2024年9月30日月曜日
証券投資理論の基礎@広島大学 レジュメより (再掲)
Q:名目金利が 年8%で インフレ率 (CPI) が 年5%のとき、 実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資 ⇛1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ ⇛1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) ☆実質金利と名目金利、インフレ率 (CPI) の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、 すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、 デフレはマイナスのインフレ率なので、 実質金利を上げてしまう。
フィッシャー効果 (再掲)
物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略)
有斐閣経済辞典第5版
https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html
旬報社 (再掲)
もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利
(名目利子率-期待インフレ率)
がマイナスの
(つまり保有していると損をする)
金融商品を買う投資家はいないからです。国債
(10年物)
の利回りは0.1%程度
(2018年11月現在)
ですが、それが2.1%に上昇した場合、何が起こるでしょうか。政府の国債発行コストが跳ね上がるのはもちろんですが、より重要なことは、国債価格が暴落し、国債を大量に保有している銀行に莫大な評価損が出ることです。 経済の論点 旬報社 72ページより
2024年9月25日水曜日
近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)
今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。 ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。 中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
2024年9月22日日曜日
私見
いわゆるJTCがイマイチなのは、雇用慣行の問題だと思います。つまり、年功賃金制と、終身雇用です。いま会社組織で上のほうに居る方たちは、若い頃に、過酷な就労実態を、相対的に安い賃金で我慢しました。その見返りが、現在の、働かないで賃金が高い、という現状と私は考えています。当然、企業からすれば、そのような方たちは、富を産み出さないのにやたら人件費が掛かる存在です。しかも頭かたいです。でも首切れません。そういう方たちが、会社組織の上のほうに居るからです。そのしわ寄せは、若年層に押し付けられます。そんな組織に、海外留学までして入りたいですか?と、いうのが私の見解です。また、これは日本社会全体の縮図でもあります。
一番かわいそうなのは、中間管理職として働いている中堅層です。部下と上司の板挟みになり、責任と仕事ばかりが増えます。しかも給料たいして上がりません。しかも、いろんなもの背負っちゃってます。家庭とか住宅ローンとか。それなのに、辞めるに辞められません。地獄です。
2024年9月21日土曜日
漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)
質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。
不胎化されたレポートその10 (再掲)
第10節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる三千代は、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。このように、夏目漱石は、経済の合理性の論理と、自家特有の世界との板挟みに遭いながらも、理性を放棄し、主観と客観との区別の放棄への道は採らずに、理性的な近代的個人に拘るのである。
不胎化されたレポートその5 (再掲)
第5節:夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、「俺」を、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
「世界の共同主観的存在構造」 廣松渉 岩波文庫 (再掲)
われわれは、現に、
時計の音を「カチカチ」と聞き、
鶏の啼く声を
「コケコッコー」と聞く。
英語の知識をもたぬ者が、
それを
「チックタック」とか
「コッカドゥドゥルドゥー」とか
聞きとるということは
殆んど不可能であろう。
この
一事を以ってしても判る通り、
音の聞こえかたといった
次元においてすら、
所与を
etwasとして
意識する仕方が
共同主観化されており、
この
共同主観化された
etwas以外の相で
所与を意識するということは、
殆んど、
不可能なほどになっているのが
実態である。
(59ページ)
しかるに、
このetwasは、
しばしば、
”物象化”
されて意識される。
われわれ自身、
先には、
このものの
”肉化”
を
云々することによって、
物象化的意識に
半ば迎合したのであったが、
この
「形式」
を純粋に
取出そうと試みるとき、
かの
「イデアール」な
存在性格を呈し、
”経験的認識”
に対する
プリオリテートを要求する。
このため、
当の
etwasは
「本質直感」
といった
特別な
直感の対象として
思念されたり、
純粋な知性によって
認識される
形而上学的な実在として
思念されたりすることになる。
(67ページ)
第三に、
この音は
「カチカチ」
と聞こえるが、
チックタックetc.ならざる
この聞こえかたは、
一定の
文化的環境のなかで、
他人たちとの言語的交通を
経験することによって
確立したものである。
それゆえ、
現在共存する
他人というわけではないにせよ、
ともあれ
文化的環境、
他人たちによっても
この音は規制される。
(いま時計が
人工の所産だという点は措くが、
この他人たちは
言語的交通という聯関で
問題になるのであり、
彼らの
生理的過程や
”意識”
が介入する!)
この限りでは、
音は、
文化的環境、
他人たちにも
”属する”
と云う方が至当である。
(70ページ)
一般には、
同一の語彙で表される対象
(ないし観念)群は、
わけても
”概念語”
の場合、
同一の性質をもつと
思念されている。
この一対一的な対応性は、
しかも、
単なる並行現象ではなく、
同一の性質をもつ
(原因)
が故に
同一の語彙で表現される
(結果)
という
因果的な関係で
考えられている。
しかしながら、
実際には、むしろ
それと逆ではないであろうか?
共同主観的に
同一の語彙で呼ばれること
(原因)
から、
同一の性質をもつ
筈だという思念マイヌング
(結果)
が生じているのではないのか?
(109ページ)
第二段は、
共同主観的な価値意識、
そしてそれの
”物象化”
ということが、
一体いかにして成立するか?
この問題の解明に懸る。
因みに、
貨幣のもつ価値(経済価値)は、
人びとが
共同主観的に
一致して
それに価値を認めることにおいて
存立するのだ、
と
言ってみたところで
(これは
われわれの第一段落の
議論に類するわけだが)、
このこと
それ自体が
いかに真実であるにせよ、
まだ何事をも説明したことにはならない。
問題は、
当の価値の内実を
究明してみせることであり、
また、
何故
如何にして
そのような
共同主観的な一致が
成立するかを
説明してみせることである。
この
第二段の作業課題は、
個々の価値形象について、
歴史的・具体的に、実証的に
試みる必要がある。
(164~165ページ)
(以下熊野純彦氏による解説より)
『資本論』のマルクスは、
「抽象的人間労働」
などというものが
この地上の
どこにも存在しないことを
知っている。
存在しないものが
ゼリーのように
「凝結」
して
価値を形成するはずがないことも
知っていた。
要するに
『資本論』
のマルクスは
もはや
疎外論者では
すこしもないのだ、
と廣松はみる。
労働生産物は
交換の内部において
はじめて価値となる。
とすれば、
交換という
社会的関係そのものにこそ
商品の
フェティシズムの秘密があることになるだろう。
関係が、
謎の背後にある。
つまり、
関係がものとして
あらわれてしまうところに
謎を解くカギがある。
商品の
「価値性格」が
ただ
「他の商品にたいする
固有の関係をつうじて」
あらわれることに
注目しなければならない。
商品として交換されること
それ自体によって、
「労働の社会的性格」が
「労働生産物そのものの対象的性格」
としてあらわれ、
つまりは
「社会的な関係」、
ひととひとのあいだの関係が
「物と物との関係」としてあらわれる
(『資本論』第1巻)。
ものは
<他者との関係>
において、
したがって
人間と人間との関係にあって
価値をもち、
商品となる。
(533~534ページ)
ジョン・デューイの政治思想 (再掲)
貨幣文化の出現は
伝統的な個人主義が
人々の行動のエトスとして
機能しえなくなっていることを
意味した。
「かつて諸個人をとらえ、
彼らに
人生観の支え、方向、そして
統一を
与えた
忠誠心がまったく消失した。
その結果、
諸個人は混乱し、
当惑している」。
デューイは
このように個人が
「かつて
是認されていた
社会的諸価値から
切り離されることによって、
自己を喪失している」
状態を
「個性の喪失」と呼び、
そこに
貨幣文化の
深刻な問題を見出した。
個性は
金儲けの競争において
勝ち抜く能力に引きつけられて
考えられるようになり、
「物質主義、
そして
拝金主義や享楽主義」
の価値体系と行動様式が
瀰漫してきた。
その結果、
個性の
本来的なあり方が
歪められるようになったのである。
「個性の安定と
統合は
明確な
社会的諸関係や
公然と是認された
機能遂行によって
作り出される」。
しかし、
貨幣文化は
個性の
本来的なあり方に含まれる
このような
他者との交流や連帯、
あるいは
社会との繋がりの側面を
希薄させる。
というのは
人々が
金儲けのため
他人との競争に
駆り立てられるからである。
その結果
彼らは
内面的にバラバラの孤立感、
そして
焦燥感や空虚感に
陥る
傾向が
生じてくる。
だが、
外面的には、
その心理的な不安感の代償を
求めるかのように
生活様式における
画一化、量化、機械化の傾向が
顕著になる。
利潤獲得をめざす
大企業体制による
大量生産と大量流通が
これらを刺激し、
支えるという
客観的条件も存在する。
個性の喪失とは
このような
二つの側面を併せ持っており、
そこには
人々の多様な生活が
それぞれに
固有の意味や質を
持っているとする
考え方が後退してゆく
傾向が
見いだされるのである。
かくして
デューイは、
「信念の確固たる対象がなく、
行動の是認された目標が
見失われている時代は
歴史上
これまでなかったと言えるであろう」
と述べて、
貨幣文化における
意味喪失状況の深刻さを
指摘している。
(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)
2024年9月9日月曜日
ハイデガー哲学への省察
<世界>は
ときに
人間に対して、あまりに
残酷な
開かれ方をする。
社会保障がどうとか、
経済情勢がどうとか、
などは
一切お構いなく、
ただ
残酷に
<世界>
は
現存在としての
人間に対して
開かれうる。
しかし、そのような
開かれ方をする
<世界>
の中にこそ、
ハイデガーは
連帯の可能性を
模索したのではないだろうか?
人間が
共同現存在のまどろみ
から
醒めること、
それは
おそらく
「死」
を
意識することを通して
起こり得る。
確かに、
<世界>
が
そのように
残酷な開かれ方をするとき、
それは
孤独ではなく、
そのような開かれ方をする
<世界>
に
おいてこそ、
孤独ではなく
連帯の可能性が
現れる
可能性はあり得る。
もっとも、
ハイデガー哲学においては、
それが
「ドイツ民族の使命に目覚める」
という
方向へ進んでしまったがゆえに、
ナチズムとの親和性を
やり玉に
挙げられる。
しかし、
現存在たる
人間は、
おそらく
どんな時代、場所においても、
そのような
<世界>
の
開かれ方においてこそ、
連帯の
可能性を見出してきたのではないだろうか。
もちろん、
今後どんなに
科学技術が発展しようが、
どんなに
社会構造がスマートになろうが、
そのような
<世界>
の
開かれ方は
現存在たる人間に
容赦なく
襲いかかるだろう。
だが、
そうであるからこそ、
人間は、
はるか先の将来においても、
あるいは
たった今現在においても、
古い殻から
抜け出して、
新たな一歩を
踏み出すことが
出来るのではないだろうか。
言い換えれば、
<世界>
が
そのような残酷な
開かれ方を
する限りにおいて、
「人間」は
孤独を克服し、
連帯の可能性を
見出すのである。
2024年9月7日土曜日
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」
を
合言葉に
米国で
反格差のデモが広がったのは
2011年。
怒りが新興国に伝播し、
米国では
富の集中がさらに進んだ。
米国の
所得10%の人々が得た
所得は
21年に全体の46%に達した。
40年で11ポイント高まり、
並んだのが
1920年前後。
そのころ吹き荒れた
革命運動の恐怖は
今も
資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う
究極の反格差運動ともいえる共産主義。
17年の
ロシア革命の2年後に
国際的な労働者組織である
第3インターナショナルが誕生し、
反資本主義の機運が
世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは
当時のロシアにも
急速な
経済成長をもたらした。
しかし
人口の大半を占める
農民や労働者に恩恵はとどかず、
格差のひずみが生じる。
さらに
日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。
1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。
内戦を経て
22年にソ連が建国されると、
富の集中度は
20%強まで下がった。
1921年には
「半封建、半植民地」
脱却を
掲げる
中国共産党が発足。
スペインやフランス、日本でも
20年代に共産党が結党した。
そして現代。
怒りの
受け皿になっているのが
ポピュリズムだ。
21世紀の世界も
分断をあおる
ポピュリズムに脅かされている。
米国のトランプ前大統領や
ハンガリーのオルバン首相は
国際協調に
背を向ける姿勢で
世論の支持を集める。
なぜ
人々は
刹那的な主張と政策に
なびくのか。
世界価値観調査で
「他者(周囲)を信頼できるか」
の問いに
北欧諸国は
6〜7割がイエスと答えた。
北欧より
富が偏る
米国や日本で
イエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より)
私たちはしばしば、
合理的判断によって
ではなく、
直観や好き嫌いによって
信・不信を決める。
だが、
信用とは
本来そうしたものではないのか。
客観的ないし
合理的な
裏づけをこえて
存在しうるところに、
信用の信用たるゆえんがある。
そして
信用が
そのようなものであるかぎり、
信用には
常に
リスクがともなう。
信じるからこそ裏切られ、
信じるからこそ欺かれる。
それゆえ、
裏切りや詐欺の存在は、
ある意味で、
私たちが
人を信じる能力を
もっていることの証明である。
(略) しかしむろん、
欺かれ裏切られる側からいえば、
信用にともなう
リスクは
できるだけ少ないほうが
望ましい。
とくに、
資本主義が発達して、
血縁や地縁のきずなに結ばれた
共同体がくずれ、
広い世界で
見知らぬ人びとと
接触し関係をとり結ぶ機会が
増えてくると、
リスクはますます大きくなるので、
リスク軽減の必要性が高まる。
そこで、
一方では〈契約〉というものが発達し、
他方では
信用の〈合理化〉が進む。
(略) リスク軽減の
もうひとつの方向は、
信用の〈合理化〉としてあらわれる。
信用の合理化とは、
直観とか好悪の感情といった
主観的・非合理的なものに頼らず、
より
客観的・合理的な
基準で
信用を測ろうとする傾向のことである。
こうして、
財産や社会的地位という
基準が
重視されるようになる。
つまり、
個人的基準から社会的基準へと
重点が
移動するのである。
信用は、
個人の人格に
かかわるものというより、
その人の
所有物や社会的属性に
かかわるものとなり、
そのかぎりにおいて
合理化され客観化される。
(略) しかし、
資本主義の高度化にともなって
信用経済が発展し、
〈キャッシュレス時代〉
などという
キャッチフレーズが普及する
世の中になってくると、
とくに
経済生活の領域で、
信用を
合理的・客観的に
計測する
必要性は
ますます高まってくる。
その結果、
信用の〈合理化〉はさらに進み、
さまざまの指標を組み合わせて
信用を
量的に算定する方式が発達する。
と同時に、
そのようにして
算定された
〈信用〉
こそが、
まさしく
その人の信用に
ほかならないのだという
一種の逆転がおこる。
p.90~93
「エリートに対する
人々の違和感の広がり、
すなわち
エリートと大衆の
『断絶』こそが、
ポピュリズム政党の出現と
その躍進を可能とする。
ポピュリズム政党は、
既成政治を
既得権にまみれた
一部の人々の
占有物として描き、
これに
『特権』
と
無縁の市民を対置し、
その声を代表する
存在として
自らを提示するからである。」
(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降
進んできた、
産業構造の
転換と経済のグローバル化は、
一方では
多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの
発展を促し、
グローバル都市に
大企業や
高所得者が
集中する結果をもたらした。
他方で
経済のサービス化、ソフト化は、
規制緩和政策とあいまって
『柔軟な労働力』
としての
パートタイム労働や
派遣労働などの
不安定雇用を増大させており、
低成長時代における
長期失業者の出現とあわせ、
『新しい下層階級』
(野田昇吾)
を
生み出している。」
(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど
他者への信頼が下がり、
「フェアネス(公正さ)指数」
(日経新聞作成)
が低くなる。
同時に
ポピュリズムの
場当たり政策に
翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集う
グローバル・エリートの対極に位置し、
主要政党や労組から
『置き去り』
にされた人々と、
アメリカの
東海岸や西海岸の都市部に
本拠を置く
政治経済エリートや
有力メディアから、
突き放された人々。
労働党や民主党といった、
労働者保護を重視する
はずの政党が
グローバル化や
ヨーロッパ統合の
推進者と化し、
既成政党への失望が
広がるなかで、
既存の政治を
正面から批判し、
自国優先を打ち出して
EUやTPP,NAFTAなど
国際的な枠組みを否定する
急進的な主張が、
強く支持されたといえる。」
(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満を
あおるだけで解を示せないのがポピュリズム。
不満のはけ口を
外に求めた愚かさは
ナチスドイツの例を
振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 (放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、
経済的に恵まれない層は、
ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らの
アイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を参考にして
考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより
下に見ていた貧困層と同じ境遇に
置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムのマゾ的心性が、
ナチズムの
サディスティックな
プロパガンダとの親和性により、
まるで
サド=マゾ関係を結んだ結果、
強力な
全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が
日本人の間には
存在することは、
ほぼ共通認識だが、
それは、安倍のような強力な
リーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される
画一性への服従となって、
負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、
特に民族としての
「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における
物象化という側面を
持っているとすれば、
グローバリゼーションによる
均質化、画一化が
進行するにつれ、
反動として
民族の本来性といった
民族主義的、右翼的、排外主義的な
傾向が現れるのは、
日本に限ったことでは
ないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が
高度に発展して、
物象化が進み、
疎外が深刻になるほど、
本来性というものを
追求するのは
不可避の傾向だ、とさえ言える。
さらには、
資本主義社会が浸透し、
人間が、
計量的理性の画一性に
さらされるほど、
人々は、
自分と他人とは違う、
というアイデンティティーを、
理性を超えた領域に
求めるようになる。
社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上
その
関数に貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものを
ともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの
属性である
絶対的支配なるものを
ともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである」
という言葉が
何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上
その関数に
貶めれられるように
なればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を
精神的な色彩で説明し、
現実生活では
一個の歯車でしかない自分が、
それとは
独立した
精神世界のヒエラルキーに
組み込まれ、
そのヒエラルキーの階層を
登っていくことに、
救いを感じるようになる、
という感覚だろうか。
「デモクラシーという
品のよいパーティに出現した、
ポピュリズムという泥酔客。
パーティ客の多くは、
この泥酔客を
歓迎しないだろう。
ましてや
手を取って、
ディナーへと導こうとは
しないだろう。
しかし
ポピュリズムの出現を通じて、
現代のデモクラシーというパーティは、
その
抱える本質的な矛盾を
あらわにした
とはいえないだろうか。
そして
困ったような表情を浮かべつつも、
内心では
泥酔客の重大な指摘に
密かにうなづいている客は、
実は多いのではないか。」
(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
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