2025年3月25日火曜日

卒論・・・だるいわ。

誤解を招く 表現で すみません。 放送大学の学部は、 卒論書かなくても 卒業できます。 で、 卒論書いてみようか、と 思ったんですが、 だるいわ。 最低でも 2年掛かるんだけど、 2年も拘束されたくない。 さっさと 適任の先生を 選んでもらって、 口頭試問と 卒論、で よくね? どこをどう 突っ込まれるのか だいたい 想像がつくのに、今さら メタル責めされんのもさー、 めんどくせえんだよ。 それこそ 2年も拘束されたくない。 あー、俺ぜってー 会社員とか無理だわ。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

「違法」とは何か? メモ書き (再掲)

質問:ふと疑問に思ったのですが、刑法は全く勉強したことがないのですが、刑法上違法な行為、というのは想像がつくのですが、民法、あるいは行政法において、「違法」とはどういうことでしょうか?  K先生からのご回答:民法上の「違法」はいわゆる「不法行為」を含みます。民法709条以下です。明文に違反してなくても、他人の権利を侵害するような行為は「違法」認定されます。 行政法は・・・ 国家賠償法上の「違法」は、先の民法上の「違法」に準じた考え方で「違法」の有無が判断されることもありすが、行政争訟上の違法はこれとはまた違ってきます。刑法上の「違法」と似たところはありますけど、完全に同じではないかなぁ~  質問:例えば、道路交通法は行政法に属するかと思いますが、道路交通法に違反することは、「違法行為」でしょうか?それとも、道路交通法は刑法上の概念ともダブるのでしょうか?  K先生よりご回答:道路交通法は違反した場合、罰則を課すことが多いので、そうした場合は刑法上の違法ということになります。 行政法上の違法というのは私人からみて行政がわが公権力行使の違法を問うという文脈で「違法」が問題になります。 刑法上の「違法」は既存の刑事法令への違反のみが問題になるのに対して(ほうりに違反しなければ何をしてもかまわない)、行政の側は既存の法令に違反する場合だけでなく、法令の根拠なしに行った行政作用が「違法」なることがあります。(法律の留保)  質問:刑法というのは、 主に私人に対する制裁という ことになろうかと思いますが、 (控除説に立てば) 刑法を適用する主体も また 行政権に属するものであり、 三権分立の精神に鑑みれば、 まず思い浮かぶのは、 司法権が 行政権の濫用に 歯止めをかけることであり、 また、 立法権という観点から見れば、 国権の最高機関たる 国会において、 国民からの 信託に基づいて 代理人たる国会議員が立法行為を行う、 ということに なろうかと思いますが、 現実問題、 行政法規を 国会で議論しているとも思えず、 手っ取り早くいえば、 行政権の肥大化と、 その暴走が懸念される ところではないか、 と考えます。 そうであれば、 私人が 行政権の権限踰越に対して 抑止力を持つためには、 やはり選挙を通じて 自らの権利を保障してもらう、 という 堂々巡りになって しまいそうな気がします。  K先生からのご回答:刑事訴訟法という法律は「訴訟」という名前になっていますが、文字通りの「訴訟」のみならず、警察の犯罪捜査から、逮捕、送検、公訴提起、裁判手続き、判決、刑の執行まですべてを網羅しています。 そして、俗にいう警察(官)は「司法警察職員」とされ、一般の行政職員とは区別されています。警察職員の行動は警察官職務執行法によって規律され、家宅捜索や逮捕も裁判所が発する令状によらなければできないことになっています。 なので、「行政権」とはいっても、一般の行政とは相当に違っています。もっとも、司法によるチェックがどれだけ機能しているか、はまた別問題ですが・・・

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)

問い:幸福とは何か。 ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。 したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。 たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。 ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、 この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、 その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。 ☆人生を「まじめに」考えること  1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。 しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。 われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。 構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。  2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。 たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。 実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。 したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、 ほんとうの気持ち・実感から発想したことが 同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。  3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、 それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。 われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。 お金儲けや名声・地位等のためのことは、 お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、 「次の問い」を予想する。 ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ 成就しない、という結論を導くことができる。  4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。 ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。 かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。 これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。  5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで 行いうるものとは考えられていない。 実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。

政治学入門@三島レポートその2 (再掲)

第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。

若人へ

なぜ勉強するのか? そんなことに 悩むのも、まっとうなことだ。 大人は 立派な学歴は 色々と オイシイということを 知っている。 しかし君たちはそうではない。 悩めばいい。 いくらでも。

権力と知 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 (再掲)

前二千年紀の終わりから 前千年紀の初めの 東地中海のヨーロッパ社会では、 政治権力は いつもある種のタイプの 知の保持者でした。 権力を保持するという 事実によって、 王と王を取り巻く者たちは、 他の社会グループに伝えられない、 あるいは伝えてはならない 知を所有していました。 知と権力とは 正確に対応する、 連関し、重なり合うものだったのです。 権力のない知は ありえませんでした。 そして ある種の特殊な知の所有なしの 政治権力というのも ありえなかったのです。(62ページ) ギリシア社会の起源に、 前五世紀のギリシアの時代の起源に、 つまりは われわれの文明の起源に 到来したのは、 権力であると同時に知でも あったような 政治権力の 大いなる一体性の分解でした。 アッシリアの大帝国に存在した 魔術的―宗教的権力の この一体性を、 東方の文明に浸っていた ギリシアの僭主たちは、 自分たちのために復興しようとし、 またそれを 前六世紀から前五世紀の ソフィストたちが、 金銭で払われる授業という形で 好きなように用いていました。 われわれが立ち会っているのは、 古代ギリシアで 前五、六世紀にわたって 進行した この長い崩壊過程なのです。 そして、 古典期ギリシアが出現するとき ―ソフォクレス (注:「オイディプス王」の作者) はその最初の時代、 孵化の時点を代表しています―、 この社会が 出現するために 消滅しなければならなかったのが、 権力と知の一体性なのです。 このときから、 権力者は無知の人となります。 結局、オイディプスに起こったのは、 知りすぎていて何も知らないということです。 このときから、 オイディプスは 盲目で何も知らない権力者、 そして力余るために 知らない権力者となるのです。(62ページ) 西洋は以後、 真理は政治権力には属さず、 政治権力は盲目で、 真の知とは、神々と接触するときや、 物事を想起するとき、 偉大な永遠の太陽を見つめるとき、 あるいは 起こったことに対して 目を見開くときに、 はじめてひとが 所有するものだという 神話に支配されるようになります。 プラトンとともに 西洋の大いなる神話が始まります。 知と権力とは相容れないという神話です。 知があれば、 それは権力を諦めねばならない、と。 知と学識が 純粋な真理としてあるところには、 政治権力は もはやあってはならないのです。 この大いなる神話は清算されました。 ニーチェが、先に引いた多くのテクストで、 あらゆる知の背後、 あらゆる認識の背後で 問題になっているのは 権力闘争なのだ、 ということをを示しながら、 打ち壊し始めたのは この神話なのです。 政治権力は 知を欠いているのではなく、 権力は 知とともに織り上げられているのです。(63ページ)

2025年3月24日月曜日

もう沢山だ

人生から降りたくなってくる。

家族?なにそれ? (再掲)

慶応SFCは、 別に 入りたくて入った わけじゃない。 2回も 落ちてるし、 どうせ小論文 書けないから、 そもそも 3回も 受けたくなかった。 ほんとは 中大法学部に行きたかった。 しかし、 母親に 「お父さんが 慶応SFC 気に入ってるから」 と いうだけの理由で、 受けさせられた。 風呂桶を破壊したり、 挙句の果てには 受験票を破って棄てた。 それでも、当日 再発行してまで 受けさせられて、 受かってしまった。 受かってしまった以上、 慶応信者の父親に 逆らえるわけもなく、 入らざるを得なかった。 その 結果が、これ。 三田の慶応で合格発表を 確認した後、 SFCまで行って、 入口から続く 坂道を歩いていて、 「ここは嫌だ。」 と つぶやいたら、 母親は 視線を下にそむけて、 両目をキョロキョロさせていた。 それは紛れもなく 「そんなこと言ったら また ワタシがお父さんに 怒られちゃう。」 と 能弁に語っていた。 ちなみに、 かなり後になってから、 中大に行きたかったと 父親に なぜ 言わなかったんだ?と 姉に 詰られた。 これが 小林家。 確かに病気にはなったが、 そりゃ 病気にもなるだろ。 むしろ、 薬物に手を出さず、 もちろん 半グレにもならず、 よく やってると思うんだが? https://www.youtube.com/watch?v=VD4PYP7WUCA

教科書が届いた。

遅れていた 「社会経済の基礎」の 印刷教材が 届きました。 導入科目なのに、異常に レベル高え。 さすがは 松原隆一郎先生。 ちょっともう 俺なんかとは 頭の良さの 次元が 2つ3つ違うね。 これが 灘⇛東大か、という感じ。 ちょっとめくって見たけど、 こっちの 常識をちょいちょい 覆してくれるのが 心地いい。 (適度ならね。) 例えば、 日本の財政赤字の原因は 政府ではなく、 投資よりも貯蓄を 重視する 企業の責任だ、とか。 まあ、日経新聞にも 同じようなこと 書いてあったけどね。 これ、いちおう 経済学の初心者向けの 授業なんだけど、だいぶ ハードル高いぞ。 上述の話も、 ISバランス・アプローチが 理解できてないと 理解できないし。 放送大学レベル高すぎだろ。 まあ自分としては わかりきったことばかり 言われるより、 こっちが 自明としてることを 適度に 覆してもらったほうが 面白いに 決まってるんだけどさ。 だから、経済学は 面白い。 とにかく、松原隆一郎先生は レベチ。 1学期で単位取得しちゃったら もったいないから、 最低でも 2学期かけて ゆっくり堪能させてもらいます。  

卒論・・・だるいわ。

誤解を招く 表現で すみません。 放送大学の学部は、 卒論書かなくても 卒業できます。 で、 卒論書いてみようか、と 思ったんですが、 だるいわ。 最低でも 2年掛かるんだけど、 2年も拘束されたくない。 さっさと 適任の先生を 選んでもらって、 ...