AIの特性、人間の特性を認識し、棲み分け、共存共栄を目指すことが、両者にとっていわゆるWin-Winなのだろう。 AIにすべてを丸投げすることの危険性は、AIがAIを騙す、という側面があるからとのこと。 顔認証にしても、空港における危険物探知にしても、人間だったら騙されないような実に些細なことで、AIがAIを騙せてしまうらしい。 したがって、AIに丸投げ、というのは、実はとても危険なことでもあるようだ。 著者は、AIは基本的に未来に起きる想定外の事態に対応できない、と書いているが、 新井紀子さんの言を敷衍すると、 AIは、数理論理学、確率、統計学の3つを駆使して動いている、ということだから、 全く未来を予測できない、ということはないだろう。 しかし、それは飽くまで過去のデータの蓄積から、予測する性質のものだが。 そう考えると、AIならば未来を完全に予測できる、 というのは、やはり決定論のワナに嵌まっているように感じられる。 また、著者によれば、AIは価値評価が出来ない、ということだが、 具体的には、「良さ」「悪さ」を判断出来ない、ということらしい。 例えば、音楽でいうポップスは、 メロディーや歌詞が出尽くしているので、 実際に、サンプリングといって、 作曲すらせずに、断片的に音を拾ってきて、適当につなぎ合わせることで曲が作れてしまうらしい。 それをAIにやらせることは、た易いことだが、 そうやってAIが作った曲の、良し悪しは、やはり人間でないと出来ないらしい。

人工知能は万能ではないらしい。

日経新聞4面(2023/2/22)に 載ってたけど、 最強クラスの 囲碁AIに、 アマチュアが 15回戦って、14回 勝利 したらしい。 しかも、 人間だったら 簡単に 見破ることの出来る 戦術で。 これが示唆する ところは、 人工知能の 特性に 精通している 人間だったら、 人工知能を 簡単に 騙せてしまう、 ということだろう。 社会の セキュリティやら 自動運転やらが あまりに 人工知能に 依存し過ぎると、 かえって 非常に危険でもある、 ということだろう。 しかも、 よりによって 囲碁という もう 人間が決して 人工知能に 太刀打ちできない、 と 考えられていた 分野で、 アマチュアが 勝ってしまう、 しかも 人間だったら すぐに 見抜ける戦術で、 というのは、 実は 衝撃的な 出来事ではないだろうか。

2023年2月25日土曜日

若者たち

https://www.google.com/search?q=%E5%90%9B%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E9%81%93%E3%81%AF%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8F%E9%81%A0%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%9C&rlz=1CAJFMC_enJP1026&oq=%E5%90%9B%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E9%81%93%E3%81%AF&aqs=chrome.2.69i57j0i512l9.17270j1j15&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:3de0e8b3,vid:zDewOyfuIXU

2023年2月24日金曜日

自由からの逃走 (再掲)

自由ってのは、政治哲学とか、カントの自由論とか、そういう話だと思っていたが、個々人のメンタリティーの問題でもあるらしい。 もちろん、エーリッヒ・フロムのように、ナチズムにおけるサド=マゾ関係を論じた著作もあるが、それにしても、やはり個人のメンタリティーと、それに接続する政治思想というのはある。 あるいは、丸山眞男のように、天皇制のもとで、自ら隷属状態に陥ろうとする人々の心性を論じた学者もいる。 我々は今、自由主義体制にあって、もちろん経済的な問題で、自由に生きられない人はいくらでもいる。 しかし、経済的問題に縛られていなくても、精神的隷属状態に自発的に入り込む人がいる。 ある系、それは家族でもいい、そういう系の中に、自分をはめ込んで、聖なる奴隷として生きる以外の生き方を知らない人がいる。 かといって、そういう系から全く自由な人があり得るか、と言えば、これもまた難問ではある。 そもそも、構造主義というのは、人間は、「構造」の中でしか存在しえないことを論じた思想だ。 現に、我々は、「国家」というフィクションの中で生きている。 社会契約論であれ、ヘーゲル主義であれ、天皇崇拝であれ、フィクションを、真実である「かのように」信じることでしか、我々は「国家」を前提として生きることはできない。 その「虚構性」が覆い隠されているのは、国家というフィクションが、単に概念上のものであるとしても、現実には、それに基づいて、強制力が我々に発動される、あるいは逆に、国家の成員であるということで、身分保障などの恩恵を受けられるからである。 しかし、だからといって、国家がなければ我々は自由か、というと、決してそうではない。 第一次大戦後のドイツのように、巨額の賠償金とハイパーインフレによって、国家の信用が崩れ、そのフィクション性が露骨に現れるようになると、国家社会主義労働者政党が現れ、没落した中流階級プロテスタンティズム的マゾヒズムと、ナチスのサディズムが、共犯関係を構築し、人々が進んでその「構造」に囚われるようになった、というのは、エーリッヒ・フロムが指摘したことである。 日本においても、丸山眞男が論じたように、天皇制のもとで、統治心性とフーコーが名付けたような、被統治的概念が、現実の制度に反映され、概念と制度、人々の心性が、相互に補完し合い、統治を強化し合う、という現象が起こる。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用) こういうと、現代の我々は、そういう支配関係にいないから自由であるか?といえば、必ずしもそうとは言えない。 家族という、社会を構成する最もミクロな系においてすら、自ら進んで隷属状態に陥ろうとする心性が、存在する。 あるいはしかし、フィクションとしての家族関係があるにせよ、特に資本主義というシステムの中で、我々が矯正されている、という側面もある。 家族が、資本主義化された社会野全体の部分集合になっていて、社会的な諸人物のイメージが「父―母―子」の三角形に還元される、ということですね。「還元(縮小)される se rabattre」という所がミソです。資本主義社会全体が三者関係によって表象されるわけではなく、その一部だけが家族の中で二次的表象を作り出すわけです。家族は、資本主義機械によって植民地化されているわけで、「父」や「母」は資本主義機械の一部を代理して、「私」を躾け、飼いならすわけです。  「父―母」を「消費する consommer」というのは、家族の中で父や母によって子供としての私の欲望が充足される、ということでしょう。恐らく、社会機械と繋がっている人間の欲望の発展の方向性は元来かなり多様なはずなのだけど、核家族の中で育てられると、それはかなり限定的なものになっていく、ということでしょう。小さい私はもっぱらパパやママから与えられるものを消費する受動的な存在にすぎません。大人になって、「社長―指導者―神父・・・」等の職に就いたら、消費するだけでなくて、自らも生産活動に携わるようになるので、社会体に対して能動的に働きかけ、自己の欲望の回路を拡大できるようになるかと言えば、そうはいかない。子供の時に教えられたように消費しようとする。それが、エディプス三角形の中での「去勢」でしょう。 ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義 p.300~301 作品社 仲正昌樹

家族という病

いま 寝起きで 郵便局に行って来たんだけど、 さっき起きて、 母親がぶつぶつ言ってるから、 電話で誰かと喋ってるのかと思って、 話しかけたら、 確定申告で急ぎレターパックが必要らしい。 レターノート?と聞くと、 レターパック!て言い返されて、 要するに、 今すぐ郵便局行って買ってこいってことらしい。 さすがにムカついたけど、 どうせ本人は行けないんだから、 行って買って来たよ。 この期に及んで そういう頼みかた しか 出来ないんだから、 これはもう治らないね。 ホントに人間てのはアテにならない。 母親が ああいう ものの 頼み方を するっていうのは、 自分が100% 善人だ、っていう 発想があるんだろうね。 母方の祖父、 つまり 母親の お父さんが、 終戦後 キリスト教に改宗 したらしいけど、 母親は 変な カタチで 受容したみたいで、 メンタリティーが オカシなところがあるからね。 それと、 自分は 都立日比谷だ、 ていう 深層レベルの エリート意識が こんがらがって、 ちょっと 歪んだ 人格になってる。 決して 悪い人じゃないけど。 心の底では エリート意識を 抱えてるのに、 似非キリスト教的 奴隷根性が 染み付いてる。 自分も 若い頃 何回か 教会に連れて行かれたけど、 それで 感化された ってことは なかったね。 言ったでしょ? 小林家は すげえ 難しい 家族なのよ。 そんな簡単に 精神病んだりしないから。 医療・福祉系の従事者に 言いたいが、 ちょっと知恵をつけた やつほど、 当事者を責めるよね。 え、俺が ビョーキなのって、 ぜんぶ俺のせいなの?! マジでいじめだよ。 ビョーインに入れられて、 医者から 人を人とも思わない ような 目つきで 見下した態度を 取られた ときは、 ほんとに やるせなかったね。 屈辱なんてもんじゃないよ。 もう十分 頑張ったでしょ?! もう 俺を責めないでくれ!

2023年2月23日木曜日

ジョンさんブチギレ

俺:Have you heard about Yusuke Narita who is an assistant professor at Yale. He uttered that the Japanese elderly should kill themselves to reduce social welfare expenditure. His utterance is a clear manifestation of young Japanese' poverty of basic morals. To my reflection, when I was a high school student, well into the 90's, young people believed the whole world will face the apocalypse when 2013 at the latest. This idea was so widely held that Oumu Shinrikyo problem was not completely detached from us. In other words, Japanese people at my ages harbored the idea that Japan (or sometimes the whole world) is doomed. Narita's immoral attitude is an embodiment of such perspective I believe. ジョンさん:I can’t believe anybody who wears glasses like him could have influence. He seems like a clown. That he is taken seriously, I agree, is a very strong indictment of youth’s lack of morality. Or simple common sense. Belief that the 2013 prophecy was real is also an indictment of Japan’s youth’s sense of reality. Such a man as Narita should be shunned by society and ridiculed. It is very very disturbing that he has any support. 俺:It is reasonable that you are upset. I cannot agree with you more. His friend, Hiroyuki Nishimura is quite notorious but very popular. ジョンさん:I’m not surprised they are friends. Nishimura is another idiot who needs a haircut and shave. Such people have no morality beyond money and fame. They only seek to draw attention to themselves. Nishimura is despicable.

反・決定論 (再掲)

私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店

物語 (再掲)

詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188) 読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485

就活

なかなか 難しいね。 この 治安の悪い ご時世、 母親は 口には 出さないけど、 やっぱり 自分が 日中いないのは 不安みたいだし。 (ましてや 帰りが遅い なんて もってのほか。) 自分自身にしても、 市役所ー!!! とか 心に決めると、 明らかに 薬の量が 増えるし。 それにしても、 七味唐辛子って ほんと うどんに よくあうな。 このために 存在してるんじゃないか と 思うくらい。 冗談はさておき、 母親が 心配するのも 無理はない。 ただでさえ 警戒心が強いし、 父親が亡くなって、 本人も 脳梗塞になって、 溜まりに溜まった 睡眠負債を ようやく 返し始めた ところなんだから。 もう いくらでも 寝てくれ。 何しろ、 自分が 物心ついた頃から、 母親は まともに 寝てない生活を 何十年も 続けて来たんだから。 そら 脳梗塞にもなるわ。

2023年2月22日水曜日

都市から見るヨーロッパ史

実に面白い! キリスト教の素養がないと 入りにくいけど、 八戸サテライトで しっかり 勉強してきたので、 違和感なく 視聴できる。 第4回まで 一気に 見た。 前から 存在は知っていたが、 ツマンネ。 と 思っていたが、 あらためて 見ると、 めちゃくちゃ面白い。 てか、 先学期 科目登録してたのに、 そのこと自体 忘れてた。 (;´∀`) それにしても、 日本の 歴史教育が いかに 宗教という側面を 脱色しているか、 痛感するね。 逆に そのおかげで 世界史・日本史を 理解しているか どうかを、 あたかも テストで 試すことが 出来るかのように 勘違いしていられるわけだが。 そうやって こぼれ落ちたものを、 倫理やら 政治・経済に フォローしてもらうことで、 辛うじて 補っている。 キツかったけど 頑張って 第6回まで 視聴。 面白かった。 ・・・第9回まで 視聴。 都市を知らずして ヨーロッパ史を 語るべからず、 ですな。 第11回まで 視聴。 いやー、いい話が 聞けました。 とりあえず 一区切り。 今月末が 科目登録 期間の満期 なんだけど、 それまでに どんな 科目を取るか 選別するために、 予め 面白そうな 授業は 大筋がわかる 程度までには 最低限 視聴しておきたい。 そうすることで、 放送授業で わかったから、 この面接授業は 削ろう、 とか 出来るから。 あるいは、 書籍を読んで、 この時代は わかったから、 はるばる 遠いところまで 行く必要はないな、 とか。 ・・・おはようございます。 第12回 視聴。 だいぶ イメージしやすい 時代に入ってきました。 今日中に ぜんぶ 見るぞ! ・・・第14回 まで視聴。 中身つまってるなー。 いよいよ ラスト! ・・・よっしゃー!!!!! 全15回すべて 視聴! 達成感!!!!!

確定申告

市役所に 行って来ました。 マイナンバーカードの おかげか、 一瞬で 終わりました。 それはともかく、 部下に ネチネチ 説教してる おっさんがいて、 嫌だった。 俺の中の 市役所 障害者枠 雇用 という 目論見が 崩壊した。 主治医が 言ってた 市役所は ストレス凄いって、 こういうことか? パワハラとか マジ勘弁。 フットサルの代表のかたも 市役所は 辞めさせられないから オカシなのがいる、 とか、 あるいは 自分が ビョーインにいた とき、 横浜市役所の人がいたけど、 やっぱり オカシかった。 役所には役所の 不条理があるんかな。 友達から 聴く話でも、 どんな 優良と思われてる 企業でも、 パワハラが 常軌を逸してたり するしね。 なんにもしないで 障害年金もらえる 立場は 気楽でいいや! 昨日の 日経新聞の 経済教室で、 賃上げの 持続性を 保つには、 労働生産性を向上させることが 肝腎だ、 と 書いてあったが、 パワハラなんて、 パワハラしてる やつが 気持ちよくなるだけで、 全体として 著しく 労働生産性さがる だけじゃん。 こんな パワハラ体質が 民も官も 染み付いてるような 国は、 もういっぺん どん底まで 落ちたほうが いい。 そのほうが 手っ取り早い。

世界史の中の中国文明 (再掲)

という、 放送大学の 面接授業で 聞いた話ですが、 元 は 当時 先進的な金融大国で、 交鈔 という紙幣を発行して、 流通を強制した ために、 宋の 時代に 流通した 銅銭が 駆逐されて、 鎌倉時代の 日本に 大量に 流れ込んだらしいですが、 最終的には 交鈔を 乱発した せいで 経済が破綻した、 というのは 大学受験の 世界史の常識レベルですね。 しかし、 交鈔の 流通を強制した といっても、 価値を 裏付けるために、 塩引 といって、 塩の専売権 が 保証されて いたりと、 やはり、 価値の裏付けもせずに 紙幣 として 流通させた わけではなかった ようです。 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、というのは、かのビスマルクの言葉だそうです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%88%94

2023年2月21日火曜日

成田氏の発想のヤバさ

成田氏の 高齢者は 集団自決しろ 発言ですが、 これ、 ナチズムの ホロコーストと 一緒ですね。 ナチスは 最初から ユダヤ人を 大量虐殺しようと していたわけでは なくて、 領土が拡大するにつれ、 自然と 増大する 拘束された ユダヤ人を どう 扱うか、 という問題に 直面したとき、 そうだ、 殺しちゃおう! っていう 発想に至ったわけです。 その 官僚的発想がヤバい わけです。 現代の日本が それと 似たようなことを システムとして 出来るとは 思いませんが、 選挙権年齢も 引き下げられたことだし、 シルバー民主主義などと 言われますが、 若年層が もっと 政治を我が事として 捉え、 自分たちの 利益を 代弁してくれる 候補者を 民主主義という 枠のなかで 選べばいいのです。 高齢者に 集団自決を迫る などという 国際社会に 恥をさらす くらいなら、 日本はこのまま 財政破綻したほうが まだ マシです。 そもそも、 同じ日本国民という 枠内で、 特定の階層の人を 殲滅しようなどというのは、 国家としての 役割を放棄しています。 トマス・ホッブズの 想定した 「自然状態」では、 お互いがお互いを 殺し合うわけですが、 そこでは、 殺し合うもの同士の 戦闘能力は どうせ 大した個人差が ない、と 考えられています。 その意味で、 個々人は ”平等” なのです。 だから、 想定の中の話ではあれ、 そういう 極限状態における 解決法として、 リヴァイアサンに 生存権以外の 一切の 権利を 預けてしまおう、 というのが ホッブズの出した 答えなわけです。 逆に言えば、 そのような 過酷な状況であっても、 生存権だけは 守られなければならないのです。 それを 国家として 否定する、 などということは、 社会契約論的に考えて、 およそ 国家の存在意義を 否定するものです。 ホッブズ流の 社会契約論に立てば、 死刑判決を 受けた 囚人は、 あらゆる手段を 使って 抵抗・逃走を 試みることが 許されるのです。 なぜなら、 生存権だけは 否定されないからです。 その 生存権すら 否定するような 社会は、 必然的に 「自然状態」に 逆戻りするでしょう。

2023年2月20日月曜日

人間にとって貧困とは何か

授業が 面白かったので、 教科書を 買ってみた。 基本的に 放送大学の 教材は 市販されている。 この 科目は 2022年度2学期をもって 閉講されてしまい、 もしかしたら それに 伴い 中古でしか 手に入らないのではないか、 と 思い、 購入。 本棚に一冊あると カッコいいよね。 ・・・どっから 読んでも面白い。 一度通して 授業を聴いた、 というのもあるが、 どこから ページを繰っても 味わい深い 言葉が 並んでいる。 https://www.youtube.com/watch?v=JOLTivwdOw0

2023年2月19日日曜日

レポートネタ <アンチ・オイディプス>入門講義より

 ニーチェが『道徳の系譜学』で、「負債」という抽象的な概念が、人々を縛る道徳の起になったという議論をしているからです。  生身の身体に刻まれる「最も残酷な記憶術」というのは、カフカの『流刑地にて』に登場する、身体に文字を刻み込む機械のことを念頭に置いているのでしょう。  この機械が各人の身体に、お前にはこれこれの負債がある、更には、お前の家はどこそこの家に対してこれこれの「負債」を負っている、という記憶を「言葉」として書き込んで、その人物の「大地機械」の中での位置を確定するのでしょう。  そういう言葉を各人の身体に書き込むと、”書き込み以前”の古い記憶、「胚種的流体」の記憶は抑圧され、神話の中にその痕跡をとどめるだけになる、ということでしょう。  無論、”書き込み以前”の記憶が抑圧されている可能性も否定できないわけですが。  <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.243より  ・・・予めネタを仕込んで置かないと、なかなか面接授業の終わりにアドリブでレポート書くのはしんどい。 これで単位来るかどうかは、評価するほう次第だけど、取れないにせよ、何も書かずに教室から去るのはツライ。

老人性うつ

https://news.yahoo.co.jp/articles/76e33eb7cef3c548a0f999500f9bf3304737d91a 母親が うつに ならないように、 しっかり ケア しないとな。

2023年2月18日土曜日

宴のあと

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/021600365/ ちょっと気を取り直して、まじめに書くと、中央銀行を政府から独立させる仕組みっていうのは、人類が歴史から学んで生み出したものなんだね。 トルコのエルドアン大統領が好例だけど、為政者は、どうしても景気を良くするために、通貨の価値を思い通りにしたい、という欲求に駆られるから、中央銀行を政府から独立させたうえで、通貨の価値安定の役割を担わせる。 日銀は政府の子会社とか言ってるやつは、そこが根本的にわかってない。 (過去ログより)

麻布競馬場氏に送ることば (再掲)

読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485

2023年2月17日金曜日

2022年度2学期成績

 現代の国際政治 特A  近代日本経済史@北九州サテライト 特A  日本近現代史 B  アメリカの芸術と文化 C  キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト 特A  ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 A  近代日本内閣史ー明治・大正編ー@神戸大学 A  近世ロシア史落とした。 とはいえ、 全く自信のなかった 日本近現代史でB を 取れたのは正直驚いた。 上出来。 それはともかく、 テストの成績から、 テストの作り方の巧拙の評価や、 果てはテスト作成者に対する 個人的な好悪の感情まで、 発表前とは変わってくるんだから、 不思議。 面接授業にしても、 レポートで 授業内容と あんまり関係ない こと書いて、 面白がって 高い評価くれる 先生もいれば、 そうでない先生もいる。 もちろん、 高評価もらえる場合は、 授業中の 質疑応答で、 お、コイツ わかってるな、 と アピールする 必要があるけど。 C評定だった 「アメリカの芸術と文化」の 解答が公開されたから、 確認してみたけど、 やっぱり 結構 まちがえてるね。 当たり前だけど。 ま、2回も 通して視聴して 過去問も勉強すれば、 単位は 来るんじゃないの?

2023年2月16日木曜日

「現代の国際政治」と「アメリカの芸術と文化」

明日 成績が 発表されるけど、 仮に 落としてたとしても、 もう一度 受ける チャンスはあるし、 また 勉強すれば いいし、 卒業かかってないから、 何の問題もない。 タイトルの 2つの 放送授業を受けて、 新聞を 読んでいても、 ああ、そういえば こんなこと 言ってたなあ。 と 気づきがある。 新聞を 読むだけでも、 日々 気づきがあるのは、 とても 楽しい。

2023年2月14日火曜日

世界史の中の中国文明 (再掲)

シルクロードの中国で 南北朝対峙の状況から 隋による統一へと 向かっている過程で、 西方でも 大きな動きが現れる。 東ローマは ササン朝を 介在させずに、 シルクロードの利権(特に中国商品) を 掌握するために、 内陸・海洋の バイパスルートの開拓を企図。  ◎内陸ルート→ 当時、 突厥は ササン朝との関係が悪化しており、 東ローマと同盟。 東ローマは、 突厥支配下にあった 遊牧国家ハザール経由での 交易が計画される。  ◎海洋ルート→ 576年の ササン朝のホスロー1世 による イエメン占領によって、 東ローマの インド洋進出は阻まれる。 西突厥は 588~589年の 第一次ペルシア・突厥戦争 で敗北し、 ササン朝の優位は揺るがず。  ⇒しかし、 アラビア半島西岸経由の バイパスルートは依然として 機能しており、 メッカなどの 商業都市が 交易活動によって台頭し、 イスラーム勃興の呼び水となる。 自分なりのまとめ: 東ローマ帝国は、 西突厥と手を組んで、 ササン朝を経由しない、 中国商品を手に入れるルートを開拓した結果、 アラビア半島のメッカなどの 諸都市が台頭し、 イスラームの勃興に繋がった。

2023年2月13日月曜日

社会・集団・家族心理学

森津太子先生の 講義ですな。 社会心理学と 聞くと、 なんだか 身構えてしまいますが、 実際には ある程度の 年齢を 重ねた人だったら、 うんうん。 あるよね、そういう話。 と 頷ける 内容でした。 さすがに 放送大学で トップクラスの 人気を誇る 先生だな、 と 思わされました。 ・・・一眠り してから、 第3回視聴。 へえー、 面白いね。 うんうん。 あるある。 心理学って こんなことまで やってたんだね。 心理学も なかなか 馬鹿にできないというか、 知ってるだけでも 生活の役に 立ちそうだ。 一種のライフハックだね。 むしろ、 自分はなんて 下手な生き方を しているんだろう? と 思い始めた。 第4回 視聴。 認知と感情。 自分が 往々にして やたら 内省的なのは、 ひたすら メンタルが しんどい 状況に置かれてきた からかも 知れない。 森先生の講義によれば、 人間は ポジティブな感情の ときには、 環境を変える必要がないから、 あんまり 労力を要する 認知の仕方を しないらしい。 ネガティブな感情の ときには、 その逆で、 良くない環境にいるから、 やたら 労力の要る 認知の仕方を してしまうらしい。 考えれば考えるほど 疲れるってこと、 あるよね。 第5回 視聴。 なんか、 今まで 神経を研ぎ澄ます ことが 良いことだと 思ってたけど、 それが 時として 無駄に 疲れるだけだ、 ということを ようやく 自覚し始めた。 ネットの言論とかにも、 いちいち 特に 感じなくなった。 どうせ 発信してるやつも、 大して 考えてないだろうし。 考えるべき時に 考える能力があることは 大事だけど、 つねに 考えすぎは 疲れるだけ、 ということを 学んだ。 第6回。 また面白い話でした。 とりあえず ここまで 視聴して、 科目登録するのは 決まり。 また 第1回から 見返そう。 その 価値のある 授業内容。 ・・・と 思ったけど、 めんどくさいから 続行。 第7回視聴。 毎回、 うんうん。 そうだよね。 と 頷ける話がある。 難しく感じる話も、 森先生が わかりやすく 噛み砕いて 話してくださるので、 ちゃんと 聞いてりゃわかる。 と、ここまで 一連の心理学の授業を 受けて、 いかに 自分で自分に 呪縛をかけてきたか ちょっとは 自覚できたけど、 まー 我ながら よーやったね。 武勇伝を書く 趣味はないから 省くけど、 自叙伝書けるよ。 (いつかそのうち。) 笑っちゃうくらい すげえよ。 ほんと 我ながら よくやったもんだ。 ・・・一眠りしてから、 第8回 視聴。 授業とは関係ないんだけど、 なんかなー、 どうしても この病気って、 結局は 色眼鏡で 見られちゃうんだよなー。 どんなに 頑張って、 人並みに 近づいたと 思っても、 病気ということが 相手に 実感として 伝わると、 もう 「そういうカテゴリー」の 人、 っていう 枠で 括られちゃんだよなー。 それはもう、 どんなに 頑張っても 崩せない。 一人の人間として、 枠に嵌めないで 見て欲しいのに、 どうしても 周囲の 精神を患った人から 類推して、 俺は こんな人なんだろう、 という 決めつけで 見られてしまうのは 悲しい。 つまり、 「精神病んでるひと」という のも、 人間を構成する 要因の一つではあるけど、 それが すべてではない。 ちょっと そういう 「枠」に 囚われ過ぎなんじゃないかなー? こんだけ 頑張って、 ああ、あなたは ビョーキですね、 て 目で見られると、 じゃあ どこまでやったら 俺自身を 見てくれるんですか? と 言いたい。 病気を個性だとか ヌルい言葉で 誤魔化すつもりは ないけど、 じゃあ あなたは 100% 正気な人なのですか? と 言いたい。 第9回 視聴。 とりあえずここまでで 講義の内容は 一区切り。 次回からは、 集団心理学と 家族心理学。 ・・・ふああ、 よく 寝たぜ。 不思議と 頭がクリアーになった。 森先生が 第9回までが 社会心理学で、 その後は 集団心理学と 家族心理学、 と 仰っていたので、 第9回までで 一区切り。 そのせいか、 第9回まで 視聴したら、 一眠りして 頭の中が 整理された 感じ。 気を取り直して 続行! 第10回 視聴。 森先生の講義は 感覚的に あっという間に 終わるね。 今回は、 集団心理学ということだが、 心理学概論と 被る話も 多かった。 しかし、 色々と 考えさせられる話。 集団に 全く同調しないと 思ってる 自分でも、 あー、 こういう シチュエーションだったら、 集団に同調せざるを得ないかな、 という ケースもあった。 それはそれで 必ずしも 悪くはないけど。 また、 少数派であっても、 声を挙げ続けることは 集団全体の 意思決定を 変える 可能性がある、 ということも 面白い話だった。 心理学を 勉強してると、 自分の 人間嫌いも ほぐされていく 感じがするね。 選択肢が 増える。 第11回 視聴。 集団的葛藤。 ゲーム理論に始まり、 共有地の悲劇、 と、 ずいぶん 趣向が違うので 面喰らったが、 最後まで見れば 非常に 有益な 内容でした。 森先生 うまくまとめてるなー。 これは 政治学の 授業の レポートとかにも 応用できるぞ。 まさに 集団心理学。 お見事! 特に、 身内贔屓の話は、 大学のサークルで これでもか と言わんばかりに 痛烈に 体験したから、 負の経験であっても、 それが 心理学的な 裏付けを 得られるならば、 まあまあ 経験のうちかな? と 感じる。 第12回。 家族心理学。 家族というと、 自分には あまりにも ドロドロし過ぎてて、 安易に語って欲しくない。 そんな単純じゃない。 とりあえず 第11回までの 内容を ちゃんと理解してれば 単位は来るだろうから、 この授業に関しては ここまでにしておこう。 乙。 ・・・気を取り直して もう一度見てみたが、 面白くない。 そもそも 家族心理学が 社会心理学の対象として 語られ始めたのが 比較的最近のことらしく、 社会心理学が ご専門の 森先生にとっては、 文字通り 専門ではないようで、 あんまり 深い内容とは 思えない。 現代における 家族という 難しいテーマを 論じるには、 それこそ 「アンチ・オイディプス」 くらいは 参照して いただかないと。

オラオラ (再掲)

Google の検索品質評価ガイドラインに「YMYL」というものがあります。「Your Money or Your Life」の略で、現在や将来における幸福や健康的な生活を送る上で大きな影響を与える可能性があるページは高度な専門性や権威が伴わなければならないということです。例えばお金に関わる経済・金融系であるとか、健康や生命に関わる医療系などのページは、信憑性が高いものでなければなりません。 https://www.iscle.com/web-it/g-drive/adsense/no-diary.html

スッキリ

放送大学の 科目登録 期間が 始まりました。 いくら 色々 シミュレーションしても、 実際に 科目登録 してみないことには、 落ち着かないですね。 だからこそ、 空いてる時間を 使って、 取れそうな 授業は あらかじめ 視聴して 新学期 始まってから テンパらない ように しておくのですが。 面接授業は 抑えめで いきましたが、 そのぶん 放送授業と オンライン授業が 盛りだくさんに なってしまって、 結構 いそがしく なりそうです。 誰に何を アピールしたいのか 知らんが、 心理学の授業も 科目登録 しちゃったよ。

2023年2月12日日曜日

詐欺?

工事で通信速度が 速くなったとか なんとか、 要領を得ない ことを言って、 玄関口まで 来て、 さらに 要領を得ない ことを 言い始めたから、 適当に あしらって 追い返したけど、 後から 考えれば 考えるほど よく わからない ことを 言ってて、 あれ 詐欺だったんじゃねーか? という 感じでした。 ついに 高崎の市街地まで こんな ことが起きる 時代になったか。 こんな ご時世じゃね。 母親が 神経質になるのも 頷ける。 気安く 面接授業とか 行ってる 場合 じゃないな。 最小限に 止めないと。 ・・・ 昨日来た 営業マン まがいの 男だけど、 考えれば 考えるほど 怪しい。 警察にも 連絡したし、 管理人さんにも 連絡しといたけど、 管理人さんに よれば うちの他には そんなケースは なかったというし、 何から何まで 怪しい。 ピンポイントで 狙われてんじゃねーか? こりゃ 面接授業なんて よほどのことが ない限り 行けないな。

頑張った証拠

病気持ち

離人症ってやつ ですな。 これは、 わかる人にしか わからんのよ。 そういう 言葉があるってことは、 自分以外にも こういう 感覚を 持ってる人が 自分の他にも いるってことだけどね。 C-PAP着けて寝ると、 寝過ぎちゃう。 血中の薬の濃度が 下がり過ぎてしまう。 今日は ちょっと興奮しすぎた うえに、 薬のまずに 寝たもんだから、 久々に キタ。 やっぱね、 この感覚は なった人でないと わからん。 医学の進歩で 薬があるおかげで 発狂せずに 暮らせるだけでも ありがたい話よ。 本来だったら、 とっくに 廃人として すーさいど してなきゃ いけない 人間。 ありがたい話よ。 ほんと、 薬も飲まずに あんな ストレスフルな 大学生活送ってたんだから、 そら ヤバイよヤバイよ。 働く、なんて バカなこと 言っちゃいけないよ。 薬のおかげで 平穏な生活 送れるだけでも、 ありがたい話よ。 無理は禁物。 精神医学の知識が ある人からすれば、 この 病気の患者が こうやって 意味の通る 文章を書けるって だけでも、 飛行機を見たことがない 人間が 飛んでる 飛行機を見るくらい 衝撃的なことよ。 カラマーゾフの兄弟で いったら、 イワンはたぶん これ。 大審問官のシーンは 圧巻だけど、 その後は 何度読んでも 読み進められない。 あまり 面白いと 思えない。 正味の話、 ビョ―インから 出てきて、 20年間 こうやって 漸進し続けたって だけでも、 奇跡的なこと なのよ。 あんまり 伝わってないけど。 その 生命エネルギーっていうか、 欲の深さかも しれないけど、 負けたくないって 気持ちは 我ながら 大したもんだよ。 ほんと。

2023年2月11日土曜日

不平等起源論

確かに公務員は魅力的だけど、あんまり組織に守られた生き方を覚えると、そっから離れたときに、家族からそっぽ向かれるか、逆に、うちの父親みたいに、家族を支配することでしか生きられない。しかし、見方を変えて、日本国籍を持たない移民労働者からすれば、日本国籍を有する日本人だって、日本国に守られた、特権階級だろう。それに対する反射として、普通の日本人は、彼らの視線を通して、自分達が特権階級であることを自覚し、彼らを差別することで、満足感を得るだろう。つまり、人間社会において、真の平等など存在しないのだ。トマス・ホッブズが想定したような、お互いがお互いを殺し合う「自然状態」を除いては。そんなこと考えてたら、辛くなってきたから、帰ろ。前橋の東横イン独りで泊まってたけど、喫煙室だから、臭いがキツイ。 https://www.youtube.com/watch?v=oLU7v1JJvc8

おまけ2 (再掲)

ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞっているという、その解釈の共同性のみに支えられているような共謀関係に<わたし>の存在は依拠しているわけである。他者の<顔>、わたしたちはそれを通して自己の可視的なイメージを形成するのだとすれば、<顔>の上にこそ共同性が映しだされていることになる。」(P.56) こう考えると、「ひととひととの差異をしるしづける<顔>は、皮肉にも、世界について、あるいは自分たちについての解釈のコードを共有するものたちのあいだではじめてその具体的な意味を得てくるような現象だということがわかる。」(P.58)これはまさに、サークルなどで各々が被っている<キャラ>にまさしく当てはまるのではないか。サークルという場においては、暗黙の解釈コードを共有しているかどうかを試し試され、確認し合っており、そのコードを理解できないもの、理解しようとしないものは排除される。その意味では<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。

おまけ (再掲)

われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということが、一体いかにして成立するか?この問題の解明に懸る。因みに、貨幣のもつ価値(経済価値)は、人びとが共同主観的に一致してそれに価値を認めることにおいて存立するのだ、と言ってみたところで(これはわれわれの第一段落の議論に類するわけだが)、このことそれ自体がいかに真実であるにせよ、まだ何事をも説明したことにはならない。問題は、当の価値の内実を究明してみせることであり、また、何故如何にしてそのような共同主観的な一致が成立するかを説明してみせることである。この第二段の作業課題は、個々の価値形象について、歴史的・具体的に、実証的に試みる必要がある。(164~165ページ) (以下熊野純彦氏による解説より) 『資本論』のマルクスは、「抽象的人間労働」などというものがこの地上のどこにも存在しないことを知っている。存在しないものがゼリーのように「凝結」して価値を形成するはずがないことも知っていた。要するに『資本論』のマルクスはもはや疎外論者ではすこしもないのだ、と廣松はみる。 労働生産物は交換の内部においてはじめて価値となる。とすれば、交換という社会的関係そのものにこそ商品のフェティシズムの秘密があることになるだろう。関係が、謎の背後にある。つまり、関係がものとしてあらわれてしまうところに謎を解くカギがある。商品の「価値性格」がただ「他の商品にたいする固有の関係をつうじて」あらわれることに注目しなければならない。商品として交換されることそれ自体によって、「労働の社会的性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」としてあらわれ、つまりは「社会的な関係」、ひととひとのあいだの関係が「物と物との関係」としてあらわれる(『資本論』第1巻)。ものは<他者との関係>において、したがって人間と人間との関係にあって価値をもち、商品となる。(533~534ページ)

グローバル化と金融@金沢 まとめ (再掲)

現代のグローバル資本主義の構造的問題は、世界的なカネ余り状態である。まず、1960年代に、企業の海外進出に伴い、銀行が国際展開を急激に拡大したことにより、どこからも規制を受けない「ユーロ市場」が登場した。次に、1970年代に、オイル・ショックによるオイルマネーの流入と金融技術革新により、米国の銀行による「ユーロ・バンキング」が活発化する。 変動相場制への移行により、銀行はアセット・ライアビリティ・マネジメント(ALM)を導入。これは、ドル建ての資産とドル建ての負債を同額保有することにより為替リスクを相殺する方法である。たとえば、ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば資産は減価し、円安ドル高になれば資産は増価する。逆に、ドル建て負債を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば負債は減価し、円安ドル高になれば負債は増価する。こうして為替リスクを相殺する。1970年代のオイルマネーの増大と、インフラ投資額の高騰により、特定の一つだけの銀行だけでは融資の実行が困難になり、シンジケート・ローンが発展した。シンジケート・ローンとは、幹事引受銀行がローンを組成し、参加銀行に分売することで、複数の銀行による信用リスクの分散化を図るものである。しかし、シンジケート・ローンにより、信用リスクは分散したが、信用リスクそのものが低下したわけではない。この後の資産の証券化の流れのなかで、ALMの発展によりリスク管理手段が多様化し、デリバティブが登場し、急速に拡大した。

2023年2月10日金曜日

漱石と資本主義 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。   戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。   中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。

文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。

abject 「ファウスト」を深読みする (再掲)

「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より

the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE

ポピュリズムレポート予備 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93  「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。   「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。  第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)  グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。   1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より  そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。  「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)

2023年2月9日木曜日

論座

https://webronza.asahi.com/business/articles/2023020600003.html いまさら感が否めない。

「20世紀の歴史」 エリック・ホブズボーム ちくま学芸文庫 上巻

久々に ドキドキしてきちゃった。 (*´ω`*)
全然 説教臭くないし、 肩肘張らず 読める本だね。 読みやすい。 ・・・めちゃくちゃ 面白い! 経済史の本としても 読める。 これはいいもん みっけた!

メガバンク

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12181943482 メガバンクのPBRが 1倍割ってるって 時点で、 日本でいかに 資本が 効率的に 使われていないか、 ということが よくわかるよね。

2023年2月8日水曜日

猿猴捉月 (再掲)

https://m.facebook.com/enkopt/posts/619931148482547 unenlightened minds deluded by appearances (悟りのない心は、外見に惑わされる。) 日本語で猿猴捉月を検索しても、 たかが猿ごときが 身の程知らず のことをした、 という程度の意味しか出てこないのに、 英語で検索すると、 ちゃんと もっと形而上学的なニュアンスが出てくる。 もう、ここらへんの差だよね。 https://ameblo.jp/amg-a45/entry-12587431887.html

経常収支ことはじめ (再掲)

質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。 回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。  そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。  しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf が論じています。参考にしてください。

物価高 (再掲)

朝セブンイレブンに行って 買い物してきたけど、 意外と高くて 驚いた。 ちょっとした スイーツが 結構な値段で、 ローソンの 後追いしてるのかも しれないけど、 高くて驚いた。 確かに美味かったけど。 それ以外にも、 軽い気持ちで買ったのものが 意外と高かったり、 気のせいかも知れないが プライベートブランドの 食器用洗剤とかも、 容量が小さくなってた ように感じた。 これじゃ、 節約志向になるのも 当然だろう。 以下日経新聞2023/2/4より 問題は、デフレや低インフレを 長く経験してきた 家計が 物価上昇に「不慣れ」な ことだと指摘した。 将来不安から貯蓄に 傾き、消費に 積極的に向かわない 節約傾向がうかがえるという。 これから もっと (マイルドに) 値上がりするから 今のうちに買いましょう、 という発想になるのか? 政府・日銀をそこまで 信用する消費者が どれだけいるというのか? そもそも、 消費者の 期待インフレ率を 政府と中央銀行が コントロールするという発想 自体に 無理があるんじゃないのか? ぶっちゃけ Amazonで買うのが 一番安くね? とか 思ったりする。 以下日経新聞2023/1/20より 一部の大企業は自社の プラットフォームを有料で公開することを決めた。 例えばアマゾンは自社の通販サイトを運用する ために 独自の社内IT(情報技術)プラットフォームを 開発したが、 その技術を「切り売り」する 決断を下し、アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)を 打ち出した。 これを 契機にクラウドサービス業界が 出現することになる。 こういう技術にアクセスできない 個人商店とかは苦しいわな。 よほど地域密着で、 そこでしか 売ってないものを売るとか。 店舗スペースの半分に いつまでも売れない商品を 並べてるようじゃ、 このご時世 低価格で、 安いパートさん使って 人件費削ってる ってだけじゃ 生き残れないよ。 でも、 正味の話、 デフレマインドのほうが、 日銀には ありがたいんじゃないの? 超金融緩和を続ける 口実になるじゃん。 そんで、 無駄に 日本国債買い続けるんだろ? 政府にとっても 都合いいじゃん。 そうやって 日本は没落していくんだよ!

「金融と社会」質問と回答その5 (再掲)

質問 日経新聞朝刊2022/9/21の記事8面に、物価上昇でも現預金志向、と題して、米国では高インフレで預金から他の金融機関にマネーを移す動きがある。日本も株式投資や外貨預金を始める人が増えているが、多くは円預金や現金として滞留している。物価上昇が長引いたとしても、SMBC日興証券の丸山義正チーフマーケットエコノミストは「日本人は節約志向が強いので、物価が上がりそうだから早めに使うという考えにはなりづらい」と指摘しています。 ここで、私は以下のように考えました。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。                             以上の見立ては、間違っているでしょうか? 回答 日銀が名目金利を抑えている点、にもかかわらず日本の家計が株や海外投資に向かわず預貯金へ、という点はそうだと思います。

「金融と社会」回答その4 (再掲)

まず、私からの回答を読み間違えているようなので、その修正から。海外の国債や株式への投資は「金融収支」の黒字であり、「経常収支」黒字ではありません。将来、利子配当収入が増えれば、第一次所得収支の形で「将来の」「経常収支」黒字が期待されますが。 2022年上半期、貿易収支の赤字が大幅拡大し、経常収支黒字は縮小しています。しかしまだ黒字を保ってますので、国債消化に支障をきたすほどではないと理解しています。海外の利子率が上がると第一次所得収支が増加しますので、経常収支黒字を維持する方向に働くと考えられます。

「金融と社会」質問その4 (再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れます。 https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX 円安バイアスが語られる文脈で、家計は資産を国際投資に振り向けることが推奨される傾向にありますが(2022/8/29 日経新聞15面)、放送大学「金融と社会」を担当されている、同志社大学教授の野間敏克先生に質問箱を通しておうかがいしたところ、家計が海外に投資したマネーは、経常収支の上では、黒字に計上される、との回答を頂戴しました。 しかし、そうすると、財政と経常収支の関係から見た場合、仮に経常収支が黒字でも、それで(フローで見た場合)、民間部門の貯蓄が政府部門の赤字をファイナンスできない虞があるのではないでしょうか? あるいは、既に日本は、国債発行にあたり、海外資本を導入せざるを得ない状況なのでしょうか?また、その場合、今後の日本国債の安定的消化という観点から見ると、財政は持続可能なのでしょうか? とはいえ、2022/9/21 日経新聞8面 によれば、物価上昇でも日本人は現預金志向が強く、円 資産の海外フライトは、思ったほど強くは起こらなかったようですが。 以下、「金融と社会」ご担当の野間先生との質疑応答です。 質問:2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか? 回答:国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。

「金融と社会」質問と回答その3 (再掲)

質問:2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか? 回答:国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。

旬報社 (再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より

「金融と社会」質問と回答その1ー経常収支黒字大幅縮小 (再掲)

 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230208/k10013974191000.html  https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX  https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html  問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。 内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX) ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。

アツ!

2浪が決まったとき、 全盛期の 父親から マリアナ海溝の底 に いるくらいの 無言の圧 かけられた。 そんなこともあったな。 https://www.youtube.com/watch?v=xv55yyNxCuE

姉より。就活の話したとき。 (再掲)

心配しないでください。??さんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度は??さんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。 https://www.youtube.com/watch?v=nUZVXtDVrc0

「魔の山」 岩波文庫 (再掲)

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)

行政指導 (再掲)

「病床数 行政指導」で検索すれば出てきますが、一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、その中で新たに病院を開設しようとしても、保険が効かない、つまり自由診療でしか開業できないのが日本の現状です。 これを、「行政指導」という玉虫色の手段を使って正当化しているのがいかにも日本的なやり方です。 行政指導というのは、必ずしも従う必要はありませんが、シカトし続けると、エライことになるケースがあります。 以前、コーヒー浣腸の業者が、再三にわたる行政指導を無視した結果、逮捕されてました。 実は、父親が、糖尿病のせいか便秘になり、信頼できる医者からコーヒー浣腸を紹介されて、実践していたので、少なくともその業者には悪意はなかったと思われます。 自分も、間違ってコーヒー浣腸に使うコーヒーを飲んでしまったことがありますが、全く違和感もなく、言われなければ気づかなかったです。 それでも、行政指導を無視し続けた末に、逮捕されてました。 そういう行政指導のあり方を、最高裁も判例で認めているのです。 正確には、行政指導の法的効力を行政争訟の対象にすることを最高裁が判例で認めた、ということですが。

2023年2月7日火曜日

自ら調べ自ら考える?

自分は 一次情報取ってこないで 他人が 取ってきてくれた 情報で 騙ってる ただの ストーリーテラーだから。 ほんとに 偉いのは 体張って 一次情報取ってきて くれる人、 あるいは 一次情報を生産できる人 だから。 つまり、 自分は自ら調べてない。 武蔵OBとしては 失格人間。 武蔵中学の 理科の いわゆる 「おみやげ問題」って あなたは 一次情報取ってこれる 人ですか? ってことを 訊いてるよね。 自分ああいうの 絶対ムリだわ。 無駄に 写生して 終わる。 絶対受からない。 高校受験で 英数国3科目入試 だから 武蔵入れた。

2023年2月6日月曜日

平和ボケ

テレ朝の 昼の ワイドショーで、 ブラジルが 老朽化した 空母鑑を、 売却先の サウジアラビアに 渡す前に 水上で 爆破した、 というニュースで、 環境汚染という文脈で、 サウジアラビアに 空母鑑を 渡すことは、 サウジアラビアが イランを攻撃する 武器になることを 指摘しておきながら、 「環境よりも 人間の都合を 優先した。」 とか ほざいてた。 いやいやいや、 お前 日本が どれだけ 化石燃料 中東に依存してると 思ってんだ?! 馬鹿なこと 言ってんじゃねーよ!!! 愚民政策か?! じゃあ 岸田政権の 原発推進政策には 賛成なのか? 反対なのか?

韓国語のオノマトペ

秀逸。 以前 最初から最後まで やり通したので、 思い出して 本棚から 取り出した。 旧い辞書だと あまり 詳細な説明が なかったが、 新調した 辞書で調べると、 色々 書いてあって 勉強になる。 ・・・しゃー 終わったー!!! オノマトペって 大事だね。 固有語と ほぼ固有語化した 漢字語と、 中級レベルの 文法知ってれば、 だいたいのことは 通じる と 思う。 正味3日間くらい だったと 思うけど、 疲れた。 なかなか、 一度手を付けた ものは 終わらせないと 気が休まらない。

2023年2月5日日曜日

生きられる社会 (再掲)

だいたいやりたいことやり尽くして ふと自分の人生を振り返るとき どうしても 合理的な筋書き というものを作りたくなるのは自然のサガなんだけど、 あんまり合理的、 言い換えれば 理性的な筋書きを 仕立てなくても いいんじゃないか。 どこかに不合理な部分を 残しておいたほうが、 かえって健全なんじゃないか。 人間も社会も。 井上俊が 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない。」(遊びの社会学) と言ったように、 社会も、どこかに余白を残しておいたほうが、 かえって 健全なんじゃないか。 赤塚不二夫のレレレのおじさんのように、 おそらく知的障害を 持っているような おじさんが 朝っぱらから ホウキで道を 掃除していても、 いいのではないか。 日本の山岳信仰で 男根に似た 巨石を崇める という風習は よく見られるが、 あれはただの巨石だ、 と、 自然界をアレゴリーで 捉える考え方を排除したのが 近代という時代の精神だった。 それはどことなく 地中海の怪物たちを 狡知で倒していく オデュッセウスに 繋がるようにも 見られる。 それは紛れもなく 理性の暴力性 という アドルノが 主題とした テーマである。 理性が 近代的個人の立脚点 でありながらも、 その限界に焦点を当てている。 ハイデガーは、 個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、 ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、 と説いたわけであるが、 それが、 かつての神聖ローマ帝国という誇張を含んだ憧憬の土地を回復する、 というドイツ民族の「使命」を掲げるナチスのプロパガンダと共鳴してしまった。 アドルノは、 そもそもの共同現存在からの個人としての覚醒が、 集団的暴走と親和性があったことを念頭に置きながらも、 集団に埋没しない理性的な個人としての人間を提示した。 理性の暴力性に警鐘を鳴らしながらも、 主体性の原史に既に刻印されている理性から逃れる道は、 再び集団的暴走への道であると考えた。 計算的理性が近代的個人を産み出した源泉であるとしても、 理性から逃走し、 始源のまどろみへと回帰することはなお危険であると説いたのである。 もっとも、 アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、 ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合には いっそうそれに敵意を示したとは言っても、 それに替える彼の代案は、 これら二つの概念の完全な統一だとか、 自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(「アドルノ」 岩波現代文庫 93ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、 とアドルノは主張する。 「社会全体が体系化され、 諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、 それだけ人間そのものが 精神のおかげで創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。」 言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、 マルクス主義的ヒューマニズムの説く 来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、 管理された世界のもつ 全体化する力の原像と解されるべきなのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 98ページ) ここで、管理された世界のもつ全体化する力 というキーワード を導きとして、 以下の丸山眞男の論考を 考えてみたい。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が 近代日本の思想的「機軸」として 負った役割は 単にいわゆる 國體観念の教化と浸透という面に 尽くされるのではない。 それは政治構造としても、 また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、 機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。 (・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、 制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、 それが 制度自体と制度にたいする 人々の考え方をどのように規定しているか、 という、 いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は 「日本の思想講義」(作品社)において、 つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、 観念的なもののように聞こえるが、 そうではなく、 その観念に対応するように、 「経済・交通・教育・文化」の各領域における 「制度」も徐々に形成されていった。 「國體」観念をはっきり教義化しないので、 制度との対応関係も 最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、 国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、 目に見える効果をあげるようになった。 ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、 「統治性」という概念がある。 統治のための機構や制度が、 人々に具体的行動を取るよう指示したり、 禁止したりするだけでなく、 そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、 それを当たり前のことにしていく作用を意味する。 人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、 今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用) 社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に貶めれられるようになればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」 という言葉が何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に 貶めれられるようになればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を精神的な色彩で説明し、 現実生活では一個の歯車でしかない自分が、 それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、 そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、 救いを感じるようになる、という感じでしょうか。 まるでオウム真理教のようですね。 現代の市場型間接金融においては、 情報に基づいた信用こそが、 ある意味ではその人そのものである、 というのは、まさにその通りである、と思われる。 情報に基づいて、個人をランク付けし、 世界中の貸し手と借り手を結びつけた、 金融の実現されたユートピアだったはずが、 崩壊する時には一気に崩壊するシステミック・リスクも抱えている。 (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、 直観や好き嫌いによって信・不信を決める。 だが、信用とは本来そうしたものではないのか。 客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。 そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。 信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。 それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、 ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、 信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。 とくに、 資本主義が発達して、 血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、 広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、 リスクはますます大きくなるので、 リスク軽減の必要性が高まる。 そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、 他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、 信用の〈合理化〉としてあらわれる。 信用の合理化とは、 直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、 より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。 こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。 つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。 信用は、 個人の人格にかかわるものというより、 その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、 そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、 〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、 とくに経済生活の領域で、 信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。 その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、 さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。 と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、 まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93 ところで、 現実の問題として、 自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。 他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。 これは他者を「差異」であるということが同定された限りにおいてである。 差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。 同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。 それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。 たとえ、異なる地位にあって、 通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、 共通の神を持っているという認識の下に、 異なる地位にある者同士が共同体を維持する。 地位を与えるのは神であり、 それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178) (中略) カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。 そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、 手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、 土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。 このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。 したがって、他者としての商人が、 共同体内によそものとして現れる可能性は低い。 これに対して、市場論理が浸透した世界では、 他者が他者として認知される。 それは、 複数の世界に属することを可能にする 包含の論理によって律せられている世界である。 このような世界が可能であるためには、 共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。 その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。 それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。 それは、貨幣を通じて、 共同体の外部に存在するモノを手に入れ、 みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。 共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、 共同体の内と外に明確な境界が引かれ、 ある特定の共同体に属しながらも、 その外部にも同時に存在することを可能にするのが、 貨幣なのである。 他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、 それによって他者のイメージは固定され、 他者の不透明性を払拭できる。 こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。 そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、 ふたつの異なる世界において、 同一性を築こうとするのである。 もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。 そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。 そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。 そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、 一九世紀のイギリスなのである。 単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、 労働が労働力として商品になり、 賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社 ある共同体において、 共通の神を信じているということが、 その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、 その共同体の外部に存在する異質な存在と、 その共同体を繋ぐのが、貨幣である。 なぜなら、 貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、 包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘) だからこそ、 貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム) しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。 ある社会における間主観性とは、 例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。 これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、 その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。 その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ) 理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、 「オデュッセイア」において、 ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、 自らの自己同一性を偽る狡知であり、 セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、 また理性の狡知である。 つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。 グローバリゼーションによって、 世界の富の大きさは拡大したが、 分配に著しい偏りが生じたことは、 論を俟たない。 日本においても、 新自由主義的な政策の結果、 正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。 そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムのマゾ的心性が、 ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、 まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、 それは、 安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが 後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、 グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、 反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、 日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、 本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、 人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)

「現代の国際政治」 第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。 https://www.homemate-research.com/useful/18249_shopp_010/

献辞

たぶん、 基本的に 働けないほど 神経病んでる わけではないと 思うけど、 SFCで 人間組織、 というか、 日本人の組織 の 底意地の悪さを イヤというほど 思い知ったから、 公務員という ガチガチの組織に とらわれた 生き方をすることに 対して、 警戒心が強すぎるんだろうな。 これからの 経済情勢を考えたら、 公務員ぐらい 堅い職業じゃないと 厳しいことは わかってるんだけど。 でも、 そうじゃなくて、 日々学び、 新たな気づきを 得ながら、 母親の ウェル・ビーイングに 貢献する生き方だって、 そんなに悪くないでしょ? とにかく、 もう 日本人の組織には うんざりなんだよ。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)

多様性と同質性ー加筆修正 (再掲)

今朝(2021/12/20)の日経新聞の5面、経営の視点、というコラムで、市場規模としては同じ約11兆円なのに、コンビニが大手3社の寡占状態であるのに、スーパーはおよそ270社存在する、とし、その違いを、「多様性と同質性」に求める。 あまり実証的な論考とは言えないが。スーパーの経営理念は、SDGsという言葉が存在する前から、地域との共存、奉仕、恕の精神、誠実さなどの持続的な考えを理念として、御用聞き、配達、つけ払いなどの一見旧態依然としたやり方で生き残ってきた、とする。 それは 日々の商売を 丁寧に行うことでしか 信用と資本を 積み重ねることが できなかったからだ。 川一本を挟んだだけで 味噌やしょうゆの味や色が異なる。 餅の形も丸や四角に。水の違いもある。 日本には、しょうゆ、味噌のメーカーがそれぞれ約1000あり、 こうした商品をスーパーに届けるのが 地域に根を張る食料・飲料卸売業。 事業所数は約3万5000。 メーカーも零細だから量産は難しく、 それが郷土料理として輝く。 卸も零細だが、それゆえに地域のひだに入り、庶民が慣れ親しんだ味覚、舌の記憶を支える。 豊かで共同体的な市場経済がエコシステムとなる。 顧客情報管理(CRM)、 デリバリー、電子決済などの デジタルの武器がない時代から ご用聞き、配達、ツケ払いという アナログによって リアルな世界の顧客の顔を 知ろうとした。 コンビニはどうか。 全国制覇を目指した スーパーから多くのコンビニが生まれ、 大手3社は全都道府県に 看板を掲げるまでに成長した。 狭い売り場で高速回転で 人気の商品をさばき続けて 利益を稼いだ結果が同質化。 地域性を意識はするが 地場スーパーには及ばない。 コンビニ経営の間尺には 合わなかった。 コロナ禍でいろいろな 産業で再編が加速している。 流通業も例外ではないが、 再編、寡占に勝者はいるのか。 そうした資本と競争の論理とは 一線を画し、 地域社会を守るところに 存在価値が宿るはずだ。 そもそも、人間の人間たる理由はなんなのか? それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。 以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、という。 昨今、公共哲学界隈では、古代ギリシャに遡る徳倫理学が復権しつつあるそうだが、上述したような状況も無関係ではないだろう。 徳倫理学の代表選手はアリストテレスだが、日本人に馴染みのあるのは、その祖先と言ってもいい、ソクラテスを想像すればいいだろう。 モノの消費とコトの消費の対比でも考えたが、単純に選択肢の中から何かを選ぶ、ということと、それがどういう思想信条の表明であるか、というのは、次元の違う話なのではないか? つまり、単純にどういう結果を選択したか、というより、その結果を選択した根拠が再び問われる事態が起こっていると言ってよいだろう。 しかし、単に選択肢の中からチョイスをするということが、その人の思想信条の表明と全く無関係ということがあり得るだろうか? 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している。 まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない。

物価高

朝セブンイレブンに行って 買い物してきたけど、 意外と高くて 驚いた。 ちょっとした スイーツが 結構な値段で、 ローソンの 後追いしてるのかも しれないけど、 高くて驚いた。 確かに美味かったけど。 それ以外にも、 軽い気持ちで買ったのものが 意外と高かったり、 気のせいかも知れないが プライベートブランドの 食器用洗剤とかも、 容量が小さくなってた ように感じた。 これじゃ、 節約志向になるのも 当然だろう。 以下日経新聞2023/2/4より 問題は、デフレや低インフレを 長く経験してきた 家計が 物価上昇に「不慣れ」な ことだと指摘した。 将来不安から貯蓄に 傾き、消費に 積極的に向かわない 節約傾向がうかがえるという。 これから もっと (マイルドに) 値上がりするから 今のうちに買いましょう、 という発想になるのか? 政府・日銀をそこまで 信用する消費者が どれだけいるというのか? そもそも、 消費者の 期待インフレ率を 政府と中央銀行が コントロールするという発想 自体に 無理があるんじゃないのか? ぶっちゃけ Amazonで買うのが 一番安くね? とか 思ったりする。 以下日経新聞2023/1/20より 一部の大企業は自社の プラットフォームを有料で公開することを決めた。 例えばアマゾンは自社の通販サイトを運用する ために 独自の社内IT(情報技術)プラットフォームを 開発したが、 その技術を「切り売り」する 決断を下し、アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)を 打ち出した。 これを 契機にクラウドサービス業界が 出現することになる。 こういう技術にアクセスできない 個人商店とかは苦しいわな。 よほど地域密着で、 そこでしか 売ってないものを売るとか。 店舗スペースの半分に いつまでも売れない商品を 並べてるようじゃ、 このご時世 低価格で、 安いパートさん使って 人件費削ってる ってだけじゃ 生き残れないよ。 でも、 正味の話、 デフレマインドのほうが、 日銀には ありがたいんじゃないの? 超金融緩和を続ける 口実になるじゃん。 そんで、 無駄に 日本国債買い続けるんだろ? 政府にとっても 都合いいじゃん。 そうやって 日本は没落していくんだよ!

雑記

明治時代の本質がある程度理解できたことと、 なぜ無謀な太平洋戦争に突入したかもある程度わかったので、 戦後史まで目を向ける余裕が出来た。 欧米の歴史観では、 経済的な締め付けが日本を無謀な行動に走らせた。 それを教訓にして、 中国に対しても、 あまり経済的に締め付けるのではなく、 アメとムチを使い分けるのが 大事、と認識している。 心理学を学んだことで、 自分の偏っているところが 見えてきて、 かなり 楽になった。 勉強ってたのしー

2023年2月4日土曜日

心の花を咲かせよう いきものがかり

今日の日もここに 「僕」という意味を生む 曇りなき素朴な光だ。  ⇐まさにハイデガーだな。

全体主義と物語

経済的に 苦しい ときほど、 人々が 「物語」に すがってしまうのは 当然のこと かも知れない。 後から 考えれば いくら 馬鹿げていても、 むしろ 馬鹿げているからこそ、 敢えてでも 騙されたい、 という心理は、 現代人も 全く変わらない。 そういう「物語」を 騙れる政治家は、 強いて言えば むしろ 有能と言っても 過言ではないだろう。 「決められない政治」 への批判が 官邸と特定の官僚が結びついた 現在の 「官邸政治」を 作り上げたが、 本来、 議会制民主主義の本質は 少数派の声を 聞くことで、 バランスを取ることにある。 権力を掌握した者が 「物語」を語り始め、 友/敵の 二元論を 設定し、 少数派の声を軽んじ始めたら、 危険な徴候であると 見ていい。 デモクラシーとは 「多文化主義」に近いが、 それが 決められない政治や、 社会としての統一性を ぼやけさせる側面があると 見ることは 容易だろう。 カール・シュミットが デモクラシーに敵対的であったのは 頷ける。

物語 (再掲)

詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188) 読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485

ケインズ経済学

ケインズ経済学は、 どうしても 財政出動ばかりが 注目されるが、 もちろん 金融政策も 重要。 とはいえ、 ケインズ経済学は 不況時の経済学であって、 人々の マインドが 負のスパイラルに ハマってしまいそうな時に、 政府のバックアップで 人々のマインドを安定させ、 経済を落ち着かせる ことが 最大の眼目。 日本みたいに 漫然と続けるのが 本質ではない。 そういう意味では、 ケインズ経済学は 人々の マインドに働きかける 「サプライズ」の 要素を 多分に含んでいる。 世界恐慌の時に フランクリン・ルーズベルト大統領が ラジオを通じて 銀行の役割を 人々に訴え、 銀行への取り付け騒ぎを 鎮めたようなことも、 立派な 経済政策。 果たして 今の日本の政治家に それだけの力量がある 人物がいるか? もう 財政も金融も 完全に 弾切れじゃないか。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。 https://www.youtube.com/watch?v=3t3fYJyA_2k

なぜ貨幣供給量を増やすと物価が上がるのか? 貨幣数量説 (再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版 https://www.youtube.com/watch?v=uBbl2e-6ObA

フィッシャー効果 (再掲)

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

「金融と社会」 質問と回答その5 (再掲)

質問 日経新聞朝刊2022/9/21の記事8面に、物価上昇でも現預金志向、と題して、米国では高インフレで預金から他の金融機関にマネーを移す動きがある。日本も株式投資や外貨預金を始める人が増えているが、多くは円預金や現金として滞留している。物価上昇が長引いたとしても、SMBC日興証券の丸山義正チーフマーケットエコノミストは「日本人は節約志向が強いので、物価が上がりそうだから早めに使うという考えにはなりづらい」と指摘しています。 ここで、私は以下のように考えました。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。                             以上の見立ては、間違っているでしょうか? 回答 日銀が名目金利を抑えている点、にもかかわらず日本の家計が株や海外投資に向かわず預貯金へ、という点はそうだと思います。

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。 https://www.youtube.com/watch?v=0gM4dWVc0fM

この10年は結局なんだったんだ?

内閣府によると、 現状の物価高は 資源高や円安による コスト増の 影響が大半。 国内需要の回復や 賃金上昇が 伴わなければ 再び デフレに陥る リスクがある、 とのこと。 https://www.youtube.com/watch?v=eLVCZGXYdiw

私の履歴書

今月から 村井邦彦さん という 作曲家の方の 連載が スタート。 今日は第4回。 村井さんが 暁星小学校に入学された話。 ふと、 思いもかけない名前が。 同級生が 磯部力先生。 2代前に 放送大学で 行政法の講義を担当されていた。 授業はめちゃくちゃ面白かったが、 単位認定試験が 異常に難しく、 単位が取れなかった。 後継の 渡邊賢先生の授業も 面白かったが、 やはり 単位認定試験が 激ムズだった。 結局 行政法の単位は いまだに 取れていない。 磯部先生と 渡邊先生の 授業を聞けただけでも、 放送大学はすげえ。 磯部先生は かつて 都立大学に 勤務されていたらしいが、 石原都知事(当時)の 強引な 改編で、 都立大学の 行政法の 伝統が 途切れた、 なんて話も どこかで聞いた。

高校受験

今からすれば、 高校受験して 武蔵に 入ってよかった と 思うけど、 高校はいって 割とすぐ 思ったのは、 英数国3科目 頑張って勉強したけど、 特に 数学は 東急池上線の久が原にある 塚本数学クラブっていう 個人塾で徹底的に 鍛えられたけど、 入試が終わってみると、 全然 賢くなった気がしないし、 ましてや 人間として 成長した、なんていう 実感など 微塵も湧いてこなかったね。 まあ、単純に 数学に向いてないって ことなんだろうけど。 にも関わらず、 世間から 畏敬の目で見られることが 余計に 虚しかったね。 つまり、 以前書いたように 武蔵に絶望した、というより、 なんちゃって武蔵生をやってる 現実に絶望したのかもね。 しかも、これから 大学受験に向けて 数学勉強しなくちゃいけないのか、 と 思うと、 暗澹たる気持ちになった。 つっても、 自分の拙い経験から言っても、 数学が専門の人って、 頭はいいけど 人間として 疑問符をつけたくなる ような 人って、 案外多いよね。 メタさんも、 武蔵の数学教師 を 反面教師として、 理系進学を 諦めた、って 言ってたし。

2023年2月3日金曜日

節分

なんか 季節の 変わり目 というのは、 疲れますよね。 自分も ちょっと 疲れてます。 節分 というのは そもそも そういう 時期で、 だからこそ 豆を撒いて 験を担ぐ? じゃないけど、 とにかく 季節の 変わり目は 体調を 崩しやすいから 気をつける、 というのは 昔からの 生活の知恵 らしいです。 やっぱり 昔の人の 知恵ってのは すごいですね。 暦のことは よくわかんないんですが、 昔は 太陰暦だったらしいですからね。 つっても 自分には 何がなんだか さっぱり わかりませんが。 明治以前の 日本の暦は 太陰暦だから、 古文書で 月の初めは 満月に決まっている、 そんなことも 教えない 日本の 歴史教育は ダメだ、 みたいなことを 井沢元彦さんが 「逆説の日本史」 で 書いてた 気がする。 まえ、 父親が 入院してた時に、 隣の部屋の 方の名札が 八月朔日さんと 書いてあって、 看護師さんに なんてお読みするんですか? と 聞いたら、 ホヅミさん、 という 方でした。 やっぱり なんか 農作物の収穫か なにかと 関係があるんですかね。 https://turkish.jp/turkey/turkish-flag/  

教養のヘーゲル (再掲)

問われるべき問題はいかにしたら、このようにして発達した、所有権のような個人の権利の意識が、社会全体への奉仕と一体になることで、より理性的で自由な意識へと陶冶されるかだ、とヘーゲルは考えた。そして、権利と義務が衝突せず、私的な利益と公的な利益が一致するような人間共同体が形成されるならば、その共同体のメンバーの幸福をみずからの幸福と感じ、法や制度に従うことは自己の欲望の否定ではなく、自己の理性的な本性の肯定であると考えるような市民が生まれると主張したのである。国家こそ、このような倫理的共同体における最高次のものだとヘーゲルは考えた。(放送大学「政治学へのいざない」211頁より) ヘーゲルが、国家と(市民)社会とを区別して捉えたことが、国家論の歴史において画期的な意味を持つことであるということはすでに指摘した通りである。その国家と社会の分離の理由として、ヘーゲルは、市民社会には、国家のはたすような真の普遍を支える能力がないからということをあげる。そこで、市民社会の私的利害に対応するだけのものである「契約」という概念によって、国家の成立原理を説明する「社会契約説」に厳しい批判を浴びせることともなった。しかし、それだけではないはずである。というのも、国家と市民社会の分離の把握ということは、市民社会が、相対的にではあっても国家から独立した存在であることの指摘でもあるはずだからである。近代国家においては、プラトンが掲げた理想国家におけるのとは異なって、国家が個人の職業選択に干渉したりはしないし、その他の個人の私生活に干渉したりはしない。同様に、国家が市場原理を廃絶あるいは抑圧するようなこともない。そのように、市民社会が自分独自の原則にしたがって存在し、機能していることが尊重されているということが、近代における個人の解放という観点から見て、重要なことであるはずなのである。それは、ヘーゲル流の表現にしたがうならば、一方では、近代国家なり、近代社会なりが「客観的必然性」によって構成された体制であったとしても、他方では、個人の恣意や偶然を媒介として成り立つにいたった体制だからだということになる。(p.103) (中略) 近代国家の原理は、主観性の原理がみずからを人格的特殊性の自立的極にまで完成することを許すと同時に、この主観性の原理を実体的統一につれ戻し、こうして主観性の原理そのもののうちにこの統一を保持するという驚嘆すべき強さと深さをもつのである。【260節】 (中略) 国家が、有機体として高度に分節化されるとともに、組織化されているがゆえに、個人の選択意志による決定と行為が保障される。個人は、基本的には自分勝手に自分の人生の方向を決め、自分の利害関心にしたがって活動することが許されている。にもかかわらず、このシステムのなかで「実体的統一」へと連れ戻される。それは強制によるものとは異なったものであり、あくまで個人は自己決定の自由を認められて、恣意にしたがっているにもかかわらず、知らず知らずのうちに組織の原理にしたがってしまうという形を取るのである。また、個人の自律的活動あればこそ、社会組織の方も活性化され、システムとして満足に機能しうる。こうして、有機的組織化と個人の自由意志とは相反するものであるどころか、相互に補い合うものとされている。それが、近代国家というものだというのである。(p.104) 「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社

2023年2月2日木曜日

「かのように」 森鴎外 (再掲)

かのように 森鴎外  朝小間使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。 「おや。さようでございましたか。先さっき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」  雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入はいった時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑のみ込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。 「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活いけて、大きい枠わく火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、起たって行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸やしきでは瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火に当っているのである。  電燈は邸やしきではどの寝間にも夜どおし附いている。しかし秀麿は寝る時必ず消して寝る習慣を持っているので、それが附いていれば、又徹夜して本を読んでいたと云うことが分かる。それで奥さんは手水ちょうずに起きる度たびに、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙すきから、火の光の漏れるのを気にしているのである。      ――――――――――――――――  秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論文には、国史は自分が畢生ひっせいの事業として研究する積りでいるのだから、苛いやしくも筆を著つけたくないと云って、古代印度インド史の中から、「迦膩色迦王かにしかおうと仏典結集ぶってんけつじゅう」と云う題を選んだ。これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士たかくすはくしの所へ駈かけ附けて、梵語ぼんご研究の手ほどきをして貰った。しかしこう云う学問はなかなか急拵きゅうごしらえに出来る筈はずのものでないから、少しずつ分かって来れば来る程、困難を増すばかりであった。それでも屈せずに、選んだ問題だけは、どうにかこうにか解決を附けた。自分ではひどく不満足に思っているが、率直な、一切の修飾を却しりぞけた秀麿の記述は、これまでの卒業論文には余り類がないと云うことであった。  丁度この卒業論文問題の起った頃からである。秀麿は別に病気はないのに、元気がなくなって、顔色が蒼あおく、目が異様に赫かがやいて、これまでも多く人に交際をしない男が、一層社交に遠ざかって来た。五条家では、奥さんを始として、ひどく心配して、医者に見せようとしたが、「わたくしは病気なんぞはありません」と云って、どうしても聴かない。奥さんは内証ないしょうで青山博士が来た時尋ねてみた。青山博士は意外な事を問われたと云うような顔をしてこう云った。 「秀麿さんですか。診察しなくちゃ、なんとも云われませんね。ふん。そうですか。病気はないから、医者には見せないと云うのでしたっけ。そうかも知れません。わたくしなんぞは学生を大勢見ているのですが、少し物の出来る奴が卒業する前後には、皆あんな顔をしていますよ。毎年卒業式の時、側そばで見ていますが、お時計を頂戴ちょうだいしに出て来る優等生は、大抵秀麿さんのような顔をしていて、卒倒でもしなければ好いと思う位です。も少しで神経衰弱になると云うところで、ならずに済んでいるのです。卒業さえしてしまえば直ります。」  奥さんもなる程そうかと思って、強しいて心配を押さえ附けて、今に直るだろう、今に直るだろうと、自分で自分に暗示を与えるように努めていた。秀麿が目の前にいない時は、青山博士の言った事を、一句一句繰り返して味ってみて、「なる程そうだ、なんの秀麿に病気があるものか、大丈夫だ、今に直る」と思ってみる。そこへ秀麿が蒼い顔をして出て来て、何か上うわの空そらで言って、跡は黙り込んでしまう。こっちから何か話し掛けると、実みの入いっていないような、責せめを塞ふさぐような返事を、詞ことばの調子だけ優しくしてする。なんだか、こっちの詞は、子供が銅像に吹矢を射掛けたように、皮膚から弾はじき戻されてしまうような心持がする。それを見ると、切角青山博士の詞を基礎にして築き上げた楼閣ろうかくが、覚束おぼつかなくぐらついて来るので、奥さんは又心配をし出すのであった。      ――――――――――――――――  秀麿は卒業後直ただちに洋行した。秀麿と大した点数の懸隔もなくて、優等生として銀時計を頂戴した同科の新学士は、文部省から派遣せられる筈だのに、現にヨオロッパにいる一人が帰らなくては、経費が出ないので、それを待っているうちに、秀麿の方は当主の五条子爵が先へ立たせてしまった。子爵は財政が割合に豊かなので、嫡子ちゃくしに外国で学生並の生活をさせる位の事には、さ程困難を感ぜないからである。  洋行すると云うことになってから、余程元気附いて来た秀麿が、途中からよこした手紙も、ベルリンに著ついてからのも、総すべての周囲の物に興味を持っていて書いたものらしく見えた。印度インドの港で魚うおのように波の底に潜くぐって、銀銭を拾う黒ん坊の子供の事や、ポルトセエドで上陸して見たと云う、ステレオチイプな笑顔の女芸人が種々の楽器を奏する国際的団体の事や、マルセイユで始て西洋の町を散歩して、嘘と云うものを衝つかぬ店で、掛値と云うもののない品物を買って、それを持って帰ろうとして、紳士がそんな物をぶら下げてお歩きにならなくても、こちらからお宿へ届けると云われ、頼んで置いて帰ってみると、品物が先へ届いていた事や、それからパリイに滞在していて、或る同族の若殿に案内せられてオペラを見に行った時、フォアイエエで立派な貴夫人が来て何なんか云うと、若殿がつっけんどんに、わたし共はフランス語は話しませんと云って置いて、自分が呆あきれた顔をしたのを見て女に聞えたかと思う程大きい声をして、「Toutツウ ceシヨ quiキイ brilleブリユ, n'estネエ pas orパアゾオル」と云ったので、始てなる程と悟った事や、それからベルリンに著いた当時の印象を瑣細ささいな事まで書いてあって、子爵夫婦を面白がらせた。子爵は奥さんに三省堂の世界地図を一枚買って渡して、電報や手紙が来る度に、鉛筆で点を打ったり線を引いたりして、秀麿はここに著いたのだ、ここを通っているのだと言って聞かせた。  ヨオロッパではベルリンに三年いた。その三年目がエエリヒ・シュミット総長の下もとに、大学の三百年祭をする年に当ったので、秀麿も鍔つばの嵌はまった松明たいまつを手に持って、松明行列の仲間に這入って、ベルリンの町を練って歩いた。大学にいる間、秀麿はこの期にはこれこれの講義を聴くと云うことを、精くわしく子爵の所へ知らせてよこしたが、その中にはイタリア復興時代だとか、宗教革新の起原だとか云うような、歴史その物の講義と、史的研究の原理と云うような、抽象的な史学の講義とがあるかと思うと、民族心理学やら神話成立やらがある。プラグマチスムスの哲学史上の地位と云うのがある。或る助教授の受け持っているフリイドリヒ・ヘッベルと云う文芸史方面のものがある。ずっと飛び離れて、神学科の寺院史や教義史がある。学期ごとにこんな風で、専門の学問に手を出した事のない子爵には、どんな物だか見当の附かぬ学科さえあるが、とにかく随分雑駁ざっぱくな学問のしようをしているらしいと云う事だけは判断が出来た。しかし子爵はそれを苦にもしない。息子を大学に入れたり、洋行をさせたりしたのは、何も専門の職業がさせたいからの事ではない。追って家督相続をさせた後に、恐多いが皇室の藩屏はんぺいになって、身分相応な働きをして行くのに、基礎になる見識があってくれれば好い。その為ために普通教育より一段上の教育を受けさせて置こうとした。だから本人の気の向く学科を、勝手に選んでさせて置いて好いと思っているのであった。  ベルリンにいる間、秀麿が学者の噂うわさをしてよこした中に、エエリヒ・シュミットの文才や弁説も度々褒ほめてあったが、それよりも神学者アドルフ・ハルナックの事業や勢力がどんなものだと云うことを、繰り返してお父うさんに書いてよこしたのが、どうも特別な意味のある事らしく、帰って顔を見て、土産話みやげばなしにするのが待ち遠いので、手紙でお父うさんに飲み込ませたいとでも云うような熱心が文章の間に見えていた。殊ことに大学の三百年祭の事を知らせてよこした時なんぞは、秀麿はハルナックをこの目覚ましい祭の中心人物として書いて、ウィルヘルム第二世とハルナックとの君臣の間柄は、人主が学者を信用し、学者が献身的態度を以もって学術界に貢献しながら、同時に君国の用をなすと云う方面から見ると、模範的だと云って、ハルナックが事業の根柢こんていをはっきりさせる為めに、とうとう父テオドジウスの事にまで溯さかのぼって、精くわしく新教神学発展の跡を辿たどって述べていた。自分の専門だと云っている歴史の事に就いても、こんなに力を入れて書いてよこしたことはないのに、どうしてハルナックの事ばかりを、特別に言ってよこすのだろうと子爵は不審に思って、この手紙だけ念を入れて、度々読み返して見た。そしてその手紙の要点を掴つかまえようと努力した。手紙の内容を約つづめて見れば、こうである。政治は多数を相手にした為事しごとである。それだから政治をするには、今でも多数を動かしている宗教に重きを置かなくてはならない。ドイツは内治の上では、全く宗教を異ことにしている北と南とを擣つきくるめて、人心の帰嚮きこうを繰あやつって行かなくてはならないし、外交の上でも、いかに勢力を失墜しているとは云え、まだ深い根柢を持っているロオマ法王を計算の外に置くことは出来ない。それだからドイツの政治は、旧教の南ドイツを逆さからわないように抑おさえていて、北ドイツの新教の精神で、文化の進歩を謀はかって行かなくてはならない。それには君主が宗教上の、しっかりした基礎を持っていなくてはならない。その基礎が新教神学に置いてある。その新教神学を現に代表している学者はハルナックである。そう云う意味のある地位に置かれたハルナックが、少しでも政治の都合の好いように、神学上の意見を曲げているかと云うに、そんな事はしていない。君主もそんな事をさせようとはしていない。そこにドイツの強みがある。それでドイツは世界に羽をのして、息張いばっていることが出来る。それで今のような、社会民政党の跋扈ばっこしている時代になっても、ウィルヘルム第二世は護衛兵も連れずに、侍従武官と自動車に相乗をして、ぷっぷと喇叭らっぱを吹かせてベルリン中を駈け歩いて、出し抜に展覧会を見物しに行ったり、店へ買物をしに行ったりすることが出来るのである。ロシアとでも比べて見るが好い。グレシア正教の寺院を沈滞のままに委まかせて、上辺うわべを真綿にくるむようにして、そっとして置いて、黔首けんしゅを愚ぐにするとでも云いたい政治をしている。その愚にせられた黔首が少しでも目を醒さますと、極端な無政府主義者になる。だからツアアルは平服を著きた警察官が垣を結ったように立っている間でなくては歩かれないのである。一体宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師になる為めで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なように見える。しかし学問なぞをしない、智力の発展していない多数に不用なのである。学問をしたものには、それが有用になって来る。原来がんらい学問をしたものには、宗教家の謂いう「信仰」は無い。そう云う人、即すなわち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音ふくいんを尊敬しろと云っても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。そう云う人は危険思想家である。中には実際は危険思想家になっていながら、信仰のないのに信仰のある真似をしたり、宗教の必要を認めないのに、認めている真似をしている。実際この真似をしている人は随分多い。そこでドイツの新教神学のような、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが出来ていると、教育のあるものは、志さえあれば、専門家の綺麗に洗い上げた、滓かすのこびり付いていない教義をも覗のぞいて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。そこで穏健な思想家が出来る。ドイツにはこう云う立脚地を有している人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいていると云うのは、ここにある。秀麿はこう云う意味で、ハルナックの人物を称讃しょうさんしている。子爵にも手紙の趣意はおおよそ呑のみ込めた。  西洋事情や輿地誌略よちしりゃくの盛んに行われていた時代に人となって、翻訳書で当用を弁ずることが出来、華族仲間で口が利かれる程度に、自分を養成しただけの子爵は、精神上の事には、朱子しゅしの註ちゅうに拠よって論語を講釈するのを聞いたより外、なんの智識もないのだが、頭の好い人なので、これを読んだ後に内々ないない自ら省かえりみて見た。倅せがれの手紙にある宗教と云うのはクリスト教で、神と云うのはクリスト教の神である。そんな物は自分とは全く没交渉である。自分の家には昔から菩提所ぼだいしょに定さだまっている寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切ったようにして、家の葬祭を神官に任せてしまった。それからは仏と云うものとも、全く没交渉になって、今は祖先の神霊と云うものより外、認めていない。現に邸内ていないにも祖先を祭った神社だけはあって、鄭重ていちょうな祭をしている。ところが、その祖先の神霊が存在していると、自分は信じているだろうか。祭をする度に、祭るに在いますが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかも知れない。いられるように思おうと努力するに過ぎない位ではあるまいか。そうして見ると、倅の謂いう、信仰がなくて、宗教の必要だけを認めると云う人の部類に、自分は這入っているものと見える。いやいや。そうではない。倅の謂うのは、神学でも覗いて見て、これだけの教義は、信仰しないまでも、必要を認めなくてはならぬと、理性で判断した上で認めることである。自分は神道の書物なぞを覗いて見たことはない。又自分の覗いて見られるような書物があるか、どうだか、それさえ知らずにいる。そんならと云って、教育のない、信仰のある人が、直覚的に神霊の存在を信じて、その間になんの疑をも挿さしはさまないのとも違うから、自分の祭をしているのは形式だけで、内容がない。よしや、在いますが如く思おうと努力していても、それは空虚な努力である。いやいや。空虚な努力と云うものはありようがない。そんな事は不可能である。そうして見ると、教育のない人の信仰が遺伝して、微かすかに残っているとでも思わなくてはなるまい。しかしこれは倅の考えるように、教育が信仰を破壊すると云うことを認めた上の話である。果してそうであろうか。どうもそうかも知れない。今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい。世界がどうして出来て、どうして発展したか、人類がどうして出来て、どうして発展したかと云うことを、学問に手を出せば、どんな浅い学問の為方しかたをしても、何かの端々はしはしで考えさせられる。そしてその考える事は、神話を事実として見させては置かない。神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その外ほかの神霊の存在は疑問になって来るのである。そうなった前途には恐ろしい危険が横よこたわっていはすまいか。一体世間の人はこんな問題をどう考えているだろう。昔の人が真実だと思っていた、神霊の存在を、今の人が嘘だと思っているのを、世間の人は当り前だとして、平気でいるのではあるまいか。随したがってあらゆる祭やなんぞが皆内容のない形式になってしまっているのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。又子供に神話を歴史として教えるのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。そして誰たれも誰も、自分は神話と歴史とをはっきり別にして考えていながら、それをわざと擣つき交まぜて子供に教えて、怪まずにいるのではあるまいか。自分は神霊の存在なんぞは少しも信仰せずに、唯俗に従って聊復爾いささかまたしかり位の考で糊塗ことして遣やっていて、その風俗、即ち昔神霊の存在を信じた世に出来て、今神霊の存在を信ぜない世に残っている風俗が、いつまで現状を維持していようが、いつになったら滅亡してしまおうが、そんな事には頓著とんちゃくしないのではあるまいか。自分が信ぜない事を、信じているらしく行って、虚偽だと思って疚やましがりもせず、それを子供に教えて、子供の心理状態がどうなろうと云うことさえ考えてもみないのではあるまいか。倅は信仰はなくても、宗教の必要を認めると云うことを言っている。その必要を認めなくてはならないと云うこと、その必要を認める必要を、世間の人は思っても見ないから、どうしたら神話を歴史だと思わず、神霊の存在を信ぜずに、宗教の必要が現在に於おいて認めていられるか、未来に於いて認めて行かれるかと云うことなんぞを思って見ようもなく、一切無頓著でいるのではあるまいか。どうも世間の教育を受けた人の多数は、こんな物ではないかと推察せられる。無論この多数の外に立って、現今の頽勢たいせいを挽回ばんかいしようとしている人はある。そう云う人は、倅の謂う、単に神を信仰しろ、福音を信仰しろと云う類たぐいである。又それに雷同している人はある。それは倅の謂う、真似をしている人である。これが頼みになろうか。更に反対の方面を見ると、信仰もなくしてしまい、宗教の必要をも認めなくなってしまって、それを正直に告白している人のあることも、或る種類の人の言論に徴ちょうして知ることが出来る。倅はそう云う人は危険思想家だと云っているが、危険思想家を嗅かぎ出すことに骨を折っている人も、こっちでは存外そこまでは気が附いていないらしい。実際こっちでは、治安妨害とか、風俗壊乱とか云う名目みょうもくの下もとに、そんな人を羅致らちした実例を見たことがない。しかしこう云うことを洗立あらいだてをして見た所が、確しかとした結果を得ることはむずかしくはあるまいか。それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若もしそうだと、その洗立をするのが、世間の無頓著よりは危険ではあるまいか。倅もその危険な事に頭を衝つっ込んでいるのではあるまいか。倅は専門の学問をしているうちに、ふとそう云う問題に触れて、自分も不安になったので、己に手紙をよこしたかも知れぬ。それともこの問題にひどく重きを置いているのだろうか。  五条子爵は秀麿の手紙を読んでから、自己を反省したり、世間を見渡したりして、ざっとこれだけの事を考えた。しかしそれに就いて倅と往復を重ねた所で、自分の満足するだけの解決が出来そうにもなく、倅の帰って来る時期も近づいているので、それまで待っても好いと思って、返信は別に宗教問題なんぞに立ち入らずに、只委細承知した、どうぞなるべく穏健な思想を養って、国家の用に立つ人物になって帰ってくれとしか云って遣らなかった。そこで秀麿の方でも、お父うさんにどれだけ自分の言った事が分かったか知らずにいた。  秀麿は平生丁度その時思っている事を、人に話して見たり、手紙で言って遣って見たりするが、それをその人に是非十分飲み込ませようともせず、人を自説に転ぜさせよう、服させようともしない。それよりは話す間、手紙を書く間に、自分で自分の思想をはっきりさせて見て、そこに満足を感ずる。そして自分の思想は、又新しい刺戟しげきを受けて、別な方面へ移って行く。だからあの時子爵が精しい返事を遣ったところで、秀麿はもう同じ問題の上で、お父うさんの満足するような事を言ってはよこさなかったかも知れない。      ――――――――――――――――  洋行をさせる時健康を気遣った秀麿が、旅に出ると元気になったらしく、筆まめに書いてよこす手紙にも生々した様子が見え、ドイツで秀麿と親しくしたと云って、帰ってから尋ねて来る同族の人も、秀麿は随分勉強をしているが、玉も衝けば氷滑こおりすべりもすると云う風で、上流の人を相手にして開いている、某夫人のパンジオナアトでは、若い男女の寄宿人が、芝居の初興行をでも見に行くとき、ヴィコント五条が一しょでなくては面白くないと云う程だと話して聞せるので、子爵夫婦は喜んで、早く丈夫な男になって帰って来るのを見たいと思っていた。  秀麿は去年の暮に、書物をむやみに沢山持って、帰って来た。洋行前にはまだどこやら少年らしい所のあったのが、三年の間にすっかり男らしくなって、血色も好くなり、肉も少し附いている。しかし待ち構えていた奥さんが気を附けて様子を見ると、どうも物の言振いいぶりが面白くないように思われた。それは大学を卒業した頃から、西洋へ立つ時までの、何か物を案じていて、好い加減に人に応対していると云うような、沈黙勝な会話振が、定めてすっかり直って帰ったことと思っていたのに、帰った今もやはり立つ前と同じように思われたのである。  新橋へ著ついた日の事であった。出迎をした親類や心安い人の中うちには、邸まで附いて来たのもあって、五条家ではそう云う人達に、一寸ちょっとした肴さかなで酒を出した。それが済んだ跡で、子爵と秀麿との間に、こんな対話があった。  子爵は袴はかまを着けて据わって、刻煙草きざみたばこを煙管きせるで飲んでいたが、痩やせた顔の目の縁に、皺しわを沢山寄せて、嬉しげに息子をじっと見て、只一言「どうだ」と云った。 「はい」と父の顔を見返しながら秀麿は云ったが、傍そばで見ている奥さんには、その立派な洋服姿が、どうも先さっき客の前で勤めていた時と変らないように、少しも寛くつろいだ様子がないように思われて、それが気に掛かった。  子爵は息子がまだ何か云うだろうと思って、暫しばらく黙っていたが、それきりなんとも云わないので、詞ことばを続ついだ。「書物を沢山持って帰ったそうだね。」 「こっちで為事しごとをするのに差支えないようにと思って、中には読んで見る方の本でない、物を捜し出す方の本も買って帰ったものですから、嵩かさが大きくなりました。」 「ふん。早く為事に掛かりたかろうなあ。」  秀麿は少し返事に躊躇ちゅうちょするらしく見えた。「それは舟の中でも色々考えてみましたが、どうも当分手が著つけられそうもないのです。」こう云って、何か考えるような顔をしている。 「急ぐ事はない。お前のは売らなくてはならんと云うのでもなし、学位が欲しいと云うのでもないからな。」一旦いったんこうは云ったが、子爵は更に、「学位は貰っても悪くはないが」と言い足して笑った。  ここまで傍聴していた奥さんが、待ち兼ねたように、いろいろな話をし掛けると、秀麿は優しく受答をしていた。この時奥さんは、どうも秀麿の話は気乗がしていない、附合つきあいに物を言っているようだと云う第一印象を受けたのであった。  それで秀麿が座を立った跡で、奥さんが子爵に言った。「体は大層好くなりましたが、なんだかこう控え目に、考え考え物を言うようではございませんか。」 「それは大人おとなになったからだ。男と云うものは、奥さんのように口から出任せに物を言ってはいけないのだ。」 「まあ。」奥さんは目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。四十代が半分過ぎているのに、まだぱっちりした、可哀かわいらしい目をしている女である。 「おこってはいけない。」 「おこりなんかしませんわ。」と云って、奥さんはちょいと笑ったが、秀麿の返事より、この笑の方が附合らしかった。      ――――――――――――――――  その時からもう一年近く立っている。久し振の新年も迎えた。秀麿は位階があるので、お父う様程忙しくはないが、幾分か儀式らしい事もしなくてはならない。新調させた礼服を著て、不精らしい顔をせずに、それを済ませた。「西洋のお正月はどんなだったえ」とお母あ様が問うと、秀麿は愛想好く笑う。「一向駄目ですね。学生は料理屋へ大晦日おおみそかの晩から行っていまして、ボオレと云って、シャンパンに葡萄酒ぶどうしゅに砂糖に炭酸水と云うように、いろいろ交ぜて温めて、レモンを輪切にして入れた酒を拵こしらえて夜なかになるのを待っています。そして十二時の時計が鳴り始めると同時に、さあ新年だと云うので、その酒を注ついだ杯さかずきをてんでんに持って、こつこつ打ち附けて、プロジット・ノイヤアルと大声で呼んで飲むのです。それからふざけながら町を歩いて帰ると、元日には寝ていて、午ひるまで起きはしません。町でも家うちは大抵戸を締めて、ひっそりしています。まあ、クリスマスにお祭らしい事はしてしまって、新年の方はお留守になっているようなわけです」と云う。「でもお上かみのお儀式はあるだろうね。」「それはございますそうです。拝賀が午後二時だとか云うことでした。」こんな風に、何事につけても人が問えば、ヨオロッパの話もするが、自分から進んで話すことはない。  二三月の一番寒い頃も過ぎた。お母あ様が「向うはこんな事ではあるまいね」と尋ねて見た。「それはグラットアイスと云って、寒い盛りに一寸ちょっと温かい晩があって、積った雪が上融うわどけをして、それが朝氷っていることがあります。木の枝は硝子ガラスで包んだようになっています。ベルリンのウンテル・デン・リンデンと云う大通りの人道が、少し凸凹でこぼこのある鏡のようになっていて、滑って歩くことが出来ないので、人足が沙すなを入れた籠かごを腋わきに抱えて、蒔まいて歩いています。そう云う時が一番寒いのですが、それでもロシアのように、町を歩いていて鼻が腐るような事はありません。煖炉のない家もないし、毛皮を著ない人もない位ですから、寒さが体には徹こたえません。こちらでは夏座敷に住んで、夏の支度をして、寒がっているようなものですね。」秀麿はこんな話をした。  桜の咲く春も過ぎた。お母あ様に桜の事を問われて、秀麿は云った。「ドイツのような寒い国では、春が一どきに来て、どの花も一しょに咲きます。美しい五月と云う詞があります。桜の花もないことはありませんが、あっちの人は桜と云う木は桜ん坊のなる木だとばかり思っていますから、花見はいたしません。ベルリンから半道はんみちばかりの、ストララウと云う村に、スプレエ川の岸で、桜の沢山植えてある所があります。そこへ日本から行っている学生が揃そろって、花見に行ったことがありましたよ。絨緞じゅうたんを織る工場の女工なんぞが通り掛かって、あの人達は木の下で何をしているのだろうと云って、驚いて見ていました。」  暑い夏も過ぎた。秀麿はお母あ様に、「ベルリンではこんな日にどうしているの」と問われて、暫く頭を傾けていたが、とうとう笑いながら、こう云った。「一番つまらない季節ですね。誰も彼も旅行してしまいます。若い娘なんぞがスウィッツルに行って、高い山に登ります。跡に残っている人は為方しかたがないので、公園内の飲食店で催す演奏会へでも往いって、夜なかまで涼みます。だいぶ北極が近くなっている国ですから、そんなにして遊んで帰って、夜なかを過ぎて寝ようとすると、もう窓が明るくなり掛かっています。」  かれこれするうちに秋になった。「ヨオロッパでは寒さが早く来ますから、こんな秋日和あきびよりの味は味うことが出来ませんね」と、秀麿は云って、お母あ様に対して、ちょっと愉快げな笑顔をして見せる。大抵こんな話をするのは食事の時位で、その外の時間には、秀麿は自分の居間になっている洋室に籠こもっている。西洋から持って来た書物が多いので、本箱なんぞでは間に合わなくなって、この一間だけ壁に悉ことごとく棚たなを取り附けさせて、それへ一ぱい書物を詰め込んだ。棚の前には薄い緑色の幕を引かせたので、一種の装飾にはなったが、壁がこれまでの倍以上の厚さになったと同じわけだから、室内が余程暗くなって、それと同時に、一間が外より物音の聞えない、しんとした所になってしまった。小春の空が快く晴れて、誰も彼も出歩く頃になっても、秀麿はこのしんとした所に籠って、卓テエブルの傍を離れずに本を読んでいる。窓の明りが左手から斜ななめに差し込んで、緑の羅紗らしゃの張ってある上を半分明るくしている卓である。      ――――――――――――――――  この秋は暖い暖いと云っているうちに、稀まれに降る雨がいつか時雨しぐれめいて来て、もう二三日前から、秀麿の部屋のフウベン形の瓦斯煖炉ガスだんろにも、小間使の雪が来て点火することになっている。  朝起きて、庭の方へ築つき出してある小さいヴェランダへ出て見ると、庭には一面に、大きい黄いろい梧桐ごとうの葉と、小さい赤い山もみじの葉とが散らばって、ヴェランダから庭へ降りる石段の上まで、殆ど隙間もなく彩いろどっている。石垣に沿うて、露に濡ぬれた、老緑ろうりょくの広葉を茂らせている八角全盛やつでが、所々に白い茎を、枝のある燭台しょくだいのように抽ぬき出して、白い花を咲かせている上に、薄曇の空から日光が少し漏れて、雀すずめが二三羽鳴きながら飛び交わしている。  秀麿は暫く眺めていて、両手を力なく垂れたままで、背を反そらせて伸びをして、深い息を衝いた。それから部屋に這入はいって、洗面卓たくの傍そばへ行って、雪が取って置いた湯を使って、背広の服を引っ掛けた。洋行して帰ってからは、いつも洋服を著きているのである。  そこへお母あ様が這入って来た。「きょうは日曜だから、お父う様は少しゆっくりしていらっしゃるのだが、わたしはもう御飯を戴いただくから、お前もおいででないか。」こう云って、息子の顔を横から覗のぞくように見て、詞を続けた。「ゆうべも大層遅くまで起きていましたね。いつも同じ事を言うようですが、西洋から帰ってお出いでの時は、あんなに体が好かったのに、余り勉強ばかりして、段々顔色を悪くしておしまいなのね。」 「なに。体はどうもありません。外へ出ないでいるから、日に焼けないのでしょう。」笑いながら云って、一しょに洋室を出た。  しかし奥さんにはその笑声が胸を刺すように感ぜられた。秀麿が心からでなく、人に目潰めつぶしに何か投げ附けるように笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成しているのを、奥さんは本能的に知っているのである。  食事をしまって帰った時は、明方に薄曇のしていた空がすっかり晴れて、日光が色々に邪魔をする物のある秀麿の室へやを、物見高い心から、依怙地えこじに覗こうとするように、窓帷まどかけのへりや書棚のふちを彩って、卓テエブルの上に幅の広い、明るい帯をなして、インク壺つぼを光らせたり、床に敷いてある絨氈じゅうたんの空想的な花模様に、刹那せつなの性命を与えたりしている。そんな風に、日光の差し込んでいる処ところの空気は、黄いろに染まり掛かった青葉のような色をして、その中には細かい塵ちりが躍っている。  室内の温度の余り高いのを喜ばない秀麿は、煖炉のコックを三分一程閉じて、葉巻を銜くわえて、運動椅子に身を投げ掛けた。  秀麿の心理状態を簡単に説明すれば、無聊ぶりょうに苦んでいると云うより外はない。それも何事もすることの出来ない、低い刺戟に饑うえている人の感ずる退屈とは違う。内に眠っている事業に圧迫せられるような心持である。潜勢力の苦痛である。三国時代の英雄は髀ひに肉を生じたのを見て歎たんじた。それと同じように、余所目よそめには痩せて血色の悪い秀麿が、自己の力を知覚していて、脳髄が医者の謂いう無動作性萎縮いしゅくに陥いらねば好いがと憂えている。そして思量の体操をする積りで、哲学の本なんぞを読み耽ふけっているのである。お母あ様程には、秀麿の健康状態に就いて悲観していない父の子爵が、いつだったか食事の時息子を顧みて、「一肚皮いちとひ時宜じぎに合わずかな」と云って、意味ありげに笑った。秀麿は例の笑を顔に湛たたえて、「僕は不平家ではありません」と答えた。どうもお父う様はこっちが極端な自由思想をでも持っていはしないかと疑っているらしい。それは誤解である。しかしさすが男親だけにお母あ様よりは、切実に少くもこっちの心理状態の一面を解していてくれるようだと、秀麿は思った。  秀麿は父の詞ことばを一つ思い出したのが機縁になって、今一つの父の詞を思い出した。それは又或る日食事をしている時の事で「どうも人間が猿から出来たなんぞと思っていられては困るからな」と云った。秀麿はぎくりとした。秀麿だって、ヘッケルのアントロポゲニイに連署して、それを自分の告白にしても好いとは思っていない。しかしお父う様のこの詞の奥には、こっちの思想と相容あいいれない何物かが潜んでいるらしい。まさかお父う様だって、草昧そうまいの世に一国民の造った神話を、そのまま歴史だと信じてはいられまいが、うかと神話が歴史でないと云うことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るように物質的思想が這入って来て、船を沈没させずには置かないと思っていられるのではあるまいか。そう思って知らず識しらず、頑冥がんめいな人物や、仮面を被かむった思想家と同じ穴に陥いっていられるのではあるまいかと、秀麿は思った。  こう思うので、秀麿は父の誤解を打ち破ろうとして進むことを躊躇している。秀麿が為めには、神話が歴史でないと云うことを言明することは、良心の命ずるところである。それを言明しても、果物が堅実な核さねを蔵しているように、神話の包んでいる人生の重要な物は、保護して行かれると思っている。彼を承認して置いて、此これを維持して行くのが、学者の務つとめだと云うばかりではなく、人間の務だと思っている。  そこで秀麿は父と自分との間に、狭くて深い谷があるように感ずる。それと同時に、父が自分と話をする時、危険な物の這入っている疑のある箱の蓋ふたを、そっと開けて見ようとしては、その手を又引っ込めてしまうような態度に出るのを見て、歯痒はがゆいようにも思い、又気の毒だから、いたわって、手を出させずに置かなくてはならないようにも思う。父が箱の蓋を取って見て、白昼に鬼を見て、毒でもなんでもない物を毒だと思って怖おそれるよりは、箱の内容を疑わせて置くのが、まだしもの事かと思う。  秀麿のこう思うのも無理は無い。明敏な父の子爵は秀麿がハルナックの事を書いた手紙を見て、それに対する返信を控えて置いた後に、寝られぬ夜よなどには度々宗教問題を頭の中で繰り返して見た。そして思えば思う程、この問題は手の附けられぬものだと云う意見に傾いて、随したがってそれに手を著けるのを危険だとみるようになった。そこでとにかく倅せがれにそんな問題に深入をさせたくない。なろう事なら、倅の思想が他の方面に向くようにしたい。そう思うので、自分からは宗教問題の事などは決して言い出さない。そしてこの問題が倅の頭にどれだけの根を卸しているかとあやぶんで、窃ひそかに様子を覗うかがうようにしているのである。  秀麿と父との対話が、ヨオロッパから帰って、もう一年にもなるのに、とかく対陣している両軍が、双方から斥候せっこうを出して、その斥候が敵の影を認める度に、遠方から射撃して還かえるように、はかばかしい衝突もせぬ代りに、平和に打ち明けることもなくているのは、こう云うわけである。  秀麿の銜くわえている葉巻の白い灰が、だいぶ長くなって持っていたのが、とうとう折れて、運動椅子に倚より掛かっている秀麿のチョッキの上に、細い鱗うろこのような破片を留とめて、絨緞じゅうたんの上に落ちて砕けた。今のように何もせずにいると、秀麿はいつも内には事業の圧迫と云うような物を受け、外には家庭の空気の或る緊張を覚えて、不快である。  秀麿は「又本を読むかな」と思った。兼ねて生涯の事業にしようと企てた本国の歴史を書くことは、どうも神話と歴史との限界をはっきりさせずには手が著けられない。寧むしろ先まず神話の結成を学問上に綺麗に洗い上げて、それに伴う信仰を、教義史体にはっきり書き、その信仰を司祭的に取り扱った機関を寺院史体にはっきり書く方が好さそうだ。そうしたってプロテスタント教がその教義史と寺院史とで毀損きそんせられないと同じ事で、祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈はずはない。これだけの事を完成するのは、極きわめて容易だと思うと、もうその平明な、小ざっぱりした記載を目の前に見るような気がする。それが済んだら、安心して歴史に取り掛られるだろう。しかしそれを敢あえてする事、その目に見えている物を手に取る事を、どうしても周囲の事情が許しそうにないと云う認識は、ベルリンでそろそろ故郷へ帰る支度に手を著け始めた頃から、段々に、或る液体の中に浮んだ一点の塵ちりを中心にして、結晶が出来て、それが大きくなるように、秀麿の意識の上に形づくられた。これが秀麿の脳髄の中に蟠結はんけつしている暗黒な塊で、秀麿の企てている事業は、この塊に礙さまたげられて、どうしても発展させるわけにいかないのである。それで秀麿は製作的方面の脈管を総て塞ふさいで、思量の体操として本だけ読んでいる。本を読み出すと、秀麿は不思議に精神をそこに集注することが出来て、事業の圧迫を感ぜず、家庭の空気の緊張をも感ぜないでいる。それで本ばかり読んでいることになるのである。 「又本を読むかな」と秀麿は思った。そして運動椅子から身を起した。  丁度その時こつこつと戸を叩いて、秀麿の返事をするのを待って、雪が這入って来た。小さい顔に、くりくりした、漆のように黒い目を光らして、小さくて鋭く高い鼻が少し仰向あおむいているのが、ひどく可哀らしい。秀麿が帰った当座、雪はまだ西洋室で用をしたことがなかったので、開けた戸を、内からしゃがんで締めて、絨緞の上に手を衝いて物を言った。秀麿は驚いて、笑顔をして西洋室での行儀を教えて遣った。なんでも一度言って聞せると、しっかり覚えて、その次の度たびからは慣れたもののようにするのである。  煖炉を背にして立って、戸口を這入った雪を見た秀麿の顔は晴やかになった。エロチックの方面の生活のまるで瞑ねむっている秀麿が、平和ではあっても陰気なこの家で、心から爽快そうかいを覚えるのは、この小さい小間使を見る時ばかりだと云っても好い位である。 「綾小路あやこうじさんがいらっしゃいました」と、雪は籠かごの中の小鳥が人を見るように、くりくりした目の瞳ひとみを秀麿の顔に向けて云った。雪は若檀那わかだんな様に物を言う機会が生ずる度に、胸の中で凱歌がいかの声が起る程、無意味に、何の欲望もなく、秀麿を崇拝しているのである。  この時雪の締めて置いた戸を、廊下の方からあらあらしく開けて、茶の天鵞絨びろうどの服を着た、秀麿と同年位の男が、駆け込むように這入って来て、いきなり雪の肩を、太った赤い手で押えた。「おい、雪。若檀那の顔ばかり見ていて、取次をするのを忘れては困るじゃないか。」  雪の顔は真っ赤になった。そして逃げるように、黙って部屋を出て行った。綾小路の方は振り返ってもみなかったのである。  秀麿の眉間みけんには、注意して見なくては見えない程の皺しわが寄ったが、それが又注意して見ても見えない程早く消えて、顔の表情は極真面目ごくまじめになっている。「君つまらない笑談じょうだんは、僕の所でだけはよしてくれ給え。」 「劈頭へきとう第一に小言を食わせるなんぞは驚いたね。気持の好い天気だぜ。君の内の親玉なんぞは、秋晴しゅうせいとかなんとか云うのだろう。尤もっともセゾンはもう冬かも知れないが、過渡時代には、冬の日になったり、秋の日になったりするのだ。きょうはまだ秋だとして置くね。どこか底の方に、ぴりっとした冬の分子が潜んでいて、夕日が沈み掛かって、かっと照るような、悲哀を帯びて爽快な処がある。まあ、年増としまの美人のようなものだね。こんな日に※(「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84)鼠もぐらもちのようになって、内に引っ込んで、本を読んでいるのは、世界は広いが、先ず君位なものだろう。それでも机の上に俯ふさっていなかっただけを、僕は褒ほめて置くね。」  秀麿は真面目ではあるが、厭いやがりもしないらしい顔をして、盛んに饒舌しゃべり立てている綾小路の様子を見ている。簡単に言えば、この男には餓鬼がき大将と云う表情がある。額際ひたいぎわから顱頂ろちょうへ掛けて、少し長めに刈った髪を真っ直に背後うしろへ向けて掻かき上げたのが、日本画にかく野猪いのししの毛のように逆立っている。細い目のちょいと下がった目尻めじりに、嘲笑ちょうしょう的な微笑を湛えて、幅広く広げた口を囲むように、左右の頬に大きい括弧かっこに似た、深い皺を寄せている。  綾小路はまだ饒舌る。「そんなに僕の顔ばかし見給うな。心中大いに僕を軽侮しているのだろう。好いじゃないか。君がロアで、僕がブッフォンか。ドイツ語でホオフナルと云うのだ。陛下の倡優しょうゆうを以もって遇する所か。」  秀麿は覚えず噴き出した。「僕がそんな侮辱的な考をするものか。」 「そんなら頭からけんつくなんぞを食わせないが好い。」 「うん。僕が悪かった。」秀麿は葉巻の箱の蓋を開けて勧めながら、独語ひとりごとのようにつぶやいた。「僕は人の空想に毒を注つぎ込むように感じるものだから。」 「それがサンチマンタルなのだよ」と云いながら、綾小路は葉巻を取った。秀麿はマッチを摩すった。 「メルシイ」と云って綾小路が吸い附けた。 「暖かい所が好かろう」と云って、秀麿は椅子を一つ煖炉の前に押し遣った。  綾小路は椅背きはいに手を掛けたが、すぐに据わらずに、あたりを見廻して、卓テエブルの上にゆうべから開けたままになっている、厚い、仮綴かりとじの洋書に目を着けた。傍かたわらには幅の広い篦へらのような形をした、鼈甲べっこうの紙切小刀かみきりこがたなが置いてある。「又何か大きな物にかじり附いているね。」こう云って秀麿の顔を見ながら、腰を卸した。      ――――――――――――――――  綾小路は学習院を秀麿と同期で通過した男である。秀麿は大学に行くのに、綾小路は画かきになると云って、溜池ためいけの洋画研究所へ通い始めた。それから秀麿がまだ文科にいるうちに、綾小路は先へ洋行して、パリイにいた。秀麿がマルセイユから上陸して、ベルリンへ行く途中で、二三日パリイに滞在していた時には、親切に世話を焼いて、シャン・ゼリゼェの散歩やら、テアアトル・フランセェとジムナアズ・ドラマチックとの芝居見物やら、時間を吝おしまずに案内をして歩いて、ベルリンへ行ってから著きる服まで誂あつらえさせてくれた。  綾小路は目と耳とばかりで生活しているような男で、芸術をさえ余り真面目には取り扱っていないが、明敏な頭脳がいつも何物にか饑うえている。それで故郷へ帰って以来引き籠り勝にしている秀麿の方からは、尋ねても行かぬのに、折々遊びに来て、秀麿の読んでいる本の話を、口ではちゃかしながら、真面目に聞いて考えても見るのである。  綾小路は卓の所へ歩いて行って、開けてある本の表紙を引っ繰り返して見た。「ジイ・フィロゾフィイ・デス・アルス・オップか。妙な標題だなあ。」  そこへ雪が橢円形だえんけいのニッケル盆に香茶こうちゃの道具を載せて持って来た。そして小さい卓を煖炉の前へ運んで、その上に盆を置いて、綾小路の方を見ぬようにしてちょいと見て、そっと部屋を出て行った。何か言われはしないだろうか。言えば又恥かしいような事を言うだろう。どんな事を言うだろう。言わせて聞いても見たいと云うような心持で雪はいたが、こん度は綾小路が黙っていた。  秀麿は伏せてあるタッスを起して茶を注いだ。そして「牛乳を入れるのだろうな」と云って、綾小路を顧みた。 「こないだのように沢山入れないでくれ給え。一体アルス・オップとはなんだい。」こう云いながら、綾小路は煖炉の前の椅子に掛けた。 「コム・シィさ。かのようにとでも云ったら好いのだろう。妙な所を押さえて、考を押し広めて行ったものだが、不思議に僕の立場そのままを説明してくれるようで、愉快でたまらないから、とうとうゆうべは三時まで読んでいた。」 「三時まで。」綾小路は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。「どうして、どこが君の立場そのままなのだ。」 「そう」と云って、秀麿は暫く考えていた。千ペエジ近い本を六七分通り読んだのだから、どんな風に要点を撮つまんで話したものかと考えたのである。「先ず本当だと云う詞ことばからして考えて掛からなくてはならないね。裁判所で証拠立てをして拵こしらえた判決文を事実だと云って、それを本当だとするのが、普通の意味の本当だろう。ところが、そう云う意味の事実と云うものは存在しない。事実だと云っても、人間の写象を通過した以上は、物質論者のランゲの謂いう湊合そうごうが加わっている。意識せずに詩にしている。嘘になっている。そこで今一つの意味の本当と云うものを立てなくてはならなくなる。小説は事実を本当とする意味に於おいては嘘だ。しかしこれは最初から事実がらないで、嘘と意識して作って、通用させている。そしてその中うちに性命がある。価値がある。尊い神話も同じように出来て、通用して来たのだが、あれは最初事実がっただけ違う。君のかく画も、どれ程写生したところで、実物ではない。嘘の積りでかいている。人生の性命あり、価値あるものは、皆この意識した嘘だ。第二の意味の本当はこれより外には求められない。こう云う風に本当を二つに見ることは、カントが元祖で、近頃プラグマチスムなんぞで、余程卑俗にして繰り返しているのも同じ事だ。これだけの事は一寸ちょっと云って置かなくては、話が出来ないのだがね。」 「宜よろしい。詞はどうでも好い。その位な事は僕にも分かっている。僕のかく画だって、実物ではないが、今年も展覧会で一枚売れたから、慥たしかに多少の価値がある。だから僕の画を本当だとするには、異議はない。そこでコム・シィはどうなるのだ。」 「まあ待ち給え。そこで人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁ふちも線にはなっていない。角かども点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィだね。自然科学はどうだ。物質と云うものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられていると云う。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない。精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾とっくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、近世になっては大低世界を相待そうたいに見て、絶待ぜったいの存在しないことを認めてはいるが、それでも絶待があるかのように考えている。宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのように考えると云っている。孔子こうしもずっと古く祭るに在いますが如くすと云っている。先祖の霊があるかのように祭るのだ。そうして見ると、人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立こんりゅうしている。即ちかのようにが土台に横よこたわっているのだね。」 「まあ一寸待ってくれ給え。君は僕の事を饒舌しゃべる饒舌ると云うが、君が饒舌り出して来ると、駆足になるから、附いて行かれない。その、かのようにと云う怪物の正体も、少し見え掛っては来たが、まあ、茶でももう一杯飲んで考えて見なくては、はっきりしないね。」 「もうぬるくなっただろう。」 「なに。好いよ。雪と云う、証拠立てられる事実が間へ這入はいって来ると、考えがこんがらかって来るからね。そうすると、つまり事実と事実がごろごろ転がっていてもしようがない。それを結び附けて考えようとすると、厭いやでも或る物を土台にしなくてはならない。その土台が例のかのようにだと云うのだね。宜しい。ところが、僕はそんな怪物の事は考えずに置く。考えても言わずに置く。」綾小路は生温なまぬるい香茶をぐっと飲んで、決然と言い放った。  秀麿は顔を蹙しかめた。「それは僕も言わずにいる。しかし君は画だけかいて、言わずにいられようが、僕は言う為めに学問をしたのだ。考えずには無論いられない。考えてそれを真直ぐに言わずにいるには、黙ってしまうか、別に嘘を拵こしらえて言わなくてはならない。それでは僕の立場がなくなってしまうのだ。」 「しかしね、君、その君が言う為めに学問したと云うのは、歴史を書くことだろう。僕が画をかくように、怪物が土台になっていても好いから、構わずにずんずん書けば好いじゃないか。」 「そうはいかないよ。書き始めるには、どうしても神話を別にしなくてはならないのだ。別にすると、なぜ別にする、なぜごちゃごちゃにして置かないかと云う疑問が起る。どうしても歴史は、画のように一刹那を捉とらえて遣っているわけにはいかないのだ。」 「それでは僕のかく画には怪物が隠れているから好い。君の書く歴史には怪物が現れて来るからいけないと云うのだね。」 「まあ、そうだ。」 「意気地がないねえ。現れたら、どうなるのだ。」 「危険思想だと云われる。それも世間がかれこれ云うだけなら、奮闘もしよう。第一父が承知しないだろうと思うのだ。」 「いよいよ意気地がないねえ。そんな葛藤かっとうなら、僕はもう疾とっくに解決してしまっている。僕は画かきになる時、親爺おやじが見限ってしまって、現に高等遊民として取扱っているのだ。君は歴史家になると云うのをお父うさんが喜んで承知した。そこで大学も卒業した。洋行も僕のように無理をしないで、気楽にした。君は今まで葛藤の繰延くりのべをしていたのだ。僕の五六年前に解決した事を、君は今解決して、好きなように歴史を書くが好いじゃないか。已やむを得んじゃないか。」 「しかし僕はそんな葛藤を起さずに遣っていかれる筈だと思っている。平和な解決がつい目の前に見えている。手に取られるように見えている。それを下手へたに手に取ろうとして失敗をすることなんぞは、避けたいと思っている。それでぐずぐずしていて、君にまで意気地がないと云われるのだ。」秀麿は溜息ためいきを衝いた。 「ふん、どうしてお父うさんを納得させようと云うのだ。」 「僕の思想が危険思想でもなんでもないと云うことを言って聞せさえすれば好いのだが。」 「どう言って聞せるね。僕がお父うさんだと思って、そこで一つ言って見給え。」 「困るなあ」と云って、秀麿は立って、室内をあちこち歩き出した。  ※(「日/(「咎」の「人」に代えて「卜」)」、第3水準1-85-32)ひかげはもうヴェランダの檐のきを越して、屋根の上に移ってしまった。真まっ蒼さおに澄み切った、まだ秋らしい空の色がヴェランダの硝子戸を青玉せいぎょくのように染めたのが、窓越しに少し翳かすんで見えている。山の手の日曜日の寂しさが、だいぶ広いこの邸やしきの庭に、田舎の別荘めいた感じを与える。突然自動車が一台煉瓦塀れんがべいの外をけたたましく過ぎて、跡は又元の寂しさに戻った。  秀麿は語を続ついだ。「まあ、こうだ。君がさっきから怪物々々と云っている、その、かのようにだがね。あれは決して怪物ではない。かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈かがめたように、僕はかのようにの前に敬虔けいけんに頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。道徳だってそうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云うことだけ分かって、怪物扱い、幽霊扱いにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣ふんまんに堪えない。破壊は免るべからざる破壊かも知れない。しかしその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微かすかなような外観のものではあるが、底にはかのようにが儼乎げんことして存立している。人間は飽くまでも義務があるかのように行わなくてはならない。僕はそう行って行く積りだ。人間が猿から出来たと云うのは、あれは事実問題で、事実として証明しようと掛かっているのだから、ヒポテジスであって、かのようにではないが、進化の根本思想はやはりかのようにだ。生類は進化するかのようにしか考えられない。僕は人間の前途に光明を見て進んで行く。祖先の霊があるかのように背後うしろを顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧ごくもうまいなな、極従順な、山の中の百姓と、なんの択えらぶ所もない。只頭がぼんやりしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ。ねえ、君、この位安全な、危険でない思想はないじゃないか。神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜けがす。義務を蹂躙じゅうりんする。そこに危険は始て生じる。行為は勿論もちろん、思想まで、そう云う危険な事は十分撲滅しようとするが好い。しかしそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻そう、地球が動かずにいて、太陽が巡回していると思う昔に戻そうとしたって、それは不可能だ。そうするには大学も何も潰つぶしてしまって、世間をくら闇にしなくてはならない。黔首けんしゅを愚ぐにしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。」  これまで例の口の端はたの括弧かっこを二重三重ふたえみえにして、妙な微笑を顔に湛たたえて、葉巻の烟けむりを吹きながら聞いていた綾小路は、煙草の灰を灰皿に叩き落して、身を起しながら、「駄目だ」と、簡単に一言云って、煖炉を背にして立った。そしてめまぐろしく歩き廻りながら饒舌っている秀麿を、冷やかに見ている。  秀麿は綾小路の正面に立ち止まって相手の顔を見詰めた。蒼い顔の目の縁がぽっと赤くなって、その目の奥にはファナチスムの火に似た、一種の光がある。「なぜ。なぜ駄目だ。」 「なぜって知れているじゃないか。人に君のような考になれと云ったって、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てて、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思っている。道学先生は義務の発電所のようなものが、天の上かどこかにあって、自分の教おすわった師匠がその電気を取り続ついで、自分に掛けてくれて、そのお蔭かげで自分が生涯ぴりぴりと動いているように思っている。みんな手応てごたえのあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉じゅんぽうも出来るのだ。人に僕のかいた裸体画を一枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往いかずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ。」 「そんなら君はどうしている。幽霊がのこのこ歩いて来ると思うのか。電気を掛けられていると思うのか。」 「そんな事はない。」 「そんならどう思う。」 「どうも思わずにいる。」 「思わずにいられるか。」 「そうさね。まるで思わない事もない。しかしなるたけ思わないようにしている。極きめずに置く。画をかくには極めなくても好いからね。」 「そんなら君が仮に僕の地位に立って、歴史を書かなくてはならないとなったら、どうする。」 「僕は歴史を書かなくてはならないような地位には立たない。御免を蒙こうむる。」綾小路の顔からは微笑の影がいつか消えて、平気な、殆ほとんど不愛想な表情になっている。  秀麿は気抜けがしたように、両手を力なく垂れて、こん度は自分が寂しく微笑ほほえんだ。「そうだね。てんでに自分の職業を遣って、そんな問題はそっとして置くのだろう。僕は職業の選びようが悪かった。ぼんやりして遣ったり、嘘を衝いてやれば造做ぞうさはないが、正直に、真面目に遣ろうとすると、八方塞ふさがりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ。」  綾小路の目は一刹那せつな鋼鉄の様に光った。「八方塞がりになったら、突貫して行く積りで、なぜ遣らない。」  秀麿は又目の縁を赤くした。そして殆ど大人の前に出た子供のような口吻こうふんで、声低く云った。「所詮しょせん父と妥協して遣る望はあるまいかね。」 「駄目、駄目」と綾小路は云った。  綾小路は背をあぶるように、煖炉に太った体を近づけて、両手を腰のうしろに廻して、少し前屈みになって立ち、秀麿はその二三歩前に、痩せた、しなやかな体を、まだこれから延びようとする今年竹ことしだけのように、真っ直にして立ち、二人は目と目を見合わせて、良やや久しく黙っている。山の手の日曜日の寂しさが、二人の周囲を依然支配している。 底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社    1968(昭和43)年4月20日発行    1985(昭和60)年5月20日36刷改版 入力:高橋真也 校正:湯地光弘 1999年9月23日公開 2006年4月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...