市井の漱石論 参照:面接授業「夏目漱石―<近代>への問い」@掛川

 夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、下女の「清」を、拠り所とするのである。

親から可愛がられなかった「俺」は、無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。それは一見、無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。

そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。このことから、漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。

「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、そこでは、情よりも「理」が力を発揮する。

弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。

しかし、「清」から用立ててもらった「金銭」は、交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、単純に数量化できない性質のものなのである。

「清」ひいては「清」と(現実的にはあり得もしない)「一心同体」となって憩うことのできる空間を「墓」ーー地底に埋めた漱石は、このような空間が決定的に喪われた、つまり現実には回復不能な時空として想定しているように思える。

漱石の小説の登場人物たちは、この後、『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 

代助もまた、 嫁ぐ前の三千代の写真と草花だけを相手に生きる「自家特有」の水底の世界から、半ば夫に捨てられ子も失った不幸な人妻としての三千代と相対するべく、まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。

夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。もちろんフィクションではあるが。 

代助は、漱石が「自然(じねん)」と名付ける、自家特有の世界に隠棲している。そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、百合の花が活けてあった花瓶の水を、暑いと言って飲み干してしまう。 

代助は、百合の花の強烈な香りの中に、三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、そこに「自然」を見出し、主客合一の境地を得ようとするが、それは理性の放擲を意味するため、肉体を具有する代助は、再び我に返る。 

代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、「青の世界」と「赤の世界」として対比される。

一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、「赤の世界」の象徴として(再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。

それはまた、ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。

経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、<近代化>という客観的な条件はむしろいっさいを平準化し数量としてひとしなみに扱う、そんなおぞましい破局を目指すだけだった。

もともとは人間が作り上げた文化・文明が、やがて作り手から自立し、逆に人間を拘束し、圧迫してくる。

『それから』の百合が象徴するのは、確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。

主客分離が主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を批判するが、しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 

傷だらけになりながらも理性を手放さない、漱石の「個人主義」の一端を表している。

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