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2月, 2023の投稿を表示しています

国会中継

なんかもう、 野党の パフォーマンス の場にしか 見えねえんだよな。 テレビに 映ってるところで、 自分の 議席のために 政府与党の 揚げ足を取って 騒いでるだけ。 どうせ 政策立案能力なんか ありゃしない。 東日本大震災が よりによって あの時期に 起きたのは、 日本の政治史において、 悲劇だったのかもしれない。 自民党への 対立軸が しっかりしないまま また 自民党に 政権が 渡ってしまった という 点で。 その後の 安倍独裁を 考えれば、 東日本大震災 以降 岸田政権までの 時期は、 黒歴史と 言っても過言ではないだろう。 もっとも、 東日本大震災への 対応が お粗末だった という そしりは 免れないだろうが。 でもまあ、 この国の政党政治史を 振り返れば、 関東大震災が なかったらってのも あるけど、 そもそも 地震大国なんだから 言い訳かな、 とも 思うけど。

ハムの人

障害年金はいったから、 高島屋で 寒中見舞いと 称して 姉夫婦に ハム贈ったけど、 ようやく 自分は 敵じゃないという ことを 理解してもらえたようだ。 気づくのおせえんだよ。 40年掛かって やっとか。 変に 等価交換しようとせずに、 ありがとうと 言ってくれれば それでいいんだよ。

遊びの社会学 (再掲)

(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93

公務員事情

https://bunshun.jp/articles/-/60884 文春オンラインいいね! タブーを 恐れない 文春の姿勢 いいね。 スマホの記事も なかなか 悪くないね。 これで 本買うように 誘導するんだろうけど。 まあいいよ。 買うわ! ・・・コンビニ行って アマゾンカード買ってきて、 ダウンロードして 読み始めたよ。 最初の 10ページくらいで もうキツイ。 いやだ・・・こんな仕事。 たぶん 相当正直に書いてあるんだろう。 生々しい。 ・・・だめだ。 辛すぎる・・・ こりゃ メンタルやられるわ。 素の文からして、 強アルカリ性なんだよ。 聞いたことない 出版社だから、 読者の リアクションを 想像し切れていないのかも しれないが、 あまりに 正直すぎる。 この本読んで 本気で 公務員になろうと 思える人は、 是非なったらいいと 思う。 自分には無理だ。 こういう 強烈な文章を これでもかと 書ける人が 上司だったら、 確実に メンタルが おかしくなる。 以前、 前橋の 群馬学習センターで 面接授業受けたとき、 群馬県庁の方と おぼしき方が 2人ばかり いらしたけど、 なんていうか、 メンタルの表皮が 異常に厚くて、 もちろん 体力もハンパなくて、 そんでもって プライドも高い、 そんな 感じだったね。 ・・・気を取り直して また少し読んで みたけど、 最初が 強烈なだけで、 実際には ほんとに 知られざる 地方公務員という 職業の リアルが 描かれていて、 非常に 有益な情報を 提供してくれているのは 間違いない。 自分が 職員に向いているかは 別として。 ふと、 自分は 障害者という地位に こだわり過ぎなのではないか? と 思えてくる。 障害者雇用の場合、 配属先が 決まっているようだが、 基本的に ゼネラリストを 育てたい 役所という 組織の中では、 必然的に 異端的存在になるだろうし、 自分にとっては そのほうが 都合が いいだろうが、 障害者だから 楽な仕事を させてもらえる、 と 期待するのは お門違いのようだ。 ...

WBC

https://number.bunshun.jp/articles/-/856594 こういうことも あるよね。 外野手って 内野手に比べて 簡単と 思われがちだけど、 例えば センターを 例にすると、 少年野球で センターを 守るほど 上手じゃなかったが、 ゴールキーパーとしての 経験から言うと、 (⇐筋違いだが) 自分に向かって 真正面に 強烈な打球が 飛んでくるって、 メチャクチャ 難しいよね。 距離感を 掴むのが ものすごく 難しい。 それを 一瞬で判断して 走って取る、 というのは 並大抵のことではない。 栗山監督は 確か 外野手だったはずだが、 ちゃんと センターを 守れる 選手を 選んだんだろうか? そもそも、 監督としての 実績から言っても まったく 成果を挙げていない 人物を、 なぜ 国際大会の代表監督に してしまうのか。 結局 巨人つながり? もう 叶わないが、 一度でいいから 野村監督が 日本の 代表監督を やるところが 見たかった。 なぜ 栗山なのか? なんの 期待感もない。

「本当は、ずっと愚かで、はるかに使えるAI」 山田誠二 日刊工業新聞社 (再掲)

なんだ、AIってのはこんなもんか。 世間が煽り過ぎの側面は多分にありそうだな。 実際には、企業がAIを導入したはいいが、さんざん失敗した事例があるが、表沙汰になかなかならないだけで、そういうことは山ほどあるらしい。 そーだよね。 なんか2040年にシンギュラリティーがどうのこうのとか言って脅してくるが、なんか今の段階でAIが目覚ましい成果を挙げたという事例が、意外と少ないな、 とは思っていたが。 翻訳ひとつとっても、通訳だの翻訳だのは、近いうちに完全にAIにとって代わられる、と情報の専門家から聞いていたものだから、 てっきり俺の英語学習はすべて無駄だったのか・・・と思っていたが、案外そうでもないっぽい。 むしろ、日本語と英語は文の構造が全く違うので、Deepl翻訳を使うときでも、日本語をそのままDeepl翻訳につっこめば、自然な英語が自動的に出てくる、ということは、むしろ少ない。 もとの日本語を人間がいじってやる必要がある。 著者が主張するのは、AIが得意なこと、人間が得意なこと、をしっかり理解して、共存共栄を期することのようだ。 いいじゃないか! 新井紀子さんの著書とあわせて読むと、より納得がいく。 お二人とも多分同僚だから。 よく、研究者が、複数の自動車を模した模型たちが、自律的に動き回っているのを見せて、 はい、現実の世界もいずれこうなります、みたいなデモンストレーションを行ったりするが、 モデル化された実験室の中と、現実に自動車が行き交う世界というのは、少なくともAIにとっては次元の違う話らしい。 それが可能だと思えるのは、むしろ人間が、生育する中で、自然と身につける、自覚すらしない「常識」を身につけているが、 AIはそういう「常識」がまったく欠けていて、プログラマーがいちいちプログラミングしないと、 AIはそういう当たり前の常識がまったくわからない、ということのようだ。 この話を聞いて、 自分はもしAIが自動運転する自動車が開発されたとしても、怖くて乗れないと思った。 アマゾンの物流倉庫で、 商品を積んだ輸送マシーンが自由自在に動き回っている映像を見る機会が増えてきたが、 それは、 AIの特性をよく理解している、ということではないか。 日本のように、むやみやたらになんでもAIに任せようとして失敗している、ということは、ザラにあるらしい。 AIに職を奪われる...

人工知能は万能ではないらしい。

日経新聞4面(2023/2/22)に 載ってたけど、 最強クラスの 囲碁AIに、 アマチュアが 15回戦って、14回 勝利 したらしい。 しかも、 人間だったら 簡単に 見破ることの出来る 戦術で。 これが示唆する ところは、 人工知能の 特性に 精通している 人間だったら、 人工知能を 簡単に 騙せてしまう、 ということだろう。 社会の セキュリティやら 自動運転やらが あまりに 人工知能に 依存し過ぎると、 かえって 非常に危険でもある、 ということだろう。 しかも、 よりによって 囲碁という もう 人間が決して 人工知能に 太刀打ちできない、 と 考えられていた 分野で、 アマチュアが 勝ってしまう、 しかも 人間だったら すぐに 見抜ける戦術で、 というのは、 実は 衝撃的な 出来事ではないだろうか。

若者たち

https://www.google.com/search?q=%E5%90%9B%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E9%81%93%E3%81%AF%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8F%E9%81%A0%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%9C&rlz=1CAJFMC_enJP1026&oq=%E5%90%9B%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E9%81%93%E3%81%AF&aqs=chrome.2.69i57j0i512l9.17270j1j15&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:3de0e8b3,vid:zDewOyfuIXU

自由からの逃走 (再掲)

自由ってのは、政治哲学とか、カントの自由論とか、そういう話だと思っていたが、個々人のメンタリティーの問題でもあるらしい。 もちろん、エーリッヒ・フロムのように、ナチズムにおけるサド=マゾ関係を論じた著作もあるが、それにしても、やはり個人のメンタリティーと、それに接続する政治思想というのはある。 あるいは、丸山眞男のように、天皇制のもとで、自ら隷属状態に陥ろうとする人々の心性を論じた学者もいる。 我々は今、自由主義体制にあって、もちろん経済的な問題で、自由に生きられない人はいくらでもいる。 しかし、経済的問題に縛られていなくても、精神的隷属状態に自発的に入り込む人がいる。 ある系、それは家族でもいい、そういう系の中に、自分をはめ込んで、聖なる奴隷として生きる以外の生き方を知らない人がいる。 かといって、そういう系から全く自由な人があり得るか、と言えば、これもまた難問ではある。 そもそも、構造主義というのは、人間は、「構造」の中でしか存在しえないことを論じた思想だ。 現に、我々は、「国家」というフィクションの中で生きている。 社会契約論であれ、ヘーゲル主義であれ、天皇崇拝であれ、フィクションを、真実である「かのように」信じることでしか、我々は「国家」を前提として生きることはできない。 その「虚構性」が覆い隠されているのは、国家というフィクションが、単に概念上のものであるとしても、現実には、それに基づいて、強制力が我々に発動される、あるいは逆に、国家の成員であるということで、身分保障などの恩恵を受けられるからである。 しかし、だからといって、国家がなければ我々は自由か、というと、決してそうではない。 第一次大戦後のドイツのように、巨額の賠償金とハイパーインフレによって、国家の信用が崩れ、そのフィクション性が露骨に現れるようになると、国家社会主義労働者政党が現れ、没落した中流階級プロテスタンティズム的マゾヒズムと、ナチスのサディズムが、共犯関係を構築し、人々が進んでその「構造」に囚われるようになった、というのは、エーリッヒ・フロムが指摘したことである。 日本においても、丸山眞男が論じたように、天皇制のもとで、統治心性とフーコーが名付けたような、被統治的概念が、現実の制度に反映され、概念と制度、人々の心性が、相互に補完し合い、統治を強化し合う、という現象が起こる。 丸山眞男は...

家族という病

いま 寝起きで 郵便局に行って来たんだけど、 さっき起きて、 母親がぶつぶつ言ってるから、 電話で誰かと喋ってるのかと思って、 話しかけたら、 確定申告で急ぎレターパックが必要らしい。 レターノート?と聞くと、 レターパック!て言い返されて、 要するに、 今すぐ郵便局行って買ってこいってことらしい。 さすがにムカついたけど、 どうせ本人は行けないんだから、 行って買って来たよ。 この期に及んで そういう頼みかた しか 出来ないんだから、 これはもう治らないね。 ホントに人間てのはアテにならない。 母親が ああいう ものの 頼み方を するっていうのは、 自分が100% 善人だ、っていう 発想があるんだろうね。 母方の祖父、 つまり 母親の お父さんが、 終戦後 キリスト教に改宗 したらしいけど、 母親は 変な カタチで 受容したみたいで、 メンタリティーが オカシなところがあるからね。 それと、 自分は 都立日比谷だ、 ていう 深層レベルの エリート意識が こんがらがって、 ちょっと 歪んだ 人格になってる。 決して 悪い人じゃないけど。 心の底では エリート意識を 抱えてるのに、 似非キリスト教的 奴隷根性が 染み付いてる。 自分も 若い頃 何回か 教会に連れて行かれたけど、 それで 感化された ってことは なかったね。 言ったでしょ? 小林家は すげえ 難しい 家族なのよ。 そんな簡単に 精神病んだりしないから。 医療・福祉系の従事者に 言いたいが、 ちょっと知恵をつけた やつほど、 当事者を責めるよね。 え、俺が ビョーキなのって、 ぜんぶ俺のせいなの?! マジでいじめだよ。 ビョーインに入れられて、 医者から 人を人とも思わない ような 目つきで 見下した態度を 取られた ときは、 ほんとに やるせなかったね。 屈辱なんてもんじゃないよ。 もう十分 頑張ったでしょ?! もう 俺を責めないでくれ!

ジョンさんブチギレ

俺:Have you heard about Yusuke Narita who is an assistant professor at Yale. He uttered that the Japanese elderly should kill themselves to reduce social welfare expenditure. His utterance is a clear manifestation of young Japanese' poverty of basic morals. To my reflection, when I was a high school student, well into the 90's, young people believed the whole world will face the apocalypse when 2013 at the latest. This idea was so widely held that Oumu Shinrikyo problem was not completely detached from us. In other words, Japanese people at my ages harbored the idea that Japan (or sometimes the whole world) is doomed. Narita's immoral attitude is an embodiment of such perspective I believe. ジョンさん:I can’t believe anybody who wears glasses like him could have influence. He seems like a clown. That he is taken seriously, I agree, is a very strong indictment of youth’s lack of morality. Or simple common sense. Belief that the 2013 prophecy was real is also an indictment of Jap...

反・決定論 (再掲)

私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店

物語 (再掲)

詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。( 「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188 ) 読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。( 「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485 )

就活

なかなか 難しいね。 この 治安の悪い ご時世、 母親は 口には 出さないけど、 やっぱり 自分が 日中いないのは 不安みたいだし。 (ましてや 帰りが遅い なんて もってのほか。) 自分自身にしても、 市役所ー!!! とか 心に決めると、 明らかに 薬の量が 増えるし。 それにしても、 七味唐辛子って ほんと うどんに よくあうな。 このために 存在してるんじゃないか と 思うくらい。 冗談はさておき、 母親が 心配するのも 無理はない。 ただでさえ 警戒心が強いし、 父親が亡くなって、 本人も 脳梗塞になって、 溜まりに溜まった 睡眠負債を ようやく 返し始めた ところなんだから。 もう いくらでも 寝てくれ。 何しろ、 自分が 物心ついた頃から、 母親は まともに 寝てない生活を 何十年も 続けて来たんだから。 そら 脳梗塞にもなるわ。

都市から見るヨーロッパ史

実に面白い! キリスト教の素養がないと 入りにくいけど、 八戸サテライトで しっかり 勉強してきたので、 違和感なく 視聴できる。 第4回まで 一気に 見た。 前から 存在は知っていたが、 ツマンネ。 と 思っていたが、 あらためて 見ると、 めちゃくちゃ面白い。 てか、 先学期 科目登録してたのに、 そのこと自体 忘れてた。 (;´∀`) それにしても、 日本の 歴史教育が いかに 宗教という側面を 脱色しているか、 痛感するね。 逆に そのおかげで 世界史・日本史を 理解しているか どうかを、 あたかも テストで 試すことが 出来るかのように 勘違いしていられるわけだが。 そうやって こぼれ落ちたものを、 倫理やら 政治・経済に フォローしてもらうことで、 辛うじて 補っている。 キツかったけど 頑張って 第6回まで 視聴。 面白かった。 ・・・第9回まで 視聴。 都市を知らずして ヨーロッパ史を 語るべからず、 ですな。 第11回まで 視聴。 いやー、いい話が 聞けました。 とりあえず 一区切り。 今月末が 科目登録 期間の満期 なんだけど、 それまでに どんな 科目を取るか 選別するために、 予め 面白そうな 授業は 大筋がわかる 程度までには 最低限 視聴しておきたい。 そうすることで、 放送授業で わかったから、 この面接授業は 削ろう、 とか 出来るから。 あるいは、 書籍を読んで、 この時代は わかったから、 はるばる 遠いところまで 行く必要はないな、 とか。 ・・・おはようございます。 第12回 視聴。 だいぶ イメージしやすい 時代に入ってきました。 今日中に ぜんぶ 見るぞ! ・・・第14回 まで視聴。 中身つまってるなー。 いよいよ ラスト! ・・・よっしゃー!!!!! 全15回すべて 視聴! 達成感!!!!!

確定申告

市役所に 行って来ました。 マイナンバーカードの おかげか、 一瞬で 終わりました。 それはともかく、 部下に ネチネチ 説教してる おっさんがいて、 嫌だった。 俺の中の 市役所 障害者枠 雇用 という 目論見が 崩壊した。 主治医が 言ってた 市役所は ストレス凄いって、 こういうことか? パワハラとか マジ勘弁。 フットサルの代表のかたも 市役所は 辞めさせられないから オカシなのがいる、 とか、 あるいは 自分が ビョーインにいた とき、 横浜市役所の人がいたけど、 やっぱり オカシかった。 役所には役所の 不条理があるんかな。 友達から 聴く話でも、 どんな 優良と思われてる 企業でも、 パワハラが 常軌を逸してたり するしね。 なんにもしないで 障害年金もらえる 立場は 気楽でいいや! 昨日の 日経新聞の 経済教室で、 賃上げの 持続性を 保つには、 労働生産性を向上させることが 肝腎だ、 と 書いてあったが、 パワハラなんて、 パワハラしてる やつが 気持ちよくなるだけで、 全体として 著しく 労働生産性さがる だけじゃん。 こんな パワハラ体質が 民も官も 染み付いてるような 国は、 もういっぺん どん底まで 落ちたほうが いい。 そのほうが 手っ取り早い。

世界史の中の中国文明 (再掲)

という、 放送大学の 面接授業で 聞いた話ですが、 元 は 当時 先進的な金融大国で、 交鈔 という紙幣を発行して、 流通を強制した ために、 宋の 時代に 流通した 銅銭が 駆逐されて、 鎌倉時代の 日本に 大量に 流れ込んだらしいですが、 最終的には 交鈔を 乱発した せいで 経済が破綻した、 というのは 大学受験の 世界史の常識レベルですね。 しかし、 交鈔の 流通を強制した といっても、 価値を 裏付けるために、 塩引 といって、 塩の専売権 が 保証されて いたりと、 やはり、 価値の裏付けもせずに 紙幣 として 流通させた わけではなかった ようです。 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、というのは、かのビスマルクの言葉だそうです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%88%94

成田氏の発想のヤバさ

成田氏の 高齢者は 集団自決しろ 発言ですが、 これ、 ナチズムの ホロコーストと 一緒ですね。 ナチスは 最初から ユダヤ人を 大量虐殺しようと していたわけでは なくて、 領土が拡大するにつれ、 自然と 増大する 拘束された ユダヤ人を どう 扱うか、 という問題に 直面したとき、 そうだ、 殺しちゃおう! っていう 発想に至ったわけです。 その 官僚的発想がヤバい わけです。 現代の日本が それと 似たようなことを システムとして 出来るとは 思いませんが、 選挙権年齢も 引き下げられたことだし、 シルバー民主主義などと 言われますが、 若年層が もっと 政治を我が事として 捉え、 自分たちの 利益を 代弁してくれる 候補者を 民主主義という 枠のなかで 選べばいいのです。 高齢者に 集団自決を迫る などという 国際社会に 恥をさらす くらいなら、 日本はこのまま 財政破綻したほうが まだ マシです。 そもそも、 同じ日本国民という 枠内で、 特定の階層の人を 殲滅しようなどというのは、 国家としての 役割を放棄しています。 トマス・ホッブズの 想定した 「自然状態」では、 お互いがお互いを 殺し合うわけですが、 そこでは、 殺し合うもの同士の 戦闘能力は どうせ 大した個人差が ない、と 考えられています。 その意味で、 個々人は ”平等” なのです。 だから、 想定の中の話ではあれ、 そういう 極限状態における 解決法として、 リヴァイアサンに 生存権以外の 一切の 権利を 預けてしまおう、 というのが ホッブズの出した 答えなわけです。 逆に言えば、 そのような 過酷な状況であっても、 生存権だけは 守られなければならないのです。 それを 国家として 否定する、 などということは、 社会契約論的に考えて、 およそ 国家の存在意義を 否定するものです。 ホッブズ流の 社会契約論に立てば、 死刑判決を 受けた 囚人は、 あらゆる手段を 使って 抵抗・逃走を 試みることが 許されるのです。 なぜなら、 生存権だけは 否定...

人間にとって貧困とは何か

授業が 面白かったので、 教科書を 買ってみた。 基本的に 放送大学の 教材は 市販されている。 この 科目は 2022年度2学期をもって 閉講されてしまい、 もしかしたら それに 伴い 中古でしか 手に入らないのではないか、 と 思い、 購入。 本棚に一冊あると カッコいいよね。 ・・・どっから 読んでも面白い。 一度通して 授業を聴いた、 というのもあるが、 どこから ページを繰っても 味わい深い 言葉が 並んでいる。 https://www.youtube.com/watch?v=JOLTivwdOw0

レポートネタ <アンチ・オイディプス>入門講義より

  ニーチェが『道徳の系譜学』で、「負債」という抽象的な概念が、人々を縛る道徳の起 原 になったという議論をしているからです。  生身の身体に刻まれる「最も残酷な記憶術」というのは、カフカの『流刑地にて』に登場する、身体に文字を刻み込む機械のことを念頭に置いているのでしょう。  この機械が各人の身体に、お前にはこれこれの負債がある、更には、お前の家はどこそこの家に対してこれこれの「負債」を負っている、という記憶を「言葉」として書き込んで、その人物の「大地機械」の中での位置を確定するのでしょう。  そういう言葉を各人の身体に書き込むと、”書き込み以前”の古い記憶、「胚種的流体」の記憶は抑圧され、神話の中にその痕跡をとどめるだけになる、ということでしょう。  無論、”書き込み以前”の記憶が抑圧されている可能性も否定できないわけですが。  <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.243より   ・・・予めネタを仕込んで置かないと、なかなか面接授業の終わりにアドリブでレポート書くのはしんどい。 これで単位来るかどうかは、評価するほう次第だけど、取れないにせよ、何も書かずに教室から去るのはツライ。

宴のあと

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/021600365/ ちょっと気を取り直して、まじめに書くと、中央銀行を政府から独立させる仕組みっていうのは、人類が歴史から学んで生み出したものなんだね。 トルコのエルドアン大統領が好例だけど、為政者は、どうしても景気を良くするために、通貨の価値を思い通りにしたい、という欲求に駆られるから、中央銀行を政府から独立させたうえで、通貨の価値安定の役割を担わせる。 日銀は政府の子会社とか言ってるやつは、そこが根本的にわかってない。 (過去ログより)

麻布競馬場氏に送ることば (再掲)

読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。( 「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485 )

2022年度2学期成績

  現代の国際政治 特A   近代日本経済史 @北九州サテライト 特A   日本近現代史 B   アメリカの芸術と文化 C   キリスト教哲学の歴史 @八戸サテライト 特A   ソクラテスに批評精神を学ぶ @茨城大学 A   近代日本内閣史ー明治・大正編 ー@神戸大学 A  近世ロシア史落とした。 とはいえ、 全く自信のなかった 日本近現代史でB を 取れたのは正直驚いた。 上出来。 それはともかく、 テストの成績から、 テストの作り方の巧拙の評価や、 果てはテスト作成者に対する 個人的な好悪の感情まで、 発表前とは変わってくるんだから、 不思議。 面接授業にしても、 レポートで 授業内容と あんまり関係ない こと書いて、 面白がって 高い評価くれる 先生もいれば、 そうでない先生もいる。 もちろん、 高評価もらえる場合は、 授業中の 質疑応答で、 お、コイツ わかってるな、 と アピールする 必要があるけど。 C評定だった 「アメリカの芸術と文化」の 解答が公開されたから、 確認してみたけど、 やっぱり 結構 まちがえてるね。 当たり前だけど。 ま、2回も 通して視聴して 過去問も勉強すれば、 単位は 来るんじゃないの?

「現代の国際政治」と「アメリカの芸術と文化」

明日 成績が 発表されるけど、 仮に 落としてたとしても、 もう一度 受ける チャンスはあるし、 また 勉強すれば いいし、 卒業かかってないから、 何の問題もない。 タイトルの 2つの 放送授業を受けて、 新聞を 読んでいても、 ああ、そういえば こんなこと 言ってたなあ。 と 気づきがある。 新聞を 読むだけでも、 日々 気づきがあるのは、 とても 楽しい。

世界史の中の中国文明 (再掲)

シルクロードの中国で 南北朝対峙の状況から 隋による統一へと 向かっている過程で、 西方でも 大きな動きが現れる。 東ローマは ササン朝を 介在させずに、 シルクロードの利権(特に中国商品) を 掌握するために、 内陸・海洋の バイパスルートの開拓を企図。  ◎内陸ルート→ 当時、 突厥は ササン朝との関係が悪化しており、 東ローマと同盟。 東ローマは、 突厥支配下にあった 遊牧国家ハザール経由での 交易が計画される。  ◎海洋ルート→ 576年の ササン朝のホスロー1世 による イエメン占領によって、 東ローマの インド洋進出は阻まれる。 西突厥は 588~589年の 第一次ペルシア・突厥戦争 で敗北し、 ササン朝の優位は揺るがず。  ⇒しかし、 アラビア半島西岸経由の バイパスルートは依然として 機能しており、 メッカなどの 商業都市が 交易活動によって台頭し、 イスラーム勃興の呼び水となる。 自分なりのまとめ: 東ローマ帝国は、 西突厥と手を組んで、 ササン朝を経由しない、 中国商品を手に入れるルートを開拓した結果、 アラビア半島のメッカなどの 諸都市が台頭し、 イスラームの勃興に繋がった。

社会・集団・家族心理学

森津太子先生の 講義ですな。 社会心理学と 聞くと、 なんだか 身構えてしまいますが、 実際には ある程度の 年齢を 重ねた人だったら、 うんうん。 あるよね、そういう話。 と 頷ける 内容でした。 さすがに 放送大学で トップクラスの 人気を誇る 先生だな、 と 思わされました。 ・・・一眠り してから、 第3回視聴。 へえー、 面白いね。 うんうん。 あるある。 心理学って こんなことまで やってたんだね。 心理学も なかなか 馬鹿にできないというか、 知ってるだけでも 生活の役に 立ちそうだ。 一種のライフハックだね。 むしろ、 自分はなんて 下手な生き方を しているんだろう? と 思い始めた。 第4回 視聴。 認知と感情。 自分が 往々にして やたら 内省的なのは、 ひたすら メンタルが しんどい 状況に置かれてきた からかも 知れない。 森先生の講義によれば、 人間は ポジティブな感情の ときには、 環境を変える必要がないから、 あんまり 労力を要する 認知の仕方を しないらしい。 ネガティブな感情の ときには、 その逆で、 良くない環境にいるから、 やたら 労力の要る 認知の仕方を してしまうらしい。 考えれば考えるほど 疲れるってこと、 あるよね。 第5回 視聴。 なんか、 今まで 神経を研ぎ澄ます ことが 良いことだと 思ってたけど、 それが 時として 無駄に 疲れるだけだ、 ということを ようやく 自覚し始めた。 ネットの言論とかにも、 いちいち 特に 感じなくなった。 どうせ 発信してるやつも、 大して 考えてないだろうし。 考えるべき時に 考える能力があることは 大事だけど、 つねに 考えすぎは 疲れるだけ、 ということを 学んだ。 第6回。 また面白い話でした。 とりあえず ここまで 視聴して、 科目登録するのは 決まり。 また 第1回から 見返そう。 その 価値のある 授業内容。 ・・・と 思ったけど、 めんどくさいから 続行。 第7回視聴。 毎回、 うんうん。 そうだよね。 と 頷...

オラオラ (再掲)

Google の検索品質評価ガイドラインに「YMYL」というものがあります。「Your Money or Your Life」の略で、現在や将来における幸福や健康的な生活を送る上で大きな影響を与える可能性があるページは高度な専門性や権威が伴わなければならないということです。例えばお金に関わる経済・金融系であるとか、健康や生命に関わる医療系などのページは、信憑性が高いものでなければなりません。 https://www.iscle.com/web-it/g-drive/adsense/no-diary.html

スッキリ

放送大学の 科目登録 期間が 始まりました。 いくら 色々 シミュレーションしても、 実際に 科目登録 してみないことには、 落ち着かないですね。 だからこそ、 空いてる時間を 使って、 取れそうな 授業は あらかじめ 視聴して 新学期 始まってから テンパらない ように しておくのですが。 面接授業は 抑えめで いきましたが、 そのぶん 放送授業と オンライン授業が 盛りだくさんに なってしまって、 結構 いそがしく なりそうです。 誰に何を アピールしたいのか 知らんが、 心理学の授業も 科目登録 しちゃったよ。

詐欺?

工事で通信速度が 速くなったとか なんとか、 要領を得ない ことを言って、 玄関口まで 来て、 さらに 要領を得ない ことを 言い始めたから、 適当に あしらって 追い返したけど、 後から 考えれば 考えるほど よく わからない ことを 言ってて、 あれ 詐欺だったんじゃねーか? という 感じでした。 ついに 高崎の市街地まで こんな ことが起きる 時代になったか。 こんな ご時世じゃね。 母親が 神経質になるのも 頷ける。 気安く 面接授業とか 行ってる 場合 じゃないな。 最小限に 止めないと。 ・・・ 昨日来た 営業マン まがいの 男だけど、 考えれば 考えるほど 怪しい。 警察にも 連絡したし、 管理人さんにも 連絡しといたけど、 管理人さんに よれば うちの他には そんなケースは なかったというし、 何から何まで 怪しい。 ピンポイントで 狙われてんじゃねーか? こりゃ 面接授業なんて よほどのことが ない限り 行けないな。

頑張った証拠

病気持ち

離人症ってやつ ですな。 これは、 わかる人にしか わからんのよ。 そういう 言葉があるってことは、 自分以外にも こういう 感覚を 持ってる人が 自分の他にも いるってことだけどね。 C-PAP着けて寝ると、 寝過ぎちゃう。 血中の薬の濃度が 下がり過ぎてしまう。 今日は ちょっと興奮しすぎた うえに、 薬のまずに 寝たもんだから、 久々に キタ。 やっぱね、 この感覚は なった人でないと わからん。 医学の進歩で 薬があるおかげで 発狂せずに 暮らせるだけでも ありがたい話よ。 本来だったら、 とっくに 廃人として すーさいど してなきゃ いけない 人間。 ありがたい話よ。 ほんと、 薬も飲まずに あんな ストレスフルな 大学生活送ってたんだから、 そら ヤバイよヤバイよ。 働く、なんて バカなこと 言っちゃいけないよ。 薬のおかげで 平穏な生活 送れるだけでも、 ありがたい話よ。 無理は禁物。 精神医学の知識が ある人からすれば、 この 病気の患者が こうやって 意味の通る 文章を書けるって だけでも、 飛行機を見たことがない 人間が 飛んでる 飛行機を見るくらい 衝撃的なことよ。 カラマーゾフの兄弟で いったら、 イワンはたぶん これ。 大審問官のシーンは 圧巻だけど、 その後は 何度読んでも 読み進められない。 あまり 面白いと 思えない。 正味の話、 ビョ―インから 出てきて、 20年間 こうやって 漸進し続けたって だけでも、 奇跡的なこと なのよ。 あんまり 伝わってないけど。 その 生命エネルギーっていうか、 欲の深さかも しれないけど、 負けたくないって 気持ちは 我ながら 大したもんだよ。 ほんと。

不平等起源論

確かに公務員は魅力的だけど、あんまり組織に守られた生き方を覚えると、そっから離れたときに、家族からそっぽ向かれるか、逆に、うちの父親みたいに、家族を支配することでしか生きられない。しかし、見方を変えて、日本国籍を持たない移民労働者からすれば、日本国籍を有する日本人だって、日本国に守られた、特権階級だろう。それに対する反射として、普通の日本人は、彼らの視線を通して、自分達が特権階級であることを自覚し、彼らを差別することで、満足感を得るだろう。つまり、人間社会において、真の平等など存在しないのだ。トマス・ホッブズが想定したような、お互いがお互いを殺し合う「自然状態」を除いては。そんなこと考えてたら、辛くなってきたから、帰ろ。前橋の東横イン独りで泊まってたけど、喫煙室だから、臭いがキツイ。 https://www.youtube.com/watch?v=oLU7v1JJvc8

おまけ2 (再掲)

ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。 サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。 言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56) そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞってい...

おまけ (再掲)

われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということが、一体...

グローバル化と金融@金沢 まとめ (再掲)

現代のグローバル資本主義の構造的問題は、世界的なカネ余り状態である。まず、1960年代に、企業の海外進出に伴い、銀行が国際展開を急激に拡大したことにより、どこからも規制を受けない「ユーロ市場」が登場した。次に、1970年代に、オイル・ショックによるオイルマネーの流入と金融技術革新により、米国の銀行による「ユーロ・バンキング」が活発化する。 変動相場制への移行により、銀行はアセット・ライアビリティ・マネジメント(ALM)を導入。これは、ドル建ての資産とドル建ての負債を同額保有することにより為替リスクを相殺する方法である。たとえば、ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば資産は減価し、円安ドル高になれば資産は増価する。逆に、ドル建て負債を1万ドル保有していた場合、円高ドル安になれば負債は減価し、円安ドル高になれば負債は増価する。こうして為替リスクを相殺する。1970年代のオイルマネーの増大と、インフラ投資額の高騰により、特定の一つだけの銀行だけでは融資の実行が困難になり、シンジケート・ローンが発展した。シンジケート・ローンとは、幹事引受銀行がローンを組成し、参加銀行に分売することで、複数の銀行による信用リスクの分散化を図るものである。しかし、シンジケート・ローンにより、信用リスクは分散したが、信用リスクそのものが低下したわけではない。この後の資産の証券化の流れのなかで、ALMの発展によりリスク管理手段が多様化し、デリバティブが登場し、急速に拡大した。

漱石と資本主義 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考え...

文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家...

abject 「ファウスト」を深読みする (再掲)

「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より

the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云...

ポピュリズムレポート予備 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。   (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界...

「20世紀の歴史」 エリック・ホブズボーム ちくま学芸文庫 上巻

久々に ドキドキしてきちゃった。 (*´ω`*) 全然 説教臭くないし、 肩肘張らず 読める本だね。 読みやすい。 ・・・めちゃくちゃ 面白い! 経済史の本としても 読める。 これはいいもん みっけた!

メガバンク

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12181943482 メガバンクのPBRが 1倍割ってるって 時点で、 日本でいかに 資本が 効率的に 使われていないか、 ということが よくわかるよね。

猿猴捉月 (再掲)

https://m.facebook.com/enkopt/posts/619931148482547 unenlightened minds deluded by appearances (悟りのない心は、外見に惑わされる。) 日本語で猿猴捉月を検索しても、 たかが猿ごときが 身の程知らず のことをした、 という程度の意味しか出てこないのに、 英語で検索すると、 ちゃんと もっと形而上学的なニュアンスが出てくる。 もう、ここらへんの差だよね。 https://ameblo.jp/amg-a45/entry-12587431887.html

経常収支ことはじめ (再掲)

質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。 回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。  そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。  しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支...

物価高 (再掲)

朝セブンイレブンに行って 買い物してきたけど、 意外と高くて 驚いた。 ちょっとした スイーツが 結構な値段で、 ローソンの 後追いしてるのかも しれないけど、 高くて驚いた。 確かに美味かったけど。 それ以外にも、 軽い気持ちで買ったのものが 意外と高かったり、 気のせいかも知れないが プライベートブランドの 食器用洗剤とかも、 容量が小さくなってた ように感じた。 これじゃ、 節約志向になるのも 当然だろう。 以下日経新聞2023/2/4より 問題は、デフレや低インフレを 長く経験してきた 家計が 物価上昇に「不慣れ」な ことだと指摘した。 将来不安から貯蓄に 傾き、消費に 積極的に向かわない 節約傾向がうかがえるという。 これから もっと (マイルドに) 値上がりするから 今のうちに買いましょう、 という発想になるのか? 政府・日銀をそこまで 信用する消費者が どれだけいるというのか? そもそも、 消費者の 期待インフレ率を 政府と中央銀行が コントロールするという発想 自体に 無理があるんじゃないのか? ぶっちゃけ Amazonで買うのが 一番安くね? とか 思ったりする。 以下日経新聞2023/1/20より 一部の大企業は自社の プラットフォームを有料で公開することを決めた。 例えばアマゾンは自社の通販サイトを運用する ために 独自の社内IT(情報技術)プラットフォームを 開発したが、 その技術を「切り売り」する 決断を下し、アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)を 打ち出した。 これを 契機にクラウドサービス業界が 出現することになる。 こういう技術にアクセスできない 個人商店とかは苦しいわな。 よほど地域密着で、 そこでしか 売ってないものを売るとか。 店舗スペースの半分に いつまでも売れない商品を 並べてるようじゃ、 このご時世 低価格で、 安いパートさん使って 人件費削ってる ってだけじゃ 生き残れないよ。 でも、 正味の話、 デフレマインドのほうが、 日銀には ありがたいんじゃないの? 超金融緩和を続ける 口実になるじゃん。 そんで、 無駄に 日本国債買い続けるんだろ?...

「金融と社会」質問と回答その5 (再掲)

質問 日経新聞朝刊2022/9/21の記事8面に、物価上昇でも現預金志向、と題して、米国では高インフレで預金から他の金融機関にマネーを移す動きがある。日本も株式投資や外貨預金を始める人が増えているが、多くは円預金や現金として滞留している。物価上昇が長引いたとしても、SMBC日興証券の丸山義正チーフマーケットエコノミストは「日本人は節約志向が強いので、物価が上がりそうだから早めに使うという考えにはなりづらい」と指摘しています。 ここで、私は以下のように考えました。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。                             以上の見立ては、間違っているでしょうか? 回答 日銀が名目金利を抑えている点、にもかかわらず日本の家計が株や海外投資に向かわず預貯金へ、という点はそうだと思います。

「金融と社会」回答その4 (再掲)

まず、私からの回答を読み間違えているようなので、その修正から。海外の国債や株式への投資は「金融収支」の黒字であり、「経常収支」黒字ではありません。将来、利子配当収入が増えれば、第一次所得収支の形で「将来の」「経常収支」黒字が期待されますが。 2022年上半期、貿易収支の赤字が大幅拡大し、経常収支黒字は縮小しています。しかしまだ黒字を保ってますので、国債消化に支障をきたすほどではないと理解しています。海外の利子率が上がると第一次所得収支が増加しますので、経常収支黒字を維持する方向に働くと考えられます。

「金融と社会」質問その4 (再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れます。 https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX 円安バイアスが語られる文脈で、家計は資産を国際投資に振り向けることが推奨される傾向にありますが(2022/8/29 日経新聞15面)、放送大学「金融と社会」を担当されている、同志社大学教授の野間敏克先生に質問箱を通しておうかがいしたところ、家計が海外に投資したマネーは、経常収支の上では、黒字に計上される、との回答を頂戴しました。 しかし、そうすると、 財政と経常収支の関係から見た場合、仮に経常収支が黒字でも、それで(フローで見た場合)、民間部門の貯蓄が政府部門の赤字をファイナンスできない虞があるのではないでしょうか? あるいは 、既に日本は、国債発行にあたり、海外資本を導入せざるを得ない状況な...

「金融と社会」質問と回答その3 (再掲)

質問:2022年6月28日付け日経新聞朝刊に、 「家計資産、脱『預金』の兆し」と題して、 末尾に、 「いくら運用手段を充実させても、 企業の競争力が海外より劣っていれば家計の資金が海外に逃避する『キャピタルフライト』を招いて国力低下につながる。 (以下略)」 としてありましたが、 このような家計部門の海外への移転は、 経常収支の統計上どのように現れるのでしょうか? 回答:国連にあわせて、2014年に国際収支関連統計の大幅改訂がありましたので、統計上の扱いが大きく変わりました。 それ以前は、海外の国債や株式を買うと、日本のお金が出ていくから資本収支赤字とされ、お金が逃げていく「キャピタルフライト」のイメージでした。 でも、海外の国債や株式を買うのは、今後利子配当が期待できる金融資産が増えたことを意味しますので、いまは金融収支で「黒字」とされています。 海外での資産運用は、キャピタルフライトではなく、今後の収入を保証してくれる金融収支黒字要素と扱われています。 成長する海外企業に投資するのは良いことです。

旬報社 (再掲)

1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より

「金融と社会」質問と回答その1ー経常収支黒字大幅縮小 (再掲)

 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230208/k10013974191000.html  https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX  https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html   問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の 「 双子の 赤字」 は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。 内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、 ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX) ご質問ありがとう...

アツ!

2浪が決まったとき、 全盛期の 父親から マリアナ海溝の底 に いるくらいの 無言の圧 かけられた。 そんなこともあったな。 https://www.youtube.com/watch?v=xv55yyNxCuE

姉より。就活の話したとき。 (再掲)

心配しないでください。??さんは、これを機に外の世界に一歩踏み出してください。外の世界は広くて楽しいです。知らないで終わるのは勿体ないです。私は今まで外の世界を沢山見てきました。今度は??さんの番です。思いっきり人生を楽しんで下さいね。 https://www.youtube.com/watch?v=nUZVXtDVrc0

「魔の山」 岩波文庫 (再掲)

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)

行政指導 (再掲)

「病床数 行政指導」で検索すれば出てきますが、一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、その中で新たに病院を開設しようとしても、保険が効かない、つまり自由診療でしか開業できないのが日本の現状です。 これを、「行政指導」という玉虫色の手段を使って正当化しているのがいかにも日本的なやり方です。 行政指導というのは、必ずしも従う必要はありませんが、シカトし続けると、エライことになるケースがあります。 以前、コーヒー浣腸の業者が、再三にわたる行政指導を無視した結果、逮捕されてました。 実は、父親が、糖尿病のせいか便秘になり、信頼できる医者からコーヒー浣腸を紹介されて、実践していたので、少なくともその業者には悪意はなかったと思われます。 自分も、間違ってコーヒー浣腸に使うコーヒーを飲んでしまったことがありますが、全く違和感もなく、言われなければ気づかなかったです。 それでも、行政指導を無視し続けた末に、逮捕されてました。 そういう行政指導のあり方を、最高裁も判例で認めているのです。 正確には、行政指導の法的効力を行政争訟の対象にすることを最高裁が判例で認めた、ということですが。

自ら調べ自ら考える?

自分は 一次情報取ってこないで 他人が 取ってきてくれた 情報で 騙ってる ただの ストーリーテラーだから。 ほんとに 偉いのは 体張って 一次情報取ってきて くれる人、 あるいは 一次情報を生産できる人 だから。 つまり、 自分は自ら調べてない。 武蔵OBとしては 失格人間。 武蔵中学の 理科の いわゆる 「おみやげ問題」って あなたは 一次情報取ってこれる 人ですか? ってことを 訊いてるよね。 自分ああいうの 絶対ムリだわ。 無駄に 写生して 終わる。 絶対受からない。 高校受験で 英数国3科目入試 だから 武蔵入れた。

平和ボケ

テレ朝の 昼の ワイドショーで、 ブラジルが 老朽化した 空母鑑を、 売却先の サウジアラビアに 渡す前に 水上で 爆破した、 というニュースで、 環境汚染という文脈で、 サウジアラビアに 空母鑑を 渡すことは、 サウジアラビアが イランを攻撃する 武器になることを 指摘しておきながら、 「環境よりも 人間の都合を 優先した。」 とか ほざいてた。 いやいやいや、 お前 日本が どれだけ 化石燃料 中東に依存してると 思ってんだ?! 馬鹿なこと 言ってんじゃねーよ!!! 愚民政策か?! じゃあ 岸田政権の 原発推進政策には 賛成なのか? 反対なのか?

韓国語のオノマトペ

秀逸。 以前 最初から最後まで やり通したので、 思い出して 本棚から 取り出した。 旧い辞書だと あまり 詳細な説明が なかったが、 新調した 辞書で調べると、 色々 書いてあって 勉強になる。 ・・・しゃー 終わったー!!! オノマトペって 大事だね。 固有語と ほぼ固有語化した 漢字語と、 中級レベルの 文法知ってれば、 だいたいのことは 通じる と 思う。 正味3日間くらい だったと 思うけど、 疲れた。 なかなか、 一度手を付けた ものは 終わらせないと 気が休まらない。

生きられる社会 (再掲)

だいたいやりたいことやり尽くして ふと自分の人生を振り返るとき どうしても 合理的な筋書き というものを作りたくなるのは自然のサガなんだけど、 あんまり合理的、 言い換えれば 理性的な筋書きを 仕立てなくても いいんじゃないか。 どこかに不合理な部分を 残しておいたほうが、 かえって健全なんじゃないか。 人間も社会も。 井上俊が 「詐欺が成り立ち得ないところでは、社会もまた成り立ち得ない。」(遊びの社会学) と言ったように、 社会も、どこかに余白を残しておいたほうが、 かえって 健全なんじゃないか。 赤塚不二夫のレレレのおじさんのように、 おそらく知的障害を 持っているような おじさんが 朝っぱらから ホウキで道を 掃除していても、 いいのではないか。 日本の山岳信仰で 男根に似た 巨石を崇める という風習は よく見られるが、 あれはただの巨石だ、 と、 自然界をアレゴリーで 捉える考え方を排除したのが 近代という時代の精神だった。 それはどことなく 地中海の怪物たちを 狡知で倒していく オデュッセウスに 繋がるようにも 見られる。 それは紛れもなく 理性の暴力性 という アドルノが 主題とした テーマである。 理性が 近代的個人の立脚点 でありながらも、 その限界に焦点を当てている。 ハイデガーは、 個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、 ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、 と説いたわけであるが、 それが、 かつての神聖ローマ帝国という誇張を含んだ憧憬の土地を回復する、 というドイツ民族の「使命」を掲げるナチスのプロパガンダと共鳴してしまった。 アドルノは、 そもそもの共同現存在からの個人としての覚醒が、 集団的暴走と親和性があったことを念頭に置きながらも、 集団に埋没しない理性的な個人としての人間を提示した。 理性の暴力性に警鐘を鳴らしながらも、 主体性の原史に既に刻印されている理性から逃れる道は、 再び集団的暴走への道であると考えた。 計算的理性が近代的個人を産み出した源泉であるとしても、 理性から逃走し、 始源のまどろみへと回帰することはなお危険であると説いたのである。 もっとも、 アドルノが主観と客...

「現代の国際政治」 第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた...

献辞

たぶん、 基本的に 働けないほど 神経病んでる わけではないと 思うけど、 SFCで 人間組織、 というか、 日本人の組織 の 底意地の悪さを イヤというほど 思い知ったから、 公務員という ガチガチの組織に とらわれた 生き方をすることに 対して、 警戒心が強すぎるんだろうな。 これからの 経済情勢を考えたら、 公務員ぐらい 堅い職業じゃないと 厳しいことは わかってるんだけど。 でも、 そうじゃなくて、 日々学び、 新たな気づきを 得ながら、 母親の ウェル・ビーイングに 貢献する生き方だって、 そんなに悪くないでしょ? とにかく、 もう 日本人の組織には うんざりなんだよ。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)

多様性と同質性ー加筆修正 (再掲)

今朝(2021/12/20)の日経新聞の5面、経営の視点、というコラムで、市場規模としては同じ約11兆円なのに、コンビニが大手3社の寡占状態であるのに、スーパーはおよそ270社存在する、とし、その違いを、「多様性と同質性」に求める。 あまり実証的な論考とは言えないが。スーパーの経営理念は、SDGsという言葉が存在する前から、地域との共存、奉仕、恕の精神、誠実さなどの持続的な考えを理念として、御用聞き、配達、つけ払いなどの一見旧態依然としたやり方で生き残ってきた、とする。 それは 日々の商売を 丁寧に行うことでしか 信用と資本を 積み重ねることが できなかったからだ。 川一本を挟んだだけで 味噌やしょうゆの味や色が異なる。 餅の形も丸や四角に。水の違いもある。 日本には、しょうゆ、味噌のメーカーがそれぞれ約1000あり、 こうした商品をスーパーに届けるのが 地域に根を張る食料・飲料卸売業。 事業所数は約3万5000。 メーカーも零細だから量産は難しく、 それが郷土料理として輝く。 卸も零細だが、それゆえに地域のひだに入り、庶民が慣れ親しんだ味覚、舌の記憶を支える。 豊かで共同体的な市場経済がエコシステムとなる。 顧客情報管理(CRM)、 デリバリー、電子決済などの デジタルの武器がない時代から ご用聞き、配達、ツケ払いという アナログによって リアルな世界の顧客の顔を 知ろうとした。 コンビニはどうか。 全国制覇を目指した スーパーから多くのコンビニが生まれ、 大手3社は全都道府県に 看板を掲げるまでに成長した。 狭い売り場で高速回転で 人気の商品をさばき続けて 利益を稼いだ結果が同質化。 地域性を意識はするが 地場スーパーには及ばない。 コンビニ経営の間尺には 合わなかった。 コロナ禍でいろいろな 産業で再編が加速している。 流通業も例外ではないが、 再編、寡占に勝者はいるのか。 そうした資本と競争の論理とは 一線を画し、 地域社会を守るところに 存在価値が宿るはずだ。 そもそも、人間の人間たる理由はなんなのか? それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。 以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、とい...

物価高

朝セブンイレブンに行って 買い物してきたけど、 意外と高くて 驚いた。 ちょっとした スイーツが 結構な値段で、 ローソンの 後追いしてるのかも しれないけど、 高くて驚いた。 確かに美味かったけど。 それ以外にも、 軽い気持ちで買ったのものが 意外と高かったり、 気のせいかも知れないが プライベートブランドの 食器用洗剤とかも、 容量が小さくなってた ように感じた。 これじゃ、 節約志向になるのも 当然だろう。 以下日経新聞2023/2/4より 問題は、デフレや低インフレを 長く経験してきた 家計が 物価上昇に「不慣れ」な ことだと指摘した。 将来不安から貯蓄に 傾き、消費に 積極的に向かわない 節約傾向がうかがえるという。 これから もっと (マイルドに) 値上がりするから 今のうちに買いましょう、 という発想になるのか? 政府・日銀をそこまで 信用する消費者が どれだけいるというのか? そもそも、 消費者の 期待インフレ率を 政府と中央銀行が コントロールするという発想 自体に 無理があるんじゃないのか? ぶっちゃけ Amazonで買うのが 一番安くね? とか 思ったりする。 以下日経新聞2023/1/20より 一部の大企業は自社の プラットフォームを有料で公開することを決めた。 例えばアマゾンは自社の通販サイトを運用する ために 独自の社内IT(情報技術)プラットフォームを 開発したが、 その技術を「切り売り」する 決断を下し、アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)を 打ち出した。 これを 契機にクラウドサービス業界が 出現することになる。 こういう技術にアクセスできない 個人商店とかは苦しいわな。 よほど地域密着で、 そこでしか 売ってないものを売るとか。 店舗スペースの半分に いつまでも売れない商品を 並べてるようじゃ、 このご時世 低価格で、 安いパートさん使って 人件費削ってる ってだけじゃ 生き残れないよ。 でも、 正味の話、 デフレマインドのほうが、 日銀には ありがたいんじゃないの? 超金融緩和を続ける 口実になるじゃん。 そんで、 無駄に 日本国債買い続けるんだろ?...

雑記

明治時代の本質がある程度理解できたことと、 なぜ無謀な太平洋戦争に突入したかもある程度わかったので、 戦後史まで目を向ける余裕が出来た。 欧米の歴史観では、 経済的な締め付けが日本を無謀な行動に走らせた。 それを教訓にして、 中国に対しても、 あまり経済的に締め付けるのではなく、 アメとムチを使い分けるのが 大事、と認識している。 心理学を学んだことで、 自分の偏っているところが 見えてきて、 かなり 楽になった。 勉強ってたのしー

全体主義と物語

経済的に 苦しい ときほど、 人々が 「物語」に すがってしまうのは 当然のこと かも知れない。 後から 考えれば いくら 馬鹿げていても、 むしろ 馬鹿げているからこそ、 敢えてでも 騙されたい、 という心理は、 現代人も 全く変わらない。 そういう「物語」を 騙れる政治家は、 強いて言えば むしろ 有能と言っても 過言ではないだろう。 「決められない政治」 への批判が 官邸と特定の官僚が結びついた 現在の 「官邸政治」を 作り上げたが、 本来、 議会制民主主義の本質は 少数派の声を 聞くことで、 バランスを取ることにある。 権力を掌握した者が 「物語」を語り始め、 友/敵の 二元論を 設定し、 少数派の声を軽んじ始めたら、 危険な徴候であると 見ていい。 デモクラシーとは 「多文化主義」に近いが、 それが 決められない政治や、 社会としての統一性を ぼやけさせる側面があると 見ることは 容易だろう。 カール・シュミットが デモクラシーに敵対的であったのは 頷ける。

物語 (再掲)

詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。( 「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188 ) 読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。( 「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485 )

ケインズ経済学

ケインズ経済学は、 どうしても 財政出動ばかりが 注目されるが、 もちろん 金融政策も 重要。 とはいえ、 ケインズ経済学は 不況時の経済学であって、 人々の マインドが 負のスパイラルに ハマってしまいそうな時に、 政府のバックアップで 人々のマインドを安定させ、 経済を落ち着かせる ことが 最大の眼目。 日本みたいに 漫然と続けるのが 本質ではない。 そういう意味では、 ケインズ経済学は 人々の マインドに働きかける 「サプライズ」の 要素を 多分に含んでいる。 世界恐慌の時に フランクリン・ルーズベルト大統領が ラジオを通じて 銀行の役割を 人々に訴え、 銀行への取り付け騒ぎを 鎮めたようなことも、 立派な 経済政策。 果たして 今の日本の政治家に それだけの力量がある 人物がいるか? もう 財政も金融も 完全に 弾切れじゃないか。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。 https://www.youtube.com/watch?v=3t3fYJyA_2k

なぜ貨幣供給量を増やすと物価が上がるのか? 貨幣数量説 (再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版 https://www.youtube.com/watch?v=uBbl2e-6ObA

フィッシャー効果 (再掲)

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

「金融と社会」 質問と回答その5 (再掲)

質問 日経新聞朝刊2022/9/21の記事8面に、物価上昇でも現預金志向、と題して、米国では高インフレで預金から他の金融機関にマネーを移す動きがある。日本も株式投資や外貨預金を始める人が増えているが、多くは円預金や現金として滞留している。物価上昇が長引いたとしても、SMBC日興証券の丸山義正チーフマーケットエコノミストは「日本人は節約志向が強いので、物価が上がりそうだから早めに使うという考えにはなりづらい」と指摘しています。 ここで、私は以下のように考えました。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。                             以上の見立ては、間違っているでしょうか? 回答 日銀が名目金利を抑えている点、にもかかわらず日本の家計が株や海外投資に向かわず預貯金へ、という点はそうだと思います。

無聊を託つ (再掲)

暇だな・・・ 暇なら働きゃいいじゃん、 母親も、 何も言わず 一人で郵便局行けるほどに回復したし。 しかし、 俺が暇だから働く、 となれば、 母親はどうなる? 俺より暇じゃないのか? 暇だってそれなりに苦痛であることを 理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、 母親を放置していいんだろうか。 ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか? 連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。 睡眠の質もいいし。 ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。 テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。 母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。 円安と資源価格高騰による コストプッシュ・インフレの影響と、 それでも企業の価格転嫁が進まずで、 結局、名目賃金が上がったとしても、 実質賃金が目減りしているから、 当然と言えば当然なんだけど、 そもそも 期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが インタゲの主眼目のはずだったのに、 これじゃ本末転倒じゃないか。 ただのスタグフレーション。 黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か? 見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって 国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。 そもそも、少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 ...

この10年は結局なんだったんだ?

内閣府によると、 現状の物価高は 資源高や円安による コスト増の 影響が大半。 国内需要の回復や 賃金上昇が 伴わなければ 再び デフレに陥る リスクがある、 とのこと。 https://www.youtube.com/watch?v=eLVCZGXYdiw

私の履歴書

今月から 村井邦彦さん という 作曲家の方の 連載が スタート。 今日は第4回。 村井さんが 暁星小学校に入学された話。 ふと、 思いもかけない名前が。 同級生が 磯部力先生。 2代前に 放送大学で 行政法の講義を担当されていた。 授業はめちゃくちゃ面白かったが、 単位認定試験が 異常に難しく、 単位が取れなかった。 後継の 渡邊賢先生の授業も 面白かったが、 やはり 単位認定試験が 激ムズだった。 結局 行政法の単位は いまだに 取れていない。 磯部先生と 渡邊先生の 授業を聞けただけでも、 放送大学はすげえ。 磯部先生は かつて 都立大学に 勤務されていたらしいが、 石原都知事(当時)の 強引な 改編で、 都立大学の 行政法の 伝統が 途切れた、 なんて話も どこかで聞いた。

高校受験

今からすれば、 高校受験して 武蔵に 入ってよかった と 思うけど、 高校はいって 割とすぐ 思ったのは、 英数国3科目 頑張って勉強したけど、 特に 数学は 東急池上線の久が原にある 塚本数学クラブっていう 個人塾で徹底的に 鍛えられたけど、 入試が終わってみると、 全然 賢くなった気がしないし、 ましてや 人間として 成長した、なんていう 実感など 微塵も湧いてこなかったね。 まあ、単純に 数学に向いてないって ことなんだろうけど。 にも関わらず、 世間から 畏敬の目で見られることが 余計に 虚しかったね。 つまり、 以前書いたように 武蔵に絶望した、というより、 なんちゃって武蔵生をやってる 現実に絶望したのかもね。 しかも、これから 大学受験に向けて 数学勉強しなくちゃいけないのか、 と 思うと、 暗澹たる気持ちになった。 つっても、 自分の拙い経験から言っても、 数学が専門の人って、 頭はいいけど 人間として 疑問符をつけたくなる ような 人って、 案外多いよね。 メタさんも、 武蔵の数学教師 を 反面教師として、 理系進学を 諦めた、って 言ってたし。

節分

なんか 季節の 変わり目 というのは、 疲れますよね。 自分も ちょっと 疲れてます。 節分 というのは そもそも そういう 時期で、 だからこそ 豆を撒いて 験を担ぐ? じゃないけど、 とにかく 季節の 変わり目は 体調を 崩しやすいから 気をつける、 というのは 昔からの 生活の知恵 らしいです。 やっぱり 昔の人の 知恵ってのは すごいですね。 暦のことは よくわかんないんですが、 昔は 太陰暦だったらしいですからね。 つっても 自分には 何がなんだか さっぱり わかりませんが。 明治以前の 日本の暦は 太陰暦だから、 古文書で 月の初めは 満月に決まっている、 そんなことも 教えない 日本の 歴史教育は ダメだ、 みたいなことを 井沢元彦さんが 「逆説の日本史」 で 書いてた 気がする。 まえ、 父親が 入院してた時に、 隣の部屋の 方の名札が 八月朔日さんと 書いてあって、 看護師さんに なんてお読みするんですか? と 聞いたら、 ホヅミさん、 という 方でした。 やっぱり なんか 農作物の収穫か なにかと 関係があるんですかね。 https://turkish.jp/turkey/turkish-flag/  

教養のヘーゲル (再掲)

問われるべき問題はいかにしたら、このようにして発達した、所有権のような個人の権利の意識が、社会全体への奉仕と一体になることで、より理性的で自由な意識へと陶冶されるかだ、とヘーゲルは考えた。そして、権利と義務が衝突せず、私的な利益と公的な利益が一致するような人間共同体が形成されるならば、その共同体のメンバーの幸福をみずからの幸福と感じ、法や制度に従うことは自己の欲望の否定ではなく、自己の理性的な本性の肯定であると考えるような市民が生まれると主張したのである。国家こそ、このような倫理的共同体における最高次のものだとヘーゲルは考えた。 (放送大学「政治学へのいざない」211頁より) ヘーゲルが、国家と(市民)社会とを区別して捉えたことが、国家論の歴史において画期的な意味を持つことであるということはすでに指摘した通りである。その国家と社会の分離の理由として、ヘーゲルは、市民社会には、国家のはたすような真の普遍を支える能力がないからということをあげる。そこで、市民社会の私的利害に対応するだけのものである「契約」という概念によって、国家の成立原理を説明する「社会契約説」に厳しい批判を浴びせることともなった。しかし、それだけではないはずである。というのも、国家と市民社会の分離の把握ということは、市民社会が、相対的にではあっても国家から独立した存在であることの指摘でもあるはずだからである。近代国家においては、プラトンが掲げた理想国家におけるのとは異なって、国家が個人の職業選択に干渉したりはしないし、その他の個人の私生活に干渉したりはしない。同様に、国家が市場原理を廃絶あるいは抑圧するようなこともない。そのように、市民社会が自分独自の原則にしたがって存在し、機能していることが尊重されているということが、近代における個人の解放という観点から見て、重要なことであるはずなのである。それは、ヘーゲル流の表現にしたがうならば、一方では、近代国家なり、近代社会なりが「客観的必然性」によって構成された体制であったとしても、他方では、個人の恣意や偶然を媒介として成り立つにいたった体制だからだということになる。(p.103) (中略) 近代国家の原理は、主観性の原理がみずからを人格的特殊性の自立的極にまで完成することを許すと同時に、この主観性の原理を実体的統一につれ戻し、こうして主観性の原理その...

「かのように」 森鴎外 (再掲)

かのように 森鴎外  朝小間使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。 「おや。さようでございましたか。先さっき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」  雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入はいった時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑のみ込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。 「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活いけて、大きい枠わく火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、起たって行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸やしきでは瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火に当っているのである。  電燈は邸やしきではどの寝間にも夜どおし附いている。しかし秀麿は寝る時必ず消して寝る習慣を持っているので、それが附いていれば、又徹夜して本を読んでいたと云うことが分かる。それで奥さんは手水ちょうずに起きる度たびに、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙すきから、火の光の漏れるのを気にしているのである。      ――――――――――――――――  秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論文には、国史は自分が畢生ひっせいの事業として研究する積りでいるのだから、苛いやしくも筆を著つけたくないと云って、古代印度インド史の中から、「迦膩色迦王かにしかおうと仏典結集ぶってんけつじゅう」と云う題を選んだ。これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士たかくすはくしの所へ駈かけ附けて、梵語ぼんご研究の手ほどきをして貰った。しかしこう云う学問はなかなか急拵きゅうごしらえに出来る筈はずのものでないから、少しずつ分...