タマタマ多摩川拾遺集
2025年1月18日土曜日
メシハラ
昔
東京ヤクルトスワローズに
飯原(イイハラ)という選手がいて、
たまたま
神宮球場のバックネット裏で
観戦したことがあるんだが、
飯原選手が
バッターで、
強振したときに、
バックネット裏の
観客席まで
ブンッ!って
スイング音が聞こえたね。
あれはすげえと思った。
超失礼だけど、ああ、
飯原ですら
強振したら
バックネット裏までスイング音が
聞こえるほどのスイングしてんのか。
プロってすげえな、と
思ったよ。
そんな凄い勢いでバット振って、
ボールに当てるわけだからね。
超すごくない?
自分
小学生のときに
少年野球やってて、
下手くそだったから
なおさらわかる。
普通どんなに頑張っても
バット振って音なんか出ないよ。
それが
飯原選手レベルでも
本気でバット振ったら、
10メートルぐらい
離れてても
スイング音が聞こえるってのはね。
すげえよ。
やっぱ
プロってのはすげえわ。
2025年1月17日金曜日
バラッサ・サムエルソン仮説 (再掲)
消費バスケットを構成する貿易可能財では、国際貿易を通じた裁定取引により国際的な一物一価が生じる一方、サービスなどの非貿易可能財では国際的な裁定取引が行われない。日本での非貿易可能財価格は国内の生産投入費用、特に実質賃金により決定される。 貿易可能財産業で高い労働生産性の伸び率を達成した高所得国は、その高い労働の限界生産性から国内実質賃金がすべての国内産業で高い。高所得国の非貿易可能財価格は低所得国より高くなり、同所得国の実質為替レートは増価する。 日経新聞「経済教室」2022/1/26 より https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html
https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH
不胎化されたレポートその4 (再掲)
第4節:日本の<近代化>の歴史的起源にあるのは、ロシアの脅威である。また、ロシアのいわゆる南下政策とその失敗は、ヨーロッパ大陸の情勢にも大きな影響を与えた。ここでは、日本の<近代化>を考察する上で、ロシアと日本の連関を念頭に置きながら、一旦歴史の流れに目を向ける。ロシアの南下政策の挫折と、その後の東方進出は、日本に対する脅威として現れた。クリミア戦争(1853年-1856年)とそれに続く露土戦争(1877年-1878年)など一連の出来事を教訓として、ロシアは不凍港を求めて東アジアへの進出を志向し、清朝といくつかの条約を結びながら、国境を確定させ、ユーラシア大陸を東へと進んだ。 太平天国の乱(1850年-1864年)で、列強が撤退した後もロシアは軍隊を駐留させたために、列強の警戒心を惹起するとともに、日本との緊張関係が生まれた。さらには、東清鉄道敷設権の権益を巡り、中国東北部の利権を狙う日本との緊張関係が深化した。 1894年に日清戦争が勃発し、日本が勝利すると、日本は朝鮮半島と台湾を獲得した。この結果、ロシアと日本は朝鮮半島と中国東北部で直接対峙するようになった。 インドを植民地とするイギリスはロシアの南下政策に脅威を感じ、1902年に日英同盟を締結する。この同盟は、ロシアの東アジア進出を牽制する狙いがあった。 1904年、日露戦争が勃発し、日本が勝利すると、ロシアは一時的に東アジアでのプレゼンスを低下させた。しかし、ロシアが革命によりソビエトを結成すると、日本は機会主義的な対ソビエト干渉を続け、中国東北部への進出を深めた。 1920年、尼港事件が発生し、日本とソビエト軍が衝突した。また、1925年には、大陸への野心からシベリア出兵を実施し、中国東北部への進出を図った。大正期における日本の大陸進出の動きは、ソ連の革命政権に対する機会主義的な野心の現れであったと言えよう。 一方、ヨーロッパ大陸では、ロシアの野心とドイツの野望との衝突で、バルカン半島での汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立が深刻化し、三国協商と三国同盟の対立が先鋭化し、第一次世界大戦に発展した。1918年に戦争が終結すると、戦勝国はオスマン帝国を分割し、その領土を占領した。この結果、中東情勢は混乱し、現在に至る複雑な状況の遠因となった。 三国協商側に立って第一次世界大戦に参戦した日本は、中国大陸での利権を更に拡張させることを試みたが、欧米列強の警戒心を引き起こした。 1920年代には、日本と欧米列強との国際協調関係が成立したが、日本での金融恐慌の頻発や世界的な金融恐慌が引き金となり、日本が満州国を巡って国連を脱退するなど、アジア大陸への野心を顕にすると、国際協調体制は崩壊した。 スターリン指導による一党独裁体制が確立したソ連はアジア大陸で日本との緊張関係を加速させた。 以上のように、ロシアと日本は、南下政策と東方進出を巡って、19世紀末から20世紀前半にかけて、激しい対立を繰り広げた。この対立は、両国の軍事力増強や軍拡競争を招き、最終的には第二次世界大戦へとつながる大きな要因となった。
近世ロシア史がご専門の、明治大学豊川先生からお返事をいただきました。
放送大学で勉強を続けておられるとのこと、とても立派だと思います。そして、今回、レポートをお送りいただきありがとうございました。
ご自身の考えをまとめて、こういう形にするのはとても良いことだと思います。これからは、さまざまな人の考えに接して、さらに考えを伸ばしてみてはいかがでしょうか。少し専門的な次のような本を読んでみるのをお勧めします。
・麻田雅文『日露近代史』講談社現代新書、2018年
・原暉之『シベリア出兵』筑摩書房、1989年
・和田春樹『日露戦争』(上・下)岩波書店、2009・2010年
いずれもその道の専門家で、読み応えのある本です。
どうぞこれからの勉強、頑張ってください。
豊川
不胎化されたレポートその3 (再掲)
第3節:芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、をキリスト教哲学とカントの対比から考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。アリストテレス的善の考え方は後にまた取り上げる。
不胎化されたレポートその2 (再掲)
第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。
政治学へのいざない (再掲)
問われるべき問題は いかにしたら、 このようにして発達した、 所有権のような 個人の権利の意識が、 社会全体への奉仕と 一体になることで、 より 理性的で 自由な意識へと 陶冶されるかだ、 とヘーゲルは考えた。 そして、 権利と義務が衝突せず、 私的な利益と 公的な利益が 一致するような 人間共同体が形成されるならば、 その共同体のメンバーの幸福を みずからの幸福と感じ、 法や制度に従うことは 自己の欲望の否定ではなく、 自己の 理性的な本性の肯定であると 考えるような市民が 生まれると主張したのである。 国家こそ、 このような倫理的共同体における 最高次のものだと ヘーゲルは考えた。 (放送大学「政治学へのいざない」211頁より)
教養のヘーゲル (再掲)
ヘーゲルが、国家と
(市民)社会とを
区別して捉えたことが、
国家論の歴史において
画期的な意味を持つことである
ということは
すでに指摘した通りである。
その
国家と社会の分離の理由として、
ヘーゲルは、
市民社会には、
国家のはたすような
真の普遍を支える
能力がないから
ということをあげる。
そこで、
市民社会の
私的利害に対応する
だけのものである
「契約」
という概念によって、
国家の成立原理を説明する
「社会契約説」
に
厳しい批判を
浴びせることともなった。
しかし、
それだけではないはずである。
というのも、
国家と市民社会の
分離の把握
ということは、
市民社会が、
相対的にではあっても
国家から独立した
存在であることの
指摘でも
あるはずだからである。
近代国家においては、
プラトンが掲げた
理想国家におけるのとは異なって、
国家が
個人の職業選択に
干渉したりはしないし、
その他の
個人の私生活に
干渉したりはしない。
同様に、
国家が
市場原理を
廃絶あるいは抑圧するような
こともない。
そのように、
市民社会が
自分独自の原則に
したがって存在し、
機能していることが
尊重されている
ということが、
近代における
個人の解放という
観点から見て、
重要なことである
はずなのである。
それは、
ヘーゲル流の表現にしたがうならば、
一方では、
近代国家なり、近代社会なりが
「客観的必然性」
によって
構成された
体制であったとしても、
他方では、
個人の
恣意や偶然を
媒介として
成り立つにいたった
体制だからだ
ということになる。
(p.103)
(中略)
近代国家の原理は、
主観性の原理が
みずからを
人格的特殊性の自立的極に
まで
完成することを
許すと同時に、
この
主観性の原理を
実体的統一につれ戻し、
こうして
主観性の原理
そのもののうちに
この統一を
保持するという
驚嘆すべき
強さと深さを
もつのである。
【260節】
(中略)
国家が、
有機体として
高度に
分節化されるとともに、
組織化されているが
ゆえに、
個人の選択意志による
決定と行為が
保障される。
個人は、
基本的には
自分勝手に
自分の人生の方向を決め、
自分の
利害関心にしたがって
活動することが許されている。
にもかかわらず、
このシステムのなかで
「実体的統一」
へと連れ戻される。
それは
強制によるものとは
異なったものであり、
あくまで
個人は
自己決定の自由を認められて、
恣意にしたがっている
にもかかわらず、
知らず知らずのうちに
組織の原理に
したがってしまう
という
形を取るのである。
また、
個人の
自律的活動あればこそ、
社会組織の方も
活性化され、
システムとして
満足に機能しうる。
こうして、
有機的組織化と
個人の自由意志とは
相反するものであるどころか、
相互に
補い合うものとされている。
それが、
近代国家というものだと
いうのである。
(p.104)
「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社
神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って 山岡龍一先生からのご回答 (再掲)
一つの簡単な答えは、 ヘーゲル的な意味での 統治は 不可能だ ということです。 その代替案は 複数ありえますし、 フーコーは その一つでしょう (ただし、「知と権力」の 共犯関係が いかなる統治を 具体化するのかは、 わたしには 理解しがたい 難しさが あるように思えます)。 最も わかりやすい代替案が 新自由主義の統治だといえます。 もしも これを拒絶するとすれば、 問題は、 何らかの形での ヘーゲル的な統治への回帰か、 神無き時代の連帯の 可能性の追求となります。 現代の リベラルな政治理論は だいたい 後者のさまざまな バリエーションですが、 密かに 神が導入されている 可能性があるのものが多いので、 フーコーのような議論が 流行るのだと思われます。 鴎外については、 わたしにはコメントする能力はありません。 ただ、 そのような苦悩があるとすれば、 それは鴎外が いかにヨーロッパ(ドイツ)文明に 拘束されていたのかを 示す ことになるでしょう。 ただし、 そのような苦悩を まったく抱かない (ないしは、 そのような苦悩の可能性に思い至らない) 日本人よりは、 はるかにましな 精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、 ある意味では、 神無しで ヘーゲル的な全体性を 国家は維持できるのか、 という問いを いち早く 突きつけられていた ともいえます。 この問いへの回答の一つは、 現在でも、 「新たな神の創造」ですが、 そのような回答が、 必然的に 政治的に 悲惨なものになることは、 我々が 歴史から学んだことだといえます。 キリスト教文化圏では、 たとえ 神が死んだ時代でも、 この危険性が よく知られていますが、 はたして日本ではどうでしょうか。 考えてみてください。
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
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