2024年12月29日日曜日

生きること、死ぬこと レポート予備

日本は、少子高齢化に伴い、本格的な多死社会に突入した。 私は、母方の祖父が思いっきり先の大戦に従軍したので、 祖父を見て、 ご老人というのは 死ぬのが怖くないものだ、と 思っていた。 しかし、訪問ヘルパーさん (特に年配の女性) も、 やはり 死んでいくことに対する 恐怖や、生の虚しさを抱えている、と感じる。 私自身、43になっても、やはり 死ぬのはそれなりに怖い。 いざとなれば、やっぱり生きたい。 近代以降、人間は 論理的に死ぬことを目指してきた。 言い方を変えれば、 知の力を使って、 死の恐怖や、生の虚しさを 克服する営みを続けてきた。 確かに、 カントやゲーテ並の哲学を理解していれば、 それも 可能だろう。 しかし、一体どれほどの人が その境地にたどり着けるというのだろうか? 理屈で死ぬには、相当の学問が 必要だ。 そんなことが可能なのは、ごく一部の インテリだけだ。 生まれつき 勉強が得意でない人も当然いる。 そのような人たちに向かって、 理屈で死ぬことを 強要するのは、土台無理がある。  エマニュエル・レヴィナスによれば、 人間は 他者から、既に<呼びかけられている>という。 これは、もちろん 人間がたったひとり 世界に孤独に生きている場合も 同様だろう。 そして、その<他者>とは、 無限の隔たりがある、と レヴィナスは言う。  ならば、その<他者>は、 神の痕跡を残していると言って良い。 そう考えると、 人間存在は、現代社会においても、 <世界>に対して、 ほとんど 何も知り得ていない、とも 言いうる。  で、あるならば、 人間に対して 理屈で死ぬことを強要するのは、 傲慢ではないだろうか?  むしろ、理屈では説明できない世界を 肯定する余地があっても いいのではないだろうか? なぜならば、 <人間>は、この「世界」のことを ほとんど 何もわかっていないのだから。

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