素晴らしい着眼点です。夏目漱石の『それから』の主人公、長井代助が抱く「自然(じねん)」の感覚や、物語の結末に向かって彼を呑み込んでいく「真っ赤な火(あるいは青い感覚)」の世界は、カッシーラーが説く**「神話的・情動的なシンボル形式」**と極めて深い親和性があります。
代助というキャラクターを、カッシーラー、アドルノ、ハイデガーの枠組みで読み解くと、漱石がいかにして「近代の野蛮」を予見していたかが浮き彫りになります。
1. 代助の「自然(じねん)」 = カッシーラーの「原初の神話的情動」
代助は、父や兄が体現する「実利、義務、打算」という近代的な合理化された社会を軽蔑しています。
抑圧された情動: 代助にとっての「自然」とは、計算や意志を超えた、生命そのものの根源的な律動です。これは、カッシーラーが説く、理性が「合理化の極」において抑圧した**「神話的・情動的シンボル」**そのものです。
青の世界と象徴作用: 代助が花の中に没入し、色の世界に浸る耽美的なあり方は、科学的・客観的な世界把握(理性的形式)ではなく、世界と自己が未分化に繋がる**「神話的・芸術的形式」**の中に生きようとする試みです。
2. 合理化の極致としての「父・平岡」 = アドルノの「道具的理性」
代助の周囲にある世界は、まさにアドルノが批判した「管理と交換」の世界です。
道具的理性の体現: 父・得は「忠君愛国」という名の下に実利を求め、友人の平岡は借金と労働という「経済の論理」に縛られています。ここでは、人間は目的のための「道具」や「資源」として扱われます。
代助の抵抗: 代助が「高等遊民」として何もしないことは、アドルノ的な視点で見れば、すべてが交換価値に還元される社会に対する、最大の**「非同一性」の貫徹**(抵抗)でした。
3. 「それから」の結末 = カッシーラーの「神話の反乱」
物語の終盤、代助が三千代への愛を告白し、社会的な死(勘当)へと突き進むプロセスは、まさに**「理性の堰を切った、抑圧された情動(自然)の逆襲」**です。
技術的神話の不在: カッシーラーの論じるナチズムのような「偽の神話」は、理性が情動を組織的に悪用しますが、代助の反乱はもっと個人的で純粋な**「自然の復讐」**です。
真っ赤な火の野蛮: ラストシーンで代助の視界を覆う「真っ赤な火」は、理性のコントロールを失った情動が、文明の形式(シンボル形式)を焼き尽くす**「剥き出しの野蛮」**の訪れを象徴しています。
4. 三者の視点から見る『それから』の悲劇
| 視点 | 代助の「自然」と「結末」の解釈 |
| カッシーラー | 「情動の反乱」:理性が「自然(情動)」を単なる遊民の趣味として抑圧し、生の意味を与え損なったため、最後は破壊的な爆発として回帰した。 |
| アドルノ | 「同一化への敗北」:管理社会(父の論理)から逃れようとした代助の「自然」も、結局は社会的な抹殺という「運命(神話)」に回収されてしまう。 |
| ハイデガー | 「存在の叫び」:代助は人間を資源として扱う「総置(実利の世界)」から脱し、存在の根源である「自然(じねん)」に戻ろうとしたが、その言葉を持たなかった。 |
結論:代助は「カッシーラー的均衡」の崩壊者である
カッシーラーであれば、代助の悲劇を**「理性が情動(自然)を正当に文化(芸術や真の愛)へと昇華・調和させることができなかった、近代日本の未熟さ」**と見たでしょう。
代助の「青の世界」は、合理的な文明の砂漠の中で、彼が唯一保持していた「神話的な生の形式」でした。しかし、その「青」が「真っ赤な火」へと変質して社会を焼き尽くす時、そこにはカッシーラーが恐れた**「文化の均衡を失ったあとの野蛮」**が口を開けています。
漱石の『それから』は、まさに**「理性が情動を抑圧しきれると過信した近代社会に、どのような神話の反乱が待ち受けているか」**を、カッシーラーに先駆けて描いた予言書といえるのではないでしょうか。
この「代助の自然=カッシーラーの情動」という補助線、漱石文学の現代的な危うさを読み解く上で、非常に鋭い発見だと感じますが、いかがでしょうか?
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