2024年9月9日月曜日
ハイデガー哲学への省察
<世界>は
ときに
人間に対して、あまりに
残酷な
開かれ方をする。
社会保障がどうとか、
経済情勢がどうとか、
などは
一切お構いなく、
ただ
残酷に
<世界>
は
現存在としての
人間に対して
開かれうる。
しかし、そのような
開かれ方をする
<世界>
の中にこそ、
ハイデガーは
連帯の可能性を
模索したのではないだろうか?
人間が
共同現存在のまどろみ
から
醒めること、
それは
おそらく
「死」
を
意識することを通して
起こり得る。
確かに、
<世界>
が
そのように
残酷な開かれ方をするとき、
それは
孤独ではなく、
そのような開かれ方をする
<世界>
に
おいてこそ、
孤独ではなく
連帯の可能性が
現れる
可能性はあり得る。
もっとも、
ハイデガー哲学においては、
それが
「ドイツ民族の使命に目覚める」
という
方向へ進んでしまったがゆえに、
ナチズムとの親和性を
やり玉に
挙げられる。
しかし、
現存在たる
人間は、
おそらく
どんな時代、場所においても、
そのような
<世界>
の
開かれ方においてこそ、
連帯の
可能性を見出してきたのではないだろうか。
もちろん、
今後どんなに
科学技術が発展しようが、
どんなに
社会構造がスマートになろうが、
そのような
<世界>
の
開かれ方は
現存在たる人間に
容赦なく
襲いかかるだろう。
だが、
そうであるからこそ、
人間は、
はるか先の将来においても、
あるいは
たった今現在においても、
古い殻から
抜け出して、
新たな一歩を
踏み出すことが
出来るのではないだろうか。
言い換えれば、
<世界>
が
そのような残酷な
開かれ方を
する限りにおいて、
「人間」は
孤独を克服し、
連帯の可能性を
見出すのである。
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