2025年10月24日金曜日

天網恢恢疎にして漏らさず

日本という社会は、たいていどんな人生を送ったとしても、何かしらそれなりの生き方が出来るように設計されている気がする。

放送大学からして、学びのセーフティーネットというか、そもそもどういう意図で作られたのかは知らないが、普通の大学からドロップアウトした人、あるいはお金があまりなくて、普通の大学に進学することが難しかった人、はたまた戦争の混乱で若い頃とても大学なんか行く余裕のなかった人・・・など、めちゃくちゃ色んなバックグラウンドを持った人が、本気で学び、そして頑張ればちゃんと大卒の資格を取れるような仕組みになっている。

そして、もちろんのこと、つい最近急ごしらえで作った安っぽいシロモノでは決してない。

施設も教員も、めちゃくちゃ贅沢だ。

えーと・・・放送大学をメインに論じたいわけではない。

日本という社会は、はみ出しそうになって、初めて、たいていどんな生き方をしても、それなりの生活が出来るように設計されていることに気付くのではないか、ということを書きたいのだ。

もちろん、自分は歩行者信号を無視するなんてことは日常的にやっているが、大きな犯罪を犯したことはない。

(錯乱して警察の世話になったことはあるが。)

だから、刑務所に入るとかそういうレベルの踏み外し方はしたことがない。

従って、そういう人がどういうセーフティーネットに引っ掛かるのか、あるいはそもそもそういう人のためにセーフティーネットが存在するのかどうか、は知らない。

しかしながら、昔ヤンチャ系だった人(例えば暴走族だったとか)のほうが、社会への恩返しなどと言って、かえって社会に貢献している、というまことしやかな話も、あながち嘘ではないと思っている。

(もちろん、反社会的組織の一員になってしまった人もいるだろう。)

しかし、人生をなげずに、マジメに努力していれば、何かしら収まるところに収まるように出来ているのが、この日本という社会なんだと思っている。

つまり、この日本という社会には、どんな生き方をしたとしても、たいてい何かしら「枠」というものがあって、ドロップアウトしかけて初めて、そういう「枠」のありがたみが身に染みる、ということが、往々にしてある、ということだ。

とはいえ、だからといって、自分の人生に自分で責任を持つ気概がなく、ただのんべんだらりとしていれば、この社会は恐ろしく退屈なものに感じられることだろう。

あるいは、悲惨な人生を送る羽目になることもあるだろう。

しかし、そんなことはもともと当たり前で、どうせ社会がなにかしてくれる、社会がどうにかしてくれる、と最初から決めつけて、その通りになるような、そんな社会はありえないし、当然のことだ。

我々は水族館で飼育されているアザラシではない。

終局的には、自分の人生には自分で責任を持たざるを得ない。

ただし、繰り返しになるが、この日本という社会は、よほど酷いドロップアウトの仕方をしなければ、どうにかなるような社会だと、自分は思っている。

それは、結局は有権者の声を、政治なり行政なりが掬い取って、現実の政治に落とし込んでくれているからだ、と思う。

何かあると自民党は何もしなかったとか、行政性悪説が噴出するが、そういうことを安易にプロテストしてしまう人は、そういうことを言ったところで結局はこの日本という社会が、そういう人たちに対して予めそれなりの生活を保障してくれていること自体を、自覚すらしていないのではないか、と思う。

そういう、大して考えもせず自分の不遇を政治や行政のせいにして鬱憤を晴らしている人は、単純に、他の人よりも自分が「いい暮らし」をしていないこと、出来ないことが不満なのだろう、と思う。

だから、いつの時代も、不満な人はいるし、そういう人は、えてして安易に不満を社会のせいにする。

だが、そういう人は、おそらく本気で社会からドロップアウトするようなことは考えもしないし、当然社会からドロップアウトするなんてことを、本気で実行など一切しない人たちなのではないか、と思う。

「思う、思う」ばかりで恐縮だが、メディアで報じられるような、そういう「いかにも」な人たちが、どんなバックグラウンドを持って生きているか、などいちいち知らないので、そういう書き方をせざる得ない。

しかし、財務省の周りに集まって、「財務省解体!」と叫んだからと言って、もしかしたら公安から写真ぐらいは撮られているかも知れないが、基本的に平穏無事に暮らせる社会が、どれだけ「自由で安全な」社会か、そういう人たちこそが証明している、そうは思わないだろうか?

もちろん、そんな「ゆりかごから墓場まで」みたいな社会が、本質的に永続不可能なものであることは、自明だ。

あるいは、そんなこと言ったって、自分の生活の現実の惨状を、どうしてくれるんだ!という声もあるだろう。

しかし、人が生きる、ということは、そもそもそんなに生易しいものではない、というのがおそらく真実なのではないか。

大人しく社会の「枠」からはみ出さずに生きてきた人が、いつの間にかその「枠」をぶっ壊したくなる、あるいはそういう社会そのものを恨む、ということも、もちろんあるだろう。

しかし、どんな生き方をしても誰もが不遇な人生を送らずに、キラキラした人生を送れる社会を自明視するなど、本来的に傲慢な考えだろう。

不遇な人生を送っていた人にも、何かしら幸運が訪れることもあるだろうし、その逆もあるだろう。

結論めいたことを言えば、人生から「運」というものは、排除し切れないのだ。

そして、基本的には、自分の人生の主人公は、自分自身なのだ。

なぜならば、日本という国は、実質的に今のところ民主主義の国だからだ。

しかし、それは、裏を返せば、あまりに多くの人が、自分たちの社会に対して無責任になれば、しっぺ返しは自分自身に跳ね返ってくる、ということを意味している。

(参照:「不道徳的倫理学講義」ちくま新書 古田徹也)

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