2025年5月29日木曜日

欲望MAX

アリストテレスの倫理学@茨城大学 で、 渡辺邦夫先生に ご教示いただいたが、 人間は、欲望が 少なすぎてもいけないが、 多すぎてもやはりよくない。 大事なのは、 アリストテレスによれば、 自分の欲望の「中心」を 知っていることだ、と おっしゃっていました。 つまり、人間の欲望を「円」に 喩えて、その「中心」を 知っていれば、「中心」の距離から、 自分の欲望が どれくらいまで 充たされているか、知ることが出来る、と。 我が身を振り返って 考えれば、 今が 欲望の最大値なんだろう。 これ以上を望んではいけない。 そんな気がする。 今 以上の欲望を 追い求めれば、今 自分が置かれている境遇の ありがたさ さえ 感じられずに、限りなく 欲望を追及してしまう 気がする。 だからこそ、自分の 欲望の限界を知っていることは、 大事だと 思う。

大機小機

日経新聞のコラムで、 石破政権を 褒めてるわ。 7月の参院選の 公約に、 消費減税を盛り込まなかった、と。 このコラムで、 国・地域を問わず、 誰かを褒めるなんて、 基本ないのに、 自国(日本)の 政治家を褒めるなんて、 初めて見たわ。

2025年5月28日水曜日

おお、ビックリした。

平沼翔太、 2番レフト スタメンか。 どんなバッティングを 見せてくれるのか、 楽しみだな。 とりあえず 打撃フォームの動画 だけでも 見たい。 テレビさいたま でやってたから、 見たけど、 集中してるときの 平沼の威圧感は、なかなかの 風格があっていい。 構えとしては もう 完成に近い感じだね。 あとは、数字がついてくれば。 重心がしっかり 下半身に乗って、バットがスムーズに 出てるね。 こういう基本に忠実な バッティングを出来る選手って、ほんとに 最近見なくなった。 重心がしっかり下半身に乗ってるから、 目線がブレてない。  https://www.youtube.com/watch?v=rwp2dJIJbzE

キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

2025年5月27日火曜日

ドストエフスキー (再掲)

信仰箇条と言うのは、 非常に簡単なものなのです。 つまり、次の様に 信ずる事なのです、 キリストよりも 美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。 実際、僕は 妬ましい程の愛情で 独語するのです、 そんなものが他に ある筈がないのだ、と。 そればかりではない、たとえ 誰かが キリストは 真理の埒外にいるという事を 僕に 証明したとしても、又、事実、 真理は キリストの裡にはないとしても、 僕は 真理とともにあるより、 寧ろ キリストと一緒に いたいのです。  (ドストエフスキー フォンヴィジン夫人宛て書簡)  https://www.youtube.com/watch?v=ZiIc0HuJ78Q

「不道徳的倫理学講義」 古田徹也 ちくま新書

うん。 また人生 面白くなってきた。 選択肢を考え尽くした、と 思っても、 思いも寄らない 手段を 教えてくれる 友人がいたりする。 中年にもなれば、 ある程度 自分の「型」が 出来て、それに 頼るのは当たり前なんだけど、 どこかで 「運」の入り込む 余地を残しておく、 あるいは、 人生から「運」の 要素を排除し尽くすことは出来ない。 だから、人生は 面白い。  https://www.youtube.com/watch?v=1FYokoOzAWw

2025年5月26日月曜日

へんぼけー

かかりつけの メンタルクリニックに 行って来ました。 クエチアピンをもらうため・・・ ではなく。 石破内閣の支持率も ちょっと 回復して、 どうやら 財政ポピュリズムの嵐を 持ちこたえた のかも知れない、 と。 それで、自分も 変に 働くことを考えると うまく 行かないので、 勉強で 行けるところまで 行きます、と お話してきました。 こうね、 ちょくちょく 気持ちに区切りを つけさせてくれる 人がいるのは、 ありがたいよね。

報われぬ死者のまなざし (再掲)

「敗戦にいたるまで 国土に 固有の曲率を与えていたのは 天皇の存在であった。 だが、 天皇が 『われ 神にあらず』と 表明したときから、 天皇の像は 国土に曲率を与える 重力の中心から ゆっくりと落下していく。 重い力は 天皇から 無言の死者たちに移動する。 聖なるものは むしろ死者たちであり、 天皇も この死者たちの前に 額ずかねはならない。 この死者たちは その痛ましいまなざしによってしか 力をもたないとしてもである。 それゆえ 戦後社会が 天皇とともに 超越的なものを 失ってしまったというのは正しくない。 そこには 報われぬ死者たちという ひそかな超越があり、 天皇は 皇祖神を祀るだけでなく、 この無名の超越者を 慰霊する司祭として、 ゆるやかな超越性を 帯びるからである。」 137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

負債観念 (再掲)

「負債」の観念を抱かせることが、 社会全体を構成し、 安定的に維持するための 手段であるわけで、 交換とか経済的利益は 副次的な意味しかないわけです。 先ほどお話ししたように、 儀式に際して 各自の欲望機械を 一点集中的に活性化させますが、 この強烈な体験を 「負債」と記憶させて、 大地に縛り付けることが 社会の維持に必要なわけです。 現代社会にも 通過儀礼のようなものがありますし、 教育の一環として 意味の分からない、 理不尽に感じることさえある 躾を受けることがありますが、 それは、 この「負債」の刻印と 同根だということのようです。 「負債」の刻印が本質だとすると、 むしろ 下手に合理的な理由をつけずに、 感覚が 強制的に動員される、 残酷劇の方がいい、 ということになりそうですね。 <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255

神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って 山岡龍一先生からのご回答 (再掲)

一つの簡単な答えは、 ヘーゲル的な意味での 統治は 不可能だ ということです。 その代替案は 複数ありえますし、 フーコーは その一つでしょう (ただし、「知と権力」の 共犯関係が いかなる統治を 具体化するのかは、 わたしには 理解しがたい 難しさが あるように思えます)。 最も わかりやすい代替案が 新自由主義の統治だといえます。 もしも これを拒絶するとすれば、 問題は、 何らかの形での ヘーゲル的な統治への回帰か、 神無き時代の連帯の 可能性の追求となります。 現代の リベラルな政治理論は だいたい 後者のさまざまな バリエーションですが、 密かに 神が導入されている 可能性があるのものが多いので、 フーコーのような議論が 流行るのだと思われます。 鴎外については、 わたしにはコメントする能力はありません。 ただ、 そのような苦悩があるとすれば、 それは鴎外が いかにヨーロッパ(ドイツ)文明に 拘束されていたのかを 示す ことになるでしょう。 ただし、 そのような苦悩を まったく抱かない (ないしは、 そのような苦悩の可能性に思い至らない) 日本人よりは、 はるかにましな 精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、 ある意味では、 神無しで ヘーゲル的な全体性を 国家は維持できるのか、 という問いを いち早く 突きつけられていた ともいえます。 この問いへの回答の一つは、 現在でも、 「新たな神の創造」ですが、 そのような回答が、 必然的に 政治的に 悲惨なものになることは、 我々が 歴史から学んだことだといえます。 キリスト教文化圏では、 たとえ 神が死んだ時代でも、 この危険性が よく知られていますが、 はたして日本ではどうでしょうか。 考えてみてください。

政治学へのいざない (再掲)

問われるべき問題は いかにしたら、 このようにして発達した、 所有権のような 個人の権利の意識が、 社会全体への奉仕と 一体になることで、 より 理性的で 自由な意識へと 陶冶されるかだ、 とヘーゲルは考えた。 そして、 権利と義務が衝突せず、 私的な利益と 公的な利益が 一致するような 人間共同体が形成されるならば、 その共同体のメンバーの幸福を みずからの幸福と感じ、 法や制度に従うことは 自己の欲望の否定ではなく、 自己の 理性的な本性の肯定であると 考えるような市民が 生まれると主張したのである。 国家こそ、 このような倫理的共同体における 最高次のものだと ヘーゲルは考えた。 (放送大学「政治学へのいざない」211頁より)

機能不全国家

そもそも、 国民が、 税金はなるべく 払いたくない、 でも 国から 得られるものは もらえるだけ もらいたい、という国家が、 果たして 国家といえるだろうか? そんなものは もはや 国家ではないのではないか?

2025年5月25日日曜日

そらそうでしょ

国政政党レベルの 国会議員、それも 党首レベルで、 消費減税だの廃止だの やって、 何の問題もない、と ガチで 信じてるのは 山本バカ太郎ぐらいの もんでしょ。 昨日だったか、 NHKのニュースで、 維新などのチームが、 11万床 病床数を削減すれば、 1兆円 社会保障費が浮く、と 報道してたな。 そらね、 国会議員になるぐらいの 人間だったら、 いわゆる 「財源」のことを 考えるわけよ。 ここに至って ようやく そうやって 本格的に 社会保障費抑制に 動くわけ? と 呆れるほどだが。 (ま、かくいう俺も あんま 社会保障 削られたら 困るがな。 とはいえ、国が 潰れたら それ以前の話だ。) れいわ新選組も、だんだん 極左になってきたな。 あれは 何するか わかんない。 自分たちが 絶対に正義だと 信じて疑わない 連中が、一番ヤバい。  https://www.youtube.com/watch?v=X8OeBZQn3_w

推し活ー救われるわー

俺の平沼 3番ファースト スタメン。 西口監督からの 期待を 感じるね。

都合のいいカラダ(●´ω`●)

働くことを 考えると、 途端に 疲れた疲れた 言うくせに、 それを忘れると、 また元気になる。 どんだけー ほんとに 「働く」ってことを 考えられないんだね。 別に 「設計 設計」 言ったところで、 「働く」ことを タブー視してるわけでもないのに。 お節介な人間だから、 「教える」ことだけは 生業に出来そうなんだけど、 といって 教職免許持ってるわけでもなく、 優秀で 高3で受験間近に控えてます、 ぐらいの 危機感もってる生徒さんのほうが、 ぶっちゃけ ガキ相手にするより 遥かに楽だし、やり甲斐もあるんだけど、 いかんせん これから 日本はどんどん 子供の数が減っていくからね。 そんななかで 塾講師なんていう 報われない職業を 敢えてできるか? ってね。

不胎化されたレポートその10 (再掲)

第10節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる三千代は、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。このように、夏目漱石は、経済の合理性の論理と、自家特有の世界との板挟みに遭いながらも、理性を放棄し、主観と客観との区別の放棄への道は採らずに、理性的な近代的個人に拘るのである。

さすがに疲れたな・・・

「設計」がどうとか、そんな難しい話じゃないんだ。 きっと。 単純に、疲れてるんだ。 今は 働くことまで 考えられない。 しばらくは休憩が必要だ。 ただ それだけのことだ。 ビールでも飲みたい気分だが、 最近ちょっと 酒にハマる一歩手前ぐらいまで 来てるからな。 と、いっても 平均でも三ヶ月に一本ぐらいしか 飲んでないけど、 ちょっと以前から 肝臓の値を注意されるし。 酒はヤバい。 週明けに またクエチアピンっぽい 薬でも 出してもらうか。 とにかく、今は 休息が必要なんだ。

2025年5月24日土曜日

やっぱなあ・・・

やたら 精神病アピール するわりには、 ピンピンしてるじゃないか。 と 思われる向きも 多数あると 思うのですが、 もちろん、自分も 働くつもりがあればこそ、 英語のみならず韓国語も 勉強したわけですが・・・ やっぱり いざ働くことを本気で考えると、 急に 前に進めなくなってしまう。 それは、繰り返しになるけど、 高校生のときに 深刻なウツ状態に陥って、 そこから抜け出すために、 自分自身を 「設計」し直したからこそ、 ここまで どんなに精神的にキツくても 乗り越えられたわけですが・・・ いかんせん 「設計」し直すときに、 「働く」ことまで 計算に入れていなかった。 もう、そこに尽きるのかも知れない。 結局は。

「脱常識の社会学」 ランドル・コリンズ 岩波現代文庫 (再掲)

確かに、ランドル・コリンズが 述べるように、 世の中は 合理性だけでは 継続して 存続しないものなのだろう。 無謀に リスクテイクしたり、 よく考えもせずに 子供をつくったり する人が いなければ、 人間社会というのは とっくの昔に 滅んでいたかも知れない。 俺だって、いい歳して 仕事に 「エンジョイ」を 期待するのはバカげている、と 正直 思うが、 仕事が楽しくなかったら、 資本主義なんか 存続しねえよ。 自分が仕事に 「やりがい」を求めるのも、 ある種の「詐欺」に 引っかかっているのかも知れない。 いわゆる「やりがい詐欺」。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、 直観や好き嫌いによって信・不信を決める。 だが、信用とは本来そうしたものではないのか。 客観的ないし合理的な裏づけをこえて 存在しうるところに、 信用の信用たるゆえんがある。 そして信用がそのようなものであるかぎり、 信用には常にリスクがともなう。 信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。 それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、 ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 p.90~93

メモ

「大坂堂島米市場」講談社現代新書 を 読んだところによれば、 堂島米市場においては、 参加できる メンバーは限られていたらしい。 (少数という意味ではない。) 具体的には、「札」という ある種の 参加資格を得た 商人だけが、参加でき、 また、 詐瞞行為に対しては、 グループ内から厳しい 制裁を加えられたそうだ。  人間社会の歴史というのは、ある意味では 不特定多数の人間集団を、どう ガバナンスするか、の 試行錯誤の歴史だったとも言えるだろう。 「先物取引」の世界では、 グループの規模が 大きくなりすぎないからこそ、 秩序が成り立っていた、とも言える。 逆説的に言えば、 「先物取引」における 金融工学の革命的な 進歩により、 「先物取引」に参加できる プレーヤーの数そのものが それこそ 地球規模に拡大した。 しかし、サブプライム・ローン ショックを見れば 分かるように、この どれほどの人が参加しているのか、 把握できない状況は、 リスク分散の把握や、モラルハザードの危険性を 完全に 把握することを 困難にし、システミックリスクを内包するものだった、と 言えるだろう。 しかし、人工知能が加速度的に 発達する現在、飽くまで 技術的に言えば 地球規模での 「グローバル・ガバナンス」が 実現出来てしまう 可能性は否定できない。 それは果たして ユートピアだろうか? 現実に、今の 中国は 人工知能を使った 「超管理社会」と言われている。 そのような状態が、果たして 「ユートピア」と 呼べるものなのか? しかし、肝心なことは、 ある政治グループを完全に コントロールすることではなく、 政治的な文脈における 「多元主義」が 確保されていることではないか。 ひとつの方向性に、ある 社会集団が収斂してしまうことは、 古今東西 悲劇的な結末を産む、というのが 人間社会の歴史からの 教訓と言えるのではないか。 この「多元主義」は、ハンナ・アーレントの 「多数性」にも通じる。 公的領域において さまざまな価値観やビジョンを持った人たちが、 お互い 議論を交わすことが、 アーレントにいわせれば 人間の最高の行為としての 「活動」であり、 そこにおいて、自分とは 異なる意見を 認めることに、 (人間が)人間を 「赦す」 可能性がある、と 見ていたとも言えるだろう。

中国史についてGoogleの生成AIに回答してもらった。その2 (再掲)

中国の宋代における新法党と旧法党の対立は、11世紀後半から12世紀初頭にかけて、北宋の政治を大きく揺るがした党争です。その背景には、以下の要因が複雑に絡み合っていました。 1. 社会経済の変化と財政難: 商業の発展と都市の成長: 五代十国時代の混乱を経て、宋代は比較的安定した社会となり、商業が活発化し、都市が大きく発展しました。これにより、商税などの新たな税収が見込める一方、地方からの貢納が安定し、宋朝は強大な経済力を誇りました。 財政の悪化: しかし、遼や西夏といった北方民族との間で、領土問題や朝貢問題が頻発し、多額の軍事費や和平のための贈与金が必要となりました。また、官僚機構の肥大化も財政を圧迫し、英宗の時代には財政赤字に転落していました。 2. 王安石の改革(新法): 富国強兵策: このような財政難と、依然として存在する北方からの脅威に対処するため、神宗は1070年に王安石を登用し、一連の改革(新法)を断行しました。その目的は、国家財政の再建と軍事力の強化にありました。 主な新法: 青苗法: 農民への低利融資を行い、高利貸しからの救済と農業生産の安定化を図る。 均輸法: 政府が物価の安い時期に物資を買い上げ、高い時期に売却することで、物価の安定と政府収入の増加を図る。 市易法: 政府が主要な商品を買い上げ、市場価格を調整することで、投機的な商人活動を抑制し、中小商人を保護する。 募役法: これまで農民に課せられていた無償の労役を廃止し、代わりに役人を雇うための費用を徴収する。これにより、農民の負担軽減と労働力の有効活用を目指す。 保甲法・保馬法: 農村組織を再編し、治安維持と軍馬の確保を図る。 3. 旧法党の反発: 保守的な官僚層の抵抗: 司馬光、欧陽脩、蘇軾といった保守的な官僚たちは、王安石の急進的な改革に強く反発しました。彼らは、伝統的な制度や儒教的な価値観を重視し、政府が経済に直接介入することや、社会秩序を大きく変えることに懸念を抱きました。 大地主・富裕層の不満: 新法の中には、富裕層からの徴税強化や、彼らの経済的利益を制限する内容が含まれていたため、強い反発を招きました。特に、青苗法は高利貸しを営む大地主層の利益を損ない、募役法はこれまで労役を免れていた官戸層にも負担を強いるものでした。 改革の性急さと強引な実施: 新法は、地方の実情を十分に考慮しないまま、中央の主導で強引に実施されたため、混乱や副作用が生じました。役人の不正や、農民への過剰な貸し付けなどが問題視されました。 4. 政治的な対立構造: 理念や政策の違い: 新法党は、国家の危機を打開するためには、積極的に制度改革を行うべきだと主張しました。一方、旧法党は、漸進的な改革や伝統的な政治手法を重視しました。 党派意識の形成: 王安石を中心とする改革推進派(新法党)と、司馬光を中心とする改革反対派(旧法党)は、互いに批判や非難を繰り返し、激しい政争を繰り広げました。この対立は、単なる政策論争を超え、人事や権力闘争にまで発展しました。 皇帝の姿勢の変化: 神宗は当初、王安石の改革を強く支持しましたが、改革の進展に伴い、その効果や副作用に対する疑念も生じました。神宗の死後、哲宗が即位すると、宣仁太后(神宗の皇后)が摂政となり、旧法党が一時的に政権を掌握し、新法はほぼ廃止されました。しかし、哲宗が親政を行うようになると、再び新法が復活するなど、皇帝の姿勢の変化も党争に影響を与えました。 このように、宋代の新法党と旧法党の対立は、当時の社会経済の変化、財政難、それに対する改革の方向性の違い、保守と革新の思想的対立、そして政治的な権力闘争が複雑に絡み合って生じたものであり、北宋の政治を大きく左右する要因となりました。最終的に、この党争は北宋の国力を疲弊させ、後の金による侵攻を招く一因とも指摘されています。

中国史についてGoogleの生成AIに回答してもらった。その1 (再掲)

中国の宋代における形勢戸・官戸・佃戸と身分格差の固定化についてですね。以下にそれぞれの要素と、それらが身分格差の固定化にどのように関連したかを解説します。 形勢戸(けいせいこ) 地方の有力な地主層で、唐代後半から五代にかけて台頭し、宋代に確立しました。 広大な私有地を所有し、佃戸に耕作させて地代を徴収していました。 地域社会において強い影響力を持ち、官僚との結びつきを通じて特権的な地位を築く者もいました。 官戸(かんこ) 官僚の家柄を持つ特権階級です。 科挙による官僚登用が進んだ宋代においても、官僚の子弟や姻戚は有利な地位を占めました。 官職を世襲することは原則として認められませんでしたが、官僚としての地位を利用して経済的基盤を強化し、社会的地位を維持しました。 官戸は、税役の免除などの特権を持ち、地域社会で大きな力を持っていました。 佃戸(でんこ) 地主から土地を借りて耕作する小作人です。 法的には自由民でしたが、実際には土地に縛られ、地主に対して高い地代を支払うなど、隷属的な状況に置かれることもありました。 宋代以降、地主と佃戸の関係は固定化する傾向にあり、佃戸の地位は不安定でした。 身分格差の固定化 宋代においては、以下の要因により身分格差が固定化する傾向が見られました。 土地所有の偏在: 形勢戸を中心とする大地主層が広大な土地を所有し、佃戸はその土地に依存せざるを得ませんでした。これにより、経済的な格差が拡大し、佃戸が自立する機会は限られていました。 官僚層の特権: 官戸は、政治的な権力と経済的な基盤を背景に、地域社会で強い影響力を持ち続けました。彼らの特権は、一般の民衆との間に大きな格差を生み出しました。 科挙制度の限界: 科挙は、比較的公平な官僚登用制度でしたが、実際には、ある程度の経済力や教育を受けられる環境を持つ層が有利であり、貧しい人々が官僚になることは困難でした。また、官僚間の縁故や門閥も存在し、完全に能力主義的な制度とは言えませんでした。 社会的な慣習: 一度形成された身分秩序は、社会的な慣習や意識によって強化され、容易には変動しませんでした。 このように、宋代の社会では、形勢戸・官戸という有力な階層が存在し、多くの佃戸が彼らに従属する構造が強まりました。土地所有の偏在、官僚の特権、科挙制度の限界、そして社会的な慣習が複雑に絡み合い、身分格差は固定化する傾向にありました。 ただし、完全に身分が固定化されたわけではなく、科挙による下からの身分上昇の可能性もわずかに存在していました。しかし、全体としては、一度形成された身分秩序が維持されやすい社会であったと言えます。

<キャラ>の現象学 (再掲)

ところで、 ルソーは疎外論の 元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」 と 「社会的仮面を被ったワタシ」 の分離という 中学生が本能的に 感じるようなことに 言及していたそうである。 ここで、いわゆる 『キャラ』 について考えてみよう。 サークルの飲み会で、 場にあわせて ドンチャン騒ぎを やることに倦み果てて、 トイレに逃げ込んだときに 自分の顔を鏡でみるのは 一種のホラーである。 鏡に映る、グダグダに なって油断して仮面を 剥がしかけてしまった 見知らぬ自分。 それを自分だと思えず 一瞬見遣る鏡の前の男。 男は鏡に映る男が 自分であることに驚き、 鏡の中の男が同時に驚く。 その刹那両方の視線がカチあう。 俺は鏡を見ていて、 その俺を見ている鏡の中に 俺がいて、 それをまた俺が見ている・・・ という視線の 無限遡行が起こって、 自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような 思考実験からは、 <顔>について われわれが持っている イメージとは違う <顔>の性質を 垣間見ることが 出来るのではないか。 そもそも、 自分の顔は自分が一番よく知っている と誰もが思っているが、 鷲田清一によれば、 「われわれは 自分の顔から 遠く隔てられている」 (「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22) という。 それは、 「われわれは 他人の顔を思い描くこと なしに、 そのひとについて 思いをめぐらすことは できないが、 他方で、他人が それを眺めつつ <わたし>について 思いをめぐらす その顔を、 よりによって当のわたしは じかに見ることができない。」 (P.22)からだ。 言い換えれば、 「わたしはわたし(の顔)を 見つめる他者の顔、 他者の視線を通じてしか 自分の顔に 近づけないということである。」 (P.56)ゆえに、 「われわれは目の前にある 他者の顔を 『読む』ことによって、 いまの自分の顔の様態を 想像するわけである。 その意味では 他者は文字どおり <わたし>の鏡なのである。 他者の<顔>の上に 何かを読み取る、 あるいは「だれか」を読み取る、 そういう視覚の構造を 折り返したところに <わたし>が想像的に 措定されるのであるから、 <わたし>と他者とは それぞれ自己へといたるために たがいにその存在を 交叉させねば ならないのであり、 他者の<顔>を 読むことを覚えねば ならないのである。」(P.56) そして、 「こうした自己と他者の 存在の根源的交叉(キアスム)と その反転を可能にするのが、 解釈の共同的な構造である。 ともに同じ意味の枠を なぞっているという、 その解釈の共同性のみに 支えられているような 共謀関係に <わたし>の存在は 依拠しているわけである。 他者の<顔>、 わたしたちはそれを 通して自己の可視的な イメージを形成するの だとすれば、 <顔>の上にこそ 共同性が映しだされている ことになる。」(P.56) こう考えると、 「ひととひととの差異を しるしづける<顔>は、 皮肉にも、 世界について、あるいは自分たち についての 解釈のコードを 共有するものたちの あいだではじめて その具体的な意味を 得てくるような現象 だということがわかる。」(P.58) これはまさに、 サークルなどで各々が 被っている<キャラ>に まさしく当てはまる のではないか。 サークルという場においては、 暗黙の解釈コードを 共有しているかどうかを 試し試され、確認し合っており、 そのコードを理解できないもの、 理解しようとしないものは 排除される。 その意味では <キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。 視線の交錯の上に 成り立つ 「規律」に反するものを “排除”する構造は、 <キャラ>を媒介として成り立つ、 目には見えない 一望監視装置と言えるだろう。 フーコー学者からすれば、 例えば国勢調査などはまさに 「生‐政治」の典型だろうけど、 自分はこの類の 「教科書的フーコー理解」は、 結局 国家の牧人的 国民管理からの反逆、 打倒政府、行政性悪説に 辿り着くものでしかなく、 また、 フーコーの考える 「生‐政治」の可能性を 矮小化させてしまう ものだと思う。 フーコーの考えた 「生‐政治」というのは、 常に我々のすぐそばで 起こっている現象だと考える。 これは 『キャラ』 の牢獄に閉じ込められた 我々に当てはまる。 「生‐政治」というのは、 「私」が「国家権力」によって 常に監視されている、 という妄想的発想ではなく、 われわれ自身が、 お互いを監視し、 排除する当事者である のではないか?というように 考えるのです。 そう考えれば、 <キャラ> はすぐれて「生‐政治」の性質を 帯びている。

Googleの生成AIがまとめてくれました。 なぜ米は安くならないのか? (再掲)

おっしゃる通り、自動車メーカーが自社の中古車を整備して高めの価格で販売する背景には、新車の値崩れを防ぐという目的があります。 これは、米の備蓄米の放出を安易に行わない理由と、構造的に似ていると言えますね。 自動車の場合: 大手自動車メーカーが安価で良質な中古車を大量に市場に放出すると、消費者はそちらに流れやすくなり、新車の販売が落ち込み、結果として新車の価格を下げざるを得なくなる可能性があります。メーカーは、自社の中古車に一定の価値を与え、中古車市場全体の価格を維持することで、新車の価格帯を維持しようとするわけです。 米の場合: 政府が備蓄米を安価で大量に市場に放出すると、消費者はそちらに流れやすくなり、新米の価格が下落する可能性があります。これは米農家の収入に直接影響するため、政府は慎重な対応を取る必要があります。 どちらのケースも、既存の(新車/新米)市場の価格を維持し、生産者(自動車メーカー/農家)の利益を守るという点で共通しています。 授業で聞かれた話と、備蓄米を安く売らない理由には、共通する経済的なメカニズムがあると言えるでしょう。

農業と政治

農協は ある意味では 既得権益、というか 少なくとも 政治的圧力団体 とは言えると 思われる。 しかし、だからといって 農家の既得権益を ぶっ壊せ!というのは 早計ではないのか。 確かに、 備蓄米を安く供給すれば 消費者は助かる。 しかし、新米の値崩れを 引き起こす可能性がある。 そういう意味では、今回の 農水大臣の交代によって、 自民党は 大票田である 農協からの支持を失う 可能性のある 大決断をした、と 評価していいのではないか。 もちろん、これは 米の生産者から 消費者へ 利益配分を移転させた、と 言えるだろう。 しかし、それが 必ずしも 「正義」だと言えるかは 疑問だ。 農業というのは 得てして 収奪的だ。 特に 日本においては、戦前、 小作農と 大地主、という 歴史上よくありがちな 構図が生まれ、 天候不順による凶作が原因で 社会不安にまで 至る 例があった。 あるいは逆に、「豊作貧乏」という 言葉があるように、 豊作によって逆に 農家の収入が減る、ということもある。 それは、誰かが仕組んだ仕業とかではなく、 単純に 例えば 米が例年の1・5倍収穫出来たからと言って、 消費者の米の消費量が 1・5倍になったりはしないからだ。 つまり、農家というのは 政府による 価格安定策がなければ、本来 非常に不安定な 職業である、ということになる。 もちろん、それが 国際競争力を削ぐ、という側面もあるが。 あまり物事を一面的に判断するのは 賢明ではない。 米農家にしても、戦後のGHQによる 小作農解放によって、 小作農が地主による収奪から 解放された、というのは 高校の日本史で教わる 基本的な事実だ。 それが米作の大規模生産を妨げている 側面もあるだろうが。 しかし、農家には農家の生活がある。 都市生活者が、自分の生活が苦しいからと言って、 農家の生活をむやみやたらと 不安定化させるのが 果たして「正義」なのか。 族議員という言い方をされることは 最近少なくなったが、 具体的な一般意志というものが 現実に 成り立ち得ない以上、 圧力団体の意向を無視した政治が 正しい、という理屈はおかしい。 本来、政治というのは 自分の支持母体の利益を代弁するのが 役割とすら言える。 見境無く 「既得権益」という概念を振り回し、 それを ぶっ潰せばいい、というのは 幼稚な発想だ。 ・・・とはいえ、農家の所得保障のため といって 漫然と 備蓄米を積み上げているにも関わらず、 需給が逼迫しているときに 高値でしか 放出できなければ、 いったい何のための 「備蓄米」なのか? という 疑問も当然ある。 米の価格が、有権者が納得感を 得られるまで 下がるかどうかは 現段階では不明だが、 まずは 米の市場価格が下がれば、 自民党にとっては ある意味 消費減税をしなくても済む 一番 手っ取り早い 選挙対策とも 言えるのではないか。

2025年5月23日金曜日

ほんとコレね。

https://x.com/amagaeru0330/status/1925521719902826642 くだらねーこと 聞いてんじゃねーよ。 こういうマスゴミのクソな質問に 瞬発的に 「進次郎構文」を 発動させる 小泉進次郎って、やっぱ 一種の 天才なんじゃないかと思うわ。 ほんとさあ、聞くほうも 頭悪すぎだよね。 金額で聞くならともかく、 重さで答えろってのは さすがに ムリがある。 じゃあお前はそんなこと いきなり聞かれて 答えられんのか? って 言いたくなるわ。 日テレらしいけど、 在京キー局の記者が こんな くだらねー質問を 平気でするのか。 そら 日本 終るわな。

2025年5月22日木曜日

高慢と偏見

ひょんなことから 先物取引の 基本的な仕組みを 遅ればせながら 勉強したが、 (しかも、 慶応SFC卒の人から) 今まで 自分は 先物取引の基本的な 仕組みも 知らずに 偉そうに 経済を語っていたのかと 思うと、 自分自身の 厚顔無恥ぶりに 恥じ入るばかりだ。

ふと思った。

太陽誘電と 傘下の派遣会社の 例を 挙げたが、 よく考えたら、これって 一昔前の 男性と女性にも 当てはまるな、と 思いました。 今みたいに 女性にも 社会的進出の途が 曲がりなりにも 確保されている時代ならともかく、 いちど 男性と結婚して 家庭にはいった 専業主婦ならば、結局 夫の言うことには 従わざるを得ないのが 実情じゃないか? いきなり 「私は 明日から 好きなように 働くから アンタは勝手にしろ!」 なんて言える人 なかなかいないよね。 子供を産むリスクを 背負うのも女性だし。 確かに、これは 不公平といえば不公平だ。 なにしろ、夫に 足下みられたら、従わざるを得ないんだから。 それこそ、 親会社と、その傘下の 派遣会社の派遣社員みたいに。 そう考えたら、俺も いざとなったら 不公平だのなんだの 四の五の言わず、働かなきゃ いけないんだな。 自分がずっと勉強してきたことを 活かせる場が 高崎にあるだけでも、 ありがたい話だ。 ・・・うーん、でも 今からそれを 死ぬまでやれってのは、キツいわ。 とてもサステナブルではない。 ・・・ここまで来ると、 もはや自分の人生だから 力ずくで どうにかしてやろう、というのが 無理に思えてくる。 むしろ、流れに任せたほうが うまく いくこともある、と 経験上わかっている。 (それも、ある意味では それまでの生き方の延長に あるものなのだが。) 夏目漱石のいう 「則天去私」とは こういう境地のことを いうのだろうか。

不胎化されたレポートその10 (再掲)

第10節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる三千代は、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。このように、夏目漱石は、経済の合理性の論理と、自家特有の世界との板挟みに遭いながらも、理性を放棄し、主観と客観との区別の放棄への道は採らずに、理性的な近代的個人に拘るのである。

「社会経済の基礎」質問と回答その4 (再掲)

質問:ミラーとモディリアーニによるMM理論によれば、税制その他の要因を無視して考えれば、企業が資金調達するに当たり、自己資本(株など)でも他人資本(金融機関からの借り入れ)でも差はない、とされますが、日本のバブル崩壊後の不況において、銀行がダメなら証券市場で資金を調達しよう、という論理にはならなかったのでしょうか?  回答:日本経済ではバブル崩壊後、とりわけ1998年頃から(I-S)+(G-T)+(X-M)≡0という恒等式において、(S-I)=(G-T)+(X-M)がプラスになっています。 これは資金貸借の面で、貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額を、財政赤字(GーT)分は政府へ、貿易黒字分(XーM)は海外に貸し付けていることを意味します。 これは本来、ありえない状況です。なぜなら「資本主義」とは、企業家が銀行から借り入れたり、株式を発行して他人資本を集め、不確実性に満ちた世界に挑む経済制度だからです。MM理論等はこうした状況を想定しています。ところが日本では、企業がカネを借りるのではなく貸しています。企業は銀行に「貸し剥がし」を迫られた四半世紀前から、内部留保を貯め込み自己資本で経営し、残ったカネは貸すようになりました。 日本の企業はバブル後に銀行離れを起こしただけでなく、ものづくりで稼ぐことからも離れ、証券市場から「借り」ずに「貸す」方に向いてしまったのです。これはものを作って稼ぐ自信(企業家精神)を失ってしまったことを指しています。

「社会経済の基礎」質問と回答その3 (再掲)

質問:「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのです。」(262ページ)というご論は納得できました。 しかし、287ページにおいて、松原先生は「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」と書いておられます。 そして、同287ページにおいて「すでに日本はものづくり立国よりも金融資産で立国していると言えます。」と記されておられます。(つまり、国際収支発展段階説に立てば、日本はすでに第6段階に入っていると考えられます。) そこでですが、以下のロイター通信の記事に関してですが、財政の持続性という観点から考えても、民間の余剰貯蓄を吸収するような新しい企業が日本に澎湃と湧き上がってこなければ、やはり将来的には見通しが厳しいのではないかと思われます。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX/  回答:「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」というのは、 (I-S)+(G-T)+(X-M)≡0という恒等式から (S-I)=(G-T)+(X-M) となることを言っています。 このうちフローとしての貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると、ストックとしての対外資産負債残高になります。日本はこれまでのX-Mの累積により世界一、対外純資産を保有している国です。 ものづくり立国とはI>Sによる設備投資で立国することで、それができない現状で日本は金融資産(対外純資産からの利子)で収入を得ています。 しかしフローとしてのX-Mの蓄積スピードが徐々に遅くなっているというのがロイターの記事で、そうなると日本にとっての収入は対外純資産からの利子ではあるものの、対外純資産もこれからはのびなくなることになります。 ロイター記事「経常収支でも進む黒字減少、稼げる産業の再構築が急務」はS>IからI>Sへの逆転が必要と主張しており、私と同じです。

「社会経済の基礎」質問と回答その2 (再掲)

質問:「投資が貯蓄を上回るという 健全な状態に戻れば、 財政赤字は 自動的に解消されるのです。」 (262ページ)とありますが、 民間部門の余剰貯蓄が 政府部門の財政赤字を ファイナンスしている現状では、 もし仮に 民間部門の余剰貯蓄が 投資へと向かえば、 政府部門は 財政赤字を縮小せざるを得ないと 思われますが、 政治的に それは可能でしょうか? 結局は日銀や、 直近では GPIFのような金融機関に 財政赤字をファイナンスしてもらう 結果になってしまいそうですが。  回答:(I-S)+(G-T)+(X-M)≡0は恒等式です。 貿易黒字の場合、(I-S)+(G-T)≡ -(X-M)<0 、左辺は0以下。 現状はI Sになると、I-S> 0であるためG-T<0にならないと恒等式を維持できない。G<T財政黒字とI> Sは併存している。 これはGをT以下に政治的に押し込めることができるかという問題ではなく、好況でTが拡大するのでしょう。

Googleの生成AIマジ便利。とりあえず疑問が解決した。 (再掲)

ご質問ありがとうございます。野間先生との質疑応答を踏まえ、家計の国際投資と日本の財政、経常収支の関係について、さらに深掘りしてご説明します。 家計の国際投資と経常収支の黒字について 野間先生のご指摘の通り、現在、日本の家計が海外の金融資産(国債や株式など)を購入した場合、国際収支統計上は金融収支の黒字として計上されます。これは、将来の利子や配当という収益を生み出す金融資産が増加したと捉えられるためです。 重要なのは、経常収支の黒字と金融収支の黒字は、国際収支という大きな枠組みの中で、異なる側面を表しているということです。 経常収支: 主に財・サービスの貿易、第一次所得収支(雇用者報酬、投資収益など)、第二次所得収支(無償援助、贈与など)のフローを示します。貿易黒字は、日本の財・サービスが海外で売れ、外貨が流入している状態を示します。 金融収支: 主に金融資産・負債の取引のフローを示します。日本居住者による海外資産の取得は金融収支の黒字(資産の増加)、海外居住者による日本資産の取得は金融収支の赤字(負債の増加)として記録されます。 経常収支黒字でも財政赤字をファイナンスできない可能性 ご指摘の通り、経常収支が黒字であっても、それが直ちに政府の財政赤字をファイナンスできるとは限りません。その理由を以下に説明します。 貯蓄と投資の主体: 経常収支の黒字は、国内の総貯蓄が総投資を上回っている状態を示唆しますが、その貯蓄の主体が必ずしも政府に資金を貸し付けるとは限りません。家計や企業が海外への投資を増やせば、その分の貯蓄は国内の政府ではなく海外に向かうことになります。 資金の流れ: 松原先生が述べられているように、恒等式 (S−I)=(G−T)+(X−M) は成り立ちますが、これはあくまで事後的な関係を示しています。民間の貯蓄(S)が投資(I)、政府の財政赤字(G-T)、貿易黒字(X-M)のいずれに向かうかは、個々の経済主体の意思決定に左右されます。 金融収支の役割: 家計が海外投資を増やし、金融収支が黒字になるということは、その分の資金が国内の国債購入に向かわない可能性を示唆します。したがって、経常収支が黒字であっても、国内の貯蓄が必ずしも政府の財政赤字を十分にファイナンスできるとは限らないのです。 日本国債の安定的消化と財政の持続可能性 現時点では、日銀による大規模な国債買い入れや、依然として根強い国内の現預金志向によって、日本国債は比較的安定的に消化されています。しかし、ご懸念の通り、以下のような状況が進行すれば、将来的には国債の安定消化が難しくなる可能性があります。 民間の海外投資の増加: 円安バイアスが強まり、家計や企業が積極的に海外投資にシフトした場合、国内の国債購入資金が減少する可能性があります。 貯蓄率の低下: 少子高齢化が進み、現役世代の負担が増加することで、家計の貯蓄率が低下する可能性があります。 海外投資家の動向: 海外投資家が日本国債のリスクを意識し、購入を控えるようになる可能性も否定できません。 ロイターの記事が指摘するように、日本の財政の持続可能性を高めるためには、民間の余剰貯蓄を国内の成長投資に振り向けることが重要です。新しい有望な企業が次々と生まれ、国内で投資が活発化するような経済構造に転換できれば、政府の財政赤字への依存度を下げることができます。 結論 経常収支の黒字は、日本の経済の強みを示す一方で、それが直ちに政府の財政赤字をファイナンスできるわけではありません。家計の国際投資の増加は金融収支の黒字として計上されますが、国内の貯蓄が海外に流出する可能性も示唆しており、国債の安定消化には必ずしもプラスに働きません。 日本の財政の持続可能性を確保するためには、単に経常収支の黒字を維持するだけでなく、国内の投資を活性化し、民間の貯蓄が国内の成長に貢献するような経済構造を構築することが不可欠です。

Googleの生成AIが上手い具合にまとめてくれた。 (再掲)

ご質問ありがとうございます。いただいた3つの質問とそれに対する回答、そしてロイターの記事に関する考察、MM理論に関する質問について、それぞれ整理し、より深く掘り下げた議論を展開したいと思います。 質問1について:「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのですか。」 ご指摘の通り、現在の日本経済は民間部門の余剰貯蓄が政府の財政赤字をファイナンスする構造になっています。 恒等式 (I−S)+(G−T)+(X−M)≡0 において、貿易黒字 (X−M)<0 の場合、I−S+G−T≡−(X−M)>0 となり、もし I>S であれば、G−T はよりマイナス(財政黒字)になる必要があります。 現状は S>I であるため、I−S<0 であり、G−T>0 (財政赤字)と恒等式は維持されています。 もし仮に民間部門の余剰貯蓄が投資に向かい、I>S の状態になれば、恒等式を維持するためには G−T<0 、つまり財政黒字になる方向へ力が働きます。 しかし、政治的にそれが可能かどうかという点は非常に重要な問いです。 政治的な困難性: 政府支出は様々な既得権益や国民の要望に支えられており、景気が回復し投資が活発になったとしても、政府が自ら支出を大幅に削減し、財政黒字を目指すインセンティブは働きにくいと考えられます。むしろ、好況を背景に更なる財政出動を求める声が強まる可能性すらあります。 日銀やGPIFの役割: ご指摘の通り、もし民間部門の貯蓄が投資に回れば、国債の買い手がいなくなる可能性があり、結果として日銀やGPIFといった公的部門が国債の引き受けを増やさざるを得なくなるかもしれません。これは、財政赤字の直接的な解消には繋がらず、むしろ日銀のバランスシート肥大化やGPIFの運用リスク増大といった新たな問題を引き起こす可能性があります。 好況による税収増: 回答にもあるように、健全な状態とは、投資が活発になり好況となることで税収が増加し、結果として財政赤字が縮小するというメカニズムが期待されるものです。これは政治的に政府が支出を削減せずとも、経済成長によって自然と財政状況が改善するというシナリオです。 結論として、投資が貯蓄を上回る健全な状態は財政赤字縮小の圧力となりますが、それが「自動的に解消される」と断言することはできません。政治的な意思決定や、日銀をはじめとする金融機関の動向が大きく影響するため、予断を許さない状況と言えるでしょう。 質問2について:ロイター記事と日本の経済構造 松原先生のご指摘の通り、日本経済は「ものづくり立国」から「金融資産立国」へと変化しつつあります。これは、過去の貿易黒字の累積によって巨額の対外純資産を保有していることに表れています。 国際収支発展段階説: 日本が第6段階に入っているという見方は、経常収支の黒字が縮小し、対外純資産からの収益が主要な収入源となる段階を示唆しており、現状を的確に捉えていると言えます。 ロイター記事の指摘: 記事が指摘するように、経常収支の黒字が減少傾向にあることは、日本経済の成長エンジンが弱まっていることを示唆します。今後は、対外純資産からの利子収入に依存するだけでなく、新たな成長分野を創出し、国内の投資を活発化させる必要があります。 財政の持続性: 民間の余剰貯蓄を吸収するような革新的な企業が生まれず、国内投資が低迷したままでは、政府は引き続き民間の貯蓄に依存せざるを得ません。これは、政府債務の増大を招き、財政の持続可能性に対する懸念を高めます。 ロイター記事が「稼げる産業の再構築が急務」と主張しているように、日本経済が持続的な成長を取り戻し、財政の安定化を図るためには、S>I の状態から I>S の状態への転換が不可欠です。そのためには、規制緩和、技術革新の促進、新たな需要の創出など、多岐にわたる政策努力が必要となります。 質問3について:MM理論と日本のバブル崩壊後の不況 MM理論は、完全な市場という仮定の下では、企業の資金調達方法(自己資本か他人資本か)は企業価値に影響を与えないと主張します。しかし、現実の市場には税制、倒産リスク、情報非対称性などの要因が存在するため、MM理論がそのまま当てはまるわけではありません。 日本のバブル崩壊後の状況: バブル崩壊後、日本の金融機関は不良債権問題に苦しみ、企業への融資姿勢を大きく引き締めました(貸し渋り、貸し剥がし)。このような状況下では、MM理論が想定するような円滑な資金調達は困難でした。 証券市場の役割: 理論的には、銀行からの借り入れが難しくなった企業は、株式発行などを通じて証券市場から資金を調達することが考えられます。しかし、当時の日本経済は景気低迷が深刻であり、企業の収益見通しも不透明であったため、投資家のリスク回避姿勢が強く、株式発行による資金調達も容易ではありませんでした。 企業の行動変化: 回答にあるように、日本の企業はバブル崩壊後、積極的に借り入れを行うのではなく、内部留保を積み増し、自己資本比率を高める傾向を強めました。これは、金融機関への不信感や将来の不確実性に対する備えという側面があります。また、デフレ経済下では、積極的に投資を行うよりも、手元資金を確保する方が合理的という判断も働いたと考えられます。 「借りる」から「貸す」へ: 日本の企業が証券市場から「借り」ずに「貸す」側に回ってしまったのは、まさにバブル崩壊後の特殊な経済状況と、それに伴う企業行動の変化を示しています。これは、企業家精神の減退というよりも、厳しい経済環境の中で生き残るための合理的な選択であったと解釈することもできます。 結論として、バブル崩壊後の日本経済においては、金融機関の機能不全、景気低迷、企業の慎重な姿勢などが複合的に作用し、MM理論が想定するような資本市場を通じた円滑な資金調達は実現しませんでした。むしろ、企業はリスク回避的な行動を取り、内部留保の積み増しと債務圧縮に注力したと言えるでしょう。 これらの議論が、先生の深い洞察への理解を深める一助となれば幸いです。

「やさしい経済学」ー金融が支配する世界ー 中央大学准教授 小倉将志郎 増補 (再掲)

 今 連載中の 小倉将志郎 中央大学准教授の 「金融が支配する世界」 は 素晴らしい。 そう、そこ! と 膝を打ちたくなる。 以下、連載第4回より 「一方、家計の 経済活動以外の側面は、 主に 欧米で研究が進展しており、 日常生活にも 『金融的計算』が 組み込まれているとされます。 金融的計算という表現に 定まった 定義はありませんが、筆者は キャッシュフローを生み出す 取引可能な存在を、 量的に評価・把握し、 最適な状態に管理 しようとする姿勢と 捉えます。 その直接・間接の対象は 教育、文化、余暇など多岐にわたり、 社会の あらゆる対象が 市場価格を持つことが 前提とされるのです。」

2025年5月21日水曜日

黄色信号 (再掲)

円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも、なにやってんだ、という声があがり始めます。 アベノミクスの3本の矢のうち、 結局、大規模金融緩和だけが継続していますが、 安倍氏の死去に伴い、 日銀に対して、大規模金融緩和を継続させる 政治的プレッシャーが弱くなったことは事実でしょう。 日本の財政から言っても、 れいわ新選組が言ってるように、 国債をどんどん発行して、 日銀に買い取らせればいい、などという、 無責任なことをやっていると、 日銀の財務状況が悪化して、円の信用が毀損されたり、 そうでなくとも、日銀が、政府の借金である国債をいくらでも買い取ってくれるから、 いくら赤字国債を発行してもいい、という モラルハザードが現実に起こっています。 岸田首相はそこらへんの事情は当然わかっているはずです。 いずれにせよ、 日銀はこれ以上、 異常な大規模金融緩和を続けることによって、 イールドカーブコントロールという 国際金融の現状からすれば異常な金融政策を維持することは、 非現実的と認識していると思われますので、 少なくとも 金利の上昇幅の拡大をこっそり容認する、 ということは、 十分予想されるところです。 しかし、加藤出さんも言っているように、 イールドカーブコントロールから抜け出すことは、 大きな混乱を伴うと予想されるので、 それこそ 投機筋の外圧がなければ いつまでも続けていたところでしょうが、 幸か不幸か、現実的ではありませんでした。 さて、焦点は、 日銀がどこまで金利の上昇幅を容認するか、 そしてそのタイミングはいつか、 ということになりそうですが、 金利の上昇幅は実務家ではないので知りませんが、 タイミングとしては、そう遠くないのではないかと思われます。 これだけ急激な円安を鑑みると、 黒田総裁の任期満了まで 待てるとは思えません。 従って、 急に金利が上がる、ということは、 十分ありえる話です。 ・・・で、何が言いたいか、というと、 金利が上がって困るのは、 超低金利を前提として 変動金利で住宅ローンを組んでいる家計です。 銀行も馬鹿ではないので、 固定金利は既に段階的に引き上げています。 それは、変動金利が上昇すれば、 固定金利に借り換える人が増えると予想しているからと言って過言ではないでしょう。 ですので、 変動金利で住宅ローンを組んでいる人は、 専門家に相談するなりして、 対策を立てたほうが良いでしょう。 自分は専門家でもなんでもないので、 この文章の内容に責任は負えません。

知ってるようで、実は知らない江戸時代。 ー大坂堂島米市場ー

 


これはかなり面白そう。文章も読みやすい。著者の経歴を見たら、なんとビックリ慶応SFC卒。

やっぱり優秀な人は優秀だ(った)。

わかりにくい先物取引についても、理解が(出来れば、ちょっとは)深まりそう。

快著と言って過言ではない、と期待。

うーん、これは頭が下がる。

歴史書としてふつうに面白い。

慶応SFC卒にも、こんな凄いひとがいたんだな。

まあ、江戸時代における米ってのは、現代日本以上に重要な穀物だったもんな。

その価格がどうなるか、というのは、当時の政府である江戸幕府にとっても最重要課題のひとつだったんだろう。

思えば、この2ヶ月近く、読書から遠ざかっていたが、新書一冊でも、良書は長く、しかも安定的に精神的な効用を与えてくれる、という意味で、やはり読書はコスパかなりいい。

読んでいて、ふと思ったのが、江戸時代が曲がりなりにも安定していたのは、米という生産量が限定されている穀物商品に、経済が縛られていたからではないか。

米という現物に経済規模が縛られていたからこそ、政府(江戸幕府)の統制が効く範囲内で経済がまわっていたのではないか。

しかし、明治維新以降、貨幣を本質とした資本主義経済の世界になると、経済規模というものが飛躍的に拡大したと考えられる。

「貨幣を本質とした」ということの含意は、つまるところ、国が(その信用力をもとにして)借金が出来る、ということだ。

日露戦争の戦費調達を、高橋是清が、ユダヤ人資本家のシフから調達したのは有名な話だが、その日露戦争のときにこさえた借金を日本が償還し終えたのは、なんと第二次世界大戦が終わってしばらくしてからのこと(らしい)。

つまるところ、国がその信用力をもって借金ができる、というのは、レバレッジを効かせて大きく経済成長する途を開いた反面、国が財政破綻する可能性を飛躍的に高め、そして、社会が容易に不安定化する途も開いた、と言えるだろう。

翻って、財政ポピュリズムが蔓延する現代日本はどうか。

確かに、国の借金を生み出す大きな原因のひとつは、社会保障費だが、今までは(飽くまでストックの面から見れば)社会保障の恩恵を享けている高齢者世代の貯蓄(ストック)が、日本国債を買い支えていた、換言すれば、国内のストックで日本国債を買い支えていたから、日本国債が安定消化されていたわけだが、もはやそれも限界に達しつつあり、直近では、超長期の日本国債は、海外資本の買いに頼らざるを得ない現実がある。

海外資本は、日本国内の投資家(生保など)と違って、容赦なくリスクプレミアムを要求してくるし、その気になったら情け容赦無く日本国債を売り浴びせてくる。

この現状で、社会保障費の財源と政府が繰り返し主張している消費税を、減税だの廃止だのしたら、日本国債の信用がガタ落ちするのは当然のことだ。

・・・これ、ぶっちゃけ商法の勉強にもなるな。 商法勉強したことないけど。 ・・・いやはや、これは面白い本だ。 (穀物の)「先物取引」とは いったい何ぞや? が、だんだん見えてくる。 経済学とは かくも面白い。 ・・・すげーな。これマジで勉強になるわ。 これでジャスト1,000円てのは 破格の値段だぞ。 (ただし、税抜き) おなじ慶応SFCで、どうして この著者はここまで立派になったのに、 と 我が身をうらむ気にすらなるが、 それはもう 今さらそんなこと言っても しょうがない。 ・・・昨日(水曜日)から読み始めて、 だいたい半分くらい読んだ。 2日間で だいぶ得るものがあった。 自分のオツムで 先物取引が理解できるのか不安だったが、 たぶん そこそこ理解できた。 非常に懇切丁寧に解説してくれている、と思う。 それにしても、 先物取引について 何もわかっていないのに、 経済について 偉そうなことを語っていた 自分の 厚顔無恥がおそろしい。 とりあえず今日は こんなところで 佳とするか。 ・・・とかなんとか 言いながら、頑張って キリのいいところまでは 読みました。 こんな自分でも、 先物取引とは何ぞや? が おおまかに理解できました。 江戸時代のことを知りたいと 思って 新書を買ってみたら、 思いがけず 一生わからないと思って 諦めて 忘れていた 「先物取引」の話を読むことになるとは。 びっくり。 ものすごい収穫でした。

都合のいい俗説 (再掲)

 国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だったらしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 6割 超えましたね。

立憲民主党の無責任、機会主義には本気で怒りを覚える。

昨日の日経新聞を切り抜いていたら、立憲民主党の議員の、無責任かつご都合主義には、心底怒り心頭に発するものがある。

こんな連中が野党第一党なのか?

責任感どころか、なんの矜持もない。

こんな連中に政権を任せたら、どうなるか分かったものではない。比例は立憲民主党に入れようかと思ったが、やめた。

こんな腐った連中に1票入れられるわけがない。

政権交代?

やってみろよ?

すぐに行き詰まるぞ?

ねむてーこと言ってんじゃねーよ。

・・・ま、どっちにしても今の内閣支持率じゃ、6月の参院選で自民党は大敗するんだろうからさ、そうなったらどうなるかってことよ。

長期金利急騰するだろうね。ここまでは市場も既に織り込み済みだろうけど、そこで自公政権が崩壊する、となったら、日本国債市場はかなり荒れるだろうね。

そうなって初めて、経済学をまるで理解していない連中が、日本経済がいかにヤバいかってことを、自覚するんだろうよ。

それならそれで、いいじゃん。

バカはいちいち痛い目見ないと、当たり前のこともわかんねーんだよ。

2025年5月20日火曜日

近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)

 確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

泉鏡花論 私信 (再掲)

 鏡花は文学史的には、 まずは「観念小説」に分類されるのでしたよね。 明治も半ばを過ぎて、 まさに資本主義の 合理主義、功利主義が 体制化されてゆく中で、 金銭や身分違い、 それをめぐって 掻き立てられる 欲望が 悲劇を招いてゆく 人間ドラマを、 しかしながら 自然主義的なドロドロした 醜悪な現実を 剔抉する手法とは異なって、 華麗な筆捌きで、 哀切感溢れる 昇華された人情の物語へ 仕立て上げているのが特徴、 といえばよいでしょうか。 (なにしろ鏡花は、 あの絢爛豪華な文体で 明治の人情世態を描いた 尾崎紅葉に入門したこともありました。) 特に 「夜行巡査」 「外科室」 などは、 社会の暗黒面 ーーいわば社会による疎外という テーマ性を有している点で 「観念小説」と呼ばれ、 このジャンルの代表作でもありますが、 上述のような 文体と作法を特質とするため、 小林くんの感じている 怪奇性やロマンティズムは 遺憾なく発揮されています。 この点を より発展させた大きな作品が、 『高野聖』『草迷宮』『夜叉が池』などで、 ここまでくれば 耽美的な「幻想文学」と称しても良いのでは、と。 「幻想」 は もちろん 人間の深層意識と不可分なので、 精神分析の手法を使いたくなるところです。 けっして 鏡花に詳しくはないので、 大きなことは言えないのですが、 とりわけ『高野聖』は、 人間が社会秩序に拘束され、 抑圧し続けている 「深層意識」を着眼点に、 日常 ー表層意識 対 非日常ー 深層意識 を機軸にして作品を読み解けば、 まさにテクストの 網目のようなものが 鮮明に見えてくる作品ではないかと思われます。 後には高僧となったという 若い日の「宗朝」が、 ふとしたことから迷い込んで、 一夜の宿りを求めた山中の一軒家は、 修行僧の日常が 抑圧してきた 彼の深層世界の現れ、 とでも言えそうです。 処女のような羞らいを見せるかと思えば エロティックな姐御の風貌も見せる 不思議な美女、 取り巻く猿や蟇の魑魅魍魎たち、 下僕のようでありながら 監視者でもあるような 「親仁」、 そして 心身の機能を奪われながら、 美女に かしずかれて 天上の声のような 清澄な唄声を響かせる 「白痴」。 お膳立ては十分、といった感じです。 そして、 この「白痴」を基点に、 この魑魅魍魎の山中の世界とは、 実は 近代国家によって 損傷され、周縁化された者たち ーー治療の過誤で不具にされてしまった者、 人間によって疎外された 動物たちこそが王座を占める、 日常の現実を反転させた 〈さかしまの世界〉 ではないか、と考えた時、 『高野聖』は、 単なる精神分析の対象を超えた、 一つの世界像として 見事に立ち上がってくるように思われます。 抑圧された者たちの、 いわば撓められた負のエネルギーが 一気に噴き出して 世界を反転させる時、 新たな世界の頂点は、 それまで最も抑圧されていた者たちによって 占められる‥。 ましてや、 上述のように きわめて両儀的な風貌を 見せる美しい女は、 名医とは名ばかりで 正しい医療知識とは無縁で、 今の「白痴」 ーー五体満足な少年の日の彼を 心身の機能の癒えた 「白痴」にしてしまった 藪医者の一人娘であったとなれば、 貧富や貴賤という 現実社会の権力関係が 反転した世界に於いては、 彼女は被害者 「白痴」 への人身御供的なポジションに あるのではないかといった 見立ても可能になってきます。 このように 山中一軒家の世界を、 近代化・文明化の過程で 抑圧されたものたちが徘徊する、 つまりはフロイド的な 「不気味なもの」 が何らかの機縁を以て 回帰してきた空間として、 明快かつ精密に読み解いた見事な論考に、 堀井一魔氏の 「国民の分身像ー泉鏡花「高野聖」における不気味なもの」 (『国民国家と不気味なものー日露戦後文学の〈うち〉なる他者像』、新曜社) があります。

漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)

 質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。

<近代>と周縁化 (再掲)

 後期資本主義批判を アドルノから荻野先生の社会学、 ゲーテを経て 漱石まで展開した動画を有り難う。 アドルノの後期資本主義批判は しばしば読ませてもらっていたところですが、 今回は 荻野氏の「詐欺」論へ 連接させることで、 論がひときわ具体性を増し、 鮮やかな像を結んだように思います。 不確定性に賭ける「詐欺師」とは、 計量と数値化を旨とする 近代合理主義社会の、 いわば虚をつく存在。  資本主義社会の到達点ともいえる 「管理社会」への 批判的メタファーなのですね。 それが足を置く場は、 まさに 資本主義社会の 「市場」の余白とでも表すべき領域。 とすれば、小林くん講話の 後半部のキーワードともいうべき 「自然」が、 まさに 商品の 等価交換から成り立つ 「市場」の〈外部〉であることと きれいに響き合っていることに、 つくづく感心しました。 そして、近代作家とは、 まさにその〈疎外〉感を以て、 同じく 近代が周縁化してしまった 〈自然〉 へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。 日本近代の場合、 より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、 これをまさに 〈じねん〉 にみられるような 概念化への苦闘を経ることで、 欲望的な世界から 帰還してくるのが漱石、 ということになるでしょうか。 「ファウスト」こそ詐欺師では、 との小林くんの呟きにクスリとしながら つい頷いてもいるのですが、 その葛藤が 〈魂の救済〉 なるもので終結するのは、 やはりなんといっても キリスト教文化圏ならではの展開でしょう。 かの有名な 「疾風怒濤」期に 端的に現れる ゲーテの自然観 (近代的「自然」の発見)は、 日本の場合、 漱石よりも、北村透谷を経た 自然主義文学への影響の方が大きそうです。 いささか余談ですが、 ゲーテも、漱石も、そして ほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象 ーー 〈女性〉 もまた 〈近代〉 が周縁化した存在なので、 なるほどテクストというものは 論理的かつ時代精神を おのずから反映したものだ、 と改めてつくづく納得した次第です。 いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。 今回、頂戴した小林くん講話に これまで頂戴している 論考から得た知識を総合すれば、 資本主義-市民社会がもたらす 疎外、物象化に対する 苦悩という名の 徹底的相対化、 これこそが 漱石の文明批評の基盤であることが、 まさに 鮮明に図式化されて見えてくる感じです。 今回は 「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、 アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、 ここから展開してゆくのが、 何度か拝見させてもらった、 アドルノを援用した小林くんの 「それから」 論ですね。 主客分離から生じる疎外を批判し、 人間の自然 および身体の抑圧を論じながら、 原初的まどろみへの回帰は 徹底的に封じた アドルノの論理展開が、 何と代助の解読に有効であるか、 は、つねづね痛感するところです。

日本人はカルテルを組むのが大好き

質問:日本企業の、バブル崩壊後の過度のリスク回避と、円高不況による産業の空洞化による、内需の縮小と、同時に労働市場の貧困化によるデフレとそれに伴う低賃金は、一種の「労働価格カルテル」とも言えるだろう。その意味では、政府主導で賃上げを引っ張ることにも、それなりの意義があるのではないか。 

google geminiの回答:おっしゃる通り、バブル崩壊後の日本経済が長らく苦しんできた、過度のリスク回避、円高不況による産業空洞化、それに伴う内需の縮小と労働市場の貧困化、そしてデフレと低賃金の連鎖は、企業が過度にコスト削減に走り、結果として労働者の賃金が抑制されるという点で、一種の「労働価格カルテル」と捉えることもできるかもしれません。

個々の企業は合理的な判断としてコスト削減を行うかもしれませんが、それが経済全体として見ると、需要の低迷や消費の冷え込みを招き、結果的に自らの首を絞めることになるという構造です。

このような状況下では、政府主導で賃上げを促すことには、以下のような意義が考えられます。

  • デフレ脱却への貢献: 賃金が上昇することで、消費者の購買力が高まり、需要が喚起され、デフレからの脱却につながる可能性があります。
  • 労働市場の活性化: 賃金の上昇は、労働者のモチベーション向上や人材の確保につながり、労働市場の活性化に寄与する可能性があります。
  • 格差是正: 低賃金層の賃上げは、所得格差の是正に貢献する可能性があります。

ただし、政府主導の賃上げには、以下のような課題も存在します。

  • 企業の収益圧迫: 特に収益力の低い中小企業にとっては、賃上げが経営を圧迫する可能性があります。
  • 国際競争力の低下: 一律の賃上げは、国際的に見て日本企業のコスト競争力を低下させる可能性があります。
  • 市場原理への介入: 政府による賃金への介入は、市場原理に歪みを生じさせる可能性があります。

したがって、政府主導の賃上げを行う際には、これらの課題を十分に考慮し、企業の生産性向上や構造改革と並行して行うことが重要になると考えられます。

政府主導の賃上げについて、さらに何か気になる点や議論したい点はありますでしょうか?

うつ病譚 (再掲)

うつ病ってのは、ツライ。 ある程度は 同情してもらえるんだが、 同情してもらったところで、 苦しいのが 治るわけでもない。 しかし、中には 同情してもらえることに しか 慰めを得られなくて、 同情してもらえることに 依存してしまうこともある。 まあ、 太宰治みたいなもんだ。 (太宰治はほとんど読んだことないが) あれはあれで ツライんだ。 結局、サークルのマイ・コメヂアンになって、 取り巻きの女と心中するのが オチなのだ。 ところで、 うつ病になるにも 色々と 理由があるものだが、 得てして、 うつ病になる原因なんてのは、 わからないものなんだ。 わかったら苦労しねえよ。 しかし、よくあるパターンが、 「やる気スイッチ」をオンに したまま 突っ走ることだ。 こんなことは、根が真面目な人間ほど、 簡単に 起きてしまうことだ。 人間、「やる気スイッチ」を オンにするなんてのは、簡単なことだ。 一度入った「やる気スイッチ」を オフにするってのは、 「やる気スイッチ」をオンにすることの 何倍も 難しい。 で、あるから、 大人として生きていくには、 「やる気スイッチ」の切り方を 習得しておく必要がある。 真面目な人間ほどそうなのだ。 しかして、うつ病というのは あまり 同情してもらえない。 同情されたところで 気休めにしかならないし、 同情されたところで 治ったりはしない。 ただ 中には 同情されることに 依存してしまうタイプもいるだろう。 あ、これ もう 書いたかもだが、たぶん 太宰治とか このパターンだろう。 ある意味で、うつ病を 患うということは、 孤独との闘いでもあるのだ。 何しろ、 周囲の人間から 理解してもらえないからな。 周囲の人間も、 一応は 同情してくれるんだが、キリがないから、 そのうち 去っていく。 そうすると、ますます 孤独になる。 すべてが 悪循環だ。 うつ病が完治するということが あるのかどうかは わからないが、 結局 マシになるには、 誰か 自分の、一番 急所というか、 自分の一番 弱い部分の扉のカギを そっと 預けられる存在が 必要なんだ。 性別はあまり関係ない。 どういう人間関係かも あまり 関係がない。 ともかく、自分の一番 急所である領域へのカギを そっと 預けることが出来て、 その人が そのカギを 誰にも知られないように 密かに 隠し持っていてくれるって ことが、 重要なんだ。 そこはもう 損得勘定抜きだ。 とにかく、 自分の生死を 預けるくらい 大変なことなんだ。 しかし、そういうケースもあるから、 人間てのは ときに 脆くても、なお一層 キレイな 存在なんだ。 もっとも、うつ病は キレイゴトばかりではない。 何しろ、 ひたすらウツな訳じゃなくて、 往々にして ハイになってしまう時期があるからだ。 そうして、ハイになっても、 結局は また ウツになる。 それを繰り返していると、 周囲の人は コイツはふざけているんじゃないか、と 思って、 疎まれる。 こうやって、ますます 孤独になる。 そう、 うつ病患者というのは 孤独なんだ。 ま、いろんなパターンがあるがな。 俺も 病院にいるとき いくつかの うつ病と思しき類型を見たが、 一類型として、 基本ウツなんだが、 ハイになったときに、 やらんでもいいことをやって、 周囲のヒンシュクを買って、 ずどーんと ウツになる、というパターンの人がいた。 まあ、その人がハイな時は、確かに 鬱陶しいんだが、 やっぱり当人はツライんだ。 そうして 同じことを繰り返すほど、どんどん 絶望的な 気持ちになってくる。 永遠にこの状態から 抜け出せないんじゃないか、と 確信が深まるからな。 だから、 たまにハイになってしまうタイプの うつ病というのは、 それはそれで 厄介なんだ。 あれは 傍から見るより、当人は 遥かに ツライんだ。 上述の例でも、風呂に入ったときに、 腰のつけ根のところに、 褥瘡の痕が出来ているのを見て、驚いた。 褥瘡というのは、 つまるところ ずっと 同じ姿勢で寝ているために、 圧迫された部分が 血流が悪くなって、 壊死してしまうんだ。 ハイなときには 鬱陶しいほど テンションがあがってる人が、 寝返りをうつ 気力も湧かないほど 眠らざるを得ない。 これが どれほどシンドイか、わかるか? うつ病は甘えだとか言うやつが たまに いるが、 そう思うなら いっぺん 褥瘡が出来るまで ひたすら 同じ姿勢で 寝てみたらどうだ? とにかく、そんなわけで、 うつ病のツラさというのは、なかなか 理解してもらえない。 そこが また 厄介なんだ。 とにかく、うつ病から抜け出すには、 何か 一つでも 問答無用で楽しいと 思えることとか、 一緒にいると なんか 楽しい人とか、 そういう存在が 絶対に必要なんだ。 そして、徹底的に 自分の 心のありようと 向き合うことが まず 必要だ。 絡まり合って ぐちゃぐちゃになった 心と、ひたすら 向き合って、 どこでどう間違えたのか、 ひたすら 考えることが必要だ。 ただし、これは これをやれば うつ病から抜け出せるって もんでもなくて、 言うなれば 「ジョジョの奇妙な冒険」の プッチ神父の ホワイトスネイクの攻撃みたいなもんで、 うつ病から 抜け出してみて 初めて 原因がわかるってことが ほぼほぼ 当てはまると思われる。 なにが原因で ウツになってるのか わかれば、そもそも うつ病には 簡単にはならない。 なんの慰めにもならないかも知れないが、 うつ病というのは 抜け出した人間にしか 対処方法が わからないんだ。 何しろ、自分の心の働きというのは、 たいてい 自分にしかわからないからな。 そういう意味では、 うつ病というのは よく知られた病いでありながら、 自分自身に 固有の病いと 言ってもいい。 とにかく、人間ひとりひとりに 個性があるのと 同じ意味で、 うつ病には 個性があるのだ。 だから、余計 難しい。 周囲の人間は理解してくれないし、 理解しようがない。 しかし、 繰り返すが、 やはり 最終的には 自分の 心のカギを そっと 預けて、そうして 誰にも 悟られることなく、 永遠に キープしてくれる 存在が必要。 そして、徹底的に 自分自身の こころのありようと 向き合い、 どうしたら うつ病に逆戻りしないか、を 徹底的に 考えることが大事。 確かに、うつ病ってのは 詳述したように、孤独だ。 しかし、だからこそ 人間というのは 他者を必要とする。 その意味で 孤独ではない。 そういう 存在だと 言える。

何かの防衛機制

働かなきゃいけない、とは ずっと 思ってて、 それこそ 病院に居た頃は、 大学を卒業することと、 就職して働くことが まず やむにやまれぬ 2大目標だったけど、 大卒は達成したが、 結局 この期に及んでも まだ 真面目に就職のことを 考えられなくて、学業を 優先する、というのは、 たぶん無意識レベルで 「働く」ということが 自分の中で タブーにさえなってる 気がする。 正直、働くことを 真面目に考えれば 考えるほど、 なぜか 眠くなる。 それはもう、自分の 精神構造の問題というか、 何か 「防衛機制」が 働いてるんじゃないか、としか 思えない。 くどいけど、高校生のときに 深刻なうつ状態になって、 そこから 抜け出す過程で 自分の人生設計をしたわけだけど、 正直あの段階では 「働く」ということまでは 到底 勘定に入れられなかった。 やっぱりこれか・・・? あの頃の自分に、 将来 自分自身が「働く」ことまで 考える 余裕は到底なかった。 正直 勉強は楽しいけど、 正直 かなり お腹いっぱいになってきた。

小論

仮に 野党の連中が 連立政権 組んだところで、 呉越同舟で まともに 政権運営なんか 出来ないと 思うけどね。 誰を 首相にするかで まず 揉める。 ぶっちゃけ、 国民民主党の 玉木は 国民にはウケてるが、 政治の世界では 人望ない。 (⇐たぶん) それ以前に、 自民党が 下野するようなことが 起きれば、 世界のマーケット から 失望されて、 ヤバいことになる。 自公政権が 担ってる政権運営の重責が、 若い世代には 過小評価されている。

2025年5月19日月曜日

どうやら

割と Googleの生成AIと 最近 やり取り することが多いんだけど、 なかなか 人間らしくて 面白い。 ほんで、 太陽誘電の話をしたら、 派遣から直接雇用の可能性もある、と 返されて、ああ、その道もあったか、とは 思うものの、 この年齢で 今さら 太陽誘電の正社員になることに あまり 興味をそそられない。 ぶっちゃけ。 厚生年金とか考えたら そうしたほうが良いのかも知れないが、 40過ぎて今さら? という 感が否めない。 それ以上に、自分としては、 そもそも仕事に そこまで夢見てないというか、 いくら英語できたとしても、 海外 飛び回って 商談で通訳する俺かっけー、 みたいに 感じられない。 わずかな可能性に かけてみよう、という 気すら起こらない。 くり返すが、 ハナから 仕事にそこまで 夢見てない。 どうせ仕事をするなら やりがいのある 働き方をしたい、とは 当然 思うが、 そこまで夢見てない。 最初から。 それなりに頑張って、 ふつうに 暮らせればそれで十分。 そもそも 英語だけじゃなく 韓国語まで勉強したのは、 ガツガツ働かなくても 生計を立てたいから。 自分の仕事観のモトにあるのは、 父親に対する アンチテーゼかも知れない。 仕事にすべてを捧げた 人間の人生の終わり方を 嫌と言うほど 知ってるから。

オッサンの床屋談義

自分は 石破さん 推しだけど、 石破さんが 首相の座にいることで、 将来の先行き 不安から、 消費が落ち込む、というなら、 退陣も仕方ない、と 思う。 確かに、 高市とかが 首相になって、気分的に 消費ムードが改善して 消費が上向くなら、 それはそれで 一つの選択肢ではあると思う。 しかし、重要なのは 一時的な 気まぐれによる 景気回復ではなく、 日本企業が 余剰資金を研究開発に充て、 日本の消費者の財布の ヒモを緩めるくらいの 「新機軸」を 打ち出すことが 長期的な視野に立った場合、 決定的に 重要なことだろう。 それを抜きにして、 政府と日銀が 大盤振る舞いしてくれるから、 それをアテにして 日本企業も 体質を改善しない、というなら、 本末転倒だ。 むしろ害悪ですらある。 日本企業が 社運を賭けるぐらいの 覚悟で 「新機軸」を 打ち出して、 消費者もその商品に魅力を 感じて 消費する、というぐらいの 勢いがなければ、 この国の未来は暗い。 その場限りの ユーフォーリアはむしろ 痛みを 麻薬でごまかすのと同じだ。 政治は経済だけが フォーカスされるべきではないが、 経済に関していえば、 そういうことが 言えるだろう。 ただ、かなり 難しい選択でもある。 日本企業が、政治の その場限りの バラマキで景気がよくなったところで、 かえって 何も 変わらない、というのが アベノミクスの教訓といえるだろう。 そういう意味では、 国民の側の 危機意識もかなり大事だ。 無駄に財布のヒモを 緩めろ、などとは言えないが、 「良いもの」よりも「安さ」を 追い求めた 消費者行動が、 日本企業の保守的な 経営体質を助長した側面も 否めない。

また行ってきた。

本日2回目。 また メンタルクリニック 行って来ました。 ようやく、肩の荷が下りた。 月曜の朝っぱらから ウイスキー 買っちゃったよ。 自分も 根が真面目で やたら 律儀な人間だから、 背負い込んじゃうと、 自分でも どうにも出来ないんだよね。 今日は、ようやく すべてでは もちろんないけど、 マジックから 解放された。

ホッと一息

かかりつけの メンタルクリニックに 行って来ました。 サンダルで歩いて ふつうに 行ける距離にあるのが、 信じられないくらい ありがたいよね。 もう 付き合いも長いし。 なんか、話を 聞いてもらえるだけで、 ホッとするよね。 やっぱ 生身の人間相手に 話すのと 生成AIに話すのとでは、 違うよね。

不胎化されたレポートその10 (再掲)

第10節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる三千代は、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。このように、夏目漱石は、経済の合理性の論理と、自家特有の世界との板挟みに遭いながらも、理性を放棄し、主観と客観との区別の放棄への道は採らずに、理性的な近代的個人に拘るのである。

てきとーな話

大相撲も、 自分が子供の頃からすると、 だいぶ ショボくなったよね。 あんまり記憶ないけど、 呼び出しの 声とか、行司の 立ち居振る舞いとか、 ふつうに カッコよかったもん。 横綱だって ふつうにいたし。 こっから先は 飽くまで個人的な いわば 「下衆の勘繰り」なんだけどさ、 日本人力士でも、すげえ ガタイがよくて 才能もありそうなやつが、 あんま ガツガツ横綱 目指してるように 見えないんだよね。 あたかも、下手に 横綱なんかになると大変、 番付さげてもらえないし、 横審っていう クソうぜえ連中から ゴチャゴチャ言われるし。 そんだったら、一度 大関ぐらいになっときゃ、 引退しても 親方で食ってけるし、 弟子を フルボッコして 重傷でも負わせない限り パワハラし放題、 タニマチがメシ奢ってくれるから いくらでも 食い放題、ってなったら、 今時の コスパだのタイパだの言う 若い連中が、 敢えて めんどくさいだけの 横綱 目指すかな? と 正直思うわ。 そのくせ、モンゴル人力士に対しては、 ほとんど ゼノフォビアと言っても 過言ではないほどの 集団いじめ するわけじゃん? これのどこが 「神事」なんだよ?

2025年5月18日日曜日

なんだろうな・・・

トランプ関税に 便乗して 降って湧いたように、 消費税の減税だの廃止だの 喧しいが、 朝日新聞の調べでは、 そのくせ 代替財源は呈示しろ、という のが民意だそうで。 俺も そんな政治ウォッチャーじゃないから よくわからんが、 消費税が 一番 世代間で公平な 税のあり方ってのが 通説じゃないのか? つまり、逆を言えば、 若い世代が、 シニア世代や 俺みたいな 社会保障の恩恵に浴している 連中を許せない、と 言いたいのか? でもさ、よく考えてみろよ。 今そうやって 怨嗟の声を挙げてる アンタらだって、 いつかトシくって 高齢者になったら、 社会保障のお世話に なるんだぞ? そん時のことまで 考えてるか? 確かに 今のシニア世代とか 俺みたいなのが 社会保障の恩恵に 浴してるのが 妬ましいのは わかるが、 じゃあ お前らが じーさんばーさんに なった時の 社会保障はどうすんだよ? それ考えて、果たして 安易に 消費減税だの廃止だの 言えるのか? ああ、でも 今回の参院選で 改選される参議院議員って、 6年前の選挙で当選した人たち、 つまり 安倍さんが 生きてた頃の人たちだから、 モロ保守に 凝り固まった人たちが 多い可能性があるから、 それ考えると、 比例で 自民党に入れたくはないけどね。 比例区違うと思うけど、 間違っても 杉田水脈とか 当選させたくないし。 正直。 群馬は自民党王国だから、 どうせ 対抗馬もロクなの 出てこないから、 出来レースだけど。

「脱常識の社会学」 ランドル・コリンズ 岩波現代文庫

確かに、ランドル・コリンズが 述べるように、 世の中は 合理性だけでは 継続して 存続しないものなのだろう。 無謀に リスクテイクしたり、 よく考えもせずに 子供をつくったり する人が いなければ、 人間社会というのは とっくの昔に 滅んでいたかも知れない。 俺だって、いい歳して 仕事に 「エンジョイ」を 期待するのはバカげている、と 正直 思うが、 仕事が楽しくなかったら、 資本主義なんか 存続しねえよ。 自分が仕事に 「やりがい」を求めるのも、 ある種の「詐欺」に 引っかかっているのかも知れない。 いわゆる「やりがい詐欺」。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、 直観や好き嫌いによって信・不信を決める。 だが、信用とは本来そうしたものではないのか。 客観的ないし合理的な裏づけをこえて 存在しうるところに、 信用の信用たるゆえんがある。 そして信用がそのようなものであるかぎり、 信用には常にリスクがともなう。 信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。 それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、 ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 p.90~93

飽くまで一般論として。怒られるかも知れないけど。

高崎に、太陽誘電ていう たぶん 半導体の会社があって、 その傘下に サンヴァーテックスっていう 派遣会社があるわけ。 そんで、 そこで唯一 英語と韓国語の派遣の 仕事の案件があるのよ。 で、大前提として、 英語オンリーだと、高崎でも まともな仕事って、ほとんど ないのよ。 だから、韓国語も必要なの。 だから、韓国語も遊びじゃないのよ涙は。 はっはぁ〜ん。 そんで、話を戻すと、 太陽誘電の傘下に サンヴァーテックスっていう 人材派遣会社があるわけだけど、 飽くまで一般論として、 親会社が、傘下の派遣会社から 派遣される社員を ちゃんと処遇するか? って 話よ。 もうそこはお互いのモラルの 問題かもだけど、 派遣される側は、 もう 俎板の上の鯉だよね。 足下みられたら、終わりじゃん。 人手不足だし、代えが利かない人材と 思わせたら 勝ちなのかもだけど、 それでも 身体がついていかなくなったら、 終わりだよね。 そう考えると、まー 世知辛い世の中だわ。 法的な制度設計の問題として どうなのよ? もちろん、高崎にも ほかに 人材派遣会社あるけど、 未経験てのはもちろんあるけど、 英語使うような 案件そもそもないのよ。 単に 秘匿してるだけなのかもだけど。 ・・・そんなこと考えると、 もう ほとんど目眩がするよね。 そこまでしなきゃ いかんのか? と。

Googleの生成AIに要約してもらった。 「やさしい経済学」 ー資金循環で見る日本企業の姿ー 帝京大学教授 田中賢治

なぜ、日本企業は資金余剰なのか? 日本経済成長への課題  ご提示いただいた文章を要約し、日本企業の資金余剰の背景、設備投資の状況、そして日本経済が持続的な成長を遂げるための課題について整理します。 日本企業の資金余剰の背景  日本の非金融法人企業は、1998年度以降、2006年度を除き継続的に資金余剰となっています。 この背景には、実物面での企業の行動、 すなわち投資よりも貯蓄が多い という状況があります。 企業の貯蓄は、会計上、 税引き後当期純利益から配当金を引いた 「フローの内部留保」に相当します。  企業が資金余剰となるのは、 このフローの内部留保に 減価償却費を加えた 自己資金の範囲内で 設備投資が収まっているためです。 設備投資の状況  設備投資の金額は、 過去のピークである1991年を 昨年ようやく超えたばかりであり、 長期的に見ると 力強い伸びとはいえません。 設備投資は将来の便益を得るための企業行動ですが、 企業は「今」の制約 (成長期待の低下、将来の不確実性、過去の失敗経験、企業の高齢化など) から設備投資に慎重になっています。  2010年代以降、企業の収益は堅調に推移し、財務体質も改善しているにもかかわらず、設備投資の伸びは鈍いままです。  これは、将来の成長期待の低下が大きく影響しており、 企業は大きな利益が期待できる投資プロジェクトを見つけにくい状況にあります。 余剰資金の行方と日本企業の資金の使い方  2010年度から23年度にかけて、 企業の利益剰余金は大幅に増加しましたが、 その間の有形固定資産や 無形固定資産の増加は 限定的です。  増加した資金は、主に以下の3つに向かっています。  自己株式の取得(自社株買い): 株主への利益還元策として活用されています。  現預金の保有: 将来の投資機会に備えるため、または過去の経済危機からの教訓として流動性を確保する目的で増加しています。  投資その他の資産: 国内外の子会社設立や他社の買収など、海外への投資が大幅に増加しています。  このように、日本企業は国内での設備投資は抑制的である一方、海外への投資には積極的な姿勢を見せています。 これは、日本国内よりも海外の方が成長期待が大きいと判断しているためと考えられます。 日本経済が持続的な成長をするための課題  日本企業は、 積み上がった自己資本を 設備投資や研究開発といった 将来に向けた投資に 十分に活用できていません。  低いROEやPBRは、その現状を示唆しています。 投資家の日本企業に対する成長期待が低い背景には、 将来に向けた投資姿勢が 十分に見られないことがあります。  国内の設備投資の低迷には、 低い期待成長率が深く関与しており、 その背景には家計の消費の弱さがあります。 過去の経済的な苦難や 人口減少・高齢化といった要因から、 家計は生活防衛意識が強く、「安いもの」を求める 傾向が強まっています。  その結果、企業は新しい製品・サービスを生み出す研究開発よりも コスト削減に注力し、 成長が期待できる海外へ 投資をシフトさせています。  このままでは、国内での前向きな投資が弱まり、 成長期待がさらに低下し、 家計の消費も低迷するという 悪循環に陥る可能性があります。  日本経済が持続的な成長を遂げるためには、 日本企業が 自己資本を有効活用し、 将来に向けた投資 (設備投資や研究開発)を 積極的に行うことが重要です。 そのためには、 家計の消費意欲を高めるような 経済状況を作り出すことも不可欠であり、 マクロ経済全体の課題として 取り組む必要があります。

仕事とエンジョイ

今までの人生で 唯一やった 仕事が、塾講師なんだが、 あれは ほんとに 報われなかった。 首都圏の進学校に通う 大学受験生に 英語を教えるのは 楽しかったが。 しかし、百歩譲って 小学生は我慢できるが、 幼稚園児にケンカ売られるのは 我慢ならない。 そのトラウマがあるから、 仕事ってものは 楽しくないし、報われないものだ、と 思っているのかも知れない。 いや、実際 報われない。 でも、ほんとは 報われるかどうかは別として、 面白い仕事ってのも あるのかも知れない。 自分はもう ふざけた 日本人を相手にしたくないからこそ、 英語と韓国語のスキルを 身につけたわけだが、 この年齢になって、 仕事を始めるのに 「楽しい」だけで 選んでいいとは 思わない。 自分が年齢的に中年だから というのも当然だが、 それ以前に 日本の経済的な将来見通しが まったく 視界不良なのに、軽率に 非正規の仕事に 就くのは 危険だとしか 思えない。 障害者として 最低限の生活を保障されているなら、 安易に その立場を放棄 するのは 賢明ではない、と 考える。 ・・・でも、そうやって 「合理的に」考える人が 増えるほど、 消費を手控え、 子供も作らず、 そして 財政ポピュリズムに傾倒する、という 救いようのない シナリオにまっしぐらだな。

血液検査の結果

肝臓の値 以外は 特段 問題ない、との ことでした。 血糖値はもちろん、 いつも言われる 中性脂肪も 特に 何も言われなかった 気がするし、 何より、 心臓に負荷が かかっていないか 調べる数値も、 特に 問題なかったようです。 (すげーな、俺の心臓。) でも、いつも 言われますが、 肝臓の値は少しだけ 言われました。 「摂取カロリーを抑えて」 と 言われましたが、 本音を言えば、 「そんな食ってねーよ。」 と 内心思いました。 20年も薬 常用してりゃあ、そら 肝臓も悪くなるだろうよ、と 素人考えでは 思いました。 ま、薬は メンタルの状況が改善すれば 自然と 服用量は 落ち着いてくると思うし。 とにかく、循環器の専門家に レントゲンと血液検査も してもらって、 心臓に 特段 問題はない、と お墨付きを 頂戴したので、安堵しました。 俺は まだ 生きられるらしい。 なんだかんだ、ホッとするよね。

2025年5月17日土曜日

チッ!モヤモヤするぜ。

まだ低めの変化球に 対応しきれてないな。 まだまだ 成長の余地がある。 平沼なら まだ もう一回り 大きくなってくれるだろう。 期待しつつ 見守るしかない。 今井が頑張って 封じ込めてたのに、 平良デブが 今井の勝ちを消しちゃったから、 負けてたら ムードが悪くなる ところだった。 最後 勝ちきれたのは良かった。 ・・・って、西武ライオンズの ファンでも何でもないんだが。  https://www.youtube.com/watch?v=1ela24UR0rc

なかなかキビシイ・・・

仮に 「働く」ことに関する 心理的ハードルを 超えたとしても、 じゃあ 英語できます 韓国語できます、で 食ってくのは、 正直たいへんだわ。 出来る、出来ないの 問題じゃなくて。 高崎市役所で 障害者雇用で ひたすら 単純作業するのも、 実際にやってみれば 色々と ストレスあるんだろうし。 何より、公務員になると 政治的活動をかなり 制限されるし。 つまり、政治的発言を 制限される。 それは嫌だ。 はあ。 結局、 障害者って立場が 一番 楽な気がしてくる。 考えすぎといえば 考えすぎかも知れないが、 正真正銘のスキゾフレニアのくせに、 かなり 親譲りの パラノイア気質でもあるな。 俺。 俺みたいな人間ばっかりだったら、 人間は 途中で 絶滅してたかも知れないから、 姉みたいな ヌケた人間も 必要なのかもね。

自己分析 ちょーキレイゴト

なぜ 働くことを まじめに 考えると 眠くなるのか、考えてみた。 もしかしたら、 カネのために働く、と 思うと、 ダメなのかも知れない。 そうではなく、自分の スキルで 誰かを 助けられたり、喜んでもらえる、と 思えば、 いわば 「働く」ではなく、「奉仕」だと 思えば、「働ける」のかも知れない。 単純に カネのために働く、というのは 確かに 一見 自明のことのように 思えるけど、実は それだけでは 虚しいものなのかも知れない。

福音書

誠に汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、 唯一つにて在りなん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。  ヨハネ伝第十二章第二十四節

やっぱバカはバカだな。

俺と母親が、 三島に旅行してるときに、 姉が、 YouTubeで 地震学者が 14:58に 地震が起きる、と 言っている、と わざわざ電話してきたからな。 結局 当然のごとく そんなドンピシャに 地震起きなかったけど。 50近くなって そんなアホなこと 平気で言ってるやつが、 東京に 変動金利で住宅ローン組んで 一戸建て買って 子供までいるって時点で、 この国は オカシイんだよ。 自民党の森山さんが 軽々しく 減税とかすると、日本が 財政破綻する、と 言ってたけど、そういう ことだよ。 日本人はバカすぎる。 あんたら、それでも 減税したいですか? ほんと、気が狂いそうだわ。 ついでに言えばね、 そんなバカに変動金利で 住宅ローン組んであげちゃう 銀行も責任あるんだけど、 銀行もバカじゃねーんだよ。 仕方ないんだよ。 この低金利じゃ。 銀行にとって、住宅ローンってのは いま一番 確実に稼げる手段なんだよ。 色々オプションとかつけられるらしいから。 さあて、どうなんのかね? やっぱ、なかなかキビシイわ。 生きてくって。

2025年5月16日金曜日

かなしいかな

英語の通訳だったら、 そんな 高いレベルじゃなきゃ 今すぐにでも 出来ると 思ってるのに、 生業にしようと思うと、 なぜか 催眠術にかかった みたいに、眠くなる。 なんだかなー。 英語の通訳ぐらい 半分寝てても出来る、っていう くらい 勉強したのにな。 「働く」と認識した途端に、 何かの 防衛機制が働くらしい。 いちおう 塾講師なら 曲がりなりにも 1年やったことあるから、 出来なくはないんだろうけど、 果てしなく めんどくせーだけだからな。 ガキうぜえし。 Whenever it comes to thinking of starting working, I feel seduced to sleep.

落ち着きどころ

俺は 確かに 経済的には 今だに 親に頼ってはいるが、 精神的には むしろ 小林家の 家長としての 重責を 担ってるんだ、と 思えば、不思議と 気持ちが落ち着く。 ・・・こう書くと、いやお前 母親と二人暮らしだろ? と 思われるだろうが、 小林家という、カネはあっても 精神構造は ヘドロ沼みたいなところを、 浄化して 水質管理までやってるような もんなんだから、そこまで 至るのが どれだけ大変か、ちょっとは 想像してみろ、って話よ。

インタゲと増税はワンセット (再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。

泉鏡花論 私信 (再掲)

鏡花は文学史的には、 まずは「観念小説」に分類されるのでしたよね。 明治も半ばを過ぎて、 まさに資本主義の 合理主義、功利主義が 体制化されてゆく中で、 金銭や身分違い、 それをめぐって 掻き立てられる 欲望が 悲劇を招いてゆく 人間ドラマを、 しかしながら 自然主義的なドロドロした 醜悪な現実を 剔抉する手法とは異なって、 華麗な筆捌きで、 哀切感溢れる 昇華された人情の物語へ 仕立て上げているのが特徴、 といえばよいでしょうか。 (なにしろ鏡花は、 あの絢爛豪華な文体で 明治の人情世態を描いた 尾崎紅葉に入門したこともありました。) 特に 「夜行巡査」 「外科室」 などは、 社会の暗黒面 ーーいわば社会による疎外という テーマ性を有している点で 「観念小説」と呼ばれ、 このジャンルの代表作でもありますが、 上述のような 文体と作法を特質とするため、 小林くんの感じている 怪奇性やロマンティズムは 遺憾なく発揮されています。 この点を より発展させた大きな作品が、 『高野聖』『草迷宮』『夜叉が池』などで、 ここまでくれば 耽美的な「幻想文学」と称しても良いのでは、と。 「幻想」 は もちろん 人間の深層意識と不可分なので、 精神分析の手法を使いたくなるところです。 けっして 鏡花に詳しくはないので、 大きなことは言えないのですが、 とりわけ『高野聖』は、 人間が社会秩序に拘束され、 抑圧し続けている 「深層意識」を着眼点に、 日常 ー表層意識 対 非日常ー 深層意識 を機軸にして作品を読み解けば、 まさにテクストの 網目のようなものが 鮮明に見えてくる作品ではないかと思われます。 後には高僧となったという 若い日の「宗朝」が、 ふとしたことから迷い込んで、 一夜の宿りを求めた山中の一軒家は、 修行僧の日常が 抑圧してきた 彼の深層世界の現れ、 とでも言えそうです。 処女のような羞らいを見せるかと思えば エロティックな姐御の風貌も見せる 不思議な美女、 取り巻く猿や蟇の魑魅魍魎たち、 下僕のようでありながら 監視者でもあるような 「親仁」、 そして 心身の機能を奪われながら、 美女に かしずかれて 天上の声のような 清澄な唄声を響かせる 「白痴」。 お膳立ては十分、といった感じです。 そして、 この「白痴」を基点に、 この魑魅魍魎の山中の世界とは、 実は 近代国家によって 損傷され、周縁化された者たち ーー治療の過誤で不具にされてしまった者、 人間によって疎外された 動物たちこそが王座を占める、 日常の現実を反転させた 〈さかしまの世界〉 ではないか、と考えた時、 『高野聖』は、 単なる精神分析の対象を超えた、 一つの世界像として 見事に立ち上がってくるように思われます。 抑圧された者たちの、 いわば撓められた負のエネルギーが 一気に噴き出して 世界を反転させる時、 新たな世界の頂点は、 それまで最も抑圧されていた者たちによって 占められる‥。 ましてや、 上述のように きわめて両儀的な風貌を 見せる美しい女は、 名医とは名ばかりで 正しい医療知識とは無縁で、 今の「白痴」 ーー五体満足な少年の日の彼を 心身の機能の癒えた 「白痴」にしてしまった 藪医者の一人娘であったとなれば、 貧富や貴賤という 現実社会の権力関係が 反転した世界に於いては、 彼女は被害者 「白痴」 への人身御供的なポジションに あるのではないかといった 見立ても可能になってきます。 このように 山中一軒家の世界を、 近代化・文明化の過程で 抑圧されたものたちが徘徊する、 つまりはフロイド的な 「不気味なもの」 が何らかの機縁を以て 回帰してきた空間として、 明快かつ精密に読み解いた見事な論考に、 堀井一魔氏の 「国民の分身像ー泉鏡花「高野聖」における不気味なもの」 (『国民国家と不気味なものー日露戦後文学の〈うち〉なる他者像』、新曜社) があります。

2025年5月15日木曜日

Googleの生成AIマジ便利。とりあえず疑問が解決した。 (再掲)

ご質問ありがとうございます。野間先生との質疑応答を踏まえ、家計の国際投資と日本の財政、経常収支の関係について、さらに深掘りしてご説明します。 家計の国際投資と経常収支の黒字について 野間先生のご指摘の通り、現在、日本の家計が海外の金融資産(国債や株式など)を購入した場合、国際収支統計上は金融収支の黒字として計上されます。これは、将来の利子や配当という収益を生み出す金融資産が増加したと捉えられるためです。 重要なのは、経常収支の黒字と金融収支の黒字は、国際収支という大きな枠組みの中で、異なる側面を表しているということです。 経常収支: 主に財・サービスの貿易、第一次所得収支(雇用者報酬、投資収益など)、第二次所得収支(無償援助、贈与など)のフローを示します。貿易黒字は、日本の財・サービスが海外で売れ、外貨が流入している状態を示します。 金融収支: 主に金融資産・負債の取引のフローを示します。日本居住者による海外資産の取得は金融収支の黒字(資産の増加)、海外居住者による日本資産の取得は金融収支の赤字(負債の増加)として記録されます。 経常収支黒字でも財政赤字をファイナンスできない可能性 ご指摘の通り、経常収支が黒字であっても、それが直ちに政府の財政赤字をファイナンスできるとは限りません。その理由を以下に説明します。 貯蓄と投資の主体: 経常収支の黒字は、国内の総貯蓄が総投資を上回っている状態を示唆しますが、その貯蓄の主体が必ずしも政府に資金を貸し付けるとは限りません。家計や企業が海外への投資を増やせば、その分の貯蓄は国内の政府ではなく海外に向かうことになります。 資金の流れ: 松原先生が述べられているように、恒等式 (S−I)=(G−T)+(X−M) は成り立ちますが、これはあくまで事後的な関係を示しています。民間の貯蓄(S)が投資(I)、政府の財政赤字(G-T)、貿易黒字(X-M)のいずれに向かうかは、個々の経済主体の意思決定に左右されます。 金融収支の役割: 家計が海外投資を増やし、金融収支が黒字になるということは、その分の資金が国内の国債購入に向かわない可能性を示唆します。したがって、経常収支が黒字であっても、国内の貯蓄が必ずしも政府の財政赤字を十分にファイナンスできるとは限らないのです。 日本国債の安定的消化と財政の持続可能性 現時点では、日銀による大規模な国債買い入れや、依然として根強い国内の現預金志向によって、日本国債は比較的安定的に消化されています。しかし、ご懸念の通り、以下のような状況が進行すれば、将来的には国債の安定消化が難しくなる可能性があります。 民間の海外投資の増加: 円安バイアスが強まり、家計や企業が積極的に海外投資にシフトした場合、国内の国債購入資金が減少する可能性があります。 貯蓄率の低下: 少子高齢化が進み、現役世代の負担が増加することで、家計の貯蓄率が低下する可能性があります。 海外投資家の動向: 海外投資家が日本国債のリスクを意識し、購入を控えるようになる可能性も否定できません。 ロイターの記事が指摘するように、日本の財政の持続可能性を高めるためには、民間の余剰貯蓄を国内の成長投資に振り向けることが重要です。新しい有望な企業が次々と生まれ、国内で投資が活発化するような経済構造に転換できれば、政府の財政赤字への依存度を下げることができます。 結論 経常収支の黒字は、日本の経済の強みを示す一方で、それが直ちに政府の財政赤字をファイナンスできるわけではありません。家計の国際投資の増加は金融収支の黒字として計上されますが、国内の貯蓄が海外に流出する可能性も示唆しており、国債の安定消化には必ずしもプラスに働きません。 日本の財政の持続可能性を確保するためには、単に経常収支の黒字を維持するだけでなく、国内の投資を活性化し、民間の貯蓄が国内の成長に貢献するような経済構造を構築することが不可欠です。

Googleの生成AIが上手い具合にまとめてくれた。 (再掲)

ご質問ありがとうございます。いただいた3つの質問とそれに対する回答、そしてロイターの記事に関する考察、MM理論に関する質問について、それぞれ整理し、より深く掘り下げた議論を展開したいと思います。 質問1について:「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのですか。」 ご指摘の通り、現在の日本経済は民間部門の余剰貯蓄が政府の財政赤字をファイナンスする構造になっています。 恒等式 (I−S)+(G−T)+(X−M)≡0 において、貿易黒字 (X−M)<0 の場合、I−S+G−T≡−(X−M)>0 となり、もし I>S であれば、G−T はよりマイナス(財政黒字)になる必要があります。 現状は S>I であるため、I−S<0 であり、G−T>0 (財政赤字)と恒等式は維持されています。 もし仮に民間部門の余剰貯蓄が投資に向かい、I>S の状態になれば、恒等式を維持するためには G−T<0 、つまり財政黒字になる方向へ力が働きます。 しかし、政治的にそれが可能かどうかという点は非常に重要な問いです。 政治的な困難性: 政府支出は様々な既得権益や国民の要望に支えられており、景気が回復し投資が活発になったとしても、政府が自ら支出を大幅に削減し、財政黒字を目指すインセンティブは働きにくいと考えられます。むしろ、好況を背景に更なる財政出動を求める声が強まる可能性すらあります。 日銀やGPIFの役割: ご指摘の通り、もし民間部門の貯蓄が投資に回れば、国債の買い手がいなくなる可能性があり、結果として日銀やGPIFといった公的部門が国債の引き受けを増やさざるを得なくなるかもしれません。これは、財政赤字の直接的な解消には繋がらず、むしろ日銀のバランスシート肥大化やGPIFの運用リスク増大といった新たな問題を引き起こす可能性があります。 好況による税収増: 回答にもあるように、健全な状態とは、投資が活発になり好況となることで税収が増加し、結果として財政赤字が縮小するというメカニズムが期待されるものです。これは政治的に政府が支出を削減せずとも、経済成長によって自然と財政状況が改善するというシナリオです。 結論として、投資が貯蓄を上回る健全な状態は財政赤字縮小の圧力となりますが、それが「自動的に解消される」と断言することはできません。政治的な意思決定や、日銀をはじめとする金融機関の動向が大きく影響するため、予断を許さない状況と言えるでしょう。 質問2について:ロイター記事と日本の経済構造 松原先生のご指摘の通り、日本経済は「ものづくり立国」から「金融資産立国」へと変化しつつあります。これは、過去の貿易黒字の累積によって巨額の対外純資産を保有していることに表れています。 国際収支発展段階説: 日本が第6段階に入っているという見方は、経常収支の黒字が縮小し、対外純資産からの収益が主要な収入源となる段階を示唆しており、現状を的確に捉えていると言えます。 ロイター記事の指摘: 記事が指摘するように、経常収支の黒字が減少傾向にあることは、日本経済の成長エンジンが弱まっていることを示唆します。今後は、対外純資産からの利子収入に依存するだけでなく、新たな成長分野を創出し、国内の投資を活発化させる必要があります。 財政の持続性: 民間の余剰貯蓄を吸収するような革新的な企業が生まれず、国内投資が低迷したままでは、政府は引き続き民間の貯蓄に依存せざるを得ません。これは、政府債務の増大を招き、財政の持続可能性に対する懸念を高めます。 ロイター記事が「稼げる産業の再構築が急務」と主張しているように、日本経済が持続的な成長を取り戻し、財政の安定化を図るためには、S>I の状態から I>S の状態への転換が不可欠です。そのためには、規制緩和、技術革新の促進、新たな需要の創出など、多岐にわたる政策努力が必要となります。 質問3について:MM理論と日本のバブル崩壊後の不況 MM理論は、完全な市場という仮定の下では、企業の資金調達方法(自己資本か他人資本か)は企業価値に影響を与えないと主張します。しかし、現実の市場には税制、倒産リスク、情報非対称性などの要因が存在するため、MM理論がそのまま当てはまるわけではありません。 日本のバブル崩壊後の状況: バブル崩壊後、日本の金融機関は不良債権問題に苦しみ、企業への融資姿勢を大きく引き締めました(貸し渋り、貸し剥がし)。このような状況下では、MM理論が想定するような円滑な資金調達は困難でした。 証券市場の役割: 理論的には、銀行からの借り入れが難しくなった企業は、株式発行などを通じて証券市場から資金を調達することが考えられます。しかし、当時の日本経済は景気低迷が深刻であり、企業の収益見通しも不透明であったため、投資家のリスク回避姿勢が強く、株式発行による資金調達も容易ではありませんでした。 企業の行動変化: 回答にあるように、日本の企業はバブル崩壊後、積極的に借り入れを行うのではなく、内部留保を積み増し、自己資本比率を高める傾向を強めました。これは、金融機関への不信感や将来の不確実性に対する備えという側面があります。また、デフレ経済下では、積極的に投資を行うよりも、手元資金を確保する方が合理的という判断も働いたと考えられます。 「借りる」から「貸す」へ: 日本の企業が証券市場から「借り」ずに「貸す」側に回ってしまったのは、まさにバブル崩壊後の特殊な経済状況と、それに伴う企業行動の変化を示しています。これは、企業家精神の減退というよりも、厳しい経済環境の中で生き残るための合理的な選択であったと解釈することもできます。 結論として、バブル崩壊後の日本経済においては、金融機関の機能不全、景気低迷、企業の慎重な姿勢などが複合的に作用し、MM理論が想定するような資本市場を通じた円滑な資金調達は実現しませんでした。むしろ、企業はリスク回避的な行動を取り、内部留保の積み増しと債務圧縮に注力したと言えるでしょう。 これらの議論が、先生の深い洞察への理解を深める一助となれば幸いです。

日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)

行政法の概念に、 「行政指導」と呼ばれるものが存在する。 行政は、 本来「行政行為」と呼ばれる、 命令する主体としての行政と、 名宛人の市民との 主体・客体関係が ハッキリしている手段で 運営されるべきものだが、 「行政指導」という、 極めて日本的な、 主体・客体関係が不明瞭な手段が、 行政の運営上横行している。 もっとも、 行政指導それ自体が問題なのではなく、 行政指導が、 本来強制力を伴わないものであるはずなのに、 従わなければ 往々にして 市民が制裁を加えられることが、 常態化しているという現実がある。 また、それに留まらず、 行政指導が 医療のあり方に絶大な影響を与えている。 どういうことか。 日本の医療制度において、 ある一定の地域に、 十分な病床数が確保されている場合、 新規に医療業者が参入しようとするとき、 保険適用が受けられず、 自由診療で開業せざるを得ない、 という現実が、 行政指導によって正当化されている。 これは明らかに 既存の病院の権益を守り、 新規参入者を 不当に排除している。 問題はこれに留まらない。 特に精神医療において、 1950年代にフランスで 画期的な抗精神病薬が開発され、 欧米先進国では 病床数が減っていったにも関わらず、 日本では逆に病床数が増えた。 これは、 戦後、精神病患者を建前上 しっかり治療しようとの方針から、 精神病院の数が増えたからである。 そこで、戦後、精神病院が増設される際、 一定の範囲で病床数を確保してしまえば、 地域の患者を独占できてしまう、 という経済的合理性によって、 精神病院が往々にして 大規模化したことが推測される。 言わずもがな、これは行政指導によって、 いったん多くの病床数を確保してしまえば、 新規参入者を排除できることが、 精神病院の大規模化を促したと 容易に考えられる。 そして、元厚生労働大臣が、 戦後日本の医療制度を構築した 武見太郎の息子である武見敬三である現実では、 これが改められる可能性は極めて低い。

不胎化されたレポートその2 (再掲)

第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。

ドストエフスキー (再掲)

信仰箇条と言うのは、 非常に簡単なものなのです。 つまり、次の様に 信ずる事なのです、 キリストよりも 美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にはない、と。 実際、僕は 妬ましい程の愛情で 独語するのです、 そんなものが他に ある筈がないのだ、と。 そればかりではない、たとえ 誰かが キリストは 真理の埒外にいるという事を 僕に 証明したとしても、又、事実、 真理は キリストの裡にはないとしても、 僕は 真理とともにあるより、 寧ろ キリストと一緒に いたいのです。  (ドストエフスキー フォンヴィジン夫人宛て書簡)

キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)

問い:幸福とは何か。 ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。 したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。 たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。 ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、 この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、 その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。 ☆人生を「まじめに」考えること  1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。 しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。 われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。 構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。  2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。 たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。 実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。 したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、 ほんとうの気持ち・実感から発想したことが 同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。  3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、 それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。 われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。 お金儲けや名声・地位等のためのことは、 お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、 「次の問い」を予想する。 ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ 成就しない、という結論を導くことができる。  4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。 ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。 かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。 これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。  5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで 行いうるものとは考えられていない。 実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

闘う家長

昨日は、 精神錯乱してから 21年ということで、 母親と ふたりで 土浦に旅行に 行って来ました。 お目当ての中華料理店が 定休日だったので、 急遽 スペイン料理屋に入ったら、 すげえ 美味くてびっくりした。 いい気分転換に なりました。 そこで 思ったのですが、 自分は、たしかに 43にもなって 経済的には 親に養ってもらってる 身ではあるけれども、 しかし、精神的な面で見れば、 父親 亡きあとの 小林家を精神的に 支える 支柱としての役割を しっかり 果たしているな、と 思います。 決して 親に甘えているばかりではない。 いわば、小林家の 「家長」 としての 役割をしっかり 果たしている、と 思います。

Googleの生成AIがまとめてくれました。 なぜ米は安くならないのか?

おっしゃる通り、自動車メーカーが自社の中古車を整備して高めの価格で販売する背景には、新車の値崩れを防ぐという目的があります。 これは、米の備蓄米の放出を安易に行わない理由と、構造的に似ていると言えますね。 自動車の場合: 大手自動車メーカーが安価で良質な中古車を大量に市場に放出すると、消費者はそちらに流れやすくなり、新車の販売が落ち込み、結果として新車の価格を下げざるを得なくなる可能性があります。メーカーは、自社の中古車に一定の価値を与え、中古車市場全体の価格を維持することで、新車の価格帯を維持しようとするわけです。 米の場合: 政府が備蓄米を安価で大量に市場に放出すると、消費者はそちらに流れやすくなり、新米の価格が下落する可能性があります。これは米農家の収入に直接影響するため、政府は慎重な対応を取る必要があります。 どちらのケースも、既存の(新車/新米)市場の価格を維持し、生産者(自動車メーカー/農家)の利益を守るという点で共通しています。 授業で聞かれた話と、備蓄米を安く売らない理由には、共通する経済的なメカニズムがあると言えるでしょう。

ビジネスと経済学@茨城大学 (再掲)

トヨタのT-UPみたいに、 大手の自動車会社が 中古車市場に参入するのも、 安い良質な中古車が 市場に出回ると、 新車が値崩れ起こすから、 そうならないように、 自社の中古車を ちゃんと整備して、 中古車の価格を 高めに維持することで、 新車の値崩れを防いでいる。 と、授業で 聞いた。

Googleの生成AIに聞いてみた。 なぜ米は安くならないのか? その2

質問:政府が備蓄米を安値で市場に流通させないのは、新米の価格が値崩れを起こすのを防ぐためでしょうか?  google geminiの回答:ご指摘の通り、政府が備蓄米を安値で市場に大量に流通させない理由の一つとして、新米の価格が値崩れを起こすのを防ぐという側面は考えられます。 もし、この時期に大量の備蓄米が安価で市場に出回ると、消費者はそちらに流れやすくなり、秋に収穫される新米が高値で売れにくくなる可能性があります。これは、米農家の収入に直接影響するため、政府としても無視できない要因です。 備蓄米の放出は、あくまで市場の需給バランスを一時的に調整し、価格の急激な高騰を抑えることを目的としていると考えられます。そのため、放出量や価格設定も、新米の価格に過度な影響を与えない範囲で行われる傾向があります。 ただし、備蓄米を安く売らない理由は、新米の価格維持だけではありません。前回の回答で述べたように、備蓄米の目的、市場全体の安定、品質の問題なども考慮されています。 総合的に見ると、政府は、 食料安全保障としての備蓄米の維持 米市場全体の安定 消費者への適切な価格での供給 農家の所得維持 といった複数の要素を考慮しながら、備蓄米の運用を行っていると考えられます。 ご参考になりましたでしょうか。

Googleの生成AIに聞いてみた。 なぜ米は安くならないのか? その1

質問:米が高いと消費者の不満が高まっていますが、なぜ備蓄米を安く売らないのでしょうか?  google geeminiの回答:お米の価格高騰で消費者の不満が高まっている状況、お察しいたします。備蓄米を安く売らない理由としては、主に以下の点が考えられます。 備蓄米の目的: 備蓄米は、食料安全保障の観点から、災害や不作などによる供給不足に備えるために保有されています。安易に放出してしまうと、いざという時に十分な量を確保できなくなる可能性があります。 市場価格への影響: 大量の備蓄米を安価で放出した場合、市場価格が大きく下落し、現在高値で販売している農家や流通業者に影響を与える可能性があります。政府としては、市場の安定も考慮する必要があります。 備蓄米の品質: 長期間備蓄されている米は、品質が低下している可能性もあります。安価で販売することで、かえって消費者の不信感を招く恐れもあります。 放出の仕組み: 備蓄米を放出する際には、一般的に入札などの手続きが行われ、市場価格を大きく下回る価格で放出されることは少ないと考えられます。 ただし、足元の米価高騰に対して、政府も対策を講じています。例えば、2025年3月には備蓄米の一部放出が行われました。しかし、その効果や放出量については様々な意見があります。 ご参考になりましたでしょうか。

2025年5月14日水曜日

悪意すら感じる

最近の テレビの演出というか、 映像の見せ方には、 ほとんど 悪意すら感じる。 今朝も、たぶんテレ朝で 年金改革案が置き去りに されたまま、 という内容が、 石破首相が 美味しそうに ご飯を頬張る 映像とともに 流されていたが、 これ 完全に印象操作だろ。 国民は将来の年金が おぼつかないのに、 世襲政治家が美味しい思いを している、と 言わんばかりの。 この年金改革案が 置き去りになったのは、 参院選を前にして 与党だけでなく 野党議員だって 国民に痛みを 強いる度胸がないから 必然的にそうなったわけで、 なにも 石破首相が 一人責任を負わされるべき ものでは 全くない。 そういう意味では、本気で テレビの 悪意を感じるし、 印象操作 以外の何ものでもない。 安倍さんだったら、こんな 映像 絶対流させないぞ。 テレビの凋落っぷりは ヤバい。 さすがに酷いから、 テレ朝にメール送りつけて 抗議してやったわ。

「社会経済の基礎」質問と回答その4 (再掲)

質問:ミラーとモディリアーニによるMM理論によれば、税制その他の要因を無視して考えれば、企業が資金調達するに当たり、自己資本(株など)でも他人資本(金融機関からの借り入れ)でも差はない、とされますが、日本のバブル崩壊後の不況において、銀行がダメなら証券市場で資金を調達しよう、という論理にはならなかったのでしょうか?  回答:日本経済ではバブル崩壊後、とりわけ1998年頃から(I-S)+(G-T)+(X-M)≡0という恒等式において、(S-I)=(G-T)+(X-M)がプラスになっています。 これは資金貸借の面で、貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額を、財政赤字(GーT)分は政府へ、貿易黒字分(XーM)は海外に貸し付けていることを意味します。 これは本来、ありえない状況です。なぜなら「資本主義」とは、企業家が銀行から借り入れたり、株式を発行して他人資本を集め、不確実性に満ちた世界に挑む経済制度だからです。MM理論等はこうした状況を想定しています。ところが日本では、企業がカネを借りるのではなく貸しています。企業は銀行に「貸し剥がし」を迫られた四半世紀前から、内部留保を貯め込み自己資本で経営し、残ったカネは貸すようになりました。 日本の企業はバブル後に銀行離れを起こしただけでなく、ものづくりで稼ぐことからも離れ、証券市場から「借り」ずに「貸す」方に向いてしまったのです。これはものを作って稼ぐ自信(企業家精神)を失ってしまったことを指しています。

「社会経済の基礎」質問と回答その3 (再掲)

質問:「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのです。」(262ページ)というご論は納得できました。 しかし、287ページにおいて、松原先生は「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」と書いておられます。 そして、同287ページにおいて「すでに日本はものづくり立国よりも金融資産で立国していると言えます。」と記されておられます。(つまり、国際収支発展段階説に立てば、日本はすでに第6段階に入っていると考えられます。) そこでですが、以下のロイター通信の記事に関してですが、財政の持続性という観点から考えても、民間の余剰貯蓄を吸収するような新しい企業が日本に澎湃と湧き上がってこなければ、やはり将来的には見通しが厳しいのではないかと思われます。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX/  回答:「資金貸借の面で貯蓄のうち国内の民間では使い切れなかった貯蓄・投資差額が、財政赤字(GーT)分を政府へ、貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると読めます。」というのは、 (I-S)+(G-T)+(X-M)≡0という恒等式から (S-I)=(G-T)+(X-M) となることを言っています。 このうちフローとしての貿易黒字分(XーM)を海外に貸し付けていると、ストックとしての対外資産負債残高になります。日本はこれまでのX-Mの累積により世界一、対外純資産を保有している国です。 ものづくり立国とはI>Sによる設備投資で立国することで、それができない現状で日本は金融資産(対外純資産からの利子)で収入を得ています。 しかしフローとしてのX-Mの蓄積スピードが徐々に遅くなっているというのがロイターの記事で、そうなると日本にとっての収入は対外純資産からの利子ではあるものの、対外純資産もこれからはのびなくなることになります。 ロイター記事「経常収支でも進む黒字減少、稼げる産業の再構築が急務」はS>IからI>Sへの逆転が必要と主張しており、私と同じです。

「社会経済の基礎」質問と回答その2 (再掲)

質問:「投資が貯蓄を上回るという 健全な状態に戻れば、 財政赤字は 自動的に解消されるのです。」 (262ページ)とありますが、 民間部門の余剰貯蓄が 政府部門の財政赤字を ファイナンスしている現状では、 もし仮に 民間部門の余剰貯蓄が 投資へと向かえば、 政府部門は 財政赤字を縮小せざるを得ないと 思われますが、 政治的に それは可能でしょうか? 結局は日銀や、 直近では GPIFのような金融機関に 財政赤字をファイナンスしてもらう 結果になってしまいそうですが。  回答:(I-S)+(G-T)+(X-M)≡0は恒等式です。 貿易黒字の場合、(I-S)+(G-T)≡ -(X-M)<0 、左辺は0以下。 現状はI Sになると、I-S> 0であるためG-T<0にならないと恒等式を維持できない。G<T財政黒字とI> Sは併存している。 これはGをT以下に政治的に押し込めることができるかという問題ではなく、好況でTが拡大するのでしょう。

「社会経済の基礎」質問と回答その1 (再掲)

質問:ガーシェンクロンによる「キャッチアップ型工業化論」から、夏目漱石への連接についてですが、この脈絡は、何か先行研究があるのでしょうか?  回答:先行研究ではなく、漱石自身が自己分析をしています。 「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、「私のここに他人本位というのは、・・・人真似を指すのです」(p.112)、「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えました」(115)。 また「現代日本の開化」(明治44年、同所収)によると、開化すなわち近代化には「外発的」な欧米の人真似と、「内発的」なものとがあります。 漱石は「外発的」で「他人本位」から「内発的」で「自己本位」へ転じることで不安を逃れることが出来たとしていますが、それを松原はガーシェンクロンの「模倣」から共有資本の「自生」への転換、と理解しています。  追加でご回答いただきました。:先行研究ではなく、漱石自身が自己分析した文章を私なりに解釈したものです。 「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、漱石の「不安」は自分が英文学を果たして本当に理解できているのかにかかわっていました。 「いくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です」(p.113)。では何を借りて威張っているのかというと、「私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです」(p.112)。  「私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいう所と私の考えと矛盾・・が果たして何処から出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、遡っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない」(p.114)。  文学が対象とするのは自然や人情(人間関係にかかわる感情)、習慣、国民性です。漱石は英国で自生したそれらの共有資本を日本人が心から味わえているのか、英国人批評家の尻馬に乗って人真似しているだけではないか、と煩悶し不安になり、最終的に「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えました」(p.115)という心境に至りました。自然や人情、習慣、国民性は、自己本位に自生したものでないと、自信を持って論評できないと考えたのです。  ガーシェンクロンは、途上国は先進国の模倣をすることにより、経済的には早足で成長しうることを発見しました。英米の帝国主義に怯えた明治政府が目指したのはこれです。しかし先進国の共有資本を模倣した、すなわち漢籍に心落ち着いていた幕末日本人の文学的感性に英文学を押しつけた、同様に5音階でしかない音楽に西洋音楽の7音階をはめ込み、日本的美意識に西洋絵画の構成を持ち込んだ結果、漱石は自分では心から英文学を理解することができないという「不安」に巻き込まれてしまったというのです。漱石の不安は「ガーシェンクロンの模倣」の副産物と言うべきでしょう。  また「現代日本の開化」(明治44年、同所収)によると、開化すなわち近代化には「外発的」な欧米の人真似と、「内発的」なものとがあります。漱石はガーシェンクロンの「外発的」で「他人本位」な開化から「内発的」で「自己本位」の開化へ転じることで不安を逃れることが出来たというのです。これは共有資本が浸食を受けた状態から「自生」を回復することへの転換により、不安が解消されるということでしょう。

近代日本経済史@北九州サテライト レポート (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)

質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。

<近代>と周縁化 (再掲)

後期資本主義批判を アドルノから荻野先生の社会学、 ゲーテを経て 漱石まで展開した動画を有り難う。 アドルノの後期資本主義批判は しばしば読ませてもらっていたところですが、 今回は 荻野氏の「詐欺」論へ 連接させることで、 論がひときわ具体性を増し、 鮮やかな像を結んだように思います。 不確定性に賭ける「詐欺師」とは、 計量と数値化を旨とする 近代合理主義社会の、 いわば虚をつく存在。  資本主義社会の到達点ともいえる 「管理社会」への 批判的メタファーなのですね。 それが足を置く場は、 まさに 資本主義社会の 「市場」の余白とでも表すべき領域。 とすれば、小林くん講話の 後半部のキーワードともいうべき 「自然」が、 まさに 商品の 等価交換から成り立つ 「市場」の〈外部〉であることと きれいに響き合っていることに、 つくづく感心しました。 そして、近代作家とは、 まさにその〈疎外〉感を以て、 同じく 近代が周縁化してしまった 〈自然〉 へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。 日本近代の場合、 より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、 これをまさに 〈じねん〉 にみられるような 概念化への苦闘を経ることで、 欲望的な世界から 帰還してくるのが漱石、 ということになるでしょうか。 「ファウスト」こそ詐欺師では、 との小林くんの呟きにクスリとしながら つい頷いてもいるのですが、 その葛藤が 〈魂の救済〉 なるもので終結するのは、 やはりなんといっても キリスト教文化圏ならではの展開でしょう。 かの有名な 「疾風怒濤」期に 端的に現れる ゲーテの自然観 (近代的「自然」の発見)は、 日本の場合、 漱石よりも、北村透谷を経た 自然主義文学への影響の方が大きそうです。 いささか余談ですが、 ゲーテも、漱石も、そして ほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象 ーー 〈女性〉 もまた 〈近代〉 が周縁化した存在なので、 なるほどテクストというものは 論理的かつ時代精神を おのずから反映したものだ、 と改めてつくづく納得した次第です。 いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。 今回、頂戴した小林くん講話に これまで頂戴している 論考から得た知識を総合すれば、 資本主義-市民社会がもたらす 疎外、物象化に対する 苦悩という名の 徹底的相対化、 これこそが 漱石の文明批評の基盤であることが、 まさに 鮮明に図式化されて見えてくる感じです。 今回は 「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、 アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、 ここから展開してゆくのが、 何度か拝見させてもらった、 アドルノを援用した小林くんの 「それから」 論ですね。 主客分離から生じる疎外を批判し、 人間の自然 および身体の抑圧を論じながら、 原初的まどろみへの回帰は 徹底的に封じた アドルノの論理展開が、 何と代助の解読に有効であるか、 は、つねづね痛感するところです。

不胎化されたレポートその10 (再掲)

第10節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる三千代は、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。このように、夏目漱石は、経済の合理性の論理と、自家特有の世界との板挟みに遭いながらも、理性を放棄し、主観と客観との区別の放棄への道は採らずに、理性的な近代的個人に拘るのである。

夏の参院選

たぶん 国民民主党が 議席数 増やすんだろうけど、 まあ ゆーても 参議院だからな、ってのも あるけど、 将来的に 国民民主党が 他の 党と組んで 連立政権 担えるか、と いえば、 多分 ムリだと思う。 国民民主と維新は 仲悪いし、 玉木さんと 立憲民主の執行部とだって、 折り合いが悪い、みたいな 話を聞いたことがあるし。 自公政権は、一応 政権運営を実際にやってきたわけだし、 政権を実際に担う、というのは、 マラソンでいえば 風当たりの強い フロントランナーをやるようなもんで、 つまり 色々と 風当たりも強い。 いまの 野党連みたいに、 口先だけで都合の良いことを 並べ立てれば 運営できるほど、 政権運営というのは 甘くない。 自公政権が支配力を 弱めたとしても、 今の 野党連が政権を担って 根本的に 政治を変えられるとは、 到底 思えない。 むしろ怖いのは、 れいわ新選組みたいな 極左みたいなのとか、 あるいは 逆に 極右みたいな 極端な 政党が、 日本が経済的に 極度に 衰退した時に、 実権を掌握してしまうこと。 これが 一番ヤバい。 ナチズムとか、あるいは 権威主義国家 体制になりかねない。

2025年5月13日火曜日

Googleの生成AIに聞いてみた。結構大事な話。

質問:財務指標で、企業が、借入金(他人資本)をどれだけ有効活用できているか、を表す指標は、なんですか?  google geminiの回答:企業が借入金(他人資本)をどれだけ有効活用できているかを示す財務指標としては、主に以下のものが挙げられます。 総資本回転率 計算式:売上高 ÷ 総資本 総資本(自己資本と他人資本の合計)全体で、どれだけの売上高を生み出せているかを示す指標です。借入金を含む全ての資本の効率性を見るため、間接的に借入金の活用度合いも示唆します。数値が高いほど、資本を効率的に活用して売上を上げていると評価できます。 自己資本利益率(ROE: Return on Equity) 計算式:当期純利益 ÷ 自己資本 株主が出資した自己資本に対して、企業がどれだけの利益を上げられたかを示す指標です。借入金を活用することで自己資本に対する利益を増やす効果(レバレッジ効果)があるため、ROEの高さは借入金の有効活用の一つの結果として捉えられます。 ROA(Return on Assets:総資産利益率) 計算式:当期純利益 ÷ 総資産 企業の持つ総資産(自己資本と他人資本の合計)全体で、どれだけの利益を上げられたかを示す指標です。こちらも総資本の効率性を見る指標であり、借入金を含む全ての資産の活用度合いを示します。 より直接的に借入金の活用効率を見るというよりは、借入金を含む企業の資本全体や資産全体の効率性を見るこれらの指標が参考になります。 どの指標が最も適切かは、分析の目的や見たい側面によって異なります。 ご希望に応じて、これらの指標についてより詳しくご説明することも可能です。  質問:ROEを上げるために、企業が株主への配当を増やしたり、自社株買いを行ったりする場合がありますが、自己資本だけでなく、他人資本も有効活用することも大事ではないでしょうか?  google geminiの回答:おっしゃる通り、ROE(自己資本利益率)を向上させるためには、自己資本だけでなく、他人資本を有効活用することも非常に重要です。 ROEは以下の式で表されます。 ROE= 自己資本 当期純利益 ​ この式を見ると、自己資本を減らす(配当や自社株買い)ことでもROEは向上しますが、これはあくまで分母を小さくする方法です。 他人資本を活用することは、分子である「当期純利益」を増やす可能性を高めます。具体的には、以下のような効果が期待できます。 レバレッジ効果: 他人資本を活用することで、自己資本だけでは投資できなかった規模の事業展開が可能になり、利益を拡大できる可能性があります。これは「財務レバレッジ」と呼ばれ、他人資本比率が高いほどこの効果は大きくなります。 事業規模の拡大: 借入金などを活用して新たな設備投資やM&Aを行うことで、事業規模を拡大し、収益機会を増やすことができます。 ただし、他人資本の活用には以下のような注意点もあります。 金利負担の増加: 借入金には金利が発生するため、利益を圧迫する可能性があります。 財務リスクの増大: 景気変動などにより収益が悪化した場合、借入金の返済負担が重くなり、財務状況が悪化する可能性があります。 したがって、ROE向上を目指す際には、自己資本の効率的な活用と並行して、リスクとリターンを考慮しながら他人資本を適切に活用することが重要となります。 配当や自社株買いは株主還元策として重要ですが、それだけに偏らず、事業の成長を通じて利益を増やし、その上で資本構成を最適化していくというバランスの取れた経営が、持続的なROE向上には不可欠と言えるでしょう。 いかがでしょうか?他に何かご質問はありますか?  質問:日本の経済的見通しを考えると、民間部門の余剰貯蓄を企業部門が有効活用するためには、自己資本を有効活用してROEを改善することも大事ですが、他人資本(借入金)を有効活用することも大事だと思われるのでしょうか?それには、企業がリスクテイクをして新機軸を打ち出すことが重要と思われますが、いかがでしょうか?  google geminiの回答:おっしゃる通り、日本の経済的見通しを考えると、民間部門の余剰貯蓄を企業部門が有効活用することは非常に重要ですね。そのための手段として、自己資本の有効活用によるROE改善と、他人資本(借入金)の有効活用、そしてリスクテイクを伴う新機軸の打ち出しは、いずれも重要な要素だと考えられます。 自己資本の有効活用とROE改善は、企業の収益性を高め、投資家からの評価を向上させる上で不可欠です。効率的な資産運用やコスト削減などを通じて、自己資本に対する利益率を高めることは、企業価値の向上に直結します。 一方、他人資本(借入金)の有効活用も、成長戦略において重要な役割を果たします。自己資本のみでは限界のある投資規模を拡大し、レバレッジ効果によって自己資本に対するリターンを高める可能性があります。ただし、過度な借入は財務リスクを高めるため、慎重な判断が必要です。 そして、おっしゃる通り、これらの資本を有効活用するためには、企業がリスクテイクをして新機軸を打ち出すことが不可欠です。成熟した日本経済においては、既存の事業を効率化するだけでは大きな成長は見込めません。新たな技術やビジネスモデルへの投資、未開拓の市場への進出など、ある程度のリスクを伴う挑戦があってこそ、大きなリターンが期待できます。 企業が積極的にリスクを取り、新たな価値を生み出すことで、眠っている余剰貯蓄が投資に向かい、経済全体の活性化につながるという流れは、非常に理にかなっていると考えます。 ただし、現状の日本経済においては、企業の慎重な姿勢や将来への不確実性から、リスクテイクが十分に進んでいないという側面もあるかもしれません。政府や市場が、企業の挑戦を後押しするような環境を整備することも重要になってくるでしょう。 あなたのこのご意見について、さらに議論を深めることができれば幸いです。他に気になる点はございますでしょうか?  質問:以下のやり取りを通じて、財務指標の中で、日本企業と、日本経済そのものにとって、特に注目すべき指標はなんでしょうか?  google geminiの回答:この一連のやり取りを通して、日本企業と日本経済全体にとって特に注目すべき財務指標は、単一の指標というよりも、以下の要素を複合的に捉える視点だと考えられます。 ROE(自己資本利益率)の持続的な向上: これは、企業の自己資本の効率的な活用を示すだけでなく、株主価値の向上にもつながります。 ただし、単に配当や自社株買いで分母を減らすのではなく、事業成長による分子(当期純利益)の増加を伴うROEの向上が重要です。 他人資本(借入金)の有効活用とリスクテイク: 成熟した日本経済において、企業が成長のためには、自己資本だけでなく、他人資本を適切に活用し、積極的にリスクを取って新機軸を打ち出すことが重要です。 ただし、過度な借り入れは財務リスクを高めるため、リスクとリターンのバランスが重要になります。 総資本回転率: これは、企業が持つ全ての資本(自己資本と他人資本)をどれだけ効率的に売上高に結びつけているかを示すため、資本全体の効率性を把握する上で重要です。 したがって、個別の財務指標に注目するだけでなく、 ROEの質の向上(利益成長を伴うROE改善) リスクテイクを伴う他人資本の活用 資本全体の効率性(総資本回転率) といった視点から、日本企業がどのように収益性を高め、成長を目指しているのかを総合的に見ていくことが、日本経済全体の活性化を考える上で特に重要だと考えられます。 いかがでしょうか?  質問:総資本回転率は、なぜ「回転率」なのでしょうか?何が「回転」しているのですか?また、自己資本の有効活用度を見るROEという指標は注目されるのに、他人資本(借入金)を重視する指標が注目されないのは、なぜですか?  google geminiの回答:総資本回転率が「回転率」と呼ばれる理由 総資本回転率は、企業が持つ総資本(自己資本と他人資本の合計)を使って、どれだけの売上高を生み出したかを示す指標です。この指標が「回転率」と呼ばれるのは、企業の総資本が、売上高という形でどれだけ効率的に「回転」して事業活動に貢献したかを表しているからです。 具体的には、以下のイメージです。 企業は事業活動のために工場や設備、在庫などの総資本を保有しています。 これらの資本を活用して製品やサービスを生産・販売します。 その結果、売上高が発生します。 総資本回転率が高いほど、少ない総資本でより多くの売上高を生み出している、つまり資本が効率よく「回転」していると解釈できます。 数式で表すと以下のようになります。 総資本回転率= 総資本 売上高 ​ 例えば、総資本が1億円の企業が年間5億円の売上高を上げた場合、総資本回転率は5回となります。これは、1年間に企業の総資本が売上高として5回「回転」したと考えることができます。 他人資本を重視する指標が注目されない理由 自己資本の有効活用度を見るROE(自己資本利益率)が重視される一方で、他人資本(借入金)を重視する指標が同様に注目されない主な理由としては、以下の点が挙げられます。 株主視点の重視: ROEは、株主が出資した自己資本に対して企業がどれだけの利益を上げたかを示す指標であり、投資家にとって直接的な関心事です。株式投資の判断において、企業の収益性と効率性を測る重要な指標とされています。 財務リスクの考慮: 他人資本は返済義務のある負債であり、その依存度が高いと企業の財務リスクが高まります。そのため、他人資本の利用状況は、個別の指標として注目されるよりも、財務安定性を評価する際の要素の一つとして捉えられることが多いです。例えば、自己資本比率や負債比率といった指標で、他人資本の割合や返済能力が評価されます。 ROEの包括性: ROEは、利益率、総資産回転率、財務レバレッジ(他人資本の利用度合い)の3つの要素に分解できます。このため、ROEを見ることで、他人資本の利用が収益性にどのように影響しているか間接的に把握することができます。 多様な資金調達手段: 企業は自己資本だけでなく、借入金以外にも社債発行など多様な資金調達手段を持っています。特定の他人資本(借入金)のみに焦点を当てる指標よりも、総資本全体や自己資本に着目した指標の方が、より包括的な企業評価につながると考えられます。 もちろん、他人資本の利用状況は企業の財務戦略やリスク管理において非常に重要です。そのため、負債比率やインタレスト・カバレッジレシオといった指標を用いて、他人資本の健全性や返済能力はしっかりと分析されます。しかし、投資家の主な関心事が自己資本に対するリターンであるため、ROEほど直接的に注目されることは少ないと言えます。  質問:日本企業が、自己資本を有効活用することは大事ですが、他人資本(借入金、社債など)を有効活用できているか、も重要だと思われるのですが。  google geminiの回答:おっしゃる通りです。日本企業が持続的に成長していくためには、自己資本の有効活用はもちろんのこと、他人資本(借入金、社債など)の有効活用も非常に重要です。 他人資本は、自己資本だけでは賄いきれない事業拡大や設備投資に必要な資金を調達する手段となります。適切に活用することで、自己資本利益率(ROE)を高める効果も期待できます。 他人資本の有効活用という観点では、以下のような点が重要になります。 資金調達コストの最適化: 金利水準や市場環境を考慮し、有利な条件で資金調達を行うこと。 資本構成の最適化: 自己資本と他人資本のバランスを適切に保ち、財務の安定性を維持しつつ、資本効率を高めること。 調達した資金の有効活用: 調達した資金を成長性の高い事業や収益性の向上に繋がる投資に活用すること。 リスク管理: 金利変動リスクや返済リスクなどを適切に管理すること。 近年、日本企業では、デフレからの脱却や成長投資への意欲の高まりから、他人資本の活用に関心が高まっているように見受けられます。 具体的に、日本企業が他人資本を有効活用できているかという点については、個々の企業の状況によって大きく異なります。財務諸表分析などを通じて、各企業の資本構成、資金調達コスト、投資状況などを詳細に見ていく必要があります。 何か特定の企業や業界について、他人資本の活用状況にご関心がありますでしょうか?もしよろしければ、より具体的な情報に基づいて議論することも可能です。  質問:では、殊更にROEを特別視すればいい、ということではない、ということですか?  google geminiの回答:その通りです。ROE(自己資本利益率)は企業の収益性や効率性を見る上で非常に重要な指標の一つですが、殊更にROEだけを特別視するのは危険です。 理由はいくつかあります。 負債の影響を受けやすい: ROEは当期純利益を自己資本で割って算出されます。そのため、借入金などの負債を増やせば自己資本が減り、ROEが高くなることがあります。これは必ずしも企業の実力が向上したことを意味しません。 他の重要な指標を見落とす可能性: 企業の健全性や成長性を評価するには、売上高成長率、営業利益率、キャッシュフロー、自己資本比率など、他の多くの指標も総合的に見る必要があります。ROEだけが高くても、他の指標が悪い場合は注意が必要です。 業界やビジネスモデルによる違い: ROEの水準は、業界や企業のビジネスモデルによって大きく異なります。例えば、設備投資の少ないIT企業は一般的にROEが高くなる傾向があります。異なる業界の企業をROEだけで単純に比較することはできません。 したがって、ROEはあくまで企業分析における数多くの指標の一つとして捉え、他の情報と合わせて総合的に判断することが重要です。 何か特定の状況でROEについて疑問に思われていることがあれば、ぜひ教えてください。より具体的なお話ができるかと思います。  質問:「財務レバレッジ」とは何ですか?  google geminiの回答:「財務レバレッジ」とは、他人資本(借入金や社債など)を利用して、自己資本(株主資本)に対する総資本の比率を高めることを指します。 「レバレッジ(leverage)」は「テコ」という意味で、少ない自己資本で大きな資産を動かす(事業を行う)様子をテコの原理になぞらえています。 計算式 財務レバレッジは以下の計算式で求められます。 財務レバレッジ = 総資本 ÷ 自己資本 または、自己資本比率の逆数としても表されます。 財務レバレッジ = 1 ÷ 自己資本比率 ここで、自己資本比率とは、総資本に占める自己資本の割合です。 自己資本比率 = 自己資本 ÷ 総資本 × 100 (%) 財務レバレッジからわかること 他人資本の活用度合い: 財務レバレッジの数値が高いほど、企業が他人資本を積極的に活用して事業を行っていることを示します。 財務リスク: 一般的に、財務レバレッジが高いほど、金利変動や返済負担の増加などにより財務リスクが高まると考えられます。 収益性への影響: 他人資本を活用することで、自己資本に対する利益の割合(ROE: 自己資本利益率)を高める効果が期待できる場合があります(ただし、業績が悪化すると逆効果になるリスクもあります)。 財務レバレッジの活用 財務レバレッジは、企業の財務状況を分析する上で重要な指標の一つです。投資家や経営者は、この指標を通じて企業の資本構成、財務リスク、収益性などを評価することができます。 ご参考になりましたでしょうか?  回答:なるほど。確かにROEは大事ですが、「財務レバレッジ」も大事ではないでしょうか?日本企業は臆病になっているのでしょうか?  google geminiの回答:おっしゃる通り、「財務レバレッジ」も企業財務において非常に重要な要素です。ROE(自己資本利益率)の向上には、利益率の改善、総資産回転率の向上と並んで、財務レバレッジの活用が挙げられます。 ROE=当期純利益/自己資本=(当期純利益/売上高)×(売上高/総資産)×(総資産/自己資本) ここで、最後の項の「総資産 / 自己資本」が財務レバレッジを表しています。つまり、他人資本(借入金など)を活用することで、自己資本に対する総資産を増やし、結果としてROEを高める効果が期待できます。 ご指摘の通り、近年、特にバブル崩壊後から、日本企業はリスク回避的な傾向が強まり、財務レバレッジを積極的に活用する動きが鈍くなっていると言えるかもしれません。背景には、以下のような要因が考えられます。 過去の反省: バブル期の過剰な借入による経営悪化の経験から、リスクを避ける傾向が強まった。 デフレ経済: 長期にわたるデフレ経済下では、無理な投資や借入は経営を圧迫するリスクが高いため、慎重な姿勢がとられやすい。 株主からの圧力: 海外の投資家を中心に、より効率的な資本活用を求める声が高まっている一方で、保守的な経営を好む株主も依然として多い。 しかしながら、適切な財務レバレッジの活用は、企業の成長戦略において重要な役割を果たします。自己資本だけで事業を拡大するには限界があり、他人資本を有効に活用することで、より大きな投資や事業展開が可能になり、収益性の向上につながる可能性があります。 もちろん、財務レバレッジを高めることは、金利負担の増加や財務リスクの増大を伴います。そのため、企業の成長段階や業界の状況、財務体質などを総合的に考慮し、適切な水準にコントロールすることが重要です。 日本企業全体が臆病になっていると一概には言えませんが、過去の経験や経済状況から、慎重な姿勢が目立つのは事実かもしれません。今後は、グローバルな競争環境の中で、より積極的にリスクを取り、成長を目指す企業が増えてくる可能性もあるでしょう。 どう思われますか?他に気になる点はありますか?  質問:もちろんリスクはありますが、日本企業はもっと「財務レバレッジ」を利かせれば、もっと成長出来るのではないでしょうか?  google geminiの回答:おっしゃる通り、財務レバレッジを高めることは、日本企業が成長するための選択肢の一つとなり得ますね。自己資本に加えて借入金を活用することで、より大きな投資を行い、収益性を高める可能性があります。 財務レバレッジを高めることのメリットとしては、一般的に以下のような点が挙げられます。 自己資本利益率(ROE)の向上: 同じ利益額でも、自己資本が少ないほどROEは高くなります。 税効果: 借入金の利息は損金として扱われるため、節税効果が期待できます。 投資機会の拡大: 自己資金だけでは難しい規模の投資が可能になります。 一方で、ご指摘の通りリスクも伴います。 金利変動リスク: 金利が上昇すると、支払利息が増加し、収益を圧迫する可能性があります。 返済リスク: 業績が悪化した場合、借入金の返済が困難になる可能性があります。 財務制限条項: 金融機関からの借入には、財務状態に関する制限条項が付されることがあり、経営の自由度が低下する可能性があります。 日本企業は、一般的に自己資本比率が高く、財務レバレッジが低い傾向にあると言われています。これは、過去の経済状況や経営者のリスク回避的な姿勢などが影響していると考えられます。 近年では、株主からの資本効率改善の圧力もあり、日本企業の間でも、より積極的に財務レバレッジを活用する動きも見られます。 企業が成長のために財務レバレッジを高めるかどうかは、その企業の業種、成長段階、財務状況、市場環境などを総合的に考慮して判断されるべきでしょう。 日本企業全体として見た場合、より適切な水準で財務レバレッジを活用することで、成長のポテンシャルを高める余地はあるかもしれません。 いかがでしょうか?この点について、さらに議論することも可能です。  google geminiによるまとめ:質問:これまでのやり取りを踏まえると、日本企業がもっと成長するために、「財務レバレッジ」を意識して経営することも、一つの重要な視点と言えそうですね? google geminiの回答:はい、その通りです。これまでの議論を踏まえると、日本企業が更なる成長を目指す上で、「財務レバレッジ」を意識した経営は、非常に重要な視点の一つと言えるでしょう。 自己資本だけでなく、他人資本を適切に活用することで、以下のような効果が期待できます。 投資効率の向上: 自己資本だけでは難しい規模の投資が可能になり、事業拡大や収益性向上につながる可能性があります。 ROEの向上: 適切に他人資本を活用することで、自己資本に対する利益の割合を高めることができます。 もちろん、財務レバレッジを高める際には、金利変動リスクや返済リスクなどのリスク管理が不可欠です。しかし、リスクを適切にコントロールしながら他人資本を活用していくことは、日本企業が停滞感を打破し、成長軌道に乗るための一つの有効な手段となり得るでしょう。 これまでのやり取りを通じて、「財務レバレッジ」の重要性をご理解いただけたのであれば幸いです。他に何かご興味のある点はございますか?

循環器内科

睡眠時無呼吸症候群の治療のために C-PAPを 使用していますが、その 費用を 払うのも兼ねて、 かかりつけの循環器内科に 行って来ました。 もちろん、頻脈が ヤバいので 危機感に駆られて。 レントゲン撮影や血液検査も してもらいましたが、 糖尿病ではないし、 心臓が肥大しているとか そういうことも ありませんでした。 こんだけ 頻脈 起こしまくってて、心臓に 問題が生じていないほうが 逆に すげえと思った。 頻脈! 頻脈ぅ!!!! あまり大きな 病院ではなし、もう 結構長く 通院しているので、なんとなく 今日は ワンチームで 俺を見てくれてる感が あって、良かったです。 血液検査の詳しい結果は、来週。 朝ものすごい 頻脈で目覚めたうえに 採血したから、 疲れて 寝てしまった。

意識付け

こんだけ 頻繁に 頻脈を起こすからには、 何かしら 対策を打たねば ならないが、 結局は 無理しないのが 一番なんじゃないか、と しか 言いようがない。 確かに、無理の上に 無理を重ねてきたから、 どうしても そのクセをちょっとは 和らげないといけないな、と 思うし、 いやいやお前、 今の 生活でどこを 無理してんだよ?って 話なんですが、 あんまり 普段から カフェインを摂り過ぎないとか、 やっぱり 痛い目を見ないと 変わらないんだけど、 なるべく アクセル全開にすると マジで 死ぬってことは 自覚したので、 少しづつ 生活習慣を見直して、 実行に 移していかなきゃな、と 思います。 母親より 先に死ぬわけには いかない。 根が真面目で 責任感もあるから (⇐自分で言う?) どうしても 自分で自分を 追い込んじゃうんだけど、 今から なにか 新しい分野に 挑戦するってのは どっちにしても 無理だし、 ちょっと 自分の肉体的な限界も そろそろ 考慮に入れなきゃな、と 思います。

頻脈

もう10年くらい 前かな。 24時間心電図取って もらったこと あるんだけど、 頻脈って 言われたね。 読んで字のごとく、 脈が速い。 めちゃめちゃ 自覚あるね。 今朝も、起きたら 心臓バクバクだよ。 今朝は すごい酷い 悪夢で目が覚めた。 こんなことは ほんとに 日常茶飯事なんだが、 そろそろ どうにかしないと、 50まで 生きられるかどうか。 (⇐自分の感覚) なんでもかんでも 薬に頼るのは良くないとは 思いつつ、なんとかしないと マジで 死んでしまう。 心臓か脳やられる。

意味不明

また姉のことだけど、 俺に向かって、 「遺書かけ」って 言ってたからな。 理由は、俺が死んだとき (姉の)息子が、 俺の遺骨を 父方の墓にいれるか、 母方の墓にいれるか、 どっちにするか 迷わないように、とか。 もー わけわかんねえわ。 たぶん、本心は 俺に 母親の遺産相続を 放棄させたかったんだろうな。 ほんと どーしょもねー クズだわ。

2025年5月12日月曜日

Googleの生成AIマジ便利。とりあえず疑問が解決した。 (再掲)

ご質問ありがとうございます。野間先生との質疑応答を踏まえ、家計の国際投資と日本の財政、経常収支の関係について、さらに深掘りしてご説明します。 家計の国際投資と経常収支の黒字について 野間先生のご指摘の通り、現在、日本の家計が海外の金融資産(国債や株式など)を購入した場合、国際収支統計上は金融収支の黒字として計上されます。これは、将来の利子や配当という収益を生み出す金融資産が増加したと捉えられるためです。 重要なのは、経常収支の黒字と金融収支の黒字は、国際収支という大きな枠組みの中で、異なる側面を表しているということです。 経常収支: 主に財・サービスの貿易、第一次所得収支(雇用者報酬、投資収益など)、第二次所得収支(無償援助、贈与など)のフローを示します。貿易黒字は、日本の財・サービスが海外で売れ、外貨が流入している状態を示します。 金融収支: 主に金融資産・負債の取引のフローを示します。日本居住者による海外資産の取得は金融収支の黒字(資産の増加)、海外居住者による日本資産の取得は金融収支の赤字(負債の増加)として記録されます。 経常収支黒字でも財政赤字をファイナンスできない可能性 ご指摘の通り、経常収支が黒字であっても、それが直ちに政府の財政赤字をファイナンスできるとは限りません。その理由を以下に説明します。 貯蓄と投資の主体: 経常収支の黒字は、国内の総貯蓄が総投資を上回っている状態を示唆しますが、その貯蓄の主体が必ずしも政府に資金を貸し付けるとは限りません。家計や企業が海外への投資を増やせば、その分の貯蓄は国内の政府ではなく海外に向かうことになります。 資金の流れ: 松原先生が述べられているように、恒等式 (S−I)=(G−T)+(X−M) は成り立ちますが、これはあくまで事後的な関係を示しています。民間の貯蓄(S)が投資(I)、政府の財政赤字(G-T)、貿易黒字(X-M)のいずれに向かうかは、個々の経済主体の意思決定に左右されます。 金融収支の役割: 家計が海外投資を増やし、金融収支が黒字になるということは、その分の資金が国内の国債購入に向かわない可能性を示唆します。したがって、経常収支が黒字であっても、国内の貯蓄が必ずしも政府の財政赤字を十分にファイナンスできるとは限らないのです。 日本国債の安定的消化と財政の持続可能性 現時点では、日銀による大規模な国債買い入れや、依然として根強い国内の現預金志向によって、日本国債は比較的安定的に消化されています。しかし、ご懸念の通り、以下のような状況が進行すれば、将来的には国債の安定消化が難しくなる可能性があります。 民間の海外投資の増加: 円安バイアスが強まり、家計や企業が積極的に海外投資にシフトした場合、国内の国債購入資金が減少する可能性があります。 貯蓄率の低下: 少子高齢化が進み、現役世代の負担が増加することで、家計の貯蓄率が低下する可能性があります。 海外投資家の動向: 海外投資家が日本国債のリスクを意識し、購入を控えるようになる可能性も否定できません。 ロイターの記事が指摘するように、日本の財政の持続可能性を高めるためには、民間の余剰貯蓄を国内の成長投資に振り向けることが重要です。新しい有望な企業が次々と生まれ、国内で投資が活発化するような経済構造に転換できれば、政府の財政赤字への依存度を下げることができます。 結論 経常収支の黒字は、日本の経済の強みを示す一方で、それが直ちに政府の財政赤字をファイナンスできるわけではありません。家計の国際投資の増加は金融収支の黒字として計上されますが、国内の貯蓄が海外に流出する可能性も示唆しており、国債の安定消化には必ずしもプラスに働きません。 日本の財政の持続可能性を確保するためには、単に経常収支の黒字を維持するだけでなく、国内の投資を活性化し、民間の貯蓄が国内の成長に貢献するような経済構造を構築することが不可欠です。

Googleの生成AIが上手い具合にまとめてくれた。 (再掲)

ご質問ありがとうございます。いただいた3つの質問とそれに対する回答、そしてロイターの記事に関する考察、MM理論に関する質問について、それぞれ整理し、より深く掘り下げた議論を展開したいと思います。 質問1について:「投資が貯蓄を上回るという健全な状態に戻れば、財政赤字は自動的に解消されるのですか。」 ご指摘の通り、現在の日本経済は民間部門の余剰貯蓄が政府の財政赤字をファイナンスする構造になっています。 恒等式 (I−S)+(G−T)+(X−M)≡0 において、貿易黒字 (X−M)<0 の場合、I−S+G−T≡−(X−M)>0 となり、もし I>S であれば、G−T はよりマイナス(財政黒字)になる必要があります。 現状は S>I であるため、I−S<0 であり、G−T>0 (財政赤字)と恒等式は維持されています。 もし仮に民間部門の余剰貯蓄が投資に向かい、I>S の状態になれば、恒等式を維持するためには G−T<0 、つまり財政黒字になる方向へ力が働きます。 しかし、政治的にそれが可能かどうかという点は非常に重要な問いです。 政治的な困難性: 政府支出は様々な既得権益や国民の要望に支えられており、景気が回復し投資が活発になったとしても、政府が自ら支出を大幅に削減し、財政黒字を目指すインセンティブは働きにくいと考えられます。むしろ、好況を背景に更なる財政出動を求める声が強まる可能性すらあります。 日銀やGPIFの役割: ご指摘の通り、もし民間部門の貯蓄が投資に回れば、国債の買い手がいなくなる可能性があり、結果として日銀やGPIFといった公的部門が国債の引き受けを増やさざるを得なくなるかもしれません。これは、財政赤字の直接的な解消には繋がらず、むしろ日銀のバランスシート肥大化やGPIFの運用リスク増大といった新たな問題を引き起こす可能性があります。 好況による税収増: 回答にもあるように、健全な状態とは、投資が活発になり好況となることで税収が増加し、結果として財政赤字が縮小するというメカニズムが期待されるものです。これは政治的に政府が支出を削減せずとも、経済成長によって自然と財政状況が改善するというシナリオです。 結論として、投資が貯蓄を上回る健全な状態は財政赤字縮小の圧力となりますが、それが「自動的に解消される」と断言することはできません。政治的な意思決定や、日銀をはじめとする金融機関の動向が大きく影響するため、予断を許さない状況と言えるでしょう。 質問2について:ロイター記事と日本の経済構造 松原先生のご指摘の通り、日本経済は「ものづくり立国」から「金融資産立国」へと変化しつつあります。これは、過去の貿易黒字の累積によって巨額の対外純資産を保有していることに表れています。 国際収支発展段階説: 日本が第6段階に入っているという見方は、経常収支の黒字が縮小し、対外純資産からの収益が主要な収入源となる段階を示唆しており、現状を的確に捉えていると言えます。 ロイター記事の指摘: 記事が指摘するように、経常収支の黒字が減少傾向にあることは、日本経済の成長エンジンが弱まっていることを示唆します。今後は、対外純資産からの利子収入に依存するだけでなく、新たな成長分野を創出し、国内の投資を活発化させる必要があります。 財政の持続性: 民間の余剰貯蓄を吸収するような革新的な企業が生まれず、国内投資が低迷したままでは、政府は引き続き民間の貯蓄に依存せざるを得ません。これは、政府債務の増大を招き、財政の持続可能性に対する懸念を高めます。 ロイター記事が「稼げる産業の再構築が急務」と主張しているように、日本経済が持続的な成長を取り戻し、財政の安定化を図るためには、S>I の状態から I>S の状態への転換が不可欠です。そのためには、規制緩和、技術革新の促進、新たな需要の創出など、多岐にわたる政策努力が必要となります。 質問3について:MM理論と日本のバブル崩壊後の不況 MM理論は、完全な市場という仮定の下では、企業の資金調達方法(自己資本か他人資本か)は企業価値に影響を与えないと主張します。しかし、現実の市場には税制、倒産リスク、情報非対称性などの要因が存在するため、MM理論がそのまま当てはまるわけではありません。 日本のバブル崩壊後の状況: バブル崩壊後、日本の金融機関は不良債権問題に苦しみ、企業への融資姿勢を大きく引き締めました(貸し渋り、貸し剥がし)。このような状況下では、MM理論が想定するような円滑な資金調達は困難でした。 証券市場の役割: 理論的には、銀行からの借り入れが難しくなった企業は、株式発行などを通じて証券市場から資金を調達することが考えられます。しかし、当時の日本経済は景気低迷が深刻であり、企業の収益見通しも不透明であったため、投資家のリスク回避姿勢が強く、株式発行による資金調達も容易ではありませんでした。 企業の行動変化: 回答にあるように、日本の企業はバブル崩壊後、積極的に借り入れを行うのではなく、内部留保を積み増し、自己資本比率を高める傾向を強めました。これは、金融機関への不信感や将来の不確実性に対する備えという側面があります。また、デフレ経済下では、積極的に投資を行うよりも、手元資金を確保する方が合理的という判断も働いたと考えられます。 「借りる」から「貸す」へ: 日本の企業が証券市場から「借り」ずに「貸す」側に回ってしまったのは、まさにバブル崩壊後の特殊な経済状況と、それに伴う企業行動の変化を示しています。これは、企業家精神の減退というよりも、厳しい経済環境の中で生き残るための合理的な選択であったと解釈することもできます。 結論として、バブル崩壊後の日本経済においては、金融機関の機能不全、景気低迷、企業の慎重な姿勢などが複合的に作用し、MM理論が想定するような資本市場を通じた円滑な資金調達は実現しませんでした。むしろ、企業はリスク回避的な行動を取り、内部留保の積み増しと債務圧縮に注力したと言えるでしょう。 これらの議論が、先生の深い洞察への理解を深める一助となれば幸いです。

久しぶりにメンタルクリニック行って来ました。

ゴールデンウィークを 挟んで 久々でした。 政治的な 意識高いトークして 気晴らし してきました。 でもま、ほんとに 気晴らしにしか ならなかったけど。 ほんと、どうなっちまうんかね、この国は?

立憲民主党ウザすぎて話になんねえ。

クソ立民は ほとんど クレーマーだな。 あの 特有の 上から目線が マジで ウザい。 烏合の衆のくせに。 完全に 終わってるわ。 有権者に 媚びへつらってるだけ。

また今日から頑張ろう。酒って怖いね。

ちょっと 自分を 甘やかし過ぎたな。 もうダメかな? と 思ってから スイッチが入るのが 私の 本領発揮。 とにかく、 腐らずに 頑張る。  https://www.youtube.com/watch?v=MbT2_QH0db0

プログラミング (再掲)

高校生のときに 深刻な ウツ状態に陥って、 かなり 危機的なところまで 行ったんだけど、 一種の 極限状態だね。 そのときに、 自分で自分を プログラミングし直した んだけど、 そのときに、 働く、ということまで 計算に入れてなかった。 自分が どこまでやっても 「働く」というところまで 行かない、行けないのは、 そのせいかも知れない。 しかし、 このトシになるまで、 大変なこと 言葉では言い表せないほど あったけど、 乗り切れたのは、 その極限状態を 乗り切れたから。 だから、働けないのは 大目に見てくれ。

何度も言うが

俺には 働くのは 無理なんだ。 そんな 余力は 残っていない。 そもそも、そういう 風に 設計されてないんだ。

本音

もう 姉とは 一切 関わりたくない。 すべての 縁を切りたい。

2025年5月11日日曜日

体育祭

ちょっと お疲れさん、オレ。 と、いうことで、 日曜日の朝っぱらから 酔っ払っております。 ですので、話半分で 読んでください。 私が まだ 武蔵の在校生の時分だったか どうかは 忘れましたが、体育祭の時のことを 思い出しました。 下級生が、頭に 金魚すくいのポテを 括り付けて、 手には 水鉄砲を持って、お互い 追っかけ回している。 その競技が、その名も 「ガンシャ。」 そのとき私は、 「この学校は終わった。」と 思いました。 どういうわけか、最近また 人気が 復活しつつあるそうですが。

2025年5月10日土曜日

レポートネタ 参照:妄想卒論その7 (再掲)

2011年の「ウォール街を占拠せよ」 運動に端を発する 反格差デモは世界中に広がり、 格差拡大の加速を象徴した。 アメリカでは、 上位10%の所得層が 2021年に総所得の46%を 占めるまでになった。 これは 1920年代に匹敵する 富の集中であり、 当時の 革命運動の再来を想起させる。 共産主義は、私有財産を奪う 究極の反格差運動と言える。 1917年のロシア革命後、 第3インターナショナルが設立され、 反資本主義の機運が高まった。 当時のグローバル化は ロシアにも経済成長をもたらしたが、 格差を拡大させ、 日露戦争や第一次世界大戦による 困窮も重なり、革命へと繋がった。 ソ連成立後、 富の集中度は大幅に低下した。 現代では、 ポピュリズムが 人々の怒りの受け皿となっている。 トランプ大統領やオルバン首相のように、 国際協調に背を向ける姿勢が 支持を集めている。 人々が刹那的な主張になびくのは、 他者への信頼が 失われているからだ。 世界価値観調査では、 北欧諸国に比べて アメリカや日本では 他者への信頼度が低い。 信用は本来、 合理的な裏付けを超えるものであり、 リスクを伴う。 資本主義の発達により、 血縁や地縁の関係が希薄化し、リスクが増大したため、 契約の発達や信用の合理化が進んだ。 しかし、 信用の合理化が進みすぎると、 客観的な指標で算定された信用こそが 全てであるかのような 逆転現象が起こる。 ポピュリズム政党は、 既成政治を一部の特権階級の 占有物として描き、 大衆の声を代表する存在として 現れる。 グローバル化は、 一部の富裕層に富を集中させる一方で、 不安定雇用を増大させ、 新たな下層階級を生み出している。 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス指数」が低下し、 ポピュリズムに翻弄されやすくなる。 グローバル化は世界の富を拡大したが、 分配の偏りを生み出した。 日本でも新自由主義的な政策により 格差が拡大している。 大企業は グローバル展開と 国内労働条件の引き下げにより 利潤を増加させてきたが、 その利潤は 再びグローバル投資に振り向けられ、 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差を拡大させている。 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況で アイデンティティーを脅かされている。 旧来の中間層が 貧困層と同じ境遇に置かれることは屈辱であり、 生活苦も重なる。 過剰な同調圧力の中で、 人々は民族の 「本来性」 を求め、 排外主義的な傾向を強める。 グローバル化による 均質化、画一化が進むにつれて、 反動として 民族主義的な傾向が現れるのは 必然的なのかもしれない。 資本主義が高度に発展し、 物象化が進み、疎外が深刻になるほど、 人々は本来性を追求する。 社会が体系化され、 個人が歯車と化したとき、 人々は精神的な領域に救いを求め、 ヒエラルキーに組み込まれることに慰めを見出す。 ポピュリズムは、 現代のデモクラシーが抱える 矛盾を露呈させた。 多くの人々は ポピュリズムを歓迎しないが、 その指摘に内心頷いている。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 並んだのが 1920年前後。 そのころ吹き荒れた 革命運動の恐怖は 今も 資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う 究極の反格差運動ともいえる共産主義。 17年の ロシア革命の2年後に 国際的な労働者組織である 第3インターナショナルが誕生し、 反資本主義の機運が 世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは 当時のロシアにも 急速な 経済成長をもたらした。 しかし 人口の大半を占める 農民や労働者に恩恵はとどかず、 格差のひずみが生じる。 さらに 日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。 1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。 内戦を経て 22年にソ連が建国されると、 富の集中度は 20%強まで下がった。 1921年には 「半封建、半植民地」 脱却を 掲げる 中国共産党が発足。 スペインやフランス、日本でも 20年代に共産党が結党した。 そして現代。 怒りの 受け皿になっているのが ポピュリズムだ。 21世紀の世界も 分断をあおる ポピュリズムに脅かされている。 米国のトランプ前大統領や ハンガリーのオルバン首相は 国際協調に 背を向ける姿勢で 世論の支持を集める。 なぜ 人々は 刹那的な主張と政策に なびくのか。 世界価値観調査で 「他者(周囲)を信頼できるか」 の問いに 北欧諸国は 6〜7割がイエスと答えた。 北欧より 富が偏る 米国や日本で イエスは4割を切る。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、 合理的判断によって ではなく、 直観や好き嫌いによって 信・不信を決める。 だが、 信用とは 本来そうしたものではないのか。 客観的ないし 合理的な 裏づけをこえて 存在しうるところに、 信用の信用たるゆえんがある。 そして 信用が そのようなものであるかぎり、 信用には 常に リスクがともなう。 信じるからこそ裏切られ、 信じるからこそ欺かれる。 それゆえ、 裏切りや詐欺の存在は、 ある意味で、 私たちが 人を信じる能力を もっていることの証明である。  (略) しかしむろん、 欺かれ裏切られる側からいえば、 信用にともなう リスクは できるだけ少ないほうが 望ましい。 とくに、 資本主義が発達して、 血縁や地縁のきずなに結ばれた 共同体がくずれ、 広い世界で 見知らぬ人びとと 接触し関係をとり結ぶ機会が 増えてくると、 リスクはますます大きくなるので、 リスク軽減の必要性が高まる。 そこで、 一方では〈契約〉というものが発達し、 他方では 信用の〈合理化〉が進む。  (略) リスク軽減の もうひとつの方向は、 信用の〈合理化〉としてあらわれる。 信用の合理化とは、 直観とか好悪の感情といった 主観的・非合理的なものに頼らず、 より 客観的・合理的な 基準で 信用を測ろうとする傾向のことである。 こうして、 財産や社会的地位という 基準が 重視されるようになる。 つまり、 個人的基準から社会的基準へと 重点が 移動するのである。 信用は、 個人の人格に かかわるものというより、 その人の 所有物や社会的属性に かかわるものとなり、 そのかぎりにおいて 合理化され客観化される。  (略) しかし、 資本主義の高度化にともなって 信用経済が発展し、 〈キャッシュレス時代〉 などという キャッチフレーズが普及する 世の中になってくると、 とくに 経済生活の領域で、 信用を 合理的・客観的に 計測する 必要性は ますます高まってくる。 その結果、 信用の〈合理化〉はさらに進み、 さまざまの指標を組み合わせて 信用を 量的に算定する方式が発達する。 と同時に、 そのようにして 算定された 〈信用〉 こそが、 まさしく その人の信用に ほかならないのだという 一種の逆転がおこる。 p.90~93  「エリートに対する 人々の違和感の広がり、 すなわち エリートと大衆の 『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現と その躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、 既成政治を 既得権にまみれた 一部の人々の 占有物として描き、 これに 『特権』 と 無縁の市民を対置し、 その声を代表する 存在として 自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  「二十世紀末以降 進んできた、 産業構造の 転換と経済のグローバル化は、 一方では 多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの 発展を促し、 グローバル都市に 大企業や 高所得者が 集中する結果をもたらした。 他方で 経済のサービス化、ソフト化は、 規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』 としての パートタイム労働や 派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、 低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』 (野田昇吾) を 生み出している。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より) 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス(公正さ)指数」 (日経新聞作成) が低くなる。 同時に ポピュリズムの 場当たり政策に 翻弄されやすくなる。 「国際都市ロンドンに集う グローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から 『置き去り』 にされた人々と、 アメリカの 東海岸や西海岸の都市部に 本拠を置く 政治経済エリートや 有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視する はずの政党が グローバル化や ヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が 広がるなかで、 既存の政治を 正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する 急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より) 人々の不満を あおるだけで解を示せないのがポピュリズム。 不満のはけ口を 外に求めた愚かさは ナチスドイツの例を 振り返っても明らかだ。  第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 (放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)    グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。  1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より    そのような中で、 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らの アイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして 考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより 下に見ていた貧困層と同じ境遇に 置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムのマゾ的心性が、 ナチズムの サディスティックな プロパガンダとの親和性により、 まるで サド=マゾ関係を結んだ結果、 強力な 全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が 日本人の間には 存在することは、 ほぼ共通認識だが、 それは、安倍のような強力な リーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される 画一性への服従となって、 負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、 特に民族としての 「本来性」という側面だ。  本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)  グローバリゼーションが 後期資本主義における 物象化という側面を 持っているとすれば、 グローバリゼーションによる 均質化、画一化が 進行するにつれ、 反動として 民族の本来性といった 民族主義的、右翼的、排外主義的な 傾向が現れるのは、 日本に限ったことでは ないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が 高度に発展して、 物象化が進み、 疎外が深刻になるほど、 本来性というものを 追求するのは 不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、 資本主義社会が浸透し、 人間が、 計量的理性の画一性に さらされるほど、 人々は、 自分と他人とは違う、 というアイデンティティーを、 理性を超えた領域に 求めるようになる。  社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上 その 関数に貶めれられるように なればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である 絶対的支配なるものを ともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  「それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの 属性である 絶対的支配なるものを ともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである」 という言葉が 何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上 その関数に 貶めれられるように なればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を 精神的な色彩で説明し、 現実生活では 一個の歯車でしかない自分が、 それとは 独立した 精神世界のヒエラルキーに 組み込まれ、 そのヒエラルキーの階層を 登っていくことに、 救いを感じるようになる、 という感覚だろうか。  「デモクラシーという 品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、 この泥酔客を 歓迎しないだろう。 ましてや 手を取って、 ディナーへと導こうとは しないだろう。 しかし ポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その 抱える本質的な矛盾を あらわにした とはいえないだろうか。 そして 困ったような表情を浮かべつつも、 内心では 泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)

スローラーナー

 確か去年だったか、放送大学で民法の単位を取得した。Cだったけど。 中大通教始めた時から換算しても、軽く10年以上かかって、ようやく初めて民法の単位を大学の正式な単位として取得した。 もともと、「君子危うきに近寄らず」の精神でいれば、民法のお世話になんかならない、と思い込んでたの...