①帝国クライスと国連の関係、②集団的自衛権と集団安全保障の違い、について山梨大学の皆川卓先生にうかがいました。(放送大学面接授業「神聖ローマ帝国の歴史」の先生です。) 第一の質問ですが、コトは少々複雑です。神聖ローマ帝国の帝国クライスは、帝国の解体と共に忘れられていました。しかし帝国クライスがまだ健在だった18世紀初頭、フランスのサン・ピエール(Charles-Irenee Castel de Saint-Pierrem 1658-1743)という聖職者・外交官・政治哲学者が、帝国クライスの仕組みと活動を見て(サン・ピエールの主君であるフランス王ルイ14世は神聖ローマを侵略して帝国クライスに痛い目に遭っていました)、これをお手本に、ヨーロッパ各国が恒久的な同盟を結び、共通の会議や裁判所を持てば、戦争は防げるという著書『ヨーロッパに永久平和を回復するための計画』(Projet pour rendre la paix perpe'tuelle en Europe)という著書を著します。この著書を褒めながら、「平和を希求する君主の同盟では、彼らの心変わりがあって心許ない。国際安全保障は人権の土台である平和を守るという人民の意思に基づかなければ」という修正を加えたのが、有名な政治哲学者ルソー(Jean Jacque Rousseau, 1712-78)が1761年に著した『サン=ピエール師の永久平和論抜粋』(これは日本語訳のルソー全集4巻に入っていて簡単に読めます)でした。そして彼の著作に触発されたのが、これも有名なプロイセンの哲学者カント(Immanuel Kant, 1724-1804)で、彼はルソー論文の理論を発展させ、国際安全保障に必要な条件を列挙した『恒久平和のために』(Zum ewigen Frieden)という論文を1795年に著します(これも岩波文庫に入っていて簡単に読めます)。これがその後の国際安全保障構想の土台になる論文で、19世紀にイギリスの国際法学者ロバート・フィリモア(Robert Phillimore, 1810-85)の多くの論文によって、国際法を実現するためになくてはならない機構と訴えられることになり、その息子の国際法学者ウォルター・フィリモア(Walter Phillimore, 1845-1929)やフランスの政治理論家レオン・ブルジョワ(Leon Bourgeois, 1851-1925)、ドイツの国家学者ゲオルク・イェリネク(Georg Jellinek, 1851-1911)ら広い範囲の学者たちの支持を得るに至りました。そして第一次大戦の最中、大英帝国の南アフリカ担当大臣で総力戦の繰り返しを防ぐにはどうしたらよいか考えていたヤン・スマッツ(1870-1950)がカント(>ルソー>サン・ピエール>帝国クライス)の理論を知り、これを元に新しい国際安全保障体制の構想を立て、同じく安定した国際秩序の樹立を考えていたアメリカの大統領ウッドロー・ウィルソン(Th.Woodrow Wilson, 1856-1924)に紹介し、第一次世界大戦後の国際秩序再建の折に、世界初の国際機構「国際連盟」となって実現したわけです。第二次大戦後の「国際連合」が「国際連盟」の機能を強化したものであることはご存じの通りです。というわけで、現実が思想になってまた現実を生み出すには、長い長い過程が必要です。ただし元になる現実がなければ思想も生まれないわけで(たとえばこうした例がないアジアでは、国際安全保障体制の構想は生まれませんでした)、その意味では帝国クライスは画期的だったと言えます。 第二の集団的自衛権と集団安全保障は大きく違います。それは集団的自衛権が、仮想敵を具体的に想定して結ぶ部分的な国家連合であるのに対し、集団安全保障は仮想敵を想定せず、安全保障にかかわる全ての国と同盟し、想定外の状況としてその一部が安全を脅かした場合、他の全ての国がこの脅威の除去を義務づけあうからです。そのため集団的自衛権は地域的にもまとまらない2カ国(多くは遠交近攻関係)から数カ国の同盟に留まるのに対し、集団安全保障は世界全体を覆う国連をはじめ、神聖ローマやスイス盟約者団(1848年以前のスイス)、合衆国成立(1787年)以前のアメリカ13州のように、一定地域内の国をすべて同盟内に取り込みます。ただし現実の組織においては、この両方の目的を持っている場合が少なくありません。それは安全保障にかかわる全ての国を同盟の中に取り込むことができない場合、取り込むことが出来ない国々は全て敵になるかもしれない存在だからです。神聖ローマは帝国内では集団安全保障機構でしたが、オスマン帝国やフランスに対しては集団的自衛権のための同盟でしたし、アメリカ13州も独立を認めないイギリスに対しては同様でした。近代でもたとえばヨーロッパと北米大陸のほとんどの国を含む北大西洋条約機構(NATO)は、大西洋地域では集団安全保障の組織ですが、ソ連率いるワルシャワ条約機構の諸国がある東ヨーロッパに対しては、集団的自衛権のための組織として機能していました(残念ながら現在でもロシアなどに対してはそのように機能しています)。ですから同盟をより集団安全保障機構に近づけていくことが、戦争の危険を避けるために重要です。
1. 序論:『それから』に映し出される明治期の近代化 本稿は、夏目漱石の小説『それから』を題材に、日本の近代化がもたらした状況と、それが個人の経験に与えた影響について考察するものである。特に、経済的豊かさが生み出す「自家特有の世界」への耽溺と、それが最終的に経済の論理に絡め取られていく過程、そしてテオドール・W・アドルノが指摘する、社会の合理化と精神世界における非合理への慰めを求める人々の傾向を、作品を通して分析する。 日本の明治時代(1868-1912年)は、長きにわたる鎖国状態を経て、1853年の黒船来航を契機に世界と対峙し、驚くべき速度で西洋の制度や文化を取り入れ、「近代国家」への道を歩んだ画期的な時代である 。この時期には、鉄道、郵便局、小学校、電気、博物館、図書館、銀行、病院、ホテルといった現代の基盤となるインフラや制度が次々と整備された 。政府は「富国強兵」や「殖産興業」といった政策を推進し、工場、兵舎、鉄道駅舎などの建設を奨励した。また、廃藩置県や憲法制定といった統治制度の変更に伴い、官庁舎や裁判所、監獄などが建設され、教育制度の導入は学校や博物館の整備を促した 。 西洋化の影響は日常生活にも深く浸透した。住宅様式においては、外国人居留地を起点に西洋館が普及し、やがて庶民の住宅にも椅子式の生活スタイルが段階的に浸透した 。食文化においても、仏教の影響で長らく禁じられていた肉食が解禁され、西洋列強との競争意識から日本人の体格向上と体力増強が期待された 。洋食は都市部の富裕層を中心に広まり、カレーライスやオムライス、ハヤシライスといった日本独自の洋食が定着した 。大正ロマン期(1912-1926年)には、西洋文化と日本独自の文化が融合し、「モガ」や「モボ」と呼ばれる若者たちが洋装に身を包み、カフェで音楽や映画を楽しむ「自由でおしゃれな空気」が醸成された 。経済面では、明治後期から軽工業が発展し、日露戦争前後には鉄鋼や船舶などの重工業が急速に発展し、日本の近代化を加速させた 。第一次世界大戦期には工業生産が飛躍的に増大し、輸出が輸入を上回る好景気を享受した 。 『それから』(1909年発表)は、夏目漱石の「前期三部作」の二作目にあたり、急速な近代化が進む日本を背景に、個人の欲望と社会規範の...
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