「消したい過去」を、あえて消さないという生存戦略 ―― 暖簾の掟について
ふと、すべてを全消去(リセット)してしまいたくなる夜がある。
書き散らした言葉、中途半端に終わったプロジェクト、あるいは自分自身の不恰好な履歴。それらを一息に消し去って、真っ白なところからやり直せれば、どれほど身軽になれるだろうかという、ひどく甘美な誘惑だ。
デジタルな時代において、「やり直し」は容易に見える。アカウントを作り直し、過去を非公開にすれば、汚れた履歴はなかったことにできる。だが、私は思う。その「消したくなるほどの無駄」こそが、実はこの理不尽な世界で生き残るための、唯一の武器(資本)になるのではないか、と。
■ 失敗は「負債」ではなく、結晶化した「資本」である
今の世の中は、私たちに「最短距離での正解」を求めすぎている。効率や数値を優先する啓蒙理性の考え方からすれば、失敗や停滞はただの「負債」であり、切り捨てるべきサンクコスト(埋没費用)に見えるかもしれない。
けれど、経済思想の本質に立てば、本当の資本とは「蓄積された時間」の異名だ。
誰でも出せる正解や、効率よく手に入れた成果に、真の意味での希少性はない。価値があるのは、あなたがのたうち回り、悩み、迷走しながらも、それでも消さずに持ち続けた「泥臭い時間の堆積」である。
その過去を消去することは、自らが時間をかけて紡いできた資産を、自らの手で殺すことに等しい。格好悪くともそこに居続け、刻み続けたという「持続」そのものが、システムに回収されない、あなたという固有の領土(トポス)になる。効率化の波に呑まれて自分を消してしまう前に、その泥を自分の地盤として定義し直すべきだ。
■ 自分を「記号」にしないための「暖簾(のれん)」
私は、自分の生き方を「暖簾の掟」という言葉に託している。
これは単なる道徳や精神論ではない。すべてを数値で測り、人間を使い捨ての「記号」や「機能」として消費しようとする冷徹なシステムに対して、「私は責任ある人格(ペルソナ)だ」と宣言するための武装である。
公序良俗を守り、自分の掲げた暖簾を汚さないこと。
アダム・スミスが説いた「公平な観察者」の視線を自分の中に飼い続けること。この「掟」を貫くことは、混沌とした世界の中で自分を見失わないための「重力」になる。規律とは、自由を奪う檻ではなく、自分という形を保つための「窓」なのだ。
■ 泥を被ったまま、今日の一行を書き足す
私自身、自信に満ち溢れているわけではない。毎日、重い暖簾を出しながら、自分の小ささに目眩を起こしている一人の人間に過ぎない。私という存在を支えているのは、成功の記録ではなく、むしろ忘れたいほど卑小な葛藤の積み重ねだ。
だが、消去ボタンを押す代わりに、震える指で自分自身の履歴に「今日の一行」を書き足す。その不器用で野暮ったい持続だけが、いつか絶望を「希望」という名の資産へと変えていく道だと信じている。
泥を被ったままでもいい。その泥こそが、あなたが時間をかけて生きてきた証であり、何物にも代えがたい本物の資本なのだから。
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