私が漱石の小説のなかで、一番読みやすいというか、想像力を掻き立てられるのが、「彼岸過迄」なのですが、あれは、近代資本主義的「都市」の誕生を裏付けるものだと思うのです。
内田隆三先生が「生きられる社会」(新書館)で述べていますが、
「社会という『過剰』な存在を生みだすために、個々の人間は、いつも自己の生存のリスクの最小化を優先するような、どこかで『矮小』に流れる思想を分析しなければならない。たしかに、われわれはこうした過剰と同時に、矮小を生きていることを感じることがある。(13頁)だが、この過剰と矮小とは社会的なものではなく、むしろ社会を偽装する何らかの『共同体』の規制であるとすればどうなのだろうか。(13頁)だが、現代のように巨大な集合態としての社会では、このような共同体のモデルによって社会の構成を考えると、現実にたいしてきわめて抽象的なイメージしか与えられないだろう。(13頁)実際、現代の巨大な社会は共同体のような閉域として思考されうるものではない。それは閉じているように見えても奇妙な無限をはらんでいる。(13頁)貨幣への欲望に媒介される社会性の場は、現代の巨大な都市のなかに立ち現れ、そこに生きる人間の関係を通過していく。(14頁)G・K・チェスタトンによれば、探偵小説はそのような大都市のありようや文化感性ないし詩情を描いてきたのである。(14頁)探偵小説が英米で受け入れられたとき、それはデモクラシーの象徴であるようにいわれたりした。(14頁)だが、実をいうと、もっと別の意味でも探偵小説は民主的なのである。(14頁)だが実際には、大都市がそのような共同体に回収しきれないほど巨大な集合態になったことが探偵小説の成立平面になっているとすればどうなのか。考えねばならないのは共同体化のベクトルではなく、大都市化のベクトルであり、大都市のディスクールとしての探偵小説である。(15頁)探偵小説はふつう大団円における解決に到達する。それが探偵小説の成功であり、あるべき終幕である。それは不安な見えない都市に民主的な監視の共同体という外観が与えられるときであり、同一性にかんする安心感が読者の心に広がるときである。だが現実は小説からずれている。実際には、そのような外観はイデオロギーでしかない。(18頁)探偵小説はむしろその挫折ーそれは読者の望まぬこととしてもであるーにおいてこそ、都市としての社会が内包する奇妙な『無限』を表象しうるのである。(18頁)しかしながら、この『無限』が意味するものは何なのか。都市としての社会には、人間に『同一性』を与えるかと思うと、その手前でどこかへ取り去っていく巨大な回路が存在している。(18頁)資本主義の社会ではこの動機はだれもが共有可能な動機であり、どんな人間もその動機の外部に立つことが困難だからである。(19頁)貨幣を求める人間Zは、ある場所にとどまって自分の『同一性』の到来をぼんやりと待ち続けることはできず、つねに一歩先んじてそこからうまく脱出しなければならない。(19頁)自分の『同一性』の代わりに、Zが手に入れるのは『貨幣』であり、それは彼(彼女)が実体ではなく、差異として存在していることの証しである。(19頁)」
(以下、森本先生よりご返信)
どこかで共同体の擬態を巧妙に、 あるいはやむをえず演じ続けて迷宮のごとく複雑化してゆく近代都 市に出現するのが探偵小説。だとするなら、都市の破れ目とは、 犯人を特定できない、挫折した探偵小説のごときもの、 というわけですね。
思えば『彼岸過迄』 そのものが近代都市論のごとき様相とそれを鋭く批評する深さを備 えており、あたかも内田氏の論考と交響し合うかのようです。
貨幣経済の交換と流通の仕組みそのものが、 まさに無限の差違の戯れですが、 同じく行き着くエンディングのない無限の交換の中にある男女の関 係性のどこかに、交換不可能な絶対的で唯一の「愛」 があると神話化してしまったのが、 近代の恋愛結婚イデオロギーである、 という大澤真幸の議論を思い起こしたりしていました。
『彼岸過迄』で田口が敬太郎に仕掛けた意地悪な要請で、 松本ー千代子という、 信頼感に満ちた叔父ー姪関係がエロティシズムさえ内包したミステ リアスな男女関係に見えてしまう光景は、 まさに都市に象徴される近代社会における差異の戯れを鋭く批判的 に描き出していることが、鮮やかに思い返されます。
しかし、さてそれでは、 まさしくアイデンティティをめぐる苦悩を語るべく、 散布された物語の断片群から成るこのテクストを、 いわゆるモザイクのごとく組み合わせて事足れりとする読解に陥る 弊を免れながら、どのように読めば良いのか、と自問してみて、 これこそが最大の悩ましい問題であることを改めて痛感し直さざる を得ないところです。
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