コミュニケーションの論理 ―主観‐客観― (再掲)
時として言われる。
主観を排除すること、客観的であること、は、良いことだ、と。
しかし、結論を先取りすれば、極端に主観的でもいけないし、極端に客観的でも、コミュニケーションは成り立たないのではないか。
まず、コミュニケーションをするには、自分のなかの「主観」が存在するのであり、それをある程度は「客観」に置き換えてから、相手に渡すのであるが、逆に言えば、客観が先に存在するのではなく、まず「主観」が先にあり、それを、ある程度は「客観的」に整理整頓してから、相手に渡すのである。
極端に客観的に洗練された「主観」は、その情報の受け手にとって、どういう「刺激」として受け取られるのであろうか。
確かに、意図は通じるだろう。
しかし、それで情報を発信する側の「主観」は、相手に通じるのか、甚だ疑わしい。
しかし、「主観」は、それ自体として存在するものであるか?
「主観」の存在しない意識というものが、いったいあるのだろうか?
デカルトが主張したことによれば、あまりにも有名な「我思う故に我あり」である。
つまり、主観が存在するとは、自分自身の存在を証明することである。
で、あるならば、主観が存在しない「ワレ」というものは、およそ意識を具有し得ないのではないか?
もちろん、ある誰かが遺した言葉が、その当該の人物が亡くなった後でも、あたかもその人が生きているかのごとく、その人の「意図」を、後世の人に伝える、ということはある。
それはそれで、また哲学的な難題であるから、とりあえずここでは問題にしない。
話を戻すと、さきに「客観」があるのではなく、デカルトの主張によれば「主観」がまず先にあるのである。
かなりややこしい話になってきたが、極めて簡単に言えば、主観をあまりに客観的に伝えようとすると、かえって相手に伝わらないのではないか、ということだ。
一番わかりやすい例が、恋愛感情である。
ラブレターをもらって、もしその手紙が、コンピューター言語で書かれていて、(仮に理解できたとして)こころを動かされる人がいるだろうか?
ちょっと想像しにくい。
なかにはそういう人もいるかも知れないが。
ちょっと話を変えよう。
自分が日向台病院にいたときに、自分の思いを、精神科医に伝えようと、どれだけ頑張っても、通じなかった。
それは、相手(精神科医)が、こちら(患者)の「主観」を、単に論理が破綻したノイズだ、と断定しているために、客観的に処理しようがないものだ、と決めつけているからである。
つまり、コイツが言っていることは、単なるバグだから、まともに相手にしようがないものだ、と考えているのだ。
だから、いくら「主観」を訴えても、通じようがない。
彼らが信用するのは、たんに患者の生理的な反応のみである。
しかし、それはあまりにも人を馬鹿にした態度ではないだろうか?
相手の「主観」の存在は肯定しつつも、それは解読不可能だから、無視する、というのであれば、どうやって意思疎通が出来るというのだろう?
しかし、また話を転じるが、あまりに主観と主観でやり取りすれば、それは集団的陶酔、あるいはアドルノが極めて敵視した「世界との完全なる合一」である。
夏目漱石の「それから」において、代助が百合の香りにむせび、自我を放擲しようとした場面を想起して欲しい。
肉体を具有する人間は、結局のところ完全に「自我」を放擲することは出来ないのである。
かなり粗っぽく論理展開をしてきたが、つまるところ、完全なる「客観」も、完全なる「主観」も、どちらも危険であり、それは同程度に「コミュニケーション不全」を引き起こすのである。
と、いちおう結論づけておく。
では、結局「コミュニケーションが成り立つ」、もっと簡単にいえば「話が通じる」ということの秘訣は、主観的と客観的との、完全なる区別ではなく、そのグラデーションを上手く調整することなのだろう。
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