2022年8月1日月曜日

他者と<活動> (再掲)

価値判断は人工知能にはできない、と書いたが、価値判断ができないで、ただただマジョリティーに追随しているだけの人間も少なからずいるだろう。 とはいえ、それもある種の価値判断だというパラドックスもあるだろうが。 あるいは、人間の価値判断のモデルを人工知能にパターン学習させて、人間っぽく価値判断をしてるフリをさせることも出来るだろう。 それでは、人間の人間たる理由はなんなのか? それは、”善さ(good)”とは何か?ということだろう。 以前、あるニュースで、人工知能に”善さ(good)”とは何か?と繰り返し聞いたら、人工知能が怒り出した、という。 昨今、公共哲学界隈では、古代ギリシャに遡る徳倫理学が復権しつつあるそうだが、上述したような状況も無関係ではないだろう。 徳倫理学の代表選手はアリストテレスだが、日本人に馴染みのあるのは、その祖先と言ってもいい、ソクラテスを想像すればいいだろう。 モノの消費とコトの消費の対比でも考えたが、単純に選択肢の中から何かを選ぶ、ということと、それがどういう思想信条の表明であるか、というのは、次元の違う話なのではないか? つまり、単純にどういう結果を選択したか、というより、その結果を選択した根拠が再び問われる事態が起こっていると言ってよいだろう。 しかし、単に選択肢の中からチョイスをするということが、その人の思想信条の表明と全く無関係ということがあり得るだろうか? (以下森本先生からのフィードバックより) 〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している、ということですね。 小林くんのご論のマクラに、モノ的発想とコト的発想の対比もありましたが、まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない…。 ふと気付いたが、森本先生のコメントにある、〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包しているという考え方は、まさにハンナ・アーレントが<活動>として定式化した概念ではないだろうか。

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