2022年8月7日日曜日

論考8(再掲)ー参政党批判

私が疑問に思うことのひとつは、例えば、テレビ局の女性アナウンサーが、ニューヨーク支局に赴任すると、途端に服装やファッションがアメリカ化することです。けばけばしい化粧や、逆に、黒髪を強調したりするなど。日本が、古来から、外国の文化をうまく取り入れて、自国の文化にしてきたという事実があります。最近の例では、「これが日本のキムチ」というフレーズのコマーシャルがあります。キムチが明らかに日本独自の食材ではないにも関わらず。しかし、日本に暮らしていて、キムチを食することが普通のことになるにつれ、食品会社各社の努力によって、確かに日本人の好みに合う味のキムチというのが確立されつつあるのも事実です。この点についてはアメリカはむしろ、国内の多様な人種や文化が混ざり合い、刺激しあい、時に商業化されたりしながら、独自の文化を形成しているように思います。しかし、日本と異なる点は、エスタブリッシュメントに属する側の人が、例えば黒人女性が綿を摘まむときの歌声を当時の最新の録音機器を用いて録音するなど、積極的に記録に残してきた点です。それによって、現在の黒人音楽のルーツを探ることができます。あるいは、キューピーを考案したローズ・オニールの業績なども、克明に記録され、保存されています。これらのことは、日本ではあまり起こりません。日本の右翼系保守は、日本文化の本来性という側面を重視します。実のところ、本来性というジャーゴンは、危険な思想の表明でもあるのですが、歴史的に見ても、日本は、国力の衰退とともに、危機感を感じると、いつも、本来性という側面に拘ってきました。日本人が記録を軽視することの弊害は、このようなところにも現れています。 https://philosophy.hix05.com/Deutsch/deutsch109.jargon.html 放送大学はじめてすぐの頃、千葉の本部で千葉大学の先生の「ハンガリー近代史」の面接授業を受講したけれど、グローバリゼーションには一言も言及しなかったが、自分の考えとしては、グローバリゼーションが迫る均質化に対抗してか、ハンガリーも、ナショナリズムが興隆して、もともとは騎馬民族だったことを、野蛮というより、むしろ、ワイルドだろぉ?と、アイデンティティーとしてアピールしたり、歴代の君主を讃える広場をつくったり、特にマーチャーシュ大王という人を賛美したりなどして、さらに国粋主義がひろまり、右翼政党が力を持ち始めて排外主義が蔓延したりしていた。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 エーリッヒ・フロムによれば、ドイツの中産階級が没落して、さらにプロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサド的メンタリティーと、サド=マゾ関係を生み出し、人々が「自由から逃走」し、ナチス政権に従順に従ったそうだが、日本も、中産階級が没落し、政治的メシアニズムを待望するようになれば、政治的危機が将来において登場する可能性は十分ある。 日本においては、新自由主義的政策により、アトム化した労働者が大量に出現し、景気が悪くなればすぐに生活が困難になるような労働者が増加するにつれ、エーリッヒ・フロムが指摘したような危機的な条件はそろいつつある。 (以下 静岡大学 森本隆子先生からの私信より) 「本来性」という今やジャーゴン化した隠語が孕む<個>を<全体>へ解消しようとする志向、とりわけ、これとの連関でよりいっそう顕在化してくるグローバリゼーションと並行的に進む民族主義、ナショナリズムを初めとする原理主義の台頭が印象的なコメントでした。 ナチ以降のドイツの戦後社会や東欧の動きは、まさにそのもの――かつ、これらに象徴されるように原理主義的孤立と排他は、皮肉にも文字通り「全球」的に進行しつつあるのでしょうが、わけても日本の場合は、欧米やイスラムとはまた異なる様相の下、他者との摩擦や葛藤を経由することなくソフトに進行してゆくので、いっそう恐ろしいのかもしれませんね。 ふと、村上春樹の『1Q84』でおそらく作者からも読者からも最も愛されているヒロイン「青豆」が憎悪しながら傾倒しているとしか評しようもない「証人会」――明らかに「???の証人」をモデルとした宗教的原理主義のことを想起していました。時代を生きる以上、否応なく巻き込まれざるをえないグローバリゼーションの嵐が強いる均一化に対して、東西を問わず、人はこんな形で抗い、憩いを求めるのだろうか、と。『1Q84』は、明らかに「証人会」への依存と異性愛への依存を重層させ、近代の恋愛が祖型とする所謂<対>なるものへの志向が最たる原理主義の1つの姿ではないか、とその限界を問うているような気がします。 「本来性」とは、まさに「起源」の捏造でもあるわけですね。

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