2024年12月31日火曜日
2024年12月30日月曜日
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)
私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)
2024年12月29日日曜日
生きること、死ぬこと レポート予備
日本は、少子高齢化に伴い、本格的な多死社会に突入した。
私は、母方の祖父が思いっきり先の大戦に従軍したので、
祖父を見て、
ご老人というのは
死ぬのが怖くないものだ、と
思っていた。
しかし、訪問ヘルパーさん
(特に年配の女性)
も、
やはり
死んでいくことに対する
恐怖や、生の虚しさを抱えている、と感じる。
私自身、43になっても、やはり
死ぬのはそれなりに怖い。
いざとなれば、やっぱり生きたい。
近代以降、人間は
論理的に死ぬことを目指してきた。
言い方を変えれば、
知の力を使って、
死の恐怖や、生の虚しさを
克服する営みを続けてきた。
確かに、
カントやゲーテ並の哲学を理解していれば、
それも
可能だろう。
しかし、一体どれほどの人が
その境地にたどり着けるというのだろうか?
理屈で死ぬには、相当の学問が
必要だ。
そんなことが可能なのは、ごく一部の
インテリだけだ。
生まれつき
勉強が得意でない人も当然いる。
そのような人たちに向かって、
理屈で死ぬことを
強要するのは、土台無理がある。
エマニュエル・レヴィナスによれば、
人間は
他者から、既に<呼びかけられている>という。
これは、もちろん
人間がたったひとり
世界に孤独に生きている場合も
同様だろう。
そして、その<他者>とは、
無限の隔たりがある、と
レヴィナスは言う。
ならば、その<他者>は、
神の痕跡を残していると言って良い。
そう考えると、
人間存在は、現代社会においても、
<世界>に対して、
ほとんど
何も知り得ていない、とも
言いうる。
で、あるならば、
人間に対して
理屈で死ぬことを強要するのは、
傲慢ではないだろうか?
むしろ、理屈では説明できない世界を
肯定する余地があっても
いいのではないだろうか?
なぜならば、
<人間>は、この「世界」のことを
ほとんど
何もわかっていないのだから。
ハイデガー哲学への省察 (再掲)
<世界>は ときに 人間に対して、あまりに 残酷な 開かれ方をする。 社会保障がどうとか、 経済情勢がどうとか、 などは 一切お構いなく、 ただ 残酷に <世界> は 現存在としての 人間に対して 開かれうる。 しかし、そのような 開かれ方をする <世界> の中にこそ、 ハイデガーは 連帯の可能性を 模索したのではないだろうか? 人間が 共同現存在のまどろみ から 醒めること、 それは おそらく 「死」 を 意識することを通して 起こり得る。 確かに、 <世界> が そのように 残酷な開かれ方をするとき、 それは 孤独ではなく、 そのような開かれ方をする <世界> に おいてこそ、 孤独ではなく 連帯の可能性が 現れる 可能性はあり得る。 もっとも、 ハイデガー哲学においては、 それが 「ドイツ民族の使命に目覚める」 という 方向へ進んでしまったがゆえに、 ナチズムとの親和性を やり玉に 挙げられる。 しかし、 現存在たる 人間は、 おそらく どんな時代、場所においても、 そのような <世界> の 開かれ方においてこそ、 連帯の 可能性を見出してきたのではないだろうか。 もちろん、 今後どんなに 科学技術が発展しようが、 どんなに 社会構造がスマートになろうが、 そのような <世界> の 開かれ方は 現存在たる人間に 容赦なく 襲いかかるだろう。 だが、 そうであるからこそ、 人間は、 はるか先の将来においても、 あるいは たった今現在においても、 古い殻から 抜け出して、 新たな一歩を 踏み出すことが 出来るのではないだろうか。 言い換えれば、 <世界> が そのような残酷な 開かれ方を する限りにおいて、 「人間」は 孤独を克服し、 連帯の可能性を 見出すのである。
グーグルの生成AIにキーワード打ち込んだら、こんな回答してきた。
Gemini
1.5 Flash
Gemini との会話
オイディプス王 盲目 「見る」ということ 真理 自我同一性 メデューサ ナルシシズム
オイディプス王、盲目と「見る」こと:深淵な真理と自我同一性
ソフォクレスの『オイディプス王』は、運命と人間の自由意志、そして自己認識の深淵を描き出した傑作です。物語の中心人物であるオイディプス王の悲劇は、彼が「見る」ことの意味を深く問い直し、最終的に盲目となることで真実に到達する過程を通じて、私たちに多くの示唆を与えてくれます。
盲目と「見る」ことの二面性
オイディプスは、スフィンクスの謎を解き明かしテーバイの王となった英雄です。しかし、その栄光の裏には、恐ろしい運命が待ち受けていました。彼は、実の父を殺し、母と結婚するという恐ろしい予言を逃れようとしますが、皮肉にもその予言を自ら成就してしまうのです。
オイディプスが自らの目を抉り出すという衝撃的な結末は、一見すると、彼が「見る」ことを放棄したように思えます。しかし、この行為は単なる自己罰ではなく、むしろ真実に目を向けるための新たな視点を獲得したことを意味していると言えるでしょう。
肉体的な目と精神的な目: オイディプスは、肉体的な目を失うことで、初めて精神的な目で世界を見ることができるようになったのです。彼は、自らの犯した罪の深さを痛感し、人間存在の悲劇的な側面を深く理解するに至ります。
真実を見ることの恐ろしさ: 真実を見ることは、必ずしも幸福をもたらすとは限りません。オイディプスは、真実を知ることによって、愛する者たちを傷つけ、自らも破滅へと突き進んでいきます。しかし、彼はそれでもなお、真実を知りたいという人間の根源的な欲求に突き動かされるのです。
メデューサとナルシシズム:自己を見つめることの困難さ
オイディプスの物語には、ギリシャ神話に登場するメデューサやナルシシスの物語との共通点が見られます。
メデューサ: メデューサは、その姿を見た者を石に変えてしまう恐ろしい怪物として描かれます。これは、自己の醜い側面や暗い欲望に向き合うことの困難さを象徴していると言えるでしょう。オイディプスもまた、自らの犯した罪に向き合うことで、精神的な苦痛を味わいます。
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www.britannica.com
Medusa Greek Mythology
ナルシシズム: ナルシシスは、自分の姿に恋して水没死するという悲劇的な運命を辿ります。これは、自己愛が破滅へと導く危険性を示唆しています。オイディプスもまた、最初は自分の能力を過信し、運命を軽視する態度をとっていたと言えるでしょう。
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en.wikipedia.org
Narcissus Greek Mythology
自己同一性とアイデンティティの喪失
オイディプスの悲劇は、自己同一性とアイデンティティの喪失という普遍的なテーマを扱っています。彼は、王としての地位、家族、そして自分自身というアイデンティティを失い、孤独な放浪者として生涯を終えます。
運命と自由意志: オイディプスの悲劇は、人間が運命に抗うことはできないのか、それとも自由意志によって運命を変えることができるのかという問いを投げかけています。
人間の尊厳: しかし、オイディプスは、たとえ全てを失ったとしても、人間としての尊厳を失うことはありませんでした。彼の悲劇は、人間の弱さと強さを同時に描き出し、私たちに深い感動を与えてくれます。
オイディプス王が私たちに教えること
オイディプスの物語は、単なる神話ではなく、私たち人間の心の奥底にある普遍的なテーマを扱っています。この物語から、私たちは以下のような教訓を得ることができます。
自己認識の重要性: 自分自身を深く理解し、自分の行動に責任を持つことの大切さ。
運命と自由意志のバランス: 運命を受け入れるとともに、自分の人生を積極的に生きることの大切さ。
人間の弱さと強さ: 人間は完璧な存在ではなく、誰しもが過ちを犯す可能性があるということを受け入れること。
真実に向き合う勇気: 苦しい現実から目を背けずに、真実と向き合うことの大切さ。
まとめ
オイディプス王の悲劇は、私たちに「見る」ことの意味を深く考えさせ、自己認識の重要性を教えてくれます。彼の物語は、時代を超えて多くの人々に読まれ、演じられてきたのは、そこには普遍的な人間の姿が描かれているからでしょう。
このテーマについて、さらに深く探求したい場合は、以下のキーワードで検索してみてください。
オイディプス王
ソフォクレス
ギリシャ悲劇
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真実
自己認識
メデューサ
ナルシシズム
アイデンティティ
運命
自由意志
もし、このテーマについてさらに質問があれば、お気軽にお尋ねください。
(注: 上記の解説は、あくまで一例であり、解釈は人それぞれです。より深い理解のためには、様々な角度からこの作品を読み解くことが重要です。)**
(画像の追加について: この解説に関連する画像として、以下のものが考えられます。
オイディプス王が目を抉り出す場面を描いた絵画
メデューサの彫刻
ナルシシスが水面に映る自分の姿を見つめている絵画
これらの画像を追加することで、より視覚的に理解を深めることができます。もし、特定の画像をご希望であれば、お気軽にお申し付けください。)**
(その他: この解説は、哲学、心理学、文学などの様々な視点から考察することも可能です。ご希望に応じて、これらの視点からの解説も可能です。)**
Gemini は不正確な情報を表示することがあるため、生成された回答を再確認するようにしてください。
ワケわかんねえ
もう年末ですね。
父親が健在だったころは、
大晦日には
小林家が一同に会する
わけですが、
いつものごとく
姉が泣き叫んで、
いつの間にか
母親と姉が
廊下で雑魚寝して
新年があける、
なんてことが
2、3回
あった。
やっぱ
おかしいわ。
この家族。
上述の話は、
高崎に住むようになってからのことだが、
羽生に住んでいた頃は、
たしか
姉が28歳くらいのことだったと
記憶しているが、
姉が
地元の同級生と
深夜まで
飲み会やって、
俺は
不眠症だから、
真夜中に
玄関で嗚咽する声が聞こえるから、
何かと思って
見に行ったら、
ウミガメ(姉)が卵
産んでた。
28で青春ですか。
いい気なもんだ。
人が
大変なことになってんのに、
なんてことも
あったね。
あれ、たぶん
俺が
病気になって、退院してきて
まだ
復学するまえで
ひたすら
食って寝てウンコしてた頃だね。
姉とは
5歳差だから、確かにそんなもんだ。
2024年12月28日土曜日
明治資料館@沼津
せっかく
三島で面接授業なので、
お隣の
沼津の
明治資料館にも
行ってきました。
もっとデカい公園みたいに
なっているのか、と
思いきや、
国道1号沿いに、
古い洋館が
建っていて、
言われなければ
絶対に
わからない感じでした。
明治期の偉人、江原素六に
ゆかりのある資料館らしく、
幕末から明治期にかけての
資料などが
展示されていて、楽しかったです。
(ちなみに、江原素六という人は、
東洋英和や麻布(←いわゆる「御三家」の麻布)
の
創設者ということで、
知る人ぞ知る、といったところでしょうが、
世間的にはあまり
有名ではありません。
しかし、歴史的に有名になることと
その人の
偉大さとは
また
別次元。)
ともかく、一応しつこく勉強してきた
時期の展示物などなので、
結構
気持ちよかったです。
これ、中年の特権なのかもだけど、
もう
脳のキャパとか年齢的な脳の構造の
問題かもだけど、
今さら
新しい分野の勉強を
するってのは、無理がある。
むしろ、知ってる分野のことなら
脳が活性化して
気持ちよくなれるなら、
そんな
贅沢な話はないだろう。
自分は
結局
行政におんぶにだっこの
人間に
なってしまったので、
あとは
そうやって
生きていくのが、なんだかんだ
ベターなんだろう。
民法のことも
まったく知らないわけじゃないが、
勉強して
どうこうというのも、
それは
ちょっと
無理がある。
いずれにせよ、山岡先生という
ラスボスに、
20年かけて
こさえた
我が子同然のレポートを
提出したら、もう
なんか
別に
いいや、と
いい具合に脱力しました。
ここまでやれば、
もう
文句は言えない。
あと、JR沼津駅の改札に、
サンマルクカフェかなにかが
併設されていて、
結構なお値段はするものの、
しっかり
濃くて、なにより
店内が
ほどよく空いていて、かといって
もちろん
ガラガラでもなく、
ゆったりとした喫茶店のムードが
漂っていました。
東京の
利益至上主義の
キツキツな感じとは無縁で、
ああ、これが
文化資本というものか、と
感心しました。
あと、
東海地方特有?の
バス網とか。
モーニング喫茶といえば名古屋ですが、
沼津まで来ると
その文化が
浸透しているのかな、と
思いました。
これ、「マツコの知らない世界」で
見た
情報ですが、あれ
バカに出来ないね。
なかなかの
教養バラエティー番組だと
思うよ。
TBSは嫌いだけど、
バラエティーはたまに面白い。
中国史レポート予備
唐代末期以降、安禄山、史思明といった節度使の台頭から、五代十国を経て、皇帝の権威は著しく低下したが、宋代になると、科挙、とりわけ殿試制度により、皇帝の権威は強化された。のみならず、五代十国期に端を発する貧富の格差は、宋代になり、形勢戸・官戸と、佃戸の身分差が実質的に確定され、宋代以降も固定化された。また、大地主層である形勢戸から、官戸が輩出されることは、地主層優遇政治が確固たるものになるだけでなく、科挙による儒教精神の浸透が、持つものと持たざるものの格差を、決定的に固定化した。宋代では、官僚も皇帝に対して、相対的に強い権力を保持したが、明代以降になると、皇帝独裁が完全に確立され、中国社会からは、社会のダイナミズムが失われた。
2024年12月27日金曜日
2024年を振り返って
今年は、
しつこいですけど、
措置入院を食らってから
20周年の
節目の年でした。
最後の最後に
山岡龍一先生の
強烈な
政治学の授業を
三島で受講し、
また、
20年かけて
でっち上げた
レポートも出して、
これ以上ない
形で
メモリアルイヤーを締めくくる
ことが出来そうです。
静岡学習センターに問い合わせたら、
レポートが
講評つきで却ってくる、ということはなく、
我が子同然のレポートが
酷評されて却ってくる、という
悪夢を想定せずに、
ただ
成績がつくかつかないか、だけ。
ある意味
気楽です。
とにかく
山岡先生に
読んでいただければ
それで
十分なので。
私は
もう
来年の目標を設定しました。
民法を中心に
法律を勉強しようと
思っています。
これからの
激動の時代を
生き抜くために。
みなさま
よいお年を。
では、さらば。
石破内閣
俺は、石破さんは
すごい人だと思っている。
と、いうか
石破さんが
首相として
政権を運営しているという
こと
自体が奇跡的なことだと
思う。
おそらく、長くはもたない
かも知れないが。
石破さんが
ここまでやっていることを、
当たり前だとか、
出来レースだとか
裏に誰かいるとか
陰謀だとか言うやつは、
人生に何のドラマも
見いだせない
可哀想なやつだとしか
俺は思わない。
安倍さんに
徹底的に嫌われて、
完全に干されていた人が、
安倍さんが
突然この世から去る、ということが
なければ
まず
政界の檜舞台に一生登らずに
政治家人生を終えていたはずの
人が、
総裁選で高市を破って
首相になり、
世間からの
猛烈な逆風の中、
ちゃんと
政権運営をしている、ということが
どれほど
奇跡的なことか。
それを
当たり前だと
思うやつは、
眼の前でどんな偉業が
成し遂げられても
なんの感動も覚えない
可哀想なやつだ。
屁理屈ばかりで
実際の党運営など
出来るはずがないと
思われていた
石破さんが
ここまで
やっている、というだけでも、
奇跡だと
俺は
思う。
それを
当たり前だとか
出来レースだとか
思うやつは、
ただの
不感症だ。
2024年12月26日木曜日
民法
民法というと、
イメージとしては
家族法、つまり、
相続だの離婚だの
のことだと
思われがちだけど、
士業やりたいなら
もちろん
それが
分かってないと
商売にならない
だろうけど、
財産法だって、
生きてくうえで
相当
重要だよね。
俺は、
正直
家族法には興味ないんだが、
やっぱり
財産法は
しっかり
頭に叩き込んでおかないと、と
強く
思うようになりました。
「金融と社会」質問と回答その7
質問:インフレ目標政策についてうかがいます。
私の実感でも、物価が上がってきたなー、と感じます。
より正確には、
通貨(円)の価値が目減りした
ということだと思われますが。
あまり国民の生活が苦しくなれば、
物価の安定という意味では、
金利をあげたほうがまだマシ、
と考える家計も
増えてくるのではないかと考えます。
そうすると、なるほどこれがフィッシャー効果か、
と思われるのですが、
確かに
実質金利がさがったことで
消費者の購買意欲が増したことで
景気の底割れを防ぎ、
政府の名目上の税収も
増えていると言われています。
しかし、かといって、
国も企業も家計も借金まみれの現状では、
今さら金利を上げられるのか、
甚だ疑わしいです。
なぜなら、
金利の上昇は、確かに通貨(円)の価値を
底上げする可能性はありますが、
上述のように
政府・企業・家計が借金まみれの状態では
金利の上昇は難しいことは無論、
長期金利の上昇は、
政府の借金の利払いを増嵩させるのみならず、
日本国債の価格を低下させるため、
発行済日本国債の6割を保有すると
いわれる日銀の財務状況を、
著しく危殆にさらすものと考えられるからです。
果たして、
これが当初のインフレ目標政策の
目指していた姿なのか、
甚だ疑念を感じずにはいられません。
回答: 質問文に書かれていることは、私も理解できます。
インフレ目標政策が
2013年に導入を余儀なくされた時、
当時の白川総裁には
その問題点がわかっていたと思います。
日銀が2000年に
インフレ目標政策について調査したレポートを
リンクしておきます。
http://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2000/data/ron0006a.pdf
2024年12月25日水曜日
灯台下暗し
すげえよなあ。
放送大学・・・
民法の授業は
もちろんあって、
でも
家族法に興味ないから
財産法を扱った
回だけ
聴いて、
ギリギリ単位
取ったけど、
家族法も
勉強できたら、何か
資格取得を目指す
ときでも、
色々と
有利だし、
せっかく民法は
勉強したけど、
家族法は
わかりません、だと、
なんか
もったいない、と
思っていたところへ、
ふと
思い出して
放送大学の放送授業で
なんかあったな、と
思ったら、
家族法を
専門的に
扱った
映像授業があるじゃないか。
ほんと、
どこまで
気が利くんだよ、放送大学。
2024年12月24日火曜日
旬報社 (再掲)
もし、 日銀が目的としている 2%の物価上昇が 実現した場合、 国債の発行金利が 2%以上になるか、 利回りが 最低でも 2%以上になるまで 市場価格が下がります。 なぜなら、 実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) が マイナスの (つまり保有していると 損をする) 金融商品を買う 投資家はいない からです。 国債 (10年物) の利回りは 0.1%程度 (2018年11月現在) ですが、 それが 2.1% に上昇した場合、 何が起こるでしょうか。 政府の 国債発行コストが 跳ね上がるのは もちろんですが、 より重要なことは、 国債価格が暴落し、 国債を大量に保有している 銀行に莫大な評価損が 出ることです。 「経済の論点」 旬報社 72ページより
都合のいい俗説 (再掲)
国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だったらしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 6割 超えましたね。
2024年12月23日月曜日
政治学入門@三島レポート 補論
☆補論:感情の政治ー生成AIに聞いてみたら、面白い回答が返って来ました。
質問:夏目漱石の小説における『それから』での、 「赤の世界」と「青の世界」との対比を意識しながら、 近年の政治が、 合理性の「赤の世界」から、 人間の情動という 「青の世界」への振れ という論点で、論じてください。 生成AIの回答: 夏目漱石『それから』と現代政治:赤の世界から青の世界へ 夏目漱石の『それから』における「赤の世界」と「青の世界」の対比は、近代社会における合理性と感情、あるいは社会と個人の関係を鮮やかに描き出しています。この対比を軸に、現代政治が合理性の「赤の世界」から、人間の情動という「青の世界」へとシフトしているという論点を考察してみましょう。 『それから』における「赤の世界」と「青の世界」 『それから』において、「赤の世界」は、客観的で理性的、社会的な秩序を象徴する世界です。主人公の長井代助が属する世界であり、官僚制や伝統的な価値観が支配する社会を指します。一方、「青の世界」は、主観的で感情的、個人的な世界です。代助が憧れる三千代や、彼の内なる感情が属する世界であり、個人の自由や感情表現が重視される空間です。 現代政治におけるシフト 現代政治においては、かつては合理性や効率性が重視され、「赤の世界」が優位に立っていました。政策決定はデータに基づいて行われ、感情的な要素はできるだけ排除されるべきと考えられていました。しかし、近年では、この状況に変化が見られます。 感情に訴える政治の台頭: 政治家たちは、もはや単に政策を論理的に説明するだけでなく、感情に訴えかけるような言動をとることが多くなりました。SNSの普及により、感情的なメッセージがより広がりやすくなったことも、この傾向を加速させています。 多様性の重視: 個人の多様性が尊重され、マイノリティの権利が重視されるようになりました。これは、かつての画一的な価値観に縛られた「赤の世界」から、個人の感情や価値観を尊重する「青の世界」へのシフトを意味します。 ポピュリズムの台頭: 民衆の感情や不満に迎合するポピュリズム的な政治が世界的に広がっています。これは、合理的な政策よりも、人々の感情に訴えることの方が支持を得やすいという現実を反映しています。 なぜ「青の世界」へのシフトが起きているのか? このシフトには、いくつかの要因が考えられます。 複雑化する社会: グローバル化や情報化が進み、社会はますます複雑化しています。単純な理屈で物事が解決できない状況下では、感情的な訴えの方が人々の心に響きやすくなります。 情報過多: インターネットの普及により、人々は膨大な情報に囲まれています。その中で、感情的な情報の方が記憶に残りやすく、拡散されやすい傾向にあります。 政治不信: 政治家に対する不信感が高まる中で、人々は感情的なつながりを求めるようになっています。 結論 夏目漱石の『それから』で描かれた 「赤の世界」と「青の世界」の対比は、 現代政治の状況を理解する上で 重要な視点となります。 現代政治は、 合理性と効率性を重視する 「赤の世界」から、 人間の感情や多様性を重視する 「青の世界」 へとシフトしていると言えるでしょう。 しかし、 このシフトは必ずしも良いことばかりではありません。 感情的な訴えが 過度に重視されると、 ポピュリズムが蔓延し、 社会が分断される危険性も孕んでいます。 議論の余地: 「青の世界」へのシフトは、民主主義の深化を意味するのか、それともポピュリズムの蔓延を招くのか。 感情的な要素を政治に取り入れることは、必ずしも悪いことではないが、どのように感情的な要素と理性的な要素をバランスよく取り入れるべきか。 このようなシフトは、日本だけでなく、世界全体で共通に見られる現象なのか、それとも日本特有の現象なのか。 これらの点について、さらに深く考察していく必要があります。 (注: この論考は、あくまで一般的な傾向を捉えたものであり、個々の政治家や政策によって状況は異なります。また、「赤の世界」と「青の世界」という概念は、あくまでも一つの解釈であり、他の解釈も可能です。**) キーワード: 夏目漱石, それから, 赤の世界, 青の世界, 現代政治, 合理性, 感情, ポピュリズム, 多様性 関連キーワード: 政治哲学, 社会心理学, マスコミュニケーション この論考をさらに発展させるためのヒント: 特定の政治家や政党の事例を分析する 歴史的な文脈の中で、このシフトを考察する 人工知能の発展が、政治にどのような影響を与えるか グローバルな視点から、この問題を考察する この論考が、夏目漱石の文学作品と現代政治の関係について、より深く理解する一助となれば幸いです。
政治学入門@三島レポートその13
第13節:読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)
政治学入門@三島レポートその12
第12節:では、なぜ人は都市での生活に憧れるのだろうか?それは、都市という空間が「見られることの不安」にさらされる空間だからではないだろうか。「見られることの不安」が、そこに暮らす人々を、より洗練された身振り、服装、趣味、言葉遣い、教養を身につけるように強いるのである。村落共同体では、個々人の社会的役割や上下関係は固定化されており、個人というものが際立った特徴のあるものとして認識されていない。それは安定しつつも、退屈な日常である。ここで、「見られること」が、人の「顔」を創り上げること、あるいは「顔」は他者からの視線抜きには成立すらしないことを現象学的に考察する。 ルソーは疎外論の 元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」 と 「社会的仮面を被ったワタシ」 の分離という 中学生が本能的に 感じるようなことに 言及していたそうである。 ここで、いわゆる 『キャラ』 について考えてみよう。 サークルの飲み会で、 場にあわせて ドンチャン騒ぎを やることに倦み果てて、 トイレに逃げ込んだときに 自分の顔を鏡でみるのは 一種のホラーである。 鏡に映る、グダグダに なって油断して仮面を 剥がしかけてしまった 見知らぬ自分。 それを自分だと思えず 一瞬見遣る鏡の前の男。 男は鏡に映る男が 自分であることに驚き、 鏡の中の男が同時に驚く。 その刹那両方の視線がカチあう。 俺は鏡を見ていて、 その俺を見ている鏡の中に 俺がいて、 それをまた俺が見ている・・・ という視線の 無限遡行が起こって、 自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような 思考実験からは、 <顔>について われわれが持っている イメージとは違う <顔>の性質を 垣間見ることが 出来るのではないか。 そもそも、 自分の顔は自分が一番よく知っている と誰もが思っているが、 鷲田清一によれば、 「われわれは 自分の顔から 遠く隔てられている」 (「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22) という。 それは、 「われわれは 他人の顔を思い描くこと なしに、 そのひとについて 思いをめぐらすことは できないが、 他方で、他人が それを眺めつつ <わたし>について 思いをめぐらす その顔を、 よりによって当のわたしは じかに見ることができない。」 (P.22)からだ。 言い換えれば、 「わたしはわたし(の顔)を 見つめる他者の顔、 他者の視線を通じてしか 自分の顔に 近づけないということである。」 (P.56)ゆえに、 「われわれは目の前にある 他者の顔を 『読む』ことによって、 いまの自分の顔の様態を 想像するわけである。 その意味では 他者は文字どおり <わたし>の鏡なのである。 他者の<顔>の上に 何かを読み取る、 あるいは「だれか」を読み取る、 そういう視覚の構造を 折り返したところに <わたし>が想像的に 措定されるのであるから、 <わたし>と他者とは それぞれ自己へといたるために たがいにその存在を 交叉させねば ならないのであり、 他者の<顔>を 読むことを覚えねば ならないのである。」(P.56) そして、 「こうした自己と他者の 存在の根源的交叉(キアスム)と その反転を可能にするのが、 解釈の共同的な構造である。 ともに同じ意味の枠を なぞっているという、 その解釈の共同性のみに 支えられているような 共謀関係に <わたし>の存在は 依拠しているわけである。 他者の<顔>、 わたしたちはそれを 通して自己の可視的な イメージを形成するの だとすれば、 <顔>の上にこそ 共同性が映しだされている ことになる。」(P.56) こう考えると、 「ひととひととの差異を しるしづける<顔>は、 皮肉にも、 世界について、あるいは自分たち についての 解釈のコードを 共有するものたちの あいだではじめて その具体的な意味を 得てくるような現象 だということがわかる。」(P.58) これはまさに、 サークルなどで各々が 被っている<キャラ>に まさしく当てはまる のではないか。 サークルという場においては、 暗黙の解釈コードを 共有しているかどうかを 試し試され、確認し合っており、 そのコードを理解できないもの、 理解しようとしないものは 排除される。 その意味では <キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。 視線の交錯の上に 成り立つ 「規律」に反するものを “排除”する構造は、 <キャラ>を媒介として成り立つ、 目には見えない 一望監視装置と言えるだろう。このように、人間の「顔」は、他者の視線の交錯と、それを我々が想像することにより成り立ちうることが示された。都市という空間においては、「見られること」の過剰とも言える意識が、そこに住む人をより高度で洗練されたカルチャーへと誘うのである。さらに言えば、「見られることの不安」、言い換えれば「視線」抜きでは、都市的個人さえも産まれないのである。
政治学入門@三島レポートその11
第11節:放送大学の放送授業「都市と地域の社会学」にインスパイアされたのだが、夏目漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思われる。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明だが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思われる。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうだが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考える。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われる。 先ほど「身体性」というキーワードを提示したが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われる。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけである。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけである。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題だが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのだが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係というものに、魅了されていく。 あるいは、ムラに暮らしている人たちは、「都市」の自由さに憧れて、都市に惹き寄せられていく。 それでも、何かしらの紐帯、都会でしかありえないような関係性を模索していく。 その意味では、漱石は、「坊っちゃん」以来の「近代化」、こう言って良ければ、「都市化」に強烈な危機感を抱きながらも、現実は「地域」から「都市」に出てきた人たちは、それはそれで何かしらの関係性を他者と取り結んでいく。 まとめるとこのような感じかと思われる。 もちろん、漱石の「近代化」はこれで汲み尽くせるものでは到底ないわけだが、これが一応私なりの考えである。 繰り返すと、漱石の「近代化」(「都市化」)は、皮相を上滑りに滑っていかざるを得ない、と言いながらも、濃密に「身体性」を抜きにしては捉えられない。 むしろ、「身体性」から逃れられないからこそ、そこから逃れようとしても、身体性と「理性」は密接不可分の関係にあるのではないか。 「それから」の「百合」はそのことを象徴するアイテムなのではないだろうか。
政治学入門@三島レポートその10
第10節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる三千代は、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。このように、夏目漱石は、経済の合理性の論理と、自家特有の世界との板挟みに遭いながらも、理性を放棄し、主観と客観との区別の放棄への道は採らずに、理性的な近代的個人に拘るのである。
政治学入門@三島レポートその9
第9節:以上を踏まえながら、アリストテレスの倫理学を構造主義との対比で取り上げる。私の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたと感じられる。 自分は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! という 肩書きでは 良くも悪くも通用しなくなってきている。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思われるが、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
政治学入門@三島レポートその8
第8節:詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)
政治学入門@三島レポートその7
第7節:このように、現代社会においては、人間は高度資本主義下にあって、寄る辺なきアトムとして生きている。アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。しかし、理論的苛烈さは時として危険な政治信条に結びつく。現実的には、やはり徹底的に合理化され尽くしたように見える日本社会においては、「詐欺」の可能性が「管理された世界」を脱−構築する可能性を秘めている。このことを荻野昌弘の論を援用して敷衍してみたい。
政治学入門@三島レポートその6
第6節:現代日本の状況を、社会契約論と「詐欺」という観点から考察する。徹底的に合理化された現代日本社会では、「詐欺」の可能性が社会の破れ(解放)の可能性を秘めていると同時に、社会を崩壊させる危険性をも孕んでいる。回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更正するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。
政治学入門@三島レポートその5
第5節:夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、「俺」を、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。
政治学入門@三島レポートその4
第4節:日本の<近代化>の歴史的起源にあるのは、ロシアの脅威である。また、ロシアのいわゆる南下政策とその失敗は、ヨーロッパ大陸の情勢にも大きな影響を与えた。ここでは、日本の<近代化>を考察する上で、ロシアと日本の連関を念頭に置きながら、一旦歴史の流れに目を向ける。ロシアの南下政策の挫折と、その後の東方進出は、日本に対する脅威として現れた。クリミア戦争(1853年-1856年)とそれに続く露土戦争(1877年-1878年)など一連の出来事を教訓として、ロシアは不凍港を求めて東アジアへの進出を志向し、清朝といくつかの条約を結びながら、国境を確定させ、ユーラシア大陸を東へと進んだ。 太平天国の乱(1850年-1864年)で、列強が撤退した後もロシアは軍隊を駐留させたために、列強の警戒心を惹起するとともに、日本との緊張関係が生まれた。さらには、東清鉄道敷設権の権益を巡り、中国東北部の利権を狙う日本との緊張関係が深化した。 1894年に日清戦争が勃発し、日本が勝利すると、日本は朝鮮半島と台湾を獲得した。この結果、ロシアと日本は朝鮮半島と中国東北部で直接対峙するようになった。 インドを植民地とするイギリスはロシアの南下政策に脅威を感じ、1902年に日英同盟を締結する。この同盟は、ロシアの東アジア進出を牽制する狙いがあった。 1904年、日露戦争が勃発し、日本が勝利すると、ロシアは一時的に東アジアでのプレゼンスを低下させた。しかし、ロシアが革命によりソビエトを結成すると、日本は機会主義的な対ソビエト干渉を続け、中国東北部への進出を深めた。 1920年、尼港事件が発生し、日本とソビエト軍が衝突した。また、1925年には、大陸への野心からシベリア出兵を実施し、中国東北部への進出を図った。大正期における日本の大陸進出の動きは、ソ連の革命政権に対する機会主義的な野心の現れであったと言えよう。 一方、ヨーロッパ大陸では、ロシアの野心とドイツの野望との衝突で、バルカン半島での汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立が深刻化し、三国協商と三国同盟の対立が先鋭化し、第一次世界大戦に発展した。1918年に戦争が終結すると、戦勝国はオスマン帝国を分割し、その領土を占領した。この結果、中東情勢は混乱し、現在に至る複雑な状況の遠因となった。 三国協商側に立って第一次世界大戦に参戦した日本は、中国大陸での利権を更に拡張させることを試みたが、欧米列強の警戒心を引き起こした。 1920年代には、日本と欧米列強との国際協調関係が成立したが、日本での金融恐慌の頻発や世界的な金融恐慌が引き金となり、日本が満州国を巡って国連を脱退するなど、アジア大陸への野心を顕にすると、国際協調体制は崩壊した。 スターリン指導による一党独裁体制が確立したソ連はアジア大陸で日本との緊張関係を加速させた。 以上のように、ロシアと日本は、南下政策と東方進出を巡って、19世紀末から20世紀前半にかけて、激しい対立を繰り広げた。この対立は、両国の軍事力増強や軍拡競争を招き、最終的には第二次世界大戦へとつながる大きな要因となった。
政治学入門@三島レポートその3
第3節:芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、をキリスト教哲学とカントの対比から考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。アリストテレス的善の考え方は後にまた取り上げる。
政治学入門@三島レポートその2
第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。
政治学入門@三島レポートその1
第1節:
ホッブズ、ジョン=ロック、ヒュームに至る系譜は、
イギリスが
世界に冠たる資本主義国家としての
歩みと
平仄を合わせている。
ホッブズの時代には、英蘭戦争を戦い、
ジョン=ロックの時代には
プファルツ継承戦争とともに北米での
戦争を戦っている。
ヒュームの死亡年には、アダム=スミスが「国富論」を刊行している。
まさに
そのような時代状況の移り変わりの中で、
各々の思想家の理論が
展開されたのである。
ホッブズは、
機械論的自然観の曙光の中で、
国家を
まさに数学的厳密さをもって、その必要性を論証しようと試みた。
ジョン=ロックの時代には、
名誉革命が起き、
イギリス立憲主義的議会制民主主義が確立された。
また、1687年には、
ニュートンが「プリンキピア」を刊行している。
まさに機械論的自然観が、
実際の制度、科学の発展の端緒と歩調を合わせながら、
花開こうとしている。
ジョン=ロックのいわゆる「抵抗権」は、
現実の
めまぐるしく変わる政治状況のなかで、
政府というものが、
市民から「信託」を受けたものである、
という
ある種の
プリンシパル=エージェンシー関係にある。
Authorとしての国民が、
Artificial personとしての
リヴァイアサンに
主権の一部を放棄し、
authorizeする、とする理論とは若干異なる。
ヒュームは、
金本位制を擁護したことでも知られているが、
没年にアダム=スミスによる「国富論」が
刊行されていることからもわかるように、
まさに
イギリスが産業革命を成し遂げ、
世界の工場として飛躍していこうという
新世界の入り口に立っていた。
ヒュームは経済の論理を重視し、
特に経済的慣行の中で、
ひとびとが
繰り返し取引される中で生成される秩序に
着目したという点で、
保守主義者であったと
言われている。
ルソーの時代になると、
イギリスでは
エンクロージャーに代表されるように
農業革命も起こり、
ますます
近代資本主義が進展するとともに、
貧富の格差も生まれ始めた。
そのような状況のなかで、
ルソーは
己自身が己の主人であり、また奴隷である、
そのような状況のなかで、
人民が定期的に集まり
「一般意志」
を
形成することで、
だれも疎外されない社会が
生み出されると考えた。
カントは、
大陸合理論とイギリス経験論を総合したとして名高いが、
デカルト的理性主義から、
ヒュームの懐疑論によって
「独断のまどろみ」から目覚めたと主張したと
言われている。
カントの定言命法は
Aを求めるためにXをする、
というものではなく、
ただXをせよ、
という命令を自己に課し、
それが
社会の規範と齟齬がないようにせよ、と説くものであった。
己の倫理と社会の規範の緊張関係を
つねに意識することによって、
はじめて人間は未成年状態から脱することができる、
という
いわゆる啓蒙主義は、
のちの
ロールズにも受け継がれている。
ロールズは、
我々は
道徳について
多かれ少なかれ直観的な確信を持っているが、
それだけでは足りず、
反照的反復によって、
優先順位をつけなければならない。
それは、
カント的倫理観が
現代にそのまま通用するものではないことを
踏まえつつ、
現実と理念的正義の間を絶えず往復し、
絶対的な善というものが成り立ちえない
現代社会において、
公正な社会を実現するには、
公共理性に訴えかけるような
やり方を
しなければならない、
と説いた。
2024年12月15日日曜日
ベンヤミンと貧困 (再掲)
ベンヤミンは、
「手」にもとづく
認識の成果としての
技術の巨大な発展が
全く
新しい貧困状態を
もたらしたと指摘している。
「技術の巨大な発展とともに、
まったく新しい
貧困が
人類に襲いかかってきたのである。」
(「貧困と経験」『著作集』第1巻)
技術は
不断の発明・発見によって
次々に
新しいものを作り出しては
古いものを破壊していく
「創造的破壊」(creative destruction)
(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)
をもたらす。
機械は急速に進化していき、
不断に
「倫理的摩滅」にさらされている。
(『資本論』第1巻、P.528参照)
それとともに
人間の生活を支えている
周囲の事物は
ことごとく変化してしまうならば、
人間は
もはや
自らの過去の経験を
頼りにすることができず、
つねに
最初から新たにやり直すしか
なくなってしまう。
「まだ
鉄道馬車で
学校へかよったことのある
ひとつの世代が、
いま、
青空に浮かぶ雲のほかは
何もかも
変貌してしまった
風景のなかに立っていた。
破壊的な
力と力がぶつかりあい、
爆発をつづけているただなかに、
ちっぽけな
よわよわしい人間が立っていた。
・・・これはそのまま、
一種の新しい野蛮状態を意味する。
野蛮?
そのとおりである。
・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、
最初からやりなおしを
するほかはない。
あらたにはじめるのである。」
(「経験と貧困」)
これは、
1933年の「経験」状況である。
ベンヤミンは、
人生における経験が
ゆっくりと時間をかけて
つくられていくような
「完成する時間」に対して、
「永劫回帰」する時間を
対置する。
「・・・完成する時間・・・は、
着手したものを
完成することを
許されない
ひとびとが住む
地獄の時間と対をなしている。」
(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」
『著作集』第6巻)
「アドルノ」 岩波現代文庫より 抜書 (再掲)
もっとも、
アドルノが
主観と客観との
絶対的な分離に敵対的であり、
ことに
その分離が
主観による
客観のひそかな
支配を秘匿している
ような場合には
いっそう
それに敵意を
示したとは言っても、
それに替える彼の代案は、
これら
二つの概念の完全な統一だとか、
自然のなかでの
原初の
まどろみへの回帰だとか
を
もとめるものではなかった。
(93ページ)
ホーマー的ギリシャの
雄大な全体性という
若きルカーチの幻想であれ、
今や
悲劇的にも忘却されてしまっている
充実した
<存在>
というハイデガーの概念であれ、
あるいはまた、
人類の堕落に先立つ
太古においては
名前と物とが一致していたという
ベンヤミンの信念であれ、
反省以前の統一を
回復しようという
いかなる試みにも、
アドルノは
深い疑念をいだいていた。
『主観‐客観』は、
完全な現前性の
形而上学に対する
原‐脱構築主義的と
言っていいような軽蔑をこめて、
あらゆる
遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。
(94ページ)
言いかえれば、
人間の旅立ちは、
自然との原初の統一を
放棄するという
犠牲を払いはしたけれど、
結局は
進歩という性格を
もっていたのである。
『主観‐客観』は、
この点を指摘することによって、
ヘーゲル主義的マルクス主義をも
含めて、
人間と世界との
完全な一体性を
希求するような哲学を
弾劾してもいたのだ。
アドルノからすれば、
人類と世界との全体性という
起源が失われたことを嘆いたり、
そうした全体性の
将来における実現を
ユートピアと同一視したりするような哲学は、
それがいかなるものであれ、
ただ誤っているというだけではなく、
きわめて
有害なものになる可能性さえ
秘めているのである。
というのも、
主観と客観の区別を
抹殺することは、
事実上、
反省の能力を失うことを
意味しようからである。
たしかに、
主観と客観のこの区別は、
マルクス主義的ヒューマニストや
その他の人びとを
嘆かせた
あの
疎外を産み出しもしたが、
それにもかかわらず
こうした反省能力を
産み出しもしたのだ。
(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)
理性とは
もともとイデオロギー的なものなのだ、
と
アドルノは主張する。
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上
その関数に貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものを
ともなった原理として
高められることに、
慰めをもとめるようになるのである。」
言いかえれば、
観念論者たちの
メタ主観は、
マルクス主義的ヒューマニズムの説く
来たるべき集合的主観なるものの
先取りとしてよりもむしろ、
管理された世界の
もつ
全体化する力の原像と
解されるべきなのである。
ルカーチや
他の西欧マルクス主義者たちによって
一つの
規範的目標として
称揚された
全体性というカテゴリーが、
アドルノにとっては
「肯定的なカテゴリーではなく、
むしろ
一つの批判的カテゴリー」
であったというのも、
こうした理由による。
「・・・解放された人類が、
一つの全体性となることなど
決してないであろう。」
(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
アドルノからすれば、
人類と世界との
全体性という
起源が
失われたことを嘆いたり、
そうした全体性の
将来における
実現を
ユートピアと同一視したり
するような哲学は、
それがいかなるものであれ、
ただ誤っているというだけではなく、
きわめて有害なものになる
可能性さえ秘めているのである。
というのも、
主観と客観の区別を抹殺することは、
事実上、
反省の能力を失うことを
意味しようからである。
たしかに、
主観と客観のこの区別は、
マルクス主義的ヒューマニストや
その他の人びとを
嘆かせた
あの疎外を産み出しもしたが、
それにもかかわらず
こうした反省能力を
産み出しもしたのだ。
(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)
2024年12月13日金曜日
いずこへ (再掲)
俺も
統一教会
勧誘されたことあるんだよね。
韓国語の先生探してるときに、
伊勢崎で待ち合わせて、
赤城山にドライブに連れてかれて、
結構しつこく勧誘された。
あの時は、
英語だけじゃなくて、
韓国語も出来ないと、
父親が死んだら
俺も野垂れ死ぬ!
て半ば本気で思ってたから、
毒も喰らわば皿まで!
ぐらいの勢いで、
ちょっと付き合ってみるかな、
と思ったんだけど、
親があまりにも
困惑し切った表情するもんだから、
諦めた。
中国語の教室って、
割と高崎みたいな
地方都市でもあるんだけど、
韓国語の教室って、
少なくとも
あの当時は
適当なのがなかったね。
結局
大宮の手前の宮原で、
韓国料理屋のかたわら
韓国語教室もやってるところで
少し勉強させてもらった。
贅沢。
あれ、確か放送大学 始める前だったかな?
ほんと、
俺の人生どうなっちまうんだか・・・?
て感じだった。
ほんと放送大学に救われた。
精神病んで
大学中退して、
社会のレールから外れて
トシだけ喰った
無職の男なんて、
わびしいなんてもんじゃないよ。
少しぐらい
慶応恨んだっていいだろ?
そうじゃないか?
2024年12月6日金曜日
不胎化されたレポートその13 (再掲)
第13節:読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)
2024年12月5日木曜日
日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)
行政法の概念に、
「行政指導」と呼ばれるものが存在する。
行政は、
本来「行政行為」と呼ばれる、
命令する主体としての行政と、
名宛人の市民との
主体・客体関係が
ハッキリしている手段で
運営されるべきものだが、
「行政指導」という、
極めて日本的な、
主体・客体関係が不明瞭な手段が、
行政の運営上横行している。
もっとも、
行政指導それ自体が問題なのではなく、
行政指導が、
本来強制力を伴わないものであるはずなのに、
従わなければ
往々にして
市民が制裁を加えられることが、
常態化しているという現実がある。
また、それに留まらず、
行政指導が
医療のあり方に絶大な影響を与えている。
どういうことか。
日本の医療制度において、
ある一定の地域に、
十分な病床数が確保されている場合、
新規に医療業者が参入しようとするとき、
保険適用が受けられず、
自由診療で開業せざるを得ない、
という現実が、
行政指導によって正当化されている。
これは明らかに
既存の病院の権益を守り、
新規参入者を
不当に排除している。
問題はこれに留まらない。
特に精神医療において、
1950年代にフランスで
画期的な抗精神病薬が開発され、
欧米先進国では
病床数が減っていったにも関わらず、
日本では逆に病床数が増えた。
これは、
戦後、精神病患者を建前上
しっかり治療しようとの方針から、
精神病院の数が増えたからである。
そこで、戦後、精神病院が増設される際、
一定の範囲で病床数を確保してしまえば、
地域の患者を独占できてしまう、
という経済的合理性によって、
精神病院が往々にして
大規模化したことが推測される。
言わずもがな、これは行政指導によって、
いったん多くの病床数を確保してしまえば、
新規参入者を排除できることが、
精神病院の大規模化を促したと
容易に考えられる。
そして、元厚生労働大臣が、
戦後日本の医療制度を構築した
武見太郎の息子である武見敬三である現実では、
これが改められる可能性は極めて低い。
漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)
質問:
授業でうかがった
漱石の自然(じねん)感ですが、
それは代助が
「青」の世界で
拵えた造り物だったのでしょうか?
三千代との実質的な姦通という
ある種の「原罪」のために、
代助は
「赤」の世界へと
放り出されるのでしょうか?
代助にとって、
「じねん」の世界は、
「青」の世界でしか
成立しえないまがい物なのか、
それとも
本来的に人間にとって
所有しえない抽象物なのか。
アドルノの「自然」観との対比でも、
興味深く感じられました。
ご回答:
「原罪」という言葉もありましたが、
倫理的な漱石は、
やはり代助の「青の世界」を
(海神の宮の「3年」期限に同じく)、
癒しをも意味する
一定期間の滞留後には出て行くべき、
後にするべき世界として
想定しているように思われます。
その意味では、
現実世界と水底と
ーー世界を2つに分断して
しまっているのは「代助」であり、
人間が
現実世界の死を背負った存在である以上、
当然、
水底的な
内なる世界と連続しているはずの
赤い現実世界へ、
代助が帰還すべきであることは
自明であり、
当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。
こんな感じかなと思います。
(オタク青年の現実世界への帰還)。
「じねん」ですが。
「青の世界」
ーー自負する「自家特有の世界」で
彼が創出した
「己に対する誠」を起点に
「自分に正直なー
(作為や人為の加わることのない)
おのずからな−あるがままの」
といった展開上に
「じねん」が生まれて来るわけですが、
上述のようなテクストの構造から言えば、
当然、
「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき
欲動的なものと接続せざるを得ない。
というより、元々、
「じねんーおのずからな・あるがまま」
自体が、
まさに
「あるがまま」の欲動的なものを
内包している、と言うべきなのかもしれません。
そう考えれば、
ストーリー展開に従って、
「青」が「赤」に接続してゆくように、
「おのずから」も
「行く雲・流れる水」
といった
上澄的なものへの憧れの昂まりが、
必然的に、
同じく
「おのずから」
人が備えている欲望的な側面を、
まさに、おのずから浮上させざるを得ない。
こういった感じなのではないでしょうか。
「じねん」は、
「青の世界」の文脈では
不本意ではあるものの、
本来的に欲動的なものと切り離せず
(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、
重々、それを承知の漱石が、
(身勝手に2つの世界を
分断してしまっている)
代助を
現実世界ー欲望の世界へと、
これまた
人間の本来的にあるべき姿として、
連接させてゆく。
その意味で、
テクスト
『それから』
は、案内人・代助を立てて、
「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、
と言うこともできるかもしれません。
こうやって、
「自然」
の全体的姿が浮上、把握された上で、
いったん『門』では、
『それから』が
「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、
すでに物語開始時点では
終わってしまっている「姦通」行為を、
「赤」的側面ーー
人間の本能
(性的欲望)
の観点から概括し、
そして
絶筆
『明暗』では、
まさに総体としての
「自然」
が、
余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。
スムーズに説明することは叶いませんでしたが、
ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。
資料作りで上記を展開しつつ、
「おのずから」
という倫理学の概念を、
もう一度、きちんと勉強したいという思いは
ふつふつと湧き上がっていたところ、
また小林くんからは
「アドルノの自然」という
西欧的自然の視点を頂戴し、
もう一度、文献を当たり直してみたいと
切実に思い始めています。
<近代>と周縁化 (再掲)
後期資本主義批判を
アドルノから荻野先生の社会学、
ゲーテを経て
漱石まで展開した動画を有り難う。
アドルノの後期資本主義批判は
しばしば読ませてもらっていたところですが、
今回は
荻野氏の「詐欺」論へ
連接させることで、
論がひときわ具体性を増し、
鮮やかな像を結んだように思います。
不確定性に賭ける「詐欺師」とは、
計量と数値化を旨とする
近代合理主義社会の、
いわば虚をつく存在。
資本主義社会の到達点ともいえる
「管理社会」への
批判的メタファーなのですね。
それが足を置く場は、
まさに
資本主義社会の
「市場」の余白とでも表すべき領域。
とすれば、小林くん講話の
後半部のキーワードともいうべき
「自然」が、
まさに
商品の
等価交換から成り立つ
「市場」の〈外部〉であることと
きれいに響き合っていることに、
つくづく感心しました。
そして、近代作家とは、
まさにその〈疎外〉感を以て、
同じく
近代が周縁化してしまった
〈自然〉
へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。
日本近代の場合、
より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、
これをまさに
〈じねん〉
にみられるような
概念化への苦闘を経ることで、
欲望的な世界から
帰還してくるのが漱石、
ということになるでしょうか。
「ファウスト」こそ詐欺師では、
との小林くんの呟きにクスリとしながら
つい頷いてもいるのですが、
その葛藤が
〈魂の救済〉
なるもので終結するのは、
やはりなんといっても
キリスト教文化圏ならではの展開でしょう。
かの有名な
「疾風怒濤」期に
端的に現れる
ゲーテの自然観
(近代的「自然」の発見)は、
日本の場合、
漱石よりも、北村透谷を経た
自然主義文学への影響の方が大きそうです。
いささか余談ですが、
ゲーテも、漱石も、そして
ほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象
ーー
〈女性〉
もまた
〈近代〉
が周縁化した存在なので、
なるほどテクストというものは
論理的かつ時代精神を
おのずから反映したものだ、
と改めてつくづく納得した次第です。
いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。
今回、頂戴した小林くん講話に
これまで頂戴している
論考から得た知識を総合すれば、
資本主義-市民社会がもたらす
疎外、物象化に対する
苦悩という名の
徹底的相対化、
これこそが
漱石の文明批評の基盤であることが、
まさに
鮮明に図式化されて見えてくる感じです。
今回は
「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、
アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、
ここから展開してゆくのが、
何度か拝見させてもらった、
アドルノを援用した小林くんの
「それから」
論ですね。
主客分離から生じる疎外を批判し、
人間の自然
および身体の抑圧を論じながら、
原初的まどろみへの回帰は
徹底的に封じた
アドルノの論理展開が、
何と代助の解読に有効であるか、
は、つねづね痛感するところです。
2024年12月3日火曜日
人間にとって貧困とは何か (再掲)
授業が
面白かったので、
教科書を
買ってみた。
基本的に
放送大学の
教材は
市販されている。
この
科目は
2022年度2学期をもって
閉講されてしまい、
もしかしたら
それに
伴い
中古でしか
手に入らないのではないか、
と
思い、
購入。
本棚に一冊あると
カッコいいよね。
・・・どっから
読んでも面白い。
一度通して
授業を聴いた、
というのもあるが、
どこから
ページを繰っても
味わい深い
言葉が
並んでいる。
ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 レジュメより (再掲)
問い:幸福とは何か。
ソクラテスは誰でも、これは、自分で人生を「設計してゆく」という発想と結びつくことである。
したがって、<配慮するもの>をもち、配慮を重ねてそのつど考え、行動する自分の人生設計者としての「一人称特権」のようなものは、幸福を問題にするとき、なおざりにできない。
たとえあることが自分のためであっても、それを押し付けられたのでは「自分の人生」ではなくなる。
ソクラテスは、このような一人称の問題があることに反して精神や徳に気を遣えといっているのではなく、
この問題があるからそれに沿うように「気を遣うもの」を考えさせようとした、
その場合、精神的なものや徳に気を遣うことは、あなたにとって納得できる方向になるはずだ、という語りかけをしている。
☆人生を「まじめに」考えること
1.幸福の中身は「一人一人の問題」であり、他人に勧告されるには及ばない。
しかし幸福というものにまつわる「構造」や「形式」の問題は、単に「その人の問題」であるのではない。
われわれの「人生の夢」の見方は、お互いに、似ている。
構造や夢の見方を「知る」ことは、自分の「一人称」としての資格や個人の強さを上昇させてくれそうに思える。
2.問題なのは、人が「分かりやすい資格として」もしくは何らか「世間的に」上昇するということではない。
たとえば、社長になるとか出世するとか大学教員になるとか有名人になるとか金持ちになるとかではない。
実質的に自分の人生に対してよい位置を占めるようになることである。
したがって、ほんとうに行動が「自分のもの」として首尾一貫して統御されていること、
ほんとうの気持ち・実感から発想したことが
同時に知性の表現にもなっていることが目標になる。
3.ソクラテスはここで、「知性」にふさわしい課題がじつは数多くあり、
それを追求しながら生きてゆくことが幸福につながる、と語りかける。
われわれの生活は、目的・手段の関係を持つ多くの行為からできている。
お金儲けや名声・地位等のためのことは、
お金・名声・地位・容姿等で何をするかという、
「次の問い」を予想する。
ここから、人間らしい生活は、「その先」を考えるところまでいかなければ
成就しない、という結論を導くことができる。
4.この「その先」は、一人一人が考えながらでなければ、結論は得られない。
ここが、ソクラテスの「幸福にする」ことの(ある意味で)厳しい意味内容である。
かれがその先のことを本人に代わって教えるのでは、何にもならない。
これは、あくまで自分でやっていくという話なのである。
5.また、知性にふさわしい課題を追求することは、それ専用の「研究室」や「教室」のようなところで
行いうるものとは考えられていない。
実人生で問題にぶつかりながら、人生自体が形を変えてゆく。
2024年12月2日月曜日
行政法を学ぶ、ということ
初めて
行政法という
法分野に触れたのは、
慶応SFCで
位田央先生の講義でしたが、
およそ
慶応SFCみたいなところで
行政法の授業を
履修するような学生
というのは、
保険で
公務員狙いの層なので、
下手に
授業中に質問なんかしようものなら、
とてつもない
無言の圧を感じる羽目になるので、
結局
たしか
履修申告はしたものの、
ほとんど
授業には出席せずに
もちろん
単位も取得できずに
終わりましたが、
それが
2006年のことで、
なぜか
自分には
行政法という分野が
面白く感じられて、
ちょこちょこ
勉強してきました。
放送大学の放送授業でも、
磯部力先生という
行政法学界の超大御所や、
北海道大学の
渡辺賢先生の
名講義などを聴いたものの、
単位認定試験が
とてつもなく
難しく、
結局
行政法の単位は取得できずじまいに
終わっていましたが、
今回
郡山女子大学で
行われた
福島大学の垣見教授の
面接授業を
超少人数の対面授業で
受講できて、
細かい疑問点を解消したり、
あるいは
実際の
事例などを通して、
行政法の知見を深めることが
できました。
行政法というのは、
非常に
マイナーな法分野ですが、
実は
果てしなく
重要な、というか、
知っているのと
知らないのとでは
天地の差があると
言って過言ではないほどの
法分野だと
思います。
例えば、私は
精神障害者ですが、
行政から
障害者という
「枠」
で
括られることの
メリット・デメリット、
強いて言えば
メリットがあるからこそ
「障害者」という
「枠」
が
あるわけですが、
それがどういう
重みを持っているか、ということを
改めて
実感いたしました。
私などは
狭い専門が
経済思想なので、
フワフワしたことを
語りがちなのですが、
それはそれで
大事だと
思うのですが、
だからこそ、
現実に
行政というのが
どういう
法的建て付けで
動いているかを知る、というのは、
極めて
重要なことだと、
痛感いたしました。
行政から、行政に対して、
どういう
権利義務関係を
構築するのか、という
法的
建て付けを
知っているということは、
自由に生きたければ、尚一層
大事なことだと
思います。
場合によっては
行政を相手に
ケンカをするにしても、
正しい
ケンカの仕方を
知っているのと知らないのとでは、
大違いです。
そもそも、
行政法の知識が
なければ、
行政を相手に
ケンカする、などということが
およそ
ドン・キホーテな
ことです。
そういう観点からも、
今回
行政法の授業を
集中的に
受講できたことは、
じつに
貴重な機会でした。
担当された
福島大学の
垣見先生には、
心より
感謝申し上げます。
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