2022年6月20日月曜日

漱石論コレクション2(再掲)

 近代が産み出した<自意識>の悲劇は、それが<自己を把捉しようとする自己>という<純粋な自己>――社会関係から切り離された観念的で抽象的な<点>としての自己――を求めるものでありながら、実は<自己>は<他者>との関係性という座標軸においてしか存在を確かめようもない、この自己矛盾にあります。   紛れもなくその苦痛を味わった一人である漱石における<女性>の意味は…。   結論的には男性に都合の良い<女性の客体化>を免れるものではありませんが、漱石(文学)の特徴は、にも拘わらず、終始、女性に<他者>を求め、そして女性が紛れもない<他者>であるが故に、敗北し、傷つく男の姿までを射程に収めていた点ではないかと思われます。 【<自己>を映し出してくれる<鏡>としての女性】   <女性の客体化>の最たる例となると、一方ではモノ化(フェティシズムの対象)、他方で耽溺(女性の幻想化・一体化)が挙げられますが、漱石の場合は、いったん/とりあえずは<他者としての女性>が求められている、といってよいと思います。   <恋愛>の名を借りた――愛する女性に己(の物語)を投げかけ、相手から投げ返されてくる応答に揺らぎ、立て直される自己。性的他者の眼差しに曝されて、その葛藤する感情のドラマの中で自分というものを最も生々しく実感する――性的差異で隔てられた<絶対的他者>としての<女性>との関係性の上に<性的アイデンティティ>としての自己同一を獲得しようとする手法です。  以下の『彼岸過ぎまで』の須永の告白は、その典型。 女が自分に向ける感情――一種の<評価>に曝されることで<自己>の核心がゆさぶられ、剥き出しにされる、苦悩の戦慄は、そのまま須永が女の眼差しの下に自分という存在の手ごたえを、いつになく生き生き感じる瞬間を作り出しています。    純粋な感情程美しいものはない。美しいもの程強いものはない…強いものが恐れないのは当り前   である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪えられないだろう。その     光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。   僕は屹度その光りの為に射竦められるに極っている。それと同程度或はより以上の輝くものを、返礼として与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰っても、そ  れを味わい尽くす資格を持たない下戸として、今日まで世間から教育されて来たのである。(「須永の話」)   過剰な自意識に囚われ、内閉した近代人が、唯一、他者との関係性の上に<自己>を実感し得る<恋愛>。しかし、それが錯覚にすぎないのは、ここでの<女性>が、正確には<他者>とはよべないからです。男は相手の女性の眼差しの中に自分を見出しているわけで、そこで獲得されているのは再帰的自己です。女性はつまるところ、自分を映し出すための<鏡>、自分(の物語)を投影した存在にすぎません。   <恋愛>といえば、一見、独立した男と女が対峙して育むもの、のように見えますが、その内実があくまで男性を主体とした男性中心主義的に構築された物語にすぎないことを、漱石のテクストは炙り出してくれます。それは<身体の所有>に留まらず、相手が自分をどう感じ、思い、評価しているか――それを隈なく読み取ろうとする<内面の所有>という更にハイレベルな<所有>をさえ意味するでしょう。   漱石の陥っている図式は、近代的恋愛の祖型ともいえる「ロマンチックラブ」そのものですが、一対の男女が愛という感情の絆の下に生殖の営みを行うというこの近代夫婦家族の仕組みが、実は近代国家が最も効率の良い次世代再生産の仕組みとして採用した、徹底的な性別役割に支えられた<装置>であることは、今では常識です。「ロマンチックラブ・イデオロギー」と呼ばれる所以でもあります。 近代的個に目覚めた漱石は、上記のようにその幻想(愛という名の女性の客体化)に深く捉われました、が、また同時に、それを冷静に相対化する眼差しも持ち合わせていたと思われます。 【女性の他者性――構成の破綻/2人の主人公】   『行人』では存在を賭けて唯一の性的他者である「妻」の「スピリット」を執拗に求める主人公「一郎」に対して、たった一言、自分は「魂の抜殻」にすぎないのだというセリフを以て作中、「一郎」に対して最も手厳しい反撃を加える妻「直」が描かれ、女を触媒に男同士の濃密な関係が展開される『こころ』のホモソーシャルな物語に対しては、そこから徹底的に排除されているが故に、逆に<外部>からそのイデオロギー性と不毛さを鋭く突く「静」の言葉(「男の方は議論だけなさる…空の盃でよくああ飽きずに / では殉死でもしたら」)が点描されている――。漱石の女性たちが、主導権を握る男性主人公に対して、みずからその他者性をしばしば開示している、というのは有名な話です。   しかし、それ以上に、初期の漱石テクスト(『草枕』『虞美人草』)は徹底的な(性的)他者であるが故に己を映し出すに最も手応えのある<鏡>として女性を求めながら、当然の論理的結実として、女の厳然たる他者性に<生きるか死ぬか>ともいうべき地点へまで追い詰められてしまう主人公たちの姿を浮かび上がらせ、それ以降のテクストでは、そのような破綻を回避すべく、それを相対化するポジションに2人目の主人公を配置するという共通した構図を備えてゆきます。そのプロセスは、まさに<女性の客体化とその不可能性>が漱石テクストの一貫した通奏低音であり続けていたことを如実に示しているように思われます。 ◆『草枕』と『虞美人草』 ・『草枕』; 世間に倦んだ主人公「余」は、「気狂(きじるし)」――世の習いに背を向けた「那美さん」の美しく奔放な振る舞いに己を揺り動かされる。そんな那美さんを「画」に描いて、何とかその不安定な表情に纏まりを回復してやりたいと考える「余」であるが、「那美さん」を画に収めようとする――客体化が進むにつれて、そこに収まりきるべくもない那美さんの他者性が浮上してくる。そんな折、「余」が遭遇することになる「鏡が池」の風景――真っ赤な椿が滴る血のごとく池に降り積もり続ける光景は、他者の奥深い深淵を覗き見るような、つまりは他なる者と真に切り結ぶことの死をさえ孕む危険を見事に暗喩するものとなっている。この後、テクストの機軸は現実世界へと逸れてゆかざるを得ない。 ・『虞美人草』; 誇り高い義妹「藤尾」の内面に食い入るような視線を注ぎ、<我(意識)>への固執がもたらす破綻を警告し続ける「欣吾」。「藤尾」が世間に追い詰められて忽然と世を去った時、「欣吾」も自分の内面を独り「日記」の世界へ閉ざして退場してゆく。傲慢な藤尾が世間の道徳や倫理に罰されたかのように見える物語は、そのままそのような女性に自己投影していた男の内的世界の死(終焉)へと反転する。 ◆二人の主人公――ロマンチックラブの相対化  「愛」という名の下に女性を自己投影の対象として客体化しようとする男は、客体化しきれるはずもない女性の他者性に打たれ、自己破綻へ追い詰められる。初期テクストでこれを体験した漱石は、それを相対化し得るポジションに、もう一人の男性主人公を配置する。 ◆『三四郎』から『行人』『こころ』へ ・『三四郎』; 「野々宮さん」を筆頭に、「美禰子」の内面を謎化し、それを読みとることに腐心する男たち――本郷文化圏の知の共同体。   ―――配するに、所謂<視点人物>の「三四郎」は大学一年の「田舎者」として、彼らの営みを眺めはするものの十全には理解もできなければ参画もできない(stray sheep)。 ・『行人』;「一郎」の「直」をめぐる物語に対して、弟「二郎」 ・『こころ』;「先生」の「静(とK)」をめぐる物語に対して、聴き手=書き手の「私」 『三四郎』では曖昧化されていた<2種類の男性主人公>は『行人』『こころ』へ向けて、次第に差異化が明確になってくる。 そして『それから』は、『三四郎』の次作に位置し、前期の漱石テクストの末尾を飾り、後期作品群への道を開く作品だと言える。 【『それから』――性的他者との遭遇】 いわば冒頭より一貫してその<自意識>が追究されることになる「代助」が、「余―欣吾―野々宮」の後継に当たることは自明でしょう。 『それから』は、その一連のテクスト群の最後に、男性主人公一人に焦点を絞って、<鏡>の役割を果たしてきた<女性>と真っ向から相対させる――こう考えた時、『それから』は、「代助」の自意識的世界が、それまで客体化し続けてきた<女性>の見せ始める生々しい性的他者性との遭遇を俟って崩壊してゆく物語、と言えないでしょうか。 ◆「自家特有の世界」――三千代の結婚から再出現までの「3年間」   性的他者としての女性、それにまつわる男性間の争い、結婚のための社会市場への参画――これら人を傷つけ、傷つけられる<現実世界>から背を向け、自分一人で自足しようとする自己完結的=排他的世界(自分にしか行き着かない世界)。 ➡この世界の重要アイテムとして登場する「花々 / 独身時代の三千代の写真」は、<女性のセクシュアリティ―喚起される性的欲望>を封じてしまうことで、まさに最高度に好ましく美しい自分像を映し出してくれる<客体(化された存在)>である。  憩いの世界は、終始、<青―水底>のイメージで描写される。   ――その代償行為として、現実の代助はアマランスの「交配」に介助を施したりしているが、縁側の腐った君子蘭の葉から滴り落ちる緑の樹液は代助の性的に閉ざされた体液の暗喩だろう。 ◆「それから」(=その3年後から)始まる物語   テクストは容赦なく、三千代が他ならぬ、生々しい性的他者であることを突き付けてい く。―出産を体験し、赤ん坊を亡くし、心臓を病んで夫との性的交渉が遠ざかり、疎んじられがちな人妻 最も生々しく現実的な<金策>が必要な三千代が、恥じて頬を赤らめる姿は、<金銭と性― 赤の表象>を刻印する。   一方、代助自身の意識の中では、三千代は水底の世界にふさわしい落ち着いた情調の女 として、代助の非現実的夢想空間(自家特有の世界―青)と現実の時空(―赤)――対立的であるはずの2つの空間をしだいに繋いでゆく。「4~5年前」の記念ともいえる「百合」の花を携え、代助の夢とうつつのあわいに自在に出入りし、鈴蘭を活けた鉢植えの水を呑む三千代。   百合の香に満たされ、姦通の合意が成るクライマックスは、現実の三千代と代助の中の三千代が一枚に重なる瞬間であり、それは「自家特有の世界」に極点を持つ代助的世界が<真っ赤な現実>に飲み込まれてゆく瞬間であるともいえる。ここで最後の跳躍板として代助が身を任せた官能は、「自家特有の世界」が最も強く封印してきた性的欲望の謂いでもあり、「自家特有の世界」は崩壊せざるをえない。 【三千代は<他者>か?――<客体化>を免れ得るのか?】 代助が遭遇したもの――ここまでの主人公の系譜の掉尾を飾るにふさわしく、決定的・致命的に出会ってしまったものが女性の<他者性>であることは間違いないでしょう。 しかし、それでは三千代は<他者>として描かれ、<客体化>を免れているかと言えば、それは全く異なる――それは、代助の<姦通>という名の最高度の<純愛>に見えるものが、代助一人の頭の中でのみ成立している、つまりは<錯覚>にすぎない、からです。 いちばんわかりやすい例証は、すでに常識化されているように「異性愛はホモソーシャルな女性嫌悪の別名」でしかない――代助の三千代への愛が、このホモソーシャルを地で行く格好となっていること、です。再会した三千代への愛の再燃が、平岡への嫉妬(=譲ってしまったことへの口惜しさ)に根差したものであることを、これもテクストは冷酷に炙り出しています。密かに想いを寄せていた女性を親友に快く譲り渡した男は、それが成立した瞬間に始まる親友への嫉妬から、彼女への思慕をいっそう深めてゆく…。 『それから』は徹底した男の――男が男との関係性に突き動かされる物語であり、「愛」の対象として錯覚されている「三千代」は、実は男同士の友愛=闘争の目標として二義的に対象化された客体にすぎない――これが有体の事実、でしょう。 『それから』は、女性を己の<鏡>に見立て、そこに唯一といってよいアイデンティティの確証を得ようとしてきた前期漱石文学の最終決算として、その究極に、<女性の客体化――客体化されきらない女性の他者性>を描き、<錯覚>の崩壊にまで突き抜けてしまった作品と言えるのかもしれません。 つまるところ、それは女性の客体化(の1バージョン)への固執とその限界への批評意識、といったレベルに留まるものであり、女性に真の<他者>を見出し、描く文学とは質を異にする、と言わざるをえません。 ただ、逆に上に述べた経緯は、漱石という作家が<女性>の他者性(他者ならぬ他者性)――男性の枠組では捉えきれない他者性を鋭く捉え、言語化した近代作家であったことを端的に物語るものとも言えるでしょう。そもそも<男性>に対する<女性>という枠決めそのものが差別的であり、さらに<男性>が主体化される以上、<女性>は二義性を刻印されることを免れ得ません。それは、近代が発見したはずの「個人」なるものが幻想でしかなかった事態と正確に見合っているでしょう。<近代>がいわば捏造した<近代的個――自由で独立した自我>に身を投じ、その制度性を告発することになった漱石は、そのような男と対等に<対>化されているはずの<女性>なるものが、実は近代という時代がシステム化した<ジェンダー秩序>の縛りの中で排除され、抑圧された存在であることにも気付いていたと言えるでしょう。 それを<男性>の視座から描き続けたところに、漱石の徹底した誠実さと免れようもない限界性があるのではないでしょうか。 追記1 「代助と三千代」に<錯覚された愛>を、ではなく<純愛>を読めば、それがセカイ系の「キミとボク」と酷似に近い相似形を描いていることに、ハタと気づかれます。むしろ<閉ざされた自意識>なる問題意識そのものが、漱石を始発に狭められながら現代へ至っているのかもしれません(東浩紀たちの議論のいちばん基底にはこれがあるような気がします)。そして近似しているようで、決定的に一線を画しているのが上に述べた「代助」に対する相対化の目――代助を包囲する現実社会およびそれと代助の関係性が克明に描かれていることです。   代助の「自家」世界が父の仕送りに贖われ、姦通=義絶を以て自己崩壊するしかない体のものであること、さらに「三千代」に至っては金銭的にも社会的にも平岡に繋がれた従属の立場にしかない以上、三千代における姦通の決意は道徳や経済のレベルを超えた文字通りの「死」の覚悟抜きにはあり得ないものであることetc. 3年前の代助が拒否したのも、また姦通を以て参入することになるのも紛れもない近代資本主義社会のシステムであることを、テクストは精密に描いています。これが、セカイ系ではオミットされることが大前提の「中間項」(世界と「キミとボク」の間に存在しているはずの)と呼ばれる社会領域であることは、言うまでもありません。 追記2 絶筆の未完作『明暗』は、漱石的ジェンダーをめぐる上記の整理から大きく逸脱するものと思われます。<愛を求める主人公>役が男女逆転して「お延」というヒロイン側へ振り当てられた時、どだい男性主人公「津田」に、<女の客体化>などの術も余裕も残されていません。「お延」の登場を俟って、漱石的世界のジェンダーをめぐる構図は、次のステップへと大きな飛躍を遂げているような気がします。

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