2022年5月1日日曜日

歯車

芥川龍之介が自殺した心境も、理解できる。発狂することは、死よりも遥かに恐ろしいことだ。笑いながら死ぬことなんて僕にはできないから。でも、売文家として、死を弄ぶことは、甘ったれかもしれない。少なくとも、そこにはなんの進歩もない。俺はほっといてもそのうち心臓発作で死ぬだろう。これだけの頻度で悪夢を見ていれば、いつかはそうなる。俺は神を信じる。人間はアテにならないから。でも、個人主義ってそういうものじゃないか?人間が相互に信じあうに足りるものであれば、神(あるいはリヴァイアサン)を信じることなんて必要ないじゃないか。ミシェル・ウェルベックの「地図と領土」(ちくま文庫)の最後のほうで、主人公のジェドが、大腸ガンを患っていた自身の父親が、合法自殺を選んでチューリッヒに旅立ったことを知り、追いかける描写で、父親が安楽死を遂げたとごく事務的に告げる施設の女性職員に対して、人を殴ったこともないようなジェドが、その女性職員をフルボッコしたけど、神を信じているとは言い難いウェルベックが、神を信じようが信じまいが、簡単に自殺なんかするな、というメッセージを発しているような気もする。俺は人間はアテにしないが、自殺はダサいと思う。アルベール・カミュの「異邦人」で、死刑判決を受けた主人公が、儀礼的に慰めに訪れる神父に、容赦なく罵声を浴びせる描写があるが、かといって死におののくでもなく、生に恋々とするわけでもない。実存主義真っ最中の時代精神として、明らかに神を信じていないカミュの作品だが、「ペスト」の中では、(神なき時代の)人間の連帯が描かれていた。神を信じるも信じないも自由。その中で、どう社会の連帯を築くかを模索するのが、ナウいんだろう。

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