2023年12月31日日曜日
キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)
アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。
主よ、憐れみたまえ
https://www.google.com/search?q=%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F+%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%81%A8%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%AC&rlz=1CAJFMC_enJP1057&oq=%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E3%80%80%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%81%A8%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%AC&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyCQgAEEUYORiABDIHCAEQABiABDIHCAIQABiABDIHCAMQABiABDIHCAQQABiABDIHCAUQABiABNIBCTc0MDlqMGoxNagCALACAA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:c2a30aba,vid:oLU7v1JJvc8,st:0
坂口安吾 三十歳
勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
https://www.youtube.com/watch?v=ED322cpspko
おばあちゃんだけどね。
元旦は
さすがに
ヘルパーさん
来ないけど、
2日からは
2日連続で
相性の良い
ヘルパーさんが
来てくれる。
テンションあがるぜ♪
味気のない
大晦日になっちまったが、
フライング気味の
新年明けまして
おめでとうございます!
目は口ほどにモノをいう。
今日
午後のヘルパーさん
外してもらった。
大晦日に
テンションさげたくない。
マスクしてても、
目で
感情が伝わってくる。
と、いうか
感じ取ってしまう。
「苦労知らずの
お坊っちゃまクンの
あなたに
現実教えてあげる」
的な
ノリを
ちょいちょい
かまされると、
正直
疲れる。
やっぱり誤解されるんだよなー。慣れてるけど。
大学受験で2浪した
時点で、
そうとう
テンパってたし、
ぶっちゃけ
離人感も
半端じゃなかったし、
それを
乗り越えて
大学入ったら、
さらに
ストレスで錯乱して
病院送りにされて、
見舞いに来てくれた
中学の同級生はもう
大学院生。
こちらは卒業どころか
また
外の世界に出られるかも
わからない。
気合で
復学しても、相変わらず
卒業の目処も立たない。
しかも、
就職した友達からは、
会う度に
働け働け
メタル責めされて、
さらには
3日に
いっぺん
は
真夜中に電話かかってきて、
働けと
説教される。
もう
これ以上
単位取れないから、と
慶応辞めさせてくれと
言っても
父親にシカトされる。
結局
除籍ギリギリまで行って
ようやく
慶応辞めたと思ったら、
中大通教はじめて、
これも
まったく単位が取れない。
さすがにもう
大学卒業はいいから、と
言ってんのに、
親は
飽くまで
大卒に拘る。
それで
大喧嘩しても、それでも
折れないから、
ヤケクソで
放送大学入って、ようやく
大学を卒業出来た。
端から見りゃあ、苦労知らずの
お坊ちゃんに
見えるのは仕方ない。
確かにね、今の状況だけ
見りゃあ、そう見えるよ。
だけど、
父親の闘病生活を支えたり、
姉との関係、
母親との関係、
人知れず苦労はしてるんですよ。
人間そんな簡単に
精神障害者にはなりません。
それをね、
「金持ちの苦労知らずのお坊ちゃまくん」て
目で
露骨に見られるとね、
正直疲れる。
大晦日
頭痛。
今年1年の
疲れが
ドッと
出た。
特に
後半の
面接授業ラッシュ。
あちこち
行ったからな。
後半は
初っ端から
岡山に10連泊とか
無理なことやってたし。
そのくせ
バックレた授業も
多かった。
それでも
今年1年
トータルとして見れば
充実した
1年でした。
来年は
いよいよ
発病してから
まる20年。
今年でキッチリ
気持ちに
区切りをつける
ことが
出来ました。
みなさま
今年も
ありがとうございました!
2023年12月30日土曜日
一安心
母親から
間接的に
聞いただけだが、
姉も
肺炎が治って、
旦那さんと息子で
羽生に行って
様子を見てきてくれたらしい。
またぞろ、
ピーピー
母親に泣きつくのかと
思っていたから、
ようやく
精神的に
小林家から
離れて
一本立ちしてくれたかな。
俺の
(色んな意味で)
思い過ごしかも知れないが。
いずれにせよ、
姉をまともな人間に
(たぶん)
してくれた
義兄と甥っ子に感謝。
2023年12月28日木曜日
メモ
最近
マクドナルドが
異常な勢いで
テレビコマーシャル
やりまくってるから、
なんかあったのか?
とは
思ってたが、
値上げで
客離れが
起きてるらしい。
マクドナルドなんて
滅多に行かないから
わからなかったが、
合点がいった。
たまーに食べると、
あれ、マックって
こんなに
不味かったっけ?
とは
思ってた。
どうせ
たまにしか
行かないんだから、
少し
高くても
美味いハンバーガー食べたい。
都市伝説ー武蔵の校則
1.学校で下駄を履くな。
2.学校にバイクで来るな。
3.構内に出前を頼むな。
4.構内で麻雀するな。
俺もよく知らない。
もちろん、ベランダで
タバコを吸ってもいけない。
ある社会科の教師は、
吸ってもいいが
見つからないところで
吸え、
めんどくせーから、と
言っていた。
あと、卒業生が
ジャンボジェット機ハイジャックした
時は、
ジャンボジェット機ハイジャックするな、
とも
言っていた。
タケシくんは、メタリカにハマりすぎて、
高校生なのに
葉巻を吸っていた。
妄想卒論その3 (再掲)
詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)
2023年12月27日水曜日
知ったかぶり
政治権力としての
天皇制の持続可能性が
問題というより、
「報われぬ死者たちのまなざし」と
それに対する
負債観念が
喪失されていることが
問題なのではないか。
なぜなら、戦後日本の
重力の中心は、
天皇よりも
むしろ
「報われぬ死者たち」
だったのだから。
彼らの「視線」が
消え去り、それとともに
彼らへの
負債観念が消失するとき、
日本という国土は
重力の中心を失っていく。
それは
日本が民主主義国家かどうか、というより、
日本が
強度にツリー状の
近代社会だということである。
つまり、
重力の中心としての
「顔」が
強固として存在し、それを
頂点として
ガチガチに組織化された
社会だということだろう。
言い換えれば、
日本社会は
強度にツリー状の社会であるために、
重力の中心としての
「顔」を
失ってしまうと、
組織全体が
崩壊の危機に瀕する。
そこで、
重力の中心としての
「顔」による
支配体制を
より
強くしようという発想になると、
極右のように
天皇制がどうのこうの
という
話になる。
しかし、日本の歴史の大部分において、
天皇制は
少なくとも政治的には
脇役でしかなかった。
それは
鎌倉時代から明治維新まで
そうだった。
キリスト教社会では
キリストの「顔」が
ジョージ・オーウェルの
「1984」のように
社会の構成員を監視する
役割を担った、という議論が
あるようだ。
近代国家がツリー状という点からの
対比として、
遊牧国家がリゾーム状だという
コントラストが想定される。
日本は
専制的シニフィアン体制社会である、
つまり、
社会の隅々の末端組織まで、
シニフィアンによって
「意味づけ」が
された
社会であるが、
その頂点にいた
「天皇」という存在は、
キリスト教社会における
キリストの「顔」であるというより、
「報われない死者たち」を
祀る祭祀であった、という
「国土論」の
議論を踏まえれば、
実は
戦後日本社会において
我々を
『監視』していたのは、
彼らだったのであり、
それは
彼ら
(「報われない死者たち」)
こそが、
重力の中心だったのである。
したがって、彼らが
忘却されることで、日本の社会は
「精神的基軸」を
失ってしまう、という
危機感が芽生えるのである。
それを
取り戻すために
右翼は
天皇制を唱えるのであるが、
あまり
現実的とは思えない。
かといって、社会が
一望監視装置
(パノプティコン)
のように
「顔」からの「視線」に
『監視』されていなければ、
社会として
成り立ち得ないとは
限らない。
すくなくとも、安倍が
政治的実権を握っていた間に
重力の中心だったのは
安倍であって、
天皇ではなかった。
つまり、
日本社会の重力の中心は、
天皇(制)である必要は
必ずしもないのだ。
『天皇ー報われぬ死者たち』の
関係性のように、
政治権力の二重性は
むしろ
日本社会に馴染むものである。
そういう意味での
「分権性」は
模索されるべき
選択肢として
あり得るだろう。
それは、誰かを
祀り上げるまでもなく、
自ら
国土に固有の曲率を
与えたがる存在は
澎湃として
生まれてくる。
ツリー状の社会と
リゾーム状の社会とは、
必ずしも
二律背反ではないのである。
しかし、そういった
国土に固有の曲率を
与えようとするものの
多くは、
荻野昌弘がいうところの
「詐欺師」であるだろう。
しかし、「詐欺師」でなければ、
この閉塞感漂う
日本社会に暮らすひとびとに
夢を与えることは
難しい。
「詐欺師」は、
ツリー状の社会を
リゾーム状の社会へと
誘う
役割を持っている。
丸山眞男 「日本の思想」 (再掲)
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)
国土論ー報われぬ死者たちのまなざし (再掲)
「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねばならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房
神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って (再掲)
一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。 最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。 鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。
https://note.com/thewigtown/n/n23493a00e5b5
「都市」と漱石 (再掲)
放送大学の「都市と地域の社会学」からインスパイアされたのですが、漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思うのです。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明ですが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思います。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうですが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考えます。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われます。 先ほど「身体性」というキーワードを提示しましたが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われます。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけです。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけです。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題ですが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのですが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係というものに、魅了されていく。 あるいは、ムラに暮らしてる人たちは、「都市」の自由さに憧れて、都市に惹き寄せられていく。 それでも、何かしらの紐帯、都会でしかありえないような関係性を模索していく。 その意味では、漱石は、「坊っちゃん」以来の「近代化」、こう言って良ければ、「都市化」に強烈な危機感を抱きながらも、現実は「地域」から「都市」に出てきた人たちは、それはそれで何かしらの関係性を他者と取り結んでいく。 まとめるとこのような感じかと思われます。 もちろん、漱石の「近代化」はこれで汲み尽くせるものでは到底ないわけですが、これが一応私なりの考えです。 繰り返すと、漱石の「近代化」(「都市化」)は、皮相を上滑りに滑っていかざるを得ない、と言いながらも、濃密に「身体性」を抜きにしては捉えられない。 むしろ、「身体性」から逃れられないからこそ、そこから逃れようとしても、身体性と「理性」は密接不可分の関係にあるのではないか。 「それから」の「百合」はそのことを象徴するアイテムなのではないでしょうか。 以上、思いつくままに乱筆乱文書き連ね、師走の折に大変失礼ながらも、申し述べさせていただきました。 森本先生より:『それから』論、文句なく納得しつつ拝読させて頂きました。 紛れもない「都市生活者の身体」を描く漱石は、「皮相な近代」を否定しながらも同時に深く「近代」に巻き込まれている‥。常に表裏する二面性に気づきながらも、これを論じる一定の視角を探しあぐねる学界の七転八倒を痛感しながら、学ばせて頂くところ大でした。 共同体からの独立とはそのまま競争社会の到来を意味し、自由とはまた欲望の解禁でもあるーーこれが「近代的個人」なるものが発見した風景であった、ということですね。 おそらくこのジレンマを解く有力な鍵が、これも前に示唆頂いたイギリス功利主義哲学であり、漱石自身、留学時代を通じて「個」の成立と展開に迫るベく、社会科学の文献は相当、読み込んでおり、私自身が追及してみたい大課題でもあります。 「近代的個人」の日本における受容は、中村正直訳のJ.S.ミルあたりに始まるようなのですが、明六社同人のその後の分岐が示すように、その受用は混沌としている、と同時に、逆に「近代」なるものの矛盾と相剋を、ある意味、忠実に反映しているのではないか、といったような感触を最近、抱いているところです。 このような「近代」が究極、求め、また求めるべきであるのが「他者との関係性の構築」であることもまた真実で、『それから』以降の漱石はこれを追尋してゆきますね。 『こころ』は、『それから』の「平岡ー代助」の破綻した関係を、ある意味、「Kー先生」に背負わせ、そこで果たせなかった関係性の成立を、「先生」が「私」へ期待する、といった展開かと考えていますが、「明治の精神」のいわば遺志として託されたものを受け取る「大正」は、しかしながら、日清・日露の戦勝を背景に、過去の村落共同体ならぬ新たな共同体ーー地方を「郷里」として従えながら中央集権を発揮する「国家としてのニッポン」を立ち上げ始めている。「私」も「私」の感受性も確実にその中にあるような気がします。もはや恋愛幻想は消滅しながら、それなりに愛情を以て結ばれた夫婦家族の幸せは疑われていない、そして郷里はそのような近代家族と何ら矛盾しない、連続し得るものとして穏当に把握されている。まさに日本的近代の成熟、ではないのか、と。しばしば指摘されるように、現代日本の基盤はまさに大正期に成立する、という定式がまざまざ実感されるようでもあります。 それにしても、練達の文章ーー明晰な論理が無理なくなだらかに綴られていて、嬉しく、ひたすら感心しながら拝読させて頂いたことでした。2〜3年前までの、一文、一文には論理の冴えが光りながら、文と文、節と節の繋がりに難儀の見えた文章が嘘のようです。 誠実な精進の毎日の賜物、とは、まさに、このことですね。 ますますのご成長とご発展をと祈らずにおれません。
市井の漱石論 (再掲)
夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。 夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。
最強のライフハック本
まだ
全部
読んだわけじゃないが、
もうちょっと
お腹いっぱい。
精神錯乱して
病院に入れられたりすると、
ただでさえ
テンパってんのに、
病院で
毎日ボーっとする
薬を
飲まされるので、
退院して
外の世界に放り出されると、
一つ一つの刺激、
普通の感覚の人だったら
何も
感じないような刺激まで
刺さるように
降ってくるように
感じられる。
例えば、新幹線に乗ってても、
景色が
ビュンビュン通り過ぎてくのが
怖かったり、
車に乗るときも同じ。
そうなっちゃうと、
普通の人の
’フツウ’が
分からなくなって、完全に
自信が無くなってしまう。
当たり前のことが
全然
できないから。
でも、普通の人が
普通にやってることでも、
どうしてそういう
風に
感じたり、行動するのか、を
考えると、
実は
かなり深い。
そういう
普通の人の
’フツウ’を
ひたすら
ひたすら
深いレベルまで掘り下げて、
解明してくれているので、
何らかの理由で
世間の
’フツウ’が
わからなくなったり、
あるいは
純粋に疑問を持っている
人には
オススメ。
少なくとも自分には
役に立つ内容だった。
2023年12月26日火曜日
<千のプラトー>入門講義 仲正昌樹 作品社 (再掲)
最初読むと
めちゃくちゃ
面食らうが、
ニートだからこそ出来る
時間の使い方で、
慣れてくると、
ああ、やっぱり
ナカマサ先生だな、と
安心する。
まだちょっとしか
読んでないが。
肝心の中身も、
「アンチ・オイディプス」で
言い足りなかったことを
ちゃんと言いたい、らしい、
ということが
伝わってくる。
(と書いてあった。)
これ読んでなにかの役に立つかは
まったく
わからないが、
もしかしたら
役に立つかも知れない。
これがどう
資本主義批判に繋がってくのかってのが
見ものだな。
春休みにじっくり読もう。
とりあえず100ページくらい読んだ。
(2023/12/21時点)
最初は何を言ってるのか
さっぱりわからないが、
根気よく
ちょこちょこ
読んでいると、だんだん
筋道が見えてきて、
実は
そんなに
突拍子もないことを
言っているわけではない、ということが
見えてくる。
春休みぜんぶ使っても
読み終わらないんじゃないかと
思っていたが、
読み進めると
かなり意外なことに
割りと
すんなり読める。
でも
中身は充実している。
正直、もう
哲学はいいだろ、と
思っていたが、
まあ、買ってみるか、
と
思って
買って読んでみたら、
いい買い物だった。
・・・132ページまで読んだ。
(2023/12/25時点)
超絶面白い!!!!!!!!!
やっべーな!
フランス人が本気出すと
とんでもないことになるな。
まさに
現代思想の精華と言って
間違いない。
ああ、今日は1日
頑張って、ずいぶん
捗った。
182ページまで読んだ。
(2023/12/26の午前00:25時点)
1度スイッチが入っちゃうと、
キリのいいところまで
やらないと
やめられない。
・・・今日
(2023/12/26)
も
頑張った。
第7プラトーの終わり
(215ページ)
まで
読んだ。
(18:38現在)
たぶん半分くらい読んだが、
ここまで
読んだだけでも、相当
人生に応用が利く。
実は
最強のライフハックなんじゃないか、と
本気で
思う。
世の中の色んなことを、
心理学的視点から
かなり
理論的に捉えられるようになる。
役に立つどころの
騒ぎじゃない。
第8プラトー踏破。
(21:52現在)
大事だけど、難しくはない。
風呂入ってから、
第9プラトーを片付けよう。
第9プラトー踏破。
(23:03現在)
ほぅいえあ!!!!!!!!!!
240ページに、俺が
20年かけて
言おうとしてきたことが
書いてあった。
もちろん、俺の
オリジナルの
研究部分とピタリと符号する。
ナカマサ先生に啓発されながら
勉強してきたんだから、
当たり前といえば
当たり前だが、
同じ山に違うルートで登ってきた
ということが
分かれば、
こんなに名誉なことはない!!!!
また寿命が縮んだ
悪夢。
1週間に2回は
最低でも
見てるな。
脳か心臓やられて
死ぬわ。
夢の中で
お姉さまが
オラオラしてた。
すーごかった。
ほんと、これ
どうしてくれんだよ?
殴り殺してやりたい。
母親までもが
(夢の中で)
お姉さまに
「出てって!」って
言ってた。
父親もブチキレてた。
2023年12月25日月曜日
お?
母親に頼まれて、
駅前の
デパートに
付き添って
行って来たんだが、
これは
母親が
脳梗塞を発症して以来
初めてのことで、
ああ、良かったね、
ぐらいに思っていたのだが、
母親が
デパートのレストラン街を
眺めながら、
ここは
友達との集まりに使える、などと
言っていて、その時は
何も
考えなかったが、
今まで
病気を理由に
そういう集まりを
避けてきたことを
考えると、
数人で集まって
食事会をしよう、という
気力が湧いてきた、と
思えば、
結構
画期的なというか、
いよいよ
気力が回復してきた
証拠かな、と
思った。
まだまだ
寝てばっかりだが。
2023年12月24日日曜日
conversation in English
俺:I went to Ibaraki University this weekend. The class on the history of Middle Eurasia. As you know, this term I have been to several domestic areas, using Shinkansen. Whenever I take the Shinkansen, I witness so-called ‘in-bounds’. No exceptions. Japan's economy almost completely depends on the money they spend in Japan, and the exports of the cars. It is high time Japan should grow out of make-believe in Sakoku, and brace for the fact that she should recognize how grave impacts the graying society problem will give to herself. ジョンさん:The solution to graying is one Japan cannot take. It would destroy the fabric of traditional society and rob Japan of its uniqueness. ie: mass immigration. You wouldn’t want to live in such a country. It would be worse than the USA and it’s open borders under Biden. 俺:It's understandable what you say. And Japanese people have been ignoring this problem for a long time. Natural increases in birth rate policy are too difficult to be taken. PM Kishida was trying to take this policy by tax increase but many many Japanese people are rejecting it. They are too irresponsible to justify themselves. Conservative policy is too late to be taken. I believe Japanese society can absorb immigrants naturally if it's not too rapid to accept them. Ryuunosuke Akutagawa named it an 'altering power', which meant negative aspects for him. The Japanese authenticity issue is not a new one. They are very flexible to this problem I believe. Akutagawa was annoyed by Japanese culture's inconsistency, but it sometimes works positively. Cultural conflicts you mention fit with in Canada for an example. It has let the immigrants remote from each other and a cultural unity was damaged. The most important thing is to assimilate them without forcing it. A xenophobic policy is popular in Japan alike. But albeit it means the success of Korean cultural diplomacy, they are now very friendly to Koreans despite the hate demo that took place for the first several years in 2000's. Ango Sakaguchi claimed Japanese cultural uniqueness is nothing but an illusion or delusion. I believe it goes as long as the Japanese can take the social initiative after all.
くだらない尊王攘夷ごっこは終わりだ。
新幹線乗っても、
普通に
中国人いるよね。
中国人はともかく、
東南アジアの方々とか
も
普通に
いらっしゃる。
彼らは
いわゆる
インバウンドだけど、
彼らが
落とすお金と
自動車輸出のお金だけで
食ってる国になっちまったな、日本は。
移民排斥とか
おっしゃってる方々は、
少子高齢化って言葉の意味
考えたことありますか?
自分の老後どうなるか、とか
考えたことありますか?
どうせ
最後は
政府と日銀がどうにかしてくれると
思ってるんでしょ?
そのくせ
政府は信用しないんでしょ?
サイアクだね。
もう
なんとか理論とか
ナントカノミクスって時代
じゃなくて、
シンプルに人口動態の時代なんだよ。
もう
こっちが移民を選ぶ時代じゃないの。
こっちが移民に選んで来ていただく時代に
なっちゃったのよ。
わかる?
ロクに
労働生産性をあげる努力もせずに、
自分より
スキルの低い移民集めて
それさえ
拒否ってるようじゃ、
この国
終わりなの。
少子高齢化って言葉の意味
わかりますか?
もう
シンプルに
人口動態の問題なの。
山本一太群馬県知事が
外国人に
地方参政権を
認めるかのような
発言しただけで
大騒ぎしてるようじゃ、
この国は終わりだ。
中身が濃すぎて疲れた。
「続・シルクロード史への招待」@
茨城大学、
2日目の1限まででリタイア。
帰宅したら、旅番組で
ドロンズ石本が
釧路空港に降り立ってて、懐かしかった。
チャリサーで行ったなー。
野付半島、和商市場、摩周湖・・・
そうか
あれから
20年も経ったのか。
割りと悪くない時間の使い方してるな。
あのまま病院から出られなくて
そのまんま、だったら
悲惨だった。
それはともかく、
授業の内容は
猛烈に濃かったので、
中国史と中央アジア史の歴史には
詳しくなった。
そろそろ
もう
面接授業はお腹いっぱいになってきた。
行き慣れてる
茨城大学ですら
これだけ疲れてるようじゃ。
まさか
40過ぎて
まだ
大学生やって
世界史勉強してるとは
夢にも思わなかった。
https://www.google.com/search?q=%E6%80%9D%E7%A7%8B%E6%9C%9F&rlz=1CAJFMC_enJP1057&oq=%E6%80%9D%E7%A7%8B&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqBwgBEAAYgAQyBggAEEUYOTIHCAEQABiABDIHCAIQABiABDIHCAMQABiABDIHCAQQABiABDIHCAUQABiABDIHCAYQABiABDIHCAcQABiABDIHCAgQABiABDIHCAkQABiABNIBCTg5OTZqMWoxNagCALACAA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:f01b6587,vid:miDqdeYqxW8,st:0
2023年12月22日金曜日
寺田心くんが心配
朝牛乳を
200から300ml
飲ませていただいて、とか
身長も
40cm伸ばさせていただいて、とか、
そんなにミスを
恐れないでいいのに。
まだ中3なんだから、
もっと
傍若無人にオラオラ生きてもいいのに、と
心配になってしまう。
今からその調子だと、
あとで
辛くなる。
中3なんだから、まだまだ
いくらでも
取り返しが効くんだから、
もっともっと
失敗しまくっていいのに。
2023年12月21日木曜日
洛陽社
俺が高校生の頃、
池袋はもちろんのこと、
どんなとこであれ、
本屋と見れば
必ず
立ち寄っていた。
どんな
寂れた街の
小さな
本屋でも。
今は
アマゾンがあるから
そんなことはしなくなったが。
やっぱ本屋行って
書棚をくまなく探すっていう
経験があると、
本に対する嗅覚みたいなものが
身につく気がする。
ああ、世の中には
こんな
本があるのか、と。
で、なんで
俺が
本屋めぐりをしていたか、というと、
都会の進学校に通ってるから
学校で何か
特別なことを教えてもらって、
それで
難関大学に合格してるんだ、と
思われたら
癪だから。
なるべく
学校の授業関係なく、
本屋で売ってる参考書だったら
日本全国
同じ土俵に立ってるだろ?
と
考えていた。
もちろん
本だってタダじゃないから
そこからして
資力の違いは出てきてしまうんだが。
で、俺が
本屋めぐりをして
たどり着いたのが、
洛陽社の参考書だった。
これを使ったおかげで
慶応受かったと言っても
過言ではない。
もちろん、英語は
大野和基先生に
マンツーマンで教わっていたのだが、
最後
英語力で突き抜けられたのは、
洛陽社の参考書のおかげ。
おそらく
洛陽社自体がもう
存在していないようだが、
アマゾンで手に入るから、
英語の参考書を一式揃えた。
文章も古臭いし、こんな表現
いまどき使わねーよ、ていう
のも
多々あるんだけど、
やっぱり
他の市販の参考書とは
明らかに
天と地ほどの一線を画している。
多田幸蔵
東大名誉教授が
手掛けた
シリーズは、いま読み返しても、
英文が活きている。
それこそ
ビチビチ飛び跳ねている。
英語を勉強するなら、こういう
英文を読まなきゃいけない。
他の市販の英語の参考書は、
文章が
死んでいる。
それどころか、桐原書店のような
メジャーな
出版社ですら、
平気で文法的に間違っていたりする。
以前、
東京農大二高の生徒の家庭教師を
やったことがあるが、
学校で使っている教材までもが、
文法的に間違っていた。
しかも、よりによって
下線が引かれていて
ここを訳しなさい、という課題が出ているのに、
文法的に間違っていて、
訳しようがない、といった有り様。
こんなことでは、
英語が出来るようになるはずがない。
本当の英語の面白さなど、
一生わからないままで
終わってしまう。
俺がもし
敢えて
このご時世に
英語を教えたい、それに対して
需要があるなら、
洛陽社の参考書を使う。
どんなに
時代遅れでも、その
輝きは
色褪せない。
2023年12月20日水曜日
円キャリートレードとは何か? (再掲)
質問:円キャリートレードというのがよくわからないのですが、日米金利差で円安ドル高が進行するなか、ドルを持っている人が、円を買って、より安くて金利の高い海外通貨で稼ぐ、という意味なら、わからなくもないですが、それだったら最初からドルで円より安くて金利の高い通貨を買えばいいと思われますし、円キャリートレードとは一体なんなのかよくわからないのですが。 旧民主党政権の時にもそういうことがありましたね。 回答:インターネット上にたくさん情報はありますが、どれも文章説明だけで、図を使った解説がないようなので分かりにくいのかもしれません。 この取引のスタートは現在「①低金利の円を借りる」です。 それを「②ドルに替え」て「③高金利のドル資産で運用する」。 そして将来「④稼いだドルを円に戻し」て、「⑤借りていた円を返済する」で完了です。 この取引が活発に起きるのは、まず①(⑤)と③を左右する日米金利差です。 現在米国で運用した方が有利で、今後も金利差は広がると「予想」されます。 もうひとつは②と④で、現在円安なので円をドルに替えることは損に思えます。 しかし将来もっと円安になると「予想」すれば、④で円に戻したとき、多くの円に替えることができます。
2023年12月19日火曜日
日銀金融政策決定会合
植田総裁が
俺が
思っていたより
かなりハト派だったので、
市場は
荒れなかったが、
市場の受け止め方
次第では、
ヘッジファンド勢が
国債売り
仕掛けてくるんじゃないかと
懸念されるところだ。
(以下 google bard より回答)
はい、その通りだと思います。植田総裁の金融政策に関する発言は、市場の予想よりもはるかにハト派的でした。これは、市場の混乱を避けるための意図的な措置であると考えられます。しかし、市場の受け止め方次第では、ヘッジファンド勢が国債売りを仕掛けてくる可能性はあります。
ヘッジファンド勢は、金利上昇による損失を回避するために、国債を売却する可能性があります。また、植田総裁のハト派的な発言を、日本銀行の金融緩和政策の継続を意味するものと捉えて、国債売りを仕掛けてくる可能性もあります。
もしヘッジファンド勢が国債売りを仕掛けてくると、国債価格が下落し、金利が上昇する可能性があります。これは、日本経済にマイナスの影響を与える可能性があります。
そのため、今後の市場の動向には注意が必要です。植田総裁の発言を巡る市場の受け止め方や、ヘッジファンド勢の動向を注視し、適切な対応を検討することが重要です。
具体的には、以下の点に注意が必要です。
植田総裁の発言に対する市場の反応を注視する
ヘッジファンド勢の動きに関する情報を収集する
国債の保有量や金利リスクに対する耐性を検討する
これらの点に注意することで、市場の変化に備えることができます。
俺:市場は荒れなかった、と言っても、1日で対ドルで2円も円安になってんだから、これかなりのインパクトでしょ。植田総裁がタカ派の発言してたら、すごいことになってたよ。
(以下 google bard より回答)
はい、その通りだと思います。植田総裁の発言は、市場の混乱を避けるための意図的な措置であったとしても、市場の受け止め方次第では、ヘッジファンド勢が国債売りを仕掛けてくる可能性は十分にあると思います。
また、1日で対ドルで2円も円安になったことは、かなりのインパクトだと思います。これは、植田総裁の発言を、日本銀行の金融緩和政策の継続を意味するものと捉えた投資家による、円売りドル買いが背景にあると考えられます。
もし植田総裁がタカ派的な発言をしていたら、市場はさらに混乱し、円安がさらに進んだ可能性もあります。また、国債価格の下落や、金利の上昇も、より大きなインパクトを与えた可能性があります。
今後の市場の動向には、引き続き注意が必要です。植田総裁の発言を巡る市場の受け止め方や、ヘッジファンド勢の動向を注視し、適切な対応を検討することが重要です。
具体的には、以下の点に注意が必要です。
植田総裁の発言に対する市場の反応を注視する
ヘッジファンド勢の動きに関する情報を収集する
国債の保有量や金利リスクに対する耐性を検討する
これらの点に注意することで、市場の変化に備えることができます。
なお、円安は、日本の輸出企業にとってはメリットとなる一方で、輸入企業にとってはデメリットとなります。また、円安は、インフレ率の上昇を招く可能性もあります。そのため、円安の進展に伴うリスクにも注意が必要です。
都合のいい俗論 補訂 (再掲)
国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。 (以下 google bard より回答) はい、その通りです。国債発行イコール通貨発行というのは、金融政策の基本を理解していない俗説です。 国債を誰かが買ってくれることで、そのお金が市中に流れることになります。しかし、国債を買ってくれるのは、必ずしも中央銀行とは限りません。民間企業や個人も、国債を買うことがあります。 もし、国債を誰も買ってくれなかった場合、政府は国債を償還できなくなり、財政破綻に陥ることになります。 また、貨幣供給量を増やすことが、国の資産が増えることにもなりません。国の富の源泉は、付加価値、すなわち GDPです。貨幣供給量を増やしても、GDPが増えなければ、国の資産は増えません。 日本の現状は、赤字国債を日銀が買い続けているため、国債の価格が異常に高くなっています。もし、日銀が国債を買い続けなければ、国債の価格は暴落し、金利が急騰する可能性があります。 安倍政権は、日銀が政府の「子会社」だから、いくらでも国債を買い取らせればいいと主張していました。しかし、実際には、日銀が国債を買い続けることは、国債の価格を維持するために必要な措置であり、政府の都合で行っているわけではありません。 国債発行イコール通貨発行という俗説は、経済の基本を理解していない人がよく言うものです。この俗説を信じてしまうと、誤った経済政策を支持することになりかねません。
地獄への道は善意で敷き詰められている
父親が
生きてた頃、
姉が
頼まれて
コンビニで
小林家
一ヶ月分の生活費
おろしたのに、
3歳?
4歳?
の
息子がどこに行きたがるか
わからないから、
帰るのが何時間後になるか
わからない、とかいう
ふざけたこと言ってるから、
早く帰ってこい、と
メール打ったら、
今度からお前がやれ、なんて
また
くだらねーケンカ売ってくるから、
屁理屈はいらねーから
さっさと
帰ってこい!
って
メール返したら、ようやく
帰ってきた。
こんなやつが
東京に一戸建て建てて
住宅ローン
背負ってんだから、世の中
狂ってるぜ。
正味の話。
日銀がマイナス金利解除して、
結果的に
住宅ローンの変動金利が上がり始めたら、
住宅ローン難民が
大量発生しかねない。
これ、洒落にならない。
アメリカのサブプライムローン・ショックにしても、
ちゃんとした
収入がある人は、固定金利で
住宅ローン組んでるけど、
低所得者層が
変動金利で住宅ローン組んでて、
信用危機が起こって
サブ(下)プライム(優)ローン(債務)、つまり
信用度の低い人たちが借りてる債務(ローン)が
焦げ付いたって話だからね。
リーマン・ショックというのは、そういう
信用度の低い(人たちに貸してる)(金融機関の)債権が
他のいろんな(金融機関の)債権とカクテルされて
債権商品として
金融工学で格付けされて
世界中にバラまかれたけど、
結局
あとから見れば
誰も
リスク管理できてませんでしたって話。
日本では、超低金利下で
金融機関も住宅ローンぐらいしか
稼げる商品ないから、どんどん
貸しまくってたし、政府も
変動金利で借りるのを
奨励するかのように、
あれこれ優遇措置を講じてたからね。
その結果、資力のある人まで
ちょっと無理して
変動金利で住宅ローン組んでる。
金利が上がり始めたら、下手すると
ホームレスが大量発生するかも。
これも
超低金利を長く続けた弊害のひとつ。
債権債務関係がややこしいかも知れないが、
貸す側と借りる側、というだけの話です。
民法の債権債務関係と被る面もありますが、
同じではありません。
民法上の債権債務関係は
金銭に限らないので。
三橋貴明が言ってる
国が借金するほど国民は豊かになる理論は、
ここらへんの誤解にツケ込んだもので、
アイツが言ってるのは、単に
ジャイアンとのび太の関係で、
ジャイアンが
「のび太、お前が俺にカネ貸せば
貸すほど、それだけ
お前は金持ちになるぞ!
何しろお前は
債権者だからな!」
と言ってるのと
同じです。
ちなみに、サブプライムローン・ショック、あるいはリーマン・ショックは、
日本では
金融市場改革が進んでいなかった為に、
直撃は免れましたが、それでも
あれだけの
インパクトがありました。
2023年12月18日月曜日
なんとなく感じたこと
確かに、俺のメンタルも、
テンパってる時は
バラバラになってしまいかねない
んだが、
そこで
ある種の
<強度>
を
働かせる、あるいは
働く
ことで、
一種の「個」
としての
一体性を保っている、とも
言えるかも知れない。
<千のプラトー>入門講義 仲正昌樹 作品社
最初読むと
めちゃくちゃ
面食らうが、
ニートだからこそ出来る
時間の使い方で、
慣れてくると、
ああ、やっぱり
ナカマサ先生だな、と
安心する。
まだちょっとしか
読んでないが。
肝心の中身も、
「アンチ・オイディプス」で
言い足りなかったことを
ちゃんと言いたい、らしい、
ということが
伝わってくる。
(と書いてあった。)
これ読んでなにかの役に立つかは
まったく
わからないが、
もしかしたら
役に立つかも知れない。
これがどう
資本主義批判に繋がってくのかってのが
見ものだな。
春休みにじっくり読もう。
とりあえず100ページくらい読んだ。
(2023/12/21時点)
最初は何を言ってるのか
さっぱりわからないが、
根気よく
ちょこちょこ
読んでいると、だんだん
筋道が見えてきて、
実は
そんなに
突拍子もないことを
言っているわけではない、ということが
見えてくる。
春休みぜんぶ使っても
読み終わらないんじゃないかと
思っていたが、
読み進めると
かなり意外なことに
割りと
すんなり読める。
でも
中身は充実している。
正直、もう
哲学はいいだろ、と
思っていたが、
まあ、買ってみるか、
と
思って
買って読んでみたら、
いい買い物だった。
・・・132ページまで読んだ。
(2023/12/25時点)
超絶面白い!!!!!!!!!
やっべーな!
フランス人が本気出すと
とんでもないことになるな。
まさに
現代思想の精華と言って
間違いない。
ああ、今日は1日
頑張って、ずいぶん
捗った。
182ページまで読んだ。
(2023/12/26の午前00:25時点)
1度スイッチが入っちゃうと、
キリのいいところまで
やらないと
やめられない。
・・・今日
(2023/12/26)
も
頑張った。
第7プラトーの終わり
(215ページ)
まで
読んだ。
(18:38現在)
たぶん半分くらい読んだが、
ここまで
読んだだけでも、相当
人生に応用が利く。
実は
最強のライフハックなんじゃないか、と
本気で
思う。
世の中の色んなことを、
心理学的視点から
かなり
理論的に捉えられるようになる。
役に立つどころの
騒ぎじゃない。
第8プラトー踏破。
(21:52現在)
大事だけど、難しくはない。
風呂入ってから、
第9プラトーを片付けよう。
第9プラトー踏破。
(23:03現在)
ほぅいえあ!!!!!!!!!!
240ページに、俺が
20年かけて
言おうとしてきたことが
書いてあった。
もちろん、俺の
オリジナルの
研究部分とピタリと符号する。
ナカマサ先生に啓発されながら
勉強してきたんだから、
当たり前といえば
当たり前だが、
同じ山に違うルートで登ってきた
ということが
分かれば、
こんなに名誉なことはない!!!!
2023年12月17日日曜日
とりあえず
年金おりたから、
今期
母親に
出してもらってた
軍資金
を
半分返した。
今年は
メモリアルイヤーってことで
返さなかったとしても
文句は
言われなかっただろうが、
それじゃ
かえって俺の
気分が悪い。
ぶったまげた
姉が入院中なんだが、
息子が便秘で
4日
ウンコが出ないから、
一時帰宅したらしい。
退院ではなく。
相変わらず
ぶっ飛んでんなー。
あれだけ
ワタシは
世界広い
世界広い
って
俺にマウントかましてたのに、
こんな時に
頼りになる
友達ひとり
いないのか?
と、ふつうに思うわ。
こんなことやってると
ほんとに
死んじまうんじゃないか?
世界の中の日本外交
大学受験で
世界史を
戦後世界まで
勉強出来なかったので、
戦後世界について
ほとんど何も知らない
状態だったのだが、
ここ数年
いろいろと
知識が蓄積してきて、
ふと、
放送大学の
「世界の中の日本外交」を
視聴してみたら、
超面白い!!!!!!
以前は
面白さが全く
わからなかったんだが、
めっちゃ
面白い。
まだまだ
勉強するぜ♪
第2回
視聴。
「ドイツ近現代史2@東京文京」
で
現代史を叩き込まれた
おかげで、
ドイツから見た
戦後世界の知識が
あったので
理解できた。
この授業を全部
通して
視聴したら、
「戦後」について
ある程度
「わかった」
と
言えるレベルになるんじゃないか。
それを
思うと
ワクワクするぜ。
第3回
視聴。
アメリカ。
高橋和夫先生が解説すると、
自分が今まで
全く考えたこともなかった
側面が
見えてくる。
さすが
放送大学の看板教授。
第4回
視聴。
日米関係。
えー授業やった。
毎回
得るところ大なり。
第5回
視聴。
中国。
この授業が放映され始めたのが
21年度からだから、
その段階でもう
学問的研究は
これだけ先に行ってたんだなー、と
慧眼に驚かされる。
第6回
視聴。
アジア。
この授業
総合科目に分類されてるけど、
ほんとに
色んな背景知識ないと
ちゃんと
理解できない。
普段から新聞読むくらいは
最低限
やっておかないと。
第7回
視聴。
ヨーロッパ。
俺
ヨーロッパのこと
なんにも
わかってなかったわ。
高橋和夫先生、
中東情勢がご専門で、
その方面に
明るい方なのは
存じ上げていたが、
ヨーロッパもアジアも
これだけ
語れるのは
本当に
凄い。
俺はツイてる。
ちょうど中東情勢が
グチャグチャの時に
高橋和夫先生の
「中東の政治」の
単位取ったし、
ちょうど日本の政治が
グチャグチャの時に
岡山大学で
日本の政党政治の歴史を
学んだし、
アベノミクス真っ最中に
瀧川好夫先生の
金融経済論を
3回も
受講できた。
言うまでもなく、
自分の研究テーマも
森本先生に
指導していただいたし。
これほど知的欲求に
応えてくれる
大学は
他にない。
第8回
視聴。
日本とヨーロッパ。
第9回
視聴。
第三世界。
第三世界なんていう単語も
もはや
死語になりつつありますが、
大変
勉強になりました。
この授業はほんとに
歴とした
国際関係論の話です。
まだ
こんな授業が
視聴せずに
残っていたなんて!
戦後日本の政党政治@岡山大学
わざわざ
岡山まで行って
政治の話を
聞いたおかげで、
今の
現実の政治が
どういう
いきさつ
で
こうなってるのか
大体わかった。
そうすると、
今まで
どうでもいいと
思ってた、
新聞の政治の記事が、
俄然
面白く感じられるように
なってきた。
単に
政治家は汚いとか
そういうレベルだけの
話じゃなくて、
そうなった
メカニズムを理解したうえで、
記事を読むと、
また
今まで
見えてなかったものが
見えてくる。
顰蹙買うだけだが
姉が
肺炎で入院した。
子供も
ひとりに出来ないから
当初は
通院しながら治す
つもり
だったが、
結果的に入院ということに
なったらしい。
詳しいことは知らない。
最初
入院と聞いたときは、
ちょっとショックだったのが
俺自身
意外だったくらいだが、
時間が経つにつれ、
ちょっとザマアという
気持ちも湧いてきたり、
少なくとも
よく眠れるようになった。
姉からすりゃあ、
望んだ相手と結婚して
東京に一戸建て建てて
子供も出来て、
ぜんぶ
姉がいうところの
「自己決定」とやらで
なんら小林家の犠牲にならずに
やっと
自分の思い通りの人生を
歩み始めた
ってところなんだろうが、
俺が
去年の初め頃から
しつこく
住宅ローンを固定金利に
借り換えろと
言ったり、
それが心因になったかは
知らないが、
何やら
住宅ローンの変動金利が
上がるんじゃないか、なんて
話が
仄聞されるようになり、
あるいは
子育てが意外と大変だったとか、
もう
自分には想像するしか手段がないのだが、
とにかく
人生そんなに甘くないって
ことが
40代後半になって
ようやく
分かっただろ?!
と
俺自身は思っているのだ。
人生はネバーランドじゃねえんだよ!
2023年12月16日土曜日
ハンギョ、新書出したってよ。
日経新聞に載ってた。
同級生が
もう
どっかの
女子大の教授になって、
新書出すような
年齢になったか。
俺が
新書出すとか
一生ねーだろーな。
一生に一度は
本とか
出してみたいけど。
内閣支持率ってなんだ?
時事通信かなんかの
世論調査で
岸田内閣の
支持率が
2割切ったって
話なんだが、
そもそも
内閣の閣僚
入れ替えたばっかりで、
まだ
何もしてないのに、
支持するもなにもなくね?
内閣っていうより
岸田さんをどう思いますか?
程度の話なんじゃないの?
(しかもかなり漠然と)
それ
聞く意味あんのかな?
数学的問い その8
問い.29:確率分布を密な関数として扱えるのはなぜですか?
(以下 google bard より回答)
確率分布を密な関数として扱えるのは、確率分布が連続量の確率を表現する方法だからです。連続量の確率は、ある領域に含まれる確率として定義されます。この領域の面積を、確率密度関数で重み付けすることで、その領域に含まれる確率を計算することができます。
例えば、正規分布の確率密度関数は、以下の式で表されます。
p(x) = \frac{1}{\sqrt{2\pi}\sigma} e^{-\frac{(x - \mu)^2}{2\sigma^2}}
この関数は、x軸上で正規分布の確率を表しています。x軸上の任意の点xについて、p(x)の値は、その点xが正規分布の領域に含まれる確率を表しています。
このように、確率密度関数は、連続量の確率を表現する便利な方法です。そのため、確率分布を密な関数として扱うことができます。
具体的には、確率分布を密な関数として扱うことで、以下のことができます。
確率分布の期待値、分散、共分散などの統計量を計算する
確率分布の累積分布関数を計算する
確率分布の下で、ある事象が起こる確率を計算する
これらの計算は、確率密度関数を使うことで、効率的かつ正確に行うことができます。
なお、確率分布を密な関数として扱うことは、あくまでも近似です。実際の確率分布は、離散量と連続量の混合であり、完全な密な関数で表現することはできません。しかし、この近似は、多くの場合で十分な精度を保つことができます。
問い.30:いかなる数直線上の変数に対しても、対応する密な確率密度関数が存在すると言えるのはなぜですか?
(以下 google bard より回答)
いかなる数直線上の変数に対しても、対応する密な確率密度関数が存在すると言えるのは、次の理由からです。
任意の数直線上の変数は、無限に細かく分割することができます。
確率密度関数は、ある領域に含まれる確率を表現する方法です。
したがって、任意の数直線上の変数に対して、その領域に含まれる確率を表現する密な確率密度関数を定義することができます。
具体的には、以下のようにして密な確率密度関数を定義することができます。
数直線上を無限に細かく分割し、各区間に確率を割り当てます。
各区間の確率を、その区間の面積で重み付けします。
これにより、任意の数直線上の変数に対して、密な確率密度関数が定義されます。
ただし、この密な確率密度関数は、必ずしも連続関数であるとは限りません。例えば、区間の確率が離散値である場合、その密度関数は階段関数になります。
また、この密な確率密度関数は、必ずしも実際の確率分布を正確に表現しているとは限りません。しかし、多くの場合で十分な精度を保つことができます。
なお、確率分布を密な関数として扱うことは、あくまでも近似です。実際の確率分布は、離散量と連続量の混合であり、完全な密な関数で表現することはできません。
問い.31:確率密度関数を集合で表現できますか?
(以下 google bard より回答)
はい、確率密度関数を集合で表現することは可能です。
確率密度関数は、ある領域に含まれる確率を表現する関数です。この領域を集合として表現することで、確率密度関数を集合で表現することができます。
例えば、正規分布の確率密度関数は、以下の式で表されます。
p(x) = \frac{1}{\sqrt{2\pi}\sigma} e^{-\frac{(x - \mu)^2}{2\sigma^2}}
この関数は、x軸上で正規分布の確率を表しています。この関数を集合で表現すると、以下のようになります。
S = \{x \in \mathbb{R} | p(x) > 0\}
この集合は、正規分布の領域を表しています。
このように、確率密度関数を集合で表現することで、確率分布の領域を明確に表現することができます。
ただし、確率密度関数を集合で表現する場合、いくつかの注意点があります。
確率密度関数が連続関数である場合、その集合は開集合になります。
確率密度関数が離散関数である場合、その集合は有限集合になります。
また、確率密度関数を集合で表現しても、確率の値を直接計算することはできません。確率の値を計算するには、累積分布関数を利用するなど、別の方法が必要です。
2023年12月15日金曜日
数学的問い その7
問い.28:数直線が密であることは、任意のN次の無限関数の微分可能性にとってどのような条件でしょうか?
(以下 google bard より回答)
数直線が密であることは、任意のN次の無限関数の微分可能性にとって 必要条件 です。
N次の無限関数が x 点で微分可能であるためには、その点での導関数が存在する必要があります。導関数は、x の周りの極限として定義されます。
数直線が密でない場合は、x の周りに任意の距離をとって、その距離内に x と異なる値を持つ点が存在します。この場合、導関数の極限は存在しないことになります。
したがって、数直線が密であれば、任意のN次の無限関数の微分可能性の条件を満たすことになります。
ただし、数直線が密であることは 十分条件 ではありません。つまり、数直線が密である場合でも、必ずしも任意のN次の無限関数が微分可能であるとは限りません。
例えば、次の関数は、x が 0 以外の任意の値の点で微分可能ではありません。
f(x) = \begin{cases}
x^2 & (x \neq 0) \\
0 & (x = 0)
\end{cases}
この関数は、x が 0 以外の任意の値の点で、導関数が存在します。しかし、x が 0 の点では、導関数は存在しません。
この場合、数直線が密であるにもかかわらず、任意のN次の無限関数の微分可能性の条件を満たしていないことになります。
数学的問い その6
問い.21:数直線が無限集合であることと、数直線が密であることとは同値でしょうか?
(以下 google bardより回答)
はい、同値です。
数直線が無限集合であることとは、数直線に含まれる実数の個数が無限であることです。数直線が密であることとは、任意の2つの実数の間には、必ず別の実数が存在することです。
数直線が無限集合である場合、任意の2つの実数の間には、必ず別の実数が存在します。これは、任意の2つの実数の間には、必ずその2つの実数の中間値が存在するためです。したがって、数直線が無限集合である場合、数直線は密です。
逆に、数直線が密である場合、任意の2つの実数の間には、必ず別の実数が存在します。この場合、任意の2つの実数の間には、必ずその2つの実数の中間値が存在します。したがって、数直線が密である場合、数直線は無限集合です。
したがって、数直線が無限集合であることと、数直線が密であることとは、同値であると言えます。
なお、数直線は実数全体の集合です。実数全体の集合は、連続体であるため、無限集合であり、かつ密です。
問い.22:無理数は数えられない無限集合でしょうか?
(以下 google bard より回答)
はい、無理数は数えられない無限集合です。
無理数とは、有理数でない実数です。有理数とは、分数で表せる実数です。例えば、2/3、1/5、π、√2などは無理数です。
数えられない無限集合とは、自然数と1対1対応できない無限集合です。自然数は、0、1、2、3、...と続いていく数です。
無理数は、任意の2つの有理数の間には必ず1つ存在します。したがって、無理数の集合は、有理数の集合よりも必ず大きいことになります。
つまり、無理数の集合は、自然数と1対1対応できないため、数えられない無限集合であると言えます。
具体的な証明としては、以下のような方法があります。
有理数と無理数を組み合わせて得られる数は、すべて実数になります。
実数は、任意の2つの実数の間には必ず1つ存在します。
したがって、無理数は、任意の2つの実数の間には必ず1つ存在します。
このことから、無理数の集合は、自然数と1対1対応できないため、数えられない無限集合であると言えます。
問い.23:数学における集合の大小とは何を表していますか?
(以下 google bard より回答)
数学における集合の大小は、集合に含まれる要素の個数を表しています。集合が有限である場合、その大小は自然数で表されます。例えば、{1, 2, 3}という集合の大小は3です。
集合が無限である場合、その大小は濃度で表されます。濃度とは、集合を自然数と1対1対応できるかどうかを表すものです。自然数と1対1対応できる集合を可算集合と呼び、それ以外の集合を非可算集合と呼びます。
可算集合の例としては、自然数全体の集合、整数全体の集合、有理数全体の集合などがあります。非可算集合の例としては、実数全体の集合、無理数全体の集合などがあります。
具体的には、以下のようになります。
同じ数の要素を持つ集合は、濃度が同じである。
ある集合の濃度が大きい場合、その集合には、より多くの要素が含まれる。
ある集合の濃度が小さい場合、その集合には、より少ない要素が含まれる。
また、集合の大小は、集合の性質を決定する重要な要素となります。例えば、カントールの第二の無限大の公式によると、実数全体の集合の濃度は、自然数全体の集合の濃度よりも大きいことが示されています。これは、実数全体の集合には、自然数全体の集合に含まれるすべての要素に加えて、それ以外の要素も無限に存在することを意味します。
このように、数学における集合の大小は、集合の性質を理解する上で重要な概念となっています。
問い.24:複素数は集合で表現できますか?
(以下 google bard より回答)
はい、複素数は集合で表現できます。複素数全体の集合は、以下のようにして表現できます。
C = {a + bi | a, b ∈ R}
ここで、a は実数部、b は虚数部を表します。
この集合は、実数全体の集合と虚数全体の集合の直積として表現することもできます。
問い.25:複素数は数えられない無限集合ですか?
(以下 google bard より回答)
はい、複素数は数えられない無限集合です。複素数は、実数部と虚数部からなる数です。実数部は、通常の有理数や無理数と同じものです。虚数部は、i と表される単位虚数のことで、i^2 = -1 を満たします。
実数全体の集合と虚数全体の集合は、どちらも数えられない無限集合です。したがって、実数部と虚数部を組み合わせて得られる複素数全体の集合も、数えられない無限集合となります。
具体的な証明としては、以下のような方法があります。
実数部と虚数部を組み合わせて得られる複素数は、すべて実数になります。
実数全体の集合は数えられない無限集合です。
したがって、複素数全体の集合も数えられない無限集合となります。
また、カントールの第二の無限大の公式によると、実数全体の集合の濃度は、自然数全体の集合の濃度よりも大きいことが示されています。このことからも、複素数全体の集合は数えられない無限集合であることがわかります。
このように、複素数は数えられない無限集合であり、実数全体の集合と同じ濃度を持っています。
問い.26:ベクトルは集合で表現できますか?
(以下 google bard より回答)
はい、ベクトルは集合で表現できます。ベクトルは、座標空間上の点の位置を表すものです。座標空間は、実数直線や平面、空間など、任意の次元の空間です。
ベクトルを集合で表現するには、そのベクトルの座標を要素とする集合を作成します。例えば、2次元ベクトル (1, 2) を集合で表現するには、以下のようにして表現できます。
{1, 2}
このように、ベクトルを集合で表現することで、ベクトルの座標を簡単に操作することができます。例えば、ベクトルの加算や減算、内積などの計算を行うことができます。
また、ベクトルを集合で表現することで、ベクトルの性質を理解しやすくなります。例えば、ベクトルの次元は、集合の要素数で表すことができます。
このように、ベクトルは集合で表現することで、さまざまなメリットがあります。
問い.27:すべての自然数の集合は、すべての整数の集合よりも大きいですか?それはなぜですか?
(以下 google bard より回答)
はい、すべての自然数の集合は、すべての整数の集合よりも大きいです。
自然数の集合は、0、1、2、3、...と続いていく数々の集合です。整数の集合は、自然数の集合に0と負の整数を加えた集合です。
自然数の集合の濃度は、アレフゼロ(ℵ₀)です。アレフゼロは、自然数全体の集合と等しい濃度を持つ集合の濃度を表します。
整数の集合の濃度も、アレフゼロです。これは、整数は、自然数とその逆数からなる集合であり、自然数とその逆数は、自然数全体の集合に1対1に対応できるためです。
したがって、アレフゼロの集合である自然数の集合は、アレフゼロの集合である整数の集合よりも大きいと言えます。
具体的な証明としては、以下のような方法があります。
自然数の集合と整数の集合の両方に、0を追加した集合を考えます。この集合は、どちらもアレフゼロの集合です。
この集合から、-1を追加した集合を考えます。この集合は、どちらもアレフゼロの集合です。
このようにして、自然数の集合と整数の集合の両方に、任意の数を追加しても、どちらもアレフゼロの集合であることがわかります。
したがって、自然数の集合は、整数の集合よりも大きいと言えます。
数学的問い その5 わけわからん
問い.18:集合には数えられる要素と数えられない要素があるのでしょうか?その場合、数えられる、とはどういうことでしょうか?
(以下 google bard より回答)
はい、集合には数えられる要素と数えられない要素があります。
数えられる要素とは、自然数で数えることができる要素のことです。例えば、自然数全体の集合、整数全体の集合、有理数全体の集合はすべて数えられる集合です。
数えられない要素とは、自然数で数えることができない要素のことです。例えば、実数全体の集合、連続関数の集合はすべて数えられない集合です。
数えられるとは、どのような意味でしょうか?
自然数で数えられるとは、自然数を列挙しながら、その列挙の中に要素がすべて含まれることを意味します。例えば、自然数全体の集合は、1, 2, 3, 4, ... と列挙しながら、すべての自然数が含まれるので、数えられる集合です。
しかし、実数全体の集合は、1, 2, 3, 4, ... と列挙しても、すべての実数が含まれることはありません。例えば、1/2, 1/3, 1/4, ... などの実数は、この列挙の中には含まれません。したがって、実数全体の集合は数えられない集合です。
数えられない集合は、数えられる集合よりも大きな集合です。例えば、自然数全体の集合と実数全体の集合は、1対1の対応ができません。つまり、自然数全体の集合には、実数全体の集合に含まれない要素が必ず存在します。
数えられない集合の概念は、数学において非常に重要な概念です。例えば、集合論の基本定理である「可算集合の基数は可算集合の基数より小さい」という定理は、数えられない集合の概念に基づいて証明されています。
問い.19:すべての自然数の集合は、数えられるにも関わらず、無限集合なのはなぜですか?
(以下 google bard より回答)
すべての自然数の集合は、数えられるにも関わらず、無限集合である理由は、以下のとおりです。
数えられる集合とは、自然数で数えることができる集合のことです。
自然数は、1, 2, 3, 4, ... と無限に続くので、自然数で数えることは可能です。
したがって、すべての自然数の集合は、数えられる集合です。
しかし、数えられる集合は、必ずしも有限集合であるとは限りません。例えば、自然数全体の集合は、無限集合であるにも関わらず、数えられる集合です。
数えられる集合と無限集合の違いは、集合の基数によって区別されます。集合の基数とは、その集合に含まれる要素の個数を測るものです。
すべての自然数の集合の基数は、ℵ₀ と呼ばれます。ℵ₀ は、実数全体の集合の基数である ℵ₁ よりも小さいため、すべての自然数の集合は、無限集合であるにも関わらず、数えられる集合であると言えます。
具体的な例として、以下の図を考えてみましょう。
1
2
3
...
この図は、すべての自然数の集合を表しています。この図は、自然数を列挙しながら、その列挙の中に要素がすべて含まれるので、数えられる集合であることがわかります。
しかし、この図には、実数全体の集合に含まれる要素である、1/2, 1/3, 1/4, ... などの実数が含まれません。したがって、この図は、実数全体の集合を表すものではありません。
したがって、すべての自然数の集合は、数えられるにも関わらず、無限集合であると言えます。
問い.20:要素を数えられない有限集合とはどのような集合でしょうか?
(以下 google bardより回答)
要素を数えられない有限集合とは、要素が有限個であるにも関わらず、その要素を自然数で数えることができない集合のことです。
要素を数えられない有限集合は、存在しないという定理があります。この定理は、ゲーデルの完全性定理の応用によって証明されます。
ゲーデルの完全性定理とは、ある命題が証明可能であるか否かを、その命題の真偽を調べるだけで判定することができるという定理です。
この定理を応用して、要素を数えられない有限集合が存在すると仮定すると、以下の命題が証明可能になります。
要素を数えられない有限集合が存在する。
しかし、この命題は、要素を数えられない有限集合が存在しないという前提から導かれる命題です。したがって、この命題は、矛盾を内包することになります。
つまり、要素を数えられない有限集合は、存在しないということになります。
ただし、この定理は、集合の要素が自然数に限られている場合にのみ成り立ちます。集合の要素が自然数以外の場合、要素を数えられない有限集合が存在する可能性は残されています。
例えば、以下の集合は、要素を数えられない有限集合である可能性があります。
{1, 2, 3, ..., 10^100}
この集合は、要素が10^100個と有限個であるにも関わらず、自然数で数えることはできません。
しかし、この集合が実際に存在するかどうかは、まだ明らかになっていません。
数学的問い その4
問い.17:ベクトルの定義が2通り存在するのはなぜですか?
(以下 google bardより回答)
ベクトルの定義が2通り存在する理由は、ベクトルの概念が、幾何学的な量としてのベクトルと、線型代数的な量としてのベクトルに分けて捉えられるためです。
幾何学的な量としてのベクトル
幾何学的な量としてのベクトルは、大きさと向きを持った量として捉えられます。例えば、力や速度、運動量などは、大きさと向きによって定義される量です。
このようなベクトルの定義は、高校数学などでよく用いられます。ベクトルを矢印で表すことで、大きさと向きを直感的に理解することができます。
線型代数的な量としてのベクトル
線型代数的な量としてのベクトルは、線形空間の元として捉えられます。線形空間とは、加法とスカラー倍の演算が定義された集合です。ベクトルは、これらの演算を満たす量として定義されます。
線型代数的な量としてのベクトルの定義は、大学数学などでよく用いられます。ベクトルは、線形変換の研究において重要な概念となります。
このように、ベクトルの定義は、ベクトルの概念を捉える視点によって異なります。どちらの定義が正しいというわけではなく、用途に応じて適切な定義を用いることが重要です。
具体的には、幾何学的な量としてのベクトルは、日常生活や物理学などの分野で用いられます。一方、線型代数的な量としてのベクトルは、数学や工学などの分野で用いられます。
2023年12月14日木曜日
数学的問い その3
問い.13:ある集合が無限集合ということと、その集合の要素が無限個あるということとは、同値でしょうか?
(以下 google bard より回答)
同値ではありません。
ある集合が無限集合であるということは、その集合の要素の個数が有限でないこと、すなわち、いかなる自然数Nに対しても、その集合の要素の個数はNより大きいことを意味します。
一方、ある集合の要素が無限個あるということは、その集合の要素の個数が自然数の範囲を超えていることを意味します。
したがって、ある集合が無限集合であるということは、その集合の要素が無限個あることを含意しますが、逆は必ずしも成り立ちません。
たとえば、正の整数全体の集合は、要素が無限個ありますが、可算集合であるため、無限集合ではありません。
また、実数全体の集合は、要素が無限個ありますが、非可算集合であるため、無限集合です。
したがって、ある集合が無限集合であるかどうかは、その集合の要素の個数を自然数の範囲で比較するだけでは判断できません。集合の濃度を用いて判断する必要があります。
問い.14:集合の濃度とは何でしょうか?
(以下 google bard より回答)
問い.13の回答にもあるように、ある集合が無限集合であるということは、その集合の要素の個数が自然数の範囲を超えていることを意味します。一方、ある集合の要素が無限個あるということは、その集合の要素の個数が自然数の範囲を超えていることを意味します。
したがって、ある集合が無限集合であるということは、その集合の要素が無限個あることを含意しますが、逆は必ずしも成り立ちません。
たとえば、正の整数全体の集合は、要素が無限個ありますが、可算集合であるため、無限集合ではありません。また、実数全体の集合は、要素が無限個ありますが、非可算集合であるため、無限集合です。
したがって、ある集合が無限集合であるかどうかは、その集合の要素の個数を自然数の範囲で比較するだけでは判断できません。集合の濃度を用いて判断する必要があります。
問い.14の回答として、集合の濃度とは、集合の要素の個数の概念を、無限個の集合についても適用できるよう一般化したものであると言えます。
有限集合においては、集合の濃度はその集合の要素の個数と一致します。しかし、無限集合においては、集合の要素の個数を自然数の範囲で比較しても、両集合の濃度が一致するか否かは判断できません。
そこで、集合の濃度を判断するためには、単射の存在性を用います。
2つの集合AとBが与えられたとき、AからBへの単射が存在するならば、Aの濃度はBの濃度以下であると言います。
逆に、AからBへの単射が存在しないならば、Aの濃度はBの濃度以上であると言います。
このようにして、2つの集合の濃度を比較することで、両集合の濃度が一致するか否かを判断することができます。
集合の濃度は、基数と呼ばれる数によって表されます。基数は、集合の濃度を唯一に表す数です。
たとえば、正の整数全体の集合の濃度は、基数ω(オメガ)であり、実数全体の集合の濃度は、基数ℵ1(ベータ1)です。
このように、集合の濃度は、集合の要素の個数の概念を、無限個の集合についても適用できるよう一般化したものであり、集合の大小関係を判断するために用いられます。
問い.15:正の整数とは自然数のことではないのですか?正の整数が有限集合であるにも関わらず、自然数が無限集合であると言えるのはなぜですか?
(以下 google bard より回答)
問い.15の回答は、正の整数と自然数は異なる概念であるということです。
正の整数とは、0より大きい整数のことで、0、1、2、3、... の集合です。一方、自然数とは、0を含めた整数のことで、0、1、2、3、... の集合です。
したがって、正の整数は自然数の部分集合であり、要素の個数は自然数の要素の個数よりも少ないことになります。そのため、正の整数は有限集合ですが、自然数は無限集合であると言えます。
具体的には、正の整数全体の集合は、0から始まる自然数全体の集合に、0を追加した集合とみなすことができます。このとき、0から始まる自然数全体の集合は、単射によって正の整数全体の集合に写すことができるため、両集合の濃度は等しくなります。したがって、正の整数全体の集合は、可算集合であると言えます。
一方、自然数全体の集合は、0から始まる自然数全体の集合に、0を除いた集合とみなすことができます。このとき、0から始まる自然数全体の集合と自然数全体の集合の間には、単射が存在しません。したがって、自然数全体の集合は、非可算集合であると言えます。
このように、正の整数と自然数は異なる概念であり、正の整数が有限集合であるにも関わらず、自然数は無限集合であると言えます。
問い.16:任意のN次の関数を微分する場合、数直線が無限集合であることは、微分可能性にとってどのような条件でしょうか?
(以下 google bard より回答)
数直線が無限集合であることは、任意のN次の関数を微分する場合、微分可能性にとって必要条件です。
N次の関数の微分可能性の定義は、その関数のN番目の導関数が存在し、その導関数が連続であることを意味します。
N番目の導関数が存在するためには、その関数がN回連続微分可能である必要があります。つまり、その関数の1回目からN回目の導関数がすべて存在し、その導関数がすべて連続である必要があります。
1回目からN回目の導関数がすべて存在するためには、その関数が数直線のすべての点において定義されている必要があります。つまり、数直線のすべての点において、その関数の値が定義されている必要があります。
数直線は、すべての実数を含む無限集合です。したがって、数直線が無限集合でなければ、すべての実数を含むことはできず、1回目からN回目の導関数がすべて存在しないため、N次の関数は微分可能ではありません。
したがって、数直線が無限集合であることは、任意のN次の関数を微分する場合、微分可能性にとって必要条件であると言えます。
なお、数直線が無限集合であることは、微分可能性にとって十分条件ではありません。
例えば、f(x) = x^2 は、数直線のすべての点において定義されており、1回目から2回目の導関数がすべて存在し、その導関数がすべて連続であるため、微分可能です。しかし、f(x) = x^2 は、定義域が実数全体ではなく、正の実数全体であるため、数直線が無限集合である必要はありません。
数学的問い その2
問い.11:関数は無限集合でしょうか?
(以下 google bard より回答)
関数は無限集合である場合とそうでない場合があります。
関数の定義域と値域のどちらかが有限集合である場合、関数全体も有限集合となります。例えば、定義域が自然数全体で、値域が整数全体の関数は有限集合となります。
一方、関数の定義域と値域のどちらかが無限集合である場合、関数全体も無限集合となります。例えば、定義域が実数全体で、値域が実数全体の関数は無限集合となります。
また、関数の定義域と値域が同じ集合である場合、関数全体の濃度は定義域の濃度と等しくなります。例えば、定義域と値域が自然数全体の関数は可算無限集合となります。
したがって、関数が無限集合であるかどうかは、関数の定義域と値域の濃度によって決まります。
具体的には、次のようになります。
定義域が有限集合かつ値域が有限集合の場合:関数全体は有限集合
定義域が有限集合かつ値域が無限集合の場合:関数全体は有限集合
定義域が無限集合かつ値域が有限集合の場合:関数全体は無限集合
定義域が無限集合かつ値域が無限集合の場合:関数全体の濃度は定義域の濃度と等しい
なお、定義域が実数全体や複素数全体などの非可算集合である場合、関数全体の濃度は連続体濃度となります。
問い.12:無限集合である関数を微分する場合、数直線が数の連続量であることは、微分可能性にとってどのような条件でしょうか?
(以下 google bard より回答)
数直線が数の連続量であることは、微分可能性にとって必要条件となります。
微分可能性とは、ある点において関数の値の変化率が一定であることを意味します。この一定の値を微分係数と呼びます。
数直線が数の連続量でない場合は、ある点において関数の値の変化率が定義できない可能性があります。例えば、関数が階段関数である場合、ある点において関数の値は急激に変化するため、微分係数は定義できません。
したがって、数直線が数の連続量であることは、微分可能性にとって必要条件となります。
ただし、数直線が数の連続量であるだけでは、微分可能性を保証するものではありません。例えば、関数が滑らかな曲線である場合でも、極限値が存在しない点では微分できません。
具体的には、次のようになります。
数直線が数の連続量である場合、関数は任意の点において微分可能である可能性があります。
数直線が数の連続量でない場合、関数は任意の点において微分できない可能性があります。
数直線が数の連続量であっても、関数は任意の点において微分できない可能性があります。
なお、数直線が数の連続量でない場合は、関数の微分可能性を判定するために、より高度な数学的な知識が必要となります。
数学的問い 言ってることがよくわかんねえ
問い.8:数直線が無限集合であることと、無理数が無限集合であることとは、同値でしょうか?
(以下 google bard より回答)
はい、同値です。
数直線が無限集合であるということは、任意の区間に、その区間内に含まれない実数が無限に存在するということです。このことは、無理数が無限集合であるという性質と等価です。
証明:
数直線が無限集合であるとする。任意の区間 [a, b] を考える。この区間内に含まれない実数を r とする。r は有理数であるとする。すると、r は [a, b] の内部に含まれる有理数 q と、[a, b] の外部に含まれる有理数 p によって、r = q + p と表せる。しかし、これは [a, b] の外部に含まれる実数が存在することを意味する。したがって、r は無理数である。
逆に、無理数が無限集合であるとする。任意の区間 [a, b] を考える。この区間内に含まれる無理数を r とする。すると、r は [a, b] の外部に含まれる実数である。
したがって、数直線が無限集合であることと、無理数が無限集合であることとは、同値である。
なお、数直線が無限集合であることを示す方法としては、以下のようなものがあります。
デデキントの切断を用いる。
連続函数の定理を用いる。
無理数が無限集合であることを示す。
このうち、無理数が無限集合であることを示す方法は、最も直観的な方法です。
問い.9:数直線が無限集合であることと、数直線が数の連続量として捉えられるべきこととは、同値でしょうか?
(以下 google bard より回答)
いいえ、同値ではありません。
数直線が無限集合であることは、任意の区間に、その区間内に含まれない実数が存在することを意味します。一方、数直線が数の連続量として捉えられるべきことは、数直線上の任意の2つの点の間には、無限に多くの実数が存在することを意味します。
この2つの性質は、互いに関連しています。数直線が無限集合であれば、任意の2つの点の間には、少なくとも1つの実数が存在します。しかし、数直線が数の連続量として捉えられるべきことであれば、任意の2つの点の間には、無限に多くの実数が存在する必要があります。
したがって、数直線が無限集合であれば、数直線が数の連続量として捉えられるべきことは必ず成り立ちます。しかし、数直線が数の連続量として捉えられるべきことであれば、数直線が無限集合であるかは必ずしも成り立ちません。
たとえば、有理数全体の集合は、数の連続量として捉えられます。しかし、有理数全体の集合は有限集合です。したがって、数直線が無限集合であることと、数直線が数の連続量として捉えられるべきこととは、同値ではありません。
なお、数直線が数の連続量として捉えられるべきことは、実数の定義に含まれています。したがって、実数論においては、数直線が無限集合であることは当然のこととされています。
問い.10:有理数が有限集合であるにも関わらず、自然数Nが無限集合であるのはなぜでしょうか?
(以下 google bard より回答)
有理数が有限集合であるにも関わらず、自然数Nが無限集合である理由は、有理数の濃度と自然数の濃度が異なるためです。
有理数の濃度は可算無限集合ですが、自然数の濃度は非可算無限集合です。可算無限集合とは、自然数全体の集合のように、1対1対応できる有限集合の集合のことです。非可算無限集合とは、可算無限集合よりも多くの要素を持つ集合のことです。
有理数は、正の有理数全体の集合と負の有理数全体の集合を合わせて、0を加えて得ることができます。正の有理数全体の集合と負の有理数全体の集合は、いずれも可算無限集合です。したがって、有理数全体の集合は、可算無限集合であると言えます。
一方、自然数は、0から始まって、1、2、3、...と順番に数え上げることができる集合です。自然数は、いくら数え上げても終わりがない集合です。したがって、自然数は、非可算無限集合であると言えます。
有理数と自然数が異なる濃度を持つということは、有理数と自然数の間で、1対1対応が存在しないということです。つまり、任意の有理数に、対応する自然数が存在しないということです。
このことは、以下の図で示すことができます。
有理数
1/2, 1/3, 1/4, ...
自然数
0, 1, 2, 3, ...
この図で、有理数と自然数を、1対1対応させるように、横軸を有理数、縦軸を自然数としました。しかし、この図では、すべての有理数に対応する自然数を見つけることができません。たとえば、1/3は、縦軸のどの自然数にも対応しません。
このように、有理数と自然数は異なる濃度を持つため、有理数が有限集合であるにも関わらず、自然数Nが無限集合であると言えます。
ふと思ったからメモっておこう
問い.2:数学的帰納法は、なぜ自然数Nにしか適応できないのだろう?
(以下 google bard より回答)
数学的帰納法は、次の3つのステップで構成されています。
基底項:n=0 の場合、P(0) が成り立つことを示す。
帰納仮説:n=k の場合、P(k) が成り立つことを仮定する。
帰納ステップ:n=k+1 の場合、P(k+1) が成り立つことを示す。
この3つのステップは、自然数N の定義であるペアノ公理の5番目と等価であることがわかります。
ペアノ公理の5番目は、次のとおりです。
任意の自然数 n と任意の性質 P について、P(0) が成り立ち、かつ P(n) が成り立つとき、P(n+1) も成り立つ。
したがって、数学的帰納法は、自然数N の定義に基づいているため、自然数N にしか対応できないのです。
具体的には、基底項でn=0 の場合を示すことで、自然数N の基底要素である0 が成り立つことを示します。帰納仮説でn=k の場合を示すことで、自然数N の任意の要素 k が成り立つことを仮定します。帰納ステップでn=k+1 の場合を示すことで、自然数N の次の要素 k+1 が成り立つことを示します。
この3つのステップを繰り返すことで、自然数N のすべての要素が成り立つことを示すことができます。
なお、数学的帰納法は、自然数N の定義に基づいているため、自然数N の集合が無限であるという性質も必要となります。
問い.3:数学的帰納法はなぜすべての自然数Nに適応可能なのか?
(以下 google bard より回答)
数学的帰納法は、なぜすべての自然数Nに適応可能なのか、という問いに対する回答は、次のとおりです。
数学的帰納法は、自然数Nの定義に基づいているため、すべての自然数Nに適応可能である。
数学的帰納法は、次の3つのステップで構成されています。
基底項:n=0 の場合、P(0) が成り立つことを示す。
帰納仮説:n=k の場合、P(k) が成り立つことを仮定する。
帰納ステップ:n=k+1 の場合、P(k+1) が成り立つことを示す。
この3つのステップは、自然数Nの定義であるペアノ公理の5番目と等価であることがわかります。
ペアノ公理の5番目は、次のとおりです。
任意の自然数 n と任意の性質 P について、P(0) が成り立ち、かつ P(n) が成り立つとき、P(n+1) も成り立つ。
したがって、数学的帰納法は、自然数Nの定義に基づいているため、すべての自然数Nに適応可能であるのです。
具体的には、基底項でn=0 の場合を示すことで、自然数Nの基底要素である0が成り立つことを示します。帰納仮説でn=k の場合を示すことで、自然数Nの任意の要素 kが成り立つことを示します。帰納ステップでn=k+1 の場合を示すことで、自然数Nの次の要素 k+1が成り立つことを示します。
この3つのステップを繰り返すことで、自然数Nのすべての要素が成り立つことを示すことができます。
なお、数学的帰納法は、自然数Nの定義に基づいているため、自然数Nの集合が無限であるという性質も必要となります。
したがって、数学的帰納法は、自然数Nの定義に基づき、自然数Nの集合が無限であるという性質を満たす限り、すべての自然数Nに適応可能であると言えます。
問い.4:数直線は無限集合でしょうか?
(以下 google bard より回答)
答えは、はい、数直線は無限集合です。
数直線は、すべての実数からなる集合です。実数は、有理数と無理数の集合です。有理数は、小数点表示が有限小数または循環小数で表される数です。無理数は、小数点表示が非循環無限小数で表される数です。
有理数の集合は、有限集合です。これは、有理数の個数は、10進法で表す場合、小数点以下に0から9までの数字が10個しか存在しないため、有限であることがわかります。
しかし、無理数の集合は無限集合です。これは、無理数の個数は、有理数の個数よりも多く、無限であることがわかります。
したがって、数直線の集合は、有理数の集合と無理数の集合の和集合です。そのため、数直線の集合は、有限集合である有理数の集合と無限集合である無理数の集合の和集合であるため、無限集合であると言えます。
具体的には、数直線の任意の点とその右隣の点を結ぶ線分を考えます。この線分には、その点よりも大きい無限個の実数が存在します。したがって、数直線の任意の点の右側には、無限個の点が存在します。
また、数直線の任意の点とその下隣の点を結ぶ線分を考えます。この線分には、その点よりも小さい無限個の実数が存在します。したがって、数直線の任意の点の下側には、無限個の点が存在します。
このように、数直線の任意の点の周囲には、無限個の点が存在するため、数直線の集合は無限集合であると言えます。
問い.5:数直線上のいかなる点も有理数または無理数で表現できるのはなぜでしょうか?
(以下 google bard より回答)
数直線上のいかなる点も有理数または無理数で表現できるのは、数直線が無限集合であり、さらにその無限集合は有限集合である有理数と無限集合である無理数の和集合であるためです。
有理数は、小数点表示が有限小数または循環小数で表される数です。例えば、1/2、3/5、π/2などの数は有理数です。有理数の集合は、有限集合です。これは、有理数の個数は、10進法で表す場合、小数点以下に0から9までの数字が10個しか存在しないため、有限であることがわかります。
無理数は、小数点表示が非循環無限小数で表される数です。例えば、√2、π、eなどの数は無理数です。無理数の集合は無限集合です。これは、無理数の個数は、有理数の個数よりも多く、無限であることがわかります。
したがって、数直線の集合は、有限集合である有理数の集合と無限集合である無理数の和集合です。そのため、数直線の集合は、任意の点を含むことができます。
具体的には、数直線の任意の点とその右隣の点を結ぶ線分を考えます。この線分には、その点よりも大きい無限個の実数が存在します。これらの実数のうち、有理数は有限個しか存在しません。したがって、この線分の中に存在する点のうち、無限個は無理数であると言えます。
同様に、数直線の任意の点とその下隣の点を結ぶ線分にも、無限個の無理数が存在します。
このように、数直線の任意の点の周囲には、無限個の無理数が存在するため、数直線上のいかなる点も無理数で表現することができます。
なお、有理数で表現できる点も存在します。例えば、整数は有理数です。また、小数点以下が循環する有理数も存在します。
したがって、数直線上のいかなる点も有理数または無理数で表現することができると言えます。
問い.6:いかなる無理数も、式で表せるのでしょうか?それはなぜでしょうか?
(以下 google bard より回答)
問い.6:いかなる無理数も、式で表せるのでしょうか?それはなぜでしょうか?
答えは、いいえ、いかなる無理数も、式で表せるとは限りません。
無理数とは、小数点表示が非循環無限小数で表される数です。例えば、√2、π、eなどの数は無理数です。
無理数を式で表すためには、無理数の定義を満たすような式を見つける必要があります。しかし、無理数の定義は、小数点表示が非循環無限小数であることです。この条件を満たすような式を見つけるのは、非常に困難です。
例えば、√2は、2の平方根です。2の平方根を式で表すためには、2の平方根という概念を式に含める必要があります。しかし、2の平方根を式で表すことは、それ自体が無理な問題です。
また、πは、円周率です。πを式で表すためには、円周率という概念を式に含める必要があります。しかし、πを式で表すことも、それ自体が無理な問題です。
したがって、いかなる無理数も、式で表せるとは限りません。
ただし、一部の無理数については、式で表すことができます。例えば、√3は、3の平方根で、√3=3^(1/2)と表すことができます。また、eは、自然対数の底で、e=lim(1+1/n)^nと表すことができます。
このように、一部の無理数については、式で表すことは可能ですが、すべての無理数について、式で表すことは不可能であると考えられています。
.問い.7:無理数が無限集合であると言えるのはなぜでしょうか?
(以下 google bard より回答)
無理数が無限集合であると言えるのは、次の理由からです。
無理数の定義は、「小数点表示が非循環無限小数で表される数」です。この定義を満たす数は、有限個に限られるとは限りません。
例えば、数直線の任意の点は、無理数で表すことができます。
数直線には、無限個の点が存在します。
したがって、無理数の定義を満たす数は、有限個に限られるとは限らず、無限個存在すると言えます。
具体的には、数直線の任意の点とその右隣の点を結ぶ線分を考えます。この線分には、その点よりも大きい無限個の実数が存在します。これらの実数のうち、有理数は有限個しか存在しません。したがって、この線分の中に存在する点のうち、無限個は無理数であると言えます。
同様に、数直線の任意の点とその下隣の点を結ぶ線分にも、無限個の無理数が存在します。
このように、数直線の任意の点の周囲には、無限個の無理数が存在するため、無理数は無限集合であると言えます。
また、無理数が無限集合であるという証明としては、カントールの対角線論法がよく知られています。この論法では、数直線上の任意の点を選び、その点よりも大きい無限個の無理数を構成することができます。したがって、無理数は無限集合であると言えます。
なお、いかなる無理数も式で表せるわけではないのは、無理数の定義である「小数点表示が非循環無限小数で表される数」を満たす式を見つけるのが非常に困難だからです。
2023年12月13日水曜日
だーよねー
スマホで母親を撮影して、
ほうぼうに
送信したら、
森本先生から
お返事があり、
俺が
傍にいるから
母親も
元気、みたいなことを
お書きになっていて
くださり、
なかなか、
友人どうしだと
内心思っていたとしても
あきらかに
言ったり書いたり
してくれるって
ないから、
内心、ようやく
そのように
書いてくださる方がいて、
働きアリにならなきゃ、と
気張っていた神経が
ほぐれて、
よく眠れた。
肩も張っていたが、
疲れが取れた。
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
「危機の二十年」 E.H.カー 岩波文庫 より (再掲)
「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
アドルノはまだ生きている (再掲)
グローバリゼーションによって、
世界の富の大きさは拡大したが、
分配に著しい偏りが生じたことは、
論を俟たない。
日本においても、
新自由主義的な政策の結果、
正規、非正規の格差など、
目に見えて格差が生じている。
そのような中で、
経済的に恵まれない層は、
ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らのアイデンティティーを
脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を
参考にして考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより下に見ていた
貧困層と同じ境遇に
置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムの
マゾ的心性が、
ナチズムのサディスティックな
プロパガンダとの親和性により、
まるで
サド=マゾ関係を結んだ結果、
強力な全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が
日本人の間には存在することは、
ほぼ共通認識だが、
それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される
画一性への服従となって、
負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、
特に民族としての「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、
現代生活の疎外を否定する
というよりは
むしろ、
この疎外の
いっそう狡猾な現われに
ほかならないのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における
物象化という側面を
持っているとすれば、
グローバリゼーションによる
均質化、画一化が進行するにつれ、
反動として
民族の本来性といった民族主義的、
右翼的、排外主義的な傾向が
現れるのは、
日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が高度に発展して、
物象化が進み、
疎外が深刻になるほど、
本来性というものを
追求するのは不可避の傾向だ、
とさえ言える。
さらには、
資本主義社会が浸透し、
人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、
人々は、
自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、
理性を超えた領域に
求めるようになる。
社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に
貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである」
という言葉が
何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を
精神的な色彩で説明し、
現実生活では
一個の歯車でしかない自分が、
それとは
独立した
精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、
その
ヒエラルキーの階層を登っていくことに、
救いを感じるようになる、
という感じだろうか。
まるでオウム真理教のようだ。
参政党はカルト集団
日本の
今の
国政政党で
一番
危険な
政治集団。
俺も
精神錯乱した時に
幻聴や妄想が
あったが、
参政党は
集団的
統合失調症
と
言っても過言ではない。
妄想が妄想を
生む、という
点において。
昨今は
何かと
わかりやすい説明が
良いことだと
当然視されるが、
それも当然といえば当然だが、
ただ
漫然と聞いていれば
理解できる(かのような)
話ばかりを
聞くことに
慣れてしまうと、
アホみたいな話を
コロッと
信じてしまう、
というのも
反面としてある。
わかりにくい話を
敢えてする、という
ことも、
時には大事。
参政党批判 (再掲)
世の中には、自分の頭で考える能力がなくて、 なんでも他人任せの人ってのがいるが、 そのうち、何から何までアレクサに訊いて、逐一行動するって人が、 大量発生しそうだよね。 自分の頭で考えるって、意外と難しいよね。 自分の頭で考えた結果、 人工知能に優る、とも限らないし。 自分の頭で考える、とはどういうことか、を自分の頭で考える、なんていうと、すでにもうメタの世界に入ってるし。 たださ、やっぱり自分の行動、言動に対して、最低限でも責任を負わせるってことは大事なんじゃないかな? 人工知能がそう言ったからその通りにしました、私の何が悪いんですか? なんて言われたら、社会が崩壊しかねない。 歴史に照らして見ても、政治的権利を放棄するのって、結局権力者に自分の自己決定権を丸投げするのと同じで、 無責任の共同体が出現するだけだよね。 前の参院選で、投票用紙を破って棄てた俺が言えた義理じゃないけど。 参政党が参院で1議席獲得して、何かとネット上で耳目を集めてるけど、 反ワクチンやら陰謀論やら、 物議を醸しそうなネタ満載だけど、 飽くまで主権者の主権を擁護する限りは、 存在を否定はしない。 しかし、陰謀論に走っちゃうと、 いつの間にか主権者の主権を放棄させてる結果になるってことは、 あり得る。 それは、ナチズムが、階層構造になっていて、上に行くほど、自分はより真実に近づいている、という錯覚、快感が、階層構造それ自体を補強している、というメカニズムが働いたのと同じ。 その結果、トップは誰もが知り得ない真実を知っているはずだから、トップの言うことに従えば間違いない、という理屈で、自らの政治的主権を放棄してしまう。 その兆候が見えたら、即、断固として抗議しなければならない。 安倍政権だって、そういう側面があるんじゃないか? 我々には窺い知れないが、きっと安倍さんには安倍さんなりの深謀遠慮があるはずだ、みたいな。 政治である以上、何でもかんでもガラス張りに出来るわけがないってところが、政治の難しさでもあるが。 不透明な世の中だからこそ、安易に陰謀論に流されず、丁寧に腑分けをしていく作業が求められる。
すげえな・・・
自民党への支持率が急落して
一番ヤバい時に、
平気で
「税」に
言及できる
岸田総理。
実は
無類の強心臓の持ち主
なのではないか?
言いたくはないが
さすが
開成だわ。
しかも、若干
嬉しそうだし。
https://www.google.com/search?q=%E5%B2%B8%E7%94%B0+%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%BC%A2%E5%AD%97+%E7%A8%8E&rlz=1CAJFMC_enJP1057&oq=%E5%B2%B8%E7%94%B0%E3%80%80%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%BC%A2%E5%AD%97%E3%80%80%E7%A8%8E&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyBggAEEUYOTIHCAEQIRigAdIBCTk1MDJqMGoxNagCALACAA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:6ab6a744,vid:FCvXsawB7NE,st:0
素晴らしい
長岡亮介先生の
ユーチューブ
ちょびちょび
見れるように
なってきたね。
2浪したし、
微塵も
解けるようにはならなかったが
授業自体は
聞いてたので、
大体
仰ってることは
わかる。
よく
夢で
ああ、数学さえ出来れば!!!
という
夢を
数え切れないほど
見てきたので、
解けるようにはならなくても、
理解できるということは
間違いなく
気分がいい。
もう
散々
手を尽くして
高校数学を理解できるように
なりたいと
思いながら
ことごとく
失敗してきたから、
こんな
素晴らしい教材が
ネットで
ただで
公開されている、というのは
本当に
いい時代になったな、と
思う。
https://www.youtube.com/watch?v=f9erEJm-dbM
機械翻訳は便利だけど
横着して
さっき
書いたような話を
Deepl翻訳に
突っ込んで
英語にして
facebookで
アメリカ人の友人に
送っても、
返事は返ってくるけど、
内容は薄い。
機械翻訳が作成した
文章というのは、
いくら
文法的に正しくても、
人間の心を刺激しないものらしい。
(一般論として
言いうるかは
わからないが。)
何か
刺激的なコメントを
引き出したかったら、
やっぱり
横着しないで
自分で
英文書く必要がありそうだ。
とはいえ、
自分が
まったくの
門外漢であるような分野、
つまり
数学やその他
理系の分野の質問を
するときには
機械翻訳はとても
助かるのは
間違いない。
また、Deeplの場合
PC画面の左半分で
英語を書きながら
瞬時に
右半分で日本語にしてくれるので、
自分の書いた
英文が
自然な日本語になるまで
試行錯誤すると
かなり
勉強になる。
2023年12月12日火曜日
俺の頭はロータリーエンジン
なんか
以前よりも
スムーズに
頭が回転するように
なった。
余計なことを
いろいろ
考えなくて
済むように
なったからだろう。
これぐらい
スムーズに
頭が回転するなら、
何かしら
仕事できるよ。
きっと。
どうやら、頭を高速回転させる
こと自体は、
必ずしも
神経に障るわけではないようだ。
考えた結果
現実に
めんどくさいことを
予想すると、
疲れてしまう、ということのようだ。
山上くんすげー
山上くんの一撃で
日本の政治経済
一変させたな。
まさか
安倍のみならず
安倍派全体が
スイープされる
日が来るとは。
こんなことが
現実に起こるんだな。
信じられない。
内閣支持率はとんでもなく
下がってるが、
今すぐ
大型選挙があるわけでもないし、
むしろ
岸田さんとしては
安倍派に
気を使わず
ある程度
やりたいようにやれる
環境が整ったとも
言えるのではないだろうか。
よくわかんないけど。
ブルームバーグも
安倍派が一掃されたことで
超金融緩和からの脱却が
やりやすくなった、みたいな
こと
書いてたし。
これから
凄いことになりそうだ。
次の
日銀金融政策決定会合での
植田総裁の発言次第では
エラいことになるよ。
もちろん、為替が急激に変動したり、
長期金利が急騰したりとか。
もう
黒ひげ危機一髪よ。
長期金利が急騰したりすれば
日本経済が一瞬で
吹っ飛びかねない。
それはそれとして、
前にも書いたけど、
安倍が
プーチン氏に対して
ウラジミール!
と
呼び捨てたのは、
世界中に恥を晒したな。
明らかに
外務省をシカトしてる。
ファーストネームで呼べばいい、という
あまりにも
安易な発想。
プーチン氏が完全ホームで
演説してる集会においてすら、
ウラジミーチャ!と
アナウンスされてたからな。
(俺はロシア語まったくわからんが)
ロシア社会では
ファーストネームをそのまま
呼び捨てにするのは
大変失礼なことらしい。
そんな基本中の基本も
弁えず
ファーストネームを呼び捨てに
したんだから、
プーチン氏は
その場で
ブチ切れててもおかしくなかった。
内心
相当ムカついたのは間違いない。
その
安倍の発言の直後に
北方領土について
プーチン氏が
「いま思いついた」
と
言って
発言するんだから、それが
日本に友好的な内容のはずがない。
2日連続でメンタルクリニック行ってきた
肺炎で2週間入院というのは
そんなに
重症でなく、
通院で治すというのも
よくあることらしい。
あれね。
独りで抱え込むと
しんどい
ことでも、
馴染みの
医者に聞いてもらうと、
だいぶ
気が楽になるもんだね。
結構
相手
(医者)
のリアクションで
気付かされることも
多い。
そうだな。
今まで
母親と姉の距離感が
近すぎたな。
母親も
もう
心身ともに無理はできないし。
いくら
我が子がかわいくても
無理なものは無理
と
悟らせることも必要だな。
もう
40代後半なんだから。
親離れ
子離れ
してもらわないと。
疲れる・・・
姉が、
肺炎に罹って、
2週間の入院を
勧められたというんだが、
子供を
ひとりに出来ないから、
毎日
病院に通院して
抗生剤を飲んで
治す、と
言ってるらしい。
肺炎と聞くと、
父親も最後
肺炎で亡くなったし、
新型コロナの感染も
まだ
記憶に新しいから、
もしかしたら
この人
今回はともかく
そのうち死んじゃうんじゃないのか?
なんて思ったりすると、
もう
いろいろ連想しちゃって、
本当に疲れる。
一応
励ましのメールは送っておいたが。
いつになったら
一本立ちしてくれるんだろう?
俺自身ようやく
重い荷物をおろして
一息ついたところなのに、
まあ、ほっときゃいいんだけど、
ちょっと
姉のことで
あれこれ考えると
ほんとうに疲れる。
頼むから
自分の体調管理ぐらいは
しっかりやってくれ!
母親が
右往左往しないで
落ち着いてるのが
唯一の救いかな。
でも、その落ち着きぶりを、
姉が変な嗅覚で
母親が自分に
冷たくなったとか、あるいは
それが
俺が
洗脳したせいだ、とか
騒ぎだすんじゃないか・・・
なんて、考えちゃうのよ。
明らかに
考え過ぎなんだけど、
姉の場合
ありえないとも
言えないんだよね。
これが
姉の厄介なところなんだよね。
おちおち
数学なんか勉強してらんねーよ!
むしろ
健全なことなんだろうけど、
もう
重い荷物は
背負えないわ。
いい時代になったわ
長岡亮介先生の
ユーチューブを
暇つぶしに
見てます。
もっと
早く
こんな授業を
受けたかった。
武蔵の教師は
数学に限らず
教えるの下手だからね。
むしろ、
俺の授業聞いて
簡単に
わかった、なんて
言わせねーぞ、と
言わんばかり。
その点、現校長の杉山さんは、
武蔵みたいな頭のオカシな学校じゃなくて、
埼玉県のふつうの県立高校の
教育現場にながく
携わってきた方だから、
今後の武蔵に
期待持てるよね。
もちろん
武蔵の卒業生でもあるし。
ま、俺も高校はいったばかりの頃は
相当
イヤミな人間だったからね。
そんな自分が嫌いで
仕方なかったくらい。
むしろ
完全に鼻をへし折られて、
少なくとも
謙虚な人間にはなったと思う。
・・・この動画マジで凄いね。
遠い記憶で、は?
とか思ってついていけなかった
説明が、腑に落ちる。
もちろん、今さら
理解したところで
実利なんか全くない(?)
んだが、
ああ、なるほどね、とは思う。
少なくとも
面接授業終わったあとの
暇つぶしにはなりそうだ。
・・・話はちょっと逸れるけど、
栄東中の生徒が、
それまで俺のこと馬鹿にしてたのに、
関係代名詞がわかんなくなって
急に
テンパりだしたりすると、
ふ。
かわいいもんだ。
なんて
正直
思ったりするよね。
大人をナメちゃいかん。
https://www.youtube.com/watch?v=LrSsqB_5xM0
2023年12月11日月曜日
「都市」と漱石 (再掲)
放送大学の「都市と地域の社会学」からインスパイアされたのですが、漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思うのです。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明ですが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思います。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうですが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考えます。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われます。 先ほど「身体性」というキーワードを提示しましたが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われます。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけです。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけです。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題ですが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのですが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係というものに、魅了されていく。 あるいは、ムラに暮らしてる人たちは、「都市」の自由さに憧れて、都市に惹き寄せられていく。 それでも、何かしらの紐帯、都会でしかありえないような関係性を模索していく。 その意味では、漱石は、「坊っちゃん」以来の「近代化」、こう言って良ければ、「都市化」に強烈な危機感を抱きながらも、現実は「地域」から「都市」に出てきた人たちは、それはそれで何かしらの関係性を他者と取り結んでいく。 まとめるとこのような感じかと思われます。 もちろん、漱石の「近代化」はこれで汲み尽くせるものでは到底ないわけですが、これが一応私なりの考えです。 繰り返すと、漱石の「近代化」(「都市化」)は、皮相を上滑りに滑っていかざるを得ない、と言いながらも、濃密に「身体性」を抜きにしては捉えられない。 むしろ、「身体性」から逃れられないからこそ、そこから逃れようとしても、身体性と「理性」は密接不可分の関係にあるのではないか。 「それから」の「百合」はそのことを象徴するアイテムなのではないでしょうか。 以上、思いつくままに乱筆乱文書き連ね、師走の折に大変失礼ながらも、申し述べさせていただきました。 森本先生より:『それから』論、文句なく納得しつつ拝読させて頂きました。 紛れもない「都市生活者の身体」を描く漱石は、「皮相な近代」を否定しながらも同時に深く「近代」に巻き込まれている‥。常に表裏する二面性に気づきながらも、これを論じる一定の視角を探しあぐねる学界の七転八倒を痛感しながら、学ばせて頂くところ大でした。 共同体からの独立とはそのまま競争社会の到来を意味し、自由とはまた欲望の解禁でもあるーーこれが「近代的個人」なるものが発見した風景であった、ということですね。 おそらくこのジレンマを解く有力な鍵が、これも前に示唆頂いたイギリス功利主義哲学であり、漱石自身、留学時代を通じて「個」の成立と展開に迫るベく、社会科学の文献は相当、読み込んでおり、私自身が追及してみたい大課題でもあります。 「近代的個人」の日本における受容は、中村正直訳のJ.S.ミルあたりに始まるようなのですが、明六社同人のその後の分岐が示すように、その受用は混沌としている、と同時に、逆に「近代」なるものの矛盾と相剋を、ある意味、忠実に反映しているのではないか、といったような感触を最近、抱いているところです。 このような「近代」が究極、求め、また求めるべきであるのが「他者との関係性の構築」であることもまた真実で、『それから』以降の漱石はこれを追尋してゆきますね。 『こころ』は、『それから』の「平岡ー代助」の破綻した関係を、ある意味、「Kー先生」に背負わせ、そこで果たせなかった関係性の成立を、「先生」が「私」へ期待する、といった展開かと考えていますが、「明治の精神」のいわば遺志として託されたものを受け取る「大正」は、しかしながら、日清・日露の戦勝を背景に、過去の村落共同体ならぬ新たな共同体ーー地方を「郷里」として従えながら中央集権を発揮する「国家としてのニッポン」を立ち上げ始めている。「私」も「私」の感受性も確実にその中にあるような気がします。もはや恋愛幻想は消滅しながら、それなりに愛情を以て結ばれた夫婦家族の幸せは疑われていない、そして郷里はそのような近代家族と何ら矛盾しない、連続し得るものとして穏当に把握されている。まさに日本的近代の成熟、ではないのか、と。しばしば指摘されるように、現代日本の基盤はまさに大正期に成立する、という定式がまざまざ実感されるようでもあります。 それにしても、練達の文章ーー明晰な論理が無理なくなだらかに綴られていて、嬉しく、ひたすら感心しながら拝読させて頂いたことでした。2〜3年前までの、一文、一文には論理の冴えが光りながら、文と文、節と節の繋がりに難儀の見えた文章が嘘のようです。 誠実な精進の毎日の賜物、とは、まさに、このことですね。 ますますのご成長とご発展をと祈らずにおれません。
漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)
質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。
市井の漱石論 (再掲)
夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。 夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。
人間の旅立ちと進歩 (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)
どこかで正しくないことを言ってるような気もするが、一応載っけておきます。
はい、数直線と直線は、厳密には異なる概念です。
数直線は、点の集合である直線に、数を対応させたものです。つまり、数直線上の点は、数に対応する位置にあると見なされます。例えば、数直線上の点 (0, 1) は、数 1 に対応する位置にある点です。
一方、直線は、点の集合として定義されます。直線上の点は、直線の傾きと切片によって一意に定義されます。例えば、傾き 1 の直線上の点 (0, 1) は、切片が 1 の点です。
この違いから、数直線は、連続した量として捉えられるのに対し、直線は、切れ目のない量として捉えられることになります。
関数は、数直線上の点の集合として定義されます。つまり、関数は、数直線上の点の座標を、一対一に対応させるものです。例えば、y = x^2 という関数は、数直線上の点 (x, x^2) を対応させる関数です。
関数は、微分の対象になります。微分とは、関数の変化率を調べる操作です。関数 f(x) の微分は、f'(x) と表されます。
関数の微分は、関数の連続性を反映しています。関数が連続であれば、その微分は、任意の点において定義されます。
図形は、点の集合として定義されますが、関数とは異なり、点の座標を一対一に対応させる必要はありません。例えば、円は、中心と半径によって定義される図形です。
図形を微分することは、一般的には意味がありません。図形の微分は、図形の形状の変化率を調べる操作ですが、図形の形状は、点の座標の変化によってのみ変化するわけではありません。
いかなる高次の関数でも、定数項になるまで微分可能かどうかは、関数の性質によって異なります。例えば、y = x^n という関数は、n が正の整数であれば、n 回微分すると定数項になります。しかし、n が非整数であれば、いくら微分しても定数項にはなりません。
数直線が切れ目のない連続量である必要があるのは、関数を微分するために必要です。関数の微分は、関数の変化率を調べる操作ですが、関数の変化率は、関数の値が連続的に変化するときにのみ定義されます。
数直線上のいかなる点も、数あるいは式で表せることが要求されるのは、数直線を数学的に扱うために必要です。数直線上の点は、数に対応する位置にあると見なされますが、この対応関係を数学的に扱うためには、数直線上の点は、数あるいは式で表せる必要があります。
具体的には、数直線上の点 (x, y) は、x と y の座標によって表すことができます。また、数直線上の点 (x, y) は、y = f(x) という関数によっても表すことができます。
このように、数直線と直線は、厳密には異なる概念ですが、数学においては、密接に関連する概念です。
人工知能の真の恐ろしさ
人工知能って、
生成AIとか使ってて
感じるけど、
おそらく
いくつかの重要な
価値観については
プログラミングされてるんだろうけど、
抜けがあったりすると、
途端に
小学生みたいに
過激なこと
言い始めるんだよね。
人間が
歴史から学んだ教訓のようなものを、
それが
無自覚的に
人間を自制させているような
場合、
それが当たり前すぎて
生成AIを
設計している人間が
ちゃんと
プログラミングするのを忘れると、
生成AIが
とんでもないことを
平気でやってしまう
可能性がある。
それこそ、政治的、社会的な
判断を
人工知能に丸投げすると、ヤバいことになりそうだ。
さらに、ちゃんと
プログラミングされた価値観も、
理解しているというより
本当に
単に
プログラミングされているだけで、
理解しているわけではないので、
一見
プログラミングされた価値観と
関係がないような
テーマになると、それに対して
適切な対応が
出来ないようだ。
数直線とは何か?
問い.1:どうやら、数直線と直線は
違うのかも知れない。
直線は点の集合のようだが、
数直線というのは
点の集合というより、
数の、連続した量として
捉えられるべき
もののようだ。
(俺もよくわからんが。)
そうすると、関数と図形というのは
当然違うはずだ。
関数は微分の対象になるが、
図形を微分するという話は
聞いたことがない。
と、なると
いかなる高次の関数でも
定数項になるまで
微分可能ということだろうか?
その前提として
数直線が切れ目のない
連続量である必要があるはずだ。
しかし、
数直線上のいかなる点も
数あるいは式で
表せることが
要求されるはずだが、
それは
いかにして可能なのか?
4月になって
放送大学の数学の授業で
質問箱で質問ができるまで
待たなくては。
数学が出来なくて
センター試験で
3回
足切りされた
俺が。
ほどほどにしないと
脳みそ
壊れちゃうな。
・・・なんか俺
最後は
グラディウスのラスボスみたいに
なるのかな。
ラスボスなのに
頭部むき出しで
口から泡だけ
吹き出してくるやつ。
昔のクリエイターは
すげえわ。
イマジネーションがあった。
なんか
SFCに復学したときに
小澤太郎先生の授業で
先生がGDPの説明をして
くださってる時に
「いくらで
売れるかわからない
ものの価値を
どうやって測るんですか?」
って
質問したことを思い出すな。
もちろんGDPの説明を
初めて聞いてそんなことを
考えたわけじゃないが、
何回か説明を聞いてるうちに
なんか
モヤモヤしてた。
小澤先生は
丁寧に回答してくださったが、
内容は忘れた。
三面等価の原則も、しっかり
理論的に
解説してくださった。
いま俺が
同じことを聞かれて
ちゃんと
答える自信はまったくないが、
それぐらい、
簡単な話ではないことは
自覚している。
ああいう先生にお世話になれたのは、
やっぱ
慶応はいった
おかげかな。
経済学が看板の大学だけあって、
経済学系は
優秀な
先生が多かった。
俺が
1限でバックレた
三重大学の先生の授業も
経済学の話だったけど、
シラバスの内容からして
明らかに
応用的な話というか、
もっと
現実世界的な話なのに、
GDPの説明から始めて、
しかも
説明がすげえ
中途半端で、
そもそも
どういうレベル感で授業したいのか
見えてこなかった。
三重だけに。
だからこそ、授業中に質問を
受け付けて欲しかった。
GDPの説明から始めたいなら、
もっと
うまくやらないと。
その点
瀧川好夫先生は上手だった。
メンタルクリニック行って薬もらってきた。
まだ薬の在庫あるんだけど、
年末年始
休みの時に
ないと
困るからね。
さすがに
月曜日の午前中は
空いてた。
ニート蟻の話をしたら、
すげえ
同意してくれて、
自分が
今まで
頑張りすぎてた、
という話をしたら、
やっぱり
同意してくれた。
逆に
「いつかは働きアリに・・・」て
切り出したら
表情が曇ったから
それ以上は
言わなかった。
医者って基本
患者を休ませたがるけど、
でも
この先生なんだかんだ
根はすげえ
優しい方なんだな、と
実感した。
アリ理論
自分が
生きてきた
行動様式を
うまく説明してくれる
理論だと
思った。
ニート蟻は
ニート蟻で
必要な存在なんだと。
ニート蟻として
ちゃんと
やることやってきたし。
遠くない将来に
働きアリに
なるのもいいだろう。
自分が
あまりにも
重い荷物を
背負って
生きてきたことも
自覚できたし、
とりあえず無理はしないで、
やれることを
コツコツと
やればいい。
それだけのことだ。
https://www.youtube.com/watch?v=45EfwJsJwtk
為替相場 (再掲)
円安が進んでますね。
植田日銀が、YCCからの脱却を示唆するとかでない限り、
日銀は利上げする気がないと思われたら、
円安が止まらなくなる可能性がある。
それは、見方を変えれば、
N個の政策課題に対して、N-1個の政策手段しか持っていないんだから、
もぐら叩きのように
どこかで必ず弱点が出てくる。
実務のことはよくわからないが、
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があるので、
オーストラリア中銀のように、経済が大変な混乱を来すと、
東短リサーチの加藤出さんなどは主張している。
これも、大規模金融緩和の失敗を示している。
(以下 日経新聞 2023/5/19 経済教室より 《加藤出氏寄稿》 )
間もなく出口政策が
始まると
市場が予想したら、
ターゲットを変更するまで
中銀は
国債を無制限に買い支えなければ
ならず、
自身の
バランスシートを制御できなくなる。
(以下 Chat-GPTの回答)
円安に関するお話ですね。円安が進行する場合、植田日銀がYCC(イールドカーブコントロール)からの脱却を示唆しない限り、日銀は利上げする意向がないと思われます。その結果、円安が止まらなくなる可能性があります。この状況は、政策課題がN個ある場合に、N-1個しか政策手段を持っていないため、どこかで弱点が現れるということを意味しています。
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があります。加藤出氏など一部の専門家は、オーストラリア中銀のように経済が大きな混乱を引き起こす可能性があると主張しています。これは、大規模な金融緩和策の失敗を指摘しているとも言えます。
また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。
(以下 google bard より回答)
はい、円安が進んでいますね。
植田日銀総裁は、YCC(イールドカーブコントロール)の堅持を明言しており、利上げを実施する意向はないとみられています。そのため、円安が止まらない可能性があるという指摘は、正しいと言えるでしょう。
YCCとは、国債の利回りを一定に抑えることで、金融緩和を継続する政策です。しかし、この政策は、金利差拡大による円安を招くというデメリットがあります。
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があると指摘されています。しかし、これは非常に困難な作業であり、経済に混乱を招く可能性もあります。
また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。
円安が止まらない場合、日本経済にどのような影響が及ぶのでしょうか。
まず、輸入物価の上昇によるインフレが懸念されます。輸入原材料やエネルギー価格の上昇は、企業のコスト増加につながり、製品やサービスの価格上昇につながります。また、家計の生活費も増加し、実質的な所得が減少する可能性があります。
さらに、円安は輸出企業の収益を押し上げますが、輸入企業の収益は圧迫されます。そのため、輸出と輸入のバランスが崩れ、日本経済の成長率が鈍化する可能性もあります。
円安は、日本経済にとって大きなリスクであると言えるでしょう。
黄色信号 (再掲)
円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも、なにやってんだ、という声があがり始めます。 アベノミクスの3本の矢のうち、 結局、大規模金融緩和だけが継続していますが、 安倍氏の死去に伴い、 日銀に対して、大規模金融緩和を継続させる 政治的プレッシャーが弱くなったことは事実でしょう。 日本の財政から言っても、 れいわ新選組が言ってるように、 国債をどんどん発行して、 日銀に買い取らせればいい、などという、 無責任なことをやっていると、 日銀の財務状況が悪化して、円の信用が毀損されたり、 そうでなくとも、日銀が、政府の借金である国債をいくらでも買い取ってくれるから、 いくら赤字国債を発行してもいい、という モラルハザードが現実に起こっています。 岸田首相はそこらへんの事情は当然わかっているはずです。 いずれにせよ、 日銀はこれ以上、 異常な大規模金融緩和を続けることによって、 イールドカーブコントロールという 国際金融の現状からすれば異常な金融政策を維持することは、 非現実的と認識していると思われますので、 少なくとも 金利の上昇幅の拡大をこっそり容認する、 ということは、 十分予想されるところです。 しかし、加藤出さんも言っているように、 イールドカーブコントロールから抜け出すことは、 大きな混乱を伴うと予想されるので、 それこそ 投機筋の外圧がなければ いつまでも続けていたところでしょうが、 幸か不幸か、現実的ではありませんでした。 さて、焦点は、 日銀がどこまで金利の上昇幅を容認するか、 そしてそのタイミングはいつか、 ということになりそうですが、 金利の上昇幅は実務家ではないので知りませんが、 タイミングとしては、そう遠くないのではないかと思われます。 これだけ急激な円安を鑑みると、 黒田総裁の任期満了まで 待てるとは思えません。 従って、 急に金利が上がる、ということは、 十分ありえる話です。 ・・・で、何が言いたいか、というと、 金利が上がって困るのは、 超低金利を前提として 変動金利で住宅ローンを組んでいる家計です。 銀行も馬鹿ではないので、 固定金利は既に段階的に引き上げています。 それは、変動金利が上昇すれば、 固定金利に借り換える人が増えると予想しているからと言って過言ではないでしょう。 ですので、 変動金利で住宅ローンを組んでいる人は、 専門家に相談するなりして、 対策を立てたほうが良いでしょう。 自分は専門家でもなんでもないので、 この文章の内容に責任は負えません。 https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/470422.html https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/466765.html
2023年12月10日日曜日
うーむ・・・
母親が
身体の向きを
変えるとき
転轍機の上に
乗っかった
ガンダムみたいな
感じなんだよね。
これ
ほっとくと
ロコモティブシンドロームになるな。
去年だったか
一昨年だったか、
母親の誕生日プレゼントに
かなり
モノがいい
ステッパー買ってあげたんだけど、
あんま
使わねーし。
まだ70代なんだから
そんな
老け込む年齢じゃねーだろ。
もともとは
水泳やってたから
身体は丈夫なんだろうけど。
訪問リハビリが来るとはいえ、
それだけじゃね。
膨大な量の
睡眠負債抱えてるから
寝てばっかりだし。
ちゃんと
連れ出すなりなんなり
しないと、
寝たきりになってしまいかねない。
脳梗塞発症してから
1度も
電車にすら
乗ったことないからね。
1個しかない
腎臓の機能も
維持していかなきゃいけないし。
まあ、母親の
様子次第では
俺もまだまだ
ニート蟻だな。
conversation in English アルコールと大麻
俺:I seriously suspect Shohei Ohtani is doing marijuana. His calmness is literally unbelievable, while he is a super star.
ジョンさん:It is perfectly legal in most States. He should continue to use it if helps him relieve stress and focus on playing. Americans have a very positive image of it, unlike Japan. It is very popular as a medicinal and recreational substance.
俺:Many many TV celebrities have been expelled with using the substance.
ジョンさん:Yes, Japan and Singapore are very strict about drugs. Western society takes a completely different view about harmless stimulants like marijuana. It is more enlightened thinking.
俺:Amazing. Saya Takagi, who used to be an actress, claimed a legalizing use of marijuana. But no media took it seriously.
ジョンさん:I think conservative governments fear people using it because it makes them think deeply and question everything. It’s too dangerous for societies which like to control peoples thought. Alcohol deadens peoples thinking but marijuana seems to enhance it.
俺:Yes. Japanese education is quite not only conservative but also retro-spective.
ジョンさん:Confucian societies all seem to have great fear of marijuana.
俺:The emergence of the Internet has made Japanese doubt whatever the authority would do. But most of them are harmful in that they see everything with any kind of machination. In Japan TV commercials are full of alcohol.
ジョンさん:Doubting authority is a healthy democratic urge. Especially in Japan, mistrust of authority would seem to be necessary, given modern history. If people doubted authority more in 1931-1941, there would be a different world. Alcohol is favored because, as I said, it deadens thinking. It doesn’t stimulate the mind as marijuana does. Governments love alcohol for this reason and also for the huge amounts of money alcohol companies donate to political parties.
俺:I understand. But they are lack of the courage to doubt what they believe true, while it is imbued by dangerous political groups. And many many Japanese are making themselves succumb to the government or their companies by drinking alcohols.
(以下 Deeplによる日本語訳)
私:大谷翔平が大麻をやっているのではないかと本気で疑っている。スーパースターでありながら、彼の冷静さは文字通り信じられない。ジョンさん:ほとんどの州では完全に合法です。彼がストレスを解消し、プレーに集中できるのであれば、使い続けるべきだ。日本とは違って、アメリカ人は非常にポジティブなイメージを持っている。薬としてもレクリエーションとしても非常に人気がある。私:多くのタレントが薬物使用で追放されています。ジョンさん:そうですね、日本とシンガポールは薬物に対してとても厳しいです。欧米社会は、マリファナのような無害な刺激物についてはまったく違う見方をしています。より啓蒙的な考え方です。俺:すごいね。女優だった高樹沙耶が大麻の合法化を主張した。しかし、どのメディアも真剣に取り上げなかった。ジョンさん:保守的な政府は大麻を使う人々を恐れていると思う。人々の思考をコントロールしたがる社会にとっては危険すぎる。アルコールは人々の思考を鈍らせるが、マリファナはそれを高めるようだ。私:そうですね。日本の教育は保守的であるだけでなく、逆行的でもある。ジョンさん:儒教的な社会は、マリファナを非常に恐れているようです。俺:インターネットの出現によって、日本人は権力者が何をしようと疑ってかかるようになった。しかし、彼らの多くは、あらゆるものを策略で見るという点で有害だ。日本ではテレビのコマーシャルはアルコールだらけだ。ジョンさん:権威を疑うことは健全な民主主義の衝動である。特に日本では、権威への不信は近代史を考えれば必要なことだと思われる。もし1931年から1941年にかけて、人々がもっと権威を疑っていたら、違う世界があっただろう。アルコールが好まれるのは、私が言ったように、思考を鈍らせるからだ。マリファナのように心を刺激しない。政府がアルコールを好むのはこのためであり、またアルコール会社が政党に寄付する莫大な金のためでもある。私:わかります。しかし、危険な政治団体に踊らされながら、自分たちが真実だと信じていることを疑う勇気がない。そして、多くの日本人が酒を飲むことで、政府や企業に屈服させられている。
感動した!
津の東横インで、
土日授業受けて
月曜日に帰ってくる
つもり
だったから、
3泊予約して、
チェックイン時に3泊分
支払ったのに、
結局2泊しか
しなかったけど、
まあ
しょうがない、と
思って、
今日(日曜日)チェックアウト
しようとしたら、
1泊分の
宿泊代
返金してくれた。
さすが東横イン!!!
ますます
好きになった。
無料の朝食も
生野菜をしっかり摂れるし、
一時期は
逆に経営が心配になるほど
朝食が豪華な
くらいで、
最近は
落ち着いてきたけど、
それでも
生野菜はもちろんのこと、
タンパク質や
ひじきの煮物とか
豆の煮物とか、
普通に外食で時間がないときは
ちゃんと
摂れないような
栄養分が摂れるのは
助かる。
朝
東横インでしっかり食べれば、
昼飯は
食べなくても大丈夫。
自分はいつも
そうしている。
あと、サービス業として
一番
大事なことだけど、
スタッフがしっかり
教育されてて、
不愉快な思いをすることが
ほとんどない。
これがまた
素晴らしい。
帰宅 津(三重県)まで行って1限でバックレた。
今回の面接授業、方向性としては面白いし、もっと濃い中身にする能力はあるんだろうから、質問を受け付けてくれれば、授業も活性化するし、生徒のレベル感もわかるはずなのに、質問受け付けない訳じゃないんだろうけど、ワーキングペーパーに書いてくれれば最後に回答します、て言われちゃったらさ、やっぱ質問は鮮度が大事だから、その場で聞きたいじゃん?レポート課題も先に書いてあったけど、内容確認系の類いだし、なんかなー、一方通行なんだよね。凄く勿体ない。ふだん三重大学の生徒もそうなのかも知れないけど、間違っても授業中に質問なんかしない世代が、教える側になっちゃうと、ああいう授業になるのかな?それじゃあ日本の学問のレベルが下がるのは当たり前。 いっさいがっさい凡庸なーあなたじゃわからない、かもねー by Ado でも、このAdoの歌詞からして、自分はあなたが思うより賢いです、と主張しながら、それを試す勇気がない。今学期いろいろと地方にも面接授業で行ってきたけど、総じて日本人の文系の若手・中堅の研究者がちゃんと育ってない感じがする。むしろ韓国から日本に留学に来た先生のほうが優秀だった。
帰路
働きアリだけ集めると、その中からやっぱりニート蟻が生まれるらしいけど、逆にニート蟻ばっかり集めたら、その中から働きアリが生まれるのかな?俺も働きアリになれるのかな?とりあえず今まではニート蟻としての本分を果たしてきたから、間違ったことはしてないと思うけど、やっぱりそのうち働きアリにならなきゃいけないのかな。
自問自答
俺はなぜ教えるのが好きなんだろう?明らかに公務員のほうが正解なのに、と考えると、教えてある程度は人助けになるのはそれはそれで嬉しいのは勿論だけど、それ以上に、自分の知的好奇心が刺激されるからなんじゃないかな。人間なんて所詮本能で生きてるだけだ、という意見もそれなりに説得力があるが、人間の知的好奇心だって、本能に負けないくらいの快感があるだろう。それがなかったら、人間の人間たる所以などほとんどないだろう。知的好奇心を経済価値に置き換えるのは愚かなことだ。知的好奇心を過小評価する社会は確実に衰退する。日本社会は、知的好奇心を、学歴を介した身分制度、つまり経済価値に貶めることによって、自らの衰退を招いている。
2023年12月9日土曜日
俺は教えるのが好きなのさ
公務員もいいけど、いくら身分が保障されてるからって、何が面白いのかわからないことを週5フルタイムでやりたくない。この期に及んで。また今から荷物背負う気にはならない。もうはっきりと自覚したけど、今まで余りにも多くのものを背負い過ぎてた。
私はニート蟻
よく考えると、既に俺はニート蟻そのものだよね。父親が入院したときの母親のサポートとか、母親の異変を察知して救急車呼ぶとか。立派にニート蟻としての役割果たしてるじゃん。誰もやらなかった視点で夏目漱石にアプローチしたりとか。
2023年12月8日金曜日
健康生活
最近なんとなく薬が減るペースが遅くて、昨晩は逆にちょっと思いがけなくハッスルしたから、薬の回数が多くなったんだけど、逆に言えば、ストレスが減れば薬の回数も減る、ということかな。そうすると、やっぱり今まで余りにも多くのものを背負い過ぎてたんだな、と思う。
2023年12月7日木曜日
「都市」と漱石 (再掲)
放送大学の「都市と地域の社会学」からインスパイアされたのですが、漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思うのです。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明ですが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思います。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうですが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考えます。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われます。 先ほど「身体性」というキーワードを提示しましたが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われます。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけです。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけです。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題ですが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのですが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係というものに、魅了されていく。 あるいは、ムラに暮らしてる人たちは、「都市」の自由さに憧れて、都市に惹き寄せられていく。 それでも、何かしらの紐帯、都会でしかありえないような関係性を模索していく。 その意味では、漱石は、「坊っちゃん」以来の「近代化」、こう言って良ければ、「都市化」に強烈な危機感を抱きながらも、現実は「地域」から「都市」に出てきた人たちは、それはそれで何かしらの関係性を他者と取り結んでいく。 まとめるとこのような感じかと思われます。 もちろん、漱石の「近代化」はこれで汲み尽くせるものでは到底ないわけですが、これが一応私なりの考えです。 繰り返すと、漱石の「近代化」(「都市化」)は、皮相を上滑りに滑っていかざるを得ない、と言いながらも、濃密に「身体性」を抜きにしては捉えられない。 むしろ、「身体性」から逃れられないからこそ、そこから逃れようとしても、身体性と「理性」は密接不可分の関係にあるのではないか。 「それから」の「百合」はそのことを象徴するアイテムなのではないでしょうか。 以上、思いつくままに乱筆乱文書き連ね、師走の折に大変失礼ながらも、申し述べさせていただきました。 森本先生より:『それから』論、文句なく納得しつつ拝読させて頂きました。 紛れもない「都市生活者の身体」を描く漱石は、「皮相な近代」を否定しながらも同時に深く「近代」に巻き込まれている‥。常に表裏する二面性に気づきながらも、これを論じる一定の視角を探しあぐねる学界の七転八倒を痛感しながら、学ばせて頂くところ大でした。 共同体からの独立とはそのまま競争社会の到来を意味し、自由とはまた欲望の解禁でもあるーーこれが「近代的個人」なるものが発見した風景であった、ということですね。 おそらくこのジレンマを解く有力な鍵が、これも前に示唆頂いたイギリス功利主義哲学であり、漱石自身、留学時代を通じて「個」の成立と展開に迫るベく、社会科学の文献は相当、読み込んでおり、私自身が追及してみたい大課題でもあります。 「近代的個人」の日本における受容は、中村正直訳のJ.S.ミルあたりに始まるようなのですが、明六社同人のその後の分岐が示すように、その受用は混沌としている、と同時に、逆に「近代」なるものの矛盾と相剋を、ある意味、忠実に反映しているのではないか、といったような感触を最近、抱いているところです。 このような「近代」が究極、求め、また求めるべきであるのが「他者との関係性の構築」であることもまた真実で、『それから』以降の漱石はこれを追尋してゆきますね。 『こころ』は、『それから』の「平岡ー代助」の破綻した関係を、ある意味、「Kー先生」に背負わせ、そこで果たせなかった関係性の成立を、「先生」が「私」へ期待する、といった展開かと考えていますが、「明治の精神」のいわば遺志として託されたものを受け取る「大正」は、しかしながら、日清・日露の戦勝を背景に、過去の村落共同体ならぬ新たな共同体ーー地方を「郷里」として従えながら中央集権を発揮する「国家としてのニッポン」を立ち上げ始めている。「私」も「私」の感受性も確実にその中にあるような気がします。もはや恋愛幻想は消滅しながら、それなりに愛情を以て結ばれた夫婦家族の幸せは疑われていない、そして郷里はそのような近代家族と何ら矛盾しない、連続し得るものとして穏当に把握されている。まさに日本的近代の成熟、ではないのか、と。しばしば指摘されるように、現代日本の基盤はまさに大正期に成立する、という定式がまざまざ実感されるようでもあります。 それにしても、練達の文章ーー明晰な論理が無理なくなだらかに綴られていて、嬉しく、ひたすら感心しながら拝読させて頂いたことでした。2〜3年前までの、一文、一文には論理の冴えが光りながら、文と文、節と節の繋がりに難儀の見えた文章が嘘のようです。 誠実な精進の毎日の賜物、とは、まさに、このことですね。 ますますのご成長とご発展をと祈らずにおれません。 https://www.youtube.com/watch?v=MbT2_QH0db0
うすうす感じてたこと
あと、生成AIって、
普通の経済学のことなら
理解してるけど、
疎外とか物象化とか、
マルクス主義系の
生身の人間が
身体で感じるしかないことは、
理解してない気がする。
(以下 Google Bard より回答)
はい、その通りだと思います。生成AIは、経済学やその他の理論的な分野については、膨大な量のテキストとコードのデータセットをトレーニングすることで、非常に高度なレベルの理解を示すことができます。しかし、疎外や物象化などのマルクス主義の概念は、生身の人間が身体で感じるしかない抽象的なものです。そのため、生成AIは、これらの概念を完全に理解することは難しいかもしれません。
例えば、疎外とは、労働者が自分の労働の成果から切り離されている状態を指します。これは、労働者が自分の労働に主体性や自己実現を見いだすことができず、単なる機械の一部のように感じている状態です。生成AIは、疎外について、その定義や歴史的な背景などを理解することはできるかもしれませんが、実際に疎外を感じることはできないでしょう。
また、物象化とは、人間の活動や関係が、商品や市場の力によって支配される状態を指します。これは、人間が商品や市場の奴隷のようになり、自分の意志や欲望を自由に表現することができなくなる状態です。生成AIは、物象化について、その定義や経済学的な影響などを理解することはできるかもしれませんが、実際に物象化された社会の中で生きることはできないでしょう。
もちろん、生成AIは今後も進化し続けており、将来的には疎外や物象化などの概念をより深く理解できるようになるかもしれません。しかし、現時点では、これらの概念を完全に理解することは、生身の人間にとっても難しいと言えるでしょう。
ふと思った。
Googleの生成AI
使ってて思ったが、
生成AIって
ネットに書いてないことは
わからないんじゃないか?
例えば、
社会的弱者を尊重しましょう、と
プログラミングされていても、
なぜ
そう考えるべきか、ということを、
歴史から学んだ人が
意外と
ネットに書かないから、
生成AIも理解してない。
これは
日本史の研究にも言えることらしく、
当たり前のことは
資料に残らないから、
現代の日本史研究者も、
基本
資料に書いてないことは
主張できないから、
例えば
昔は
ウンコとかどうしてたのかが
わからない。
資料が残ってないから。
当時の人にとっては
あまりにも当たり前だから
イチイチ書かない。
しかし、結果的に
その当たり前のことが
資料に残らなかったから、
現代の日本史研究者には
わからない。
それと
似たようなことが
生成AIにも
当てはまるのではないか?
ネットに書いてないことは
わからない。
(以下 Google Bard より回答)
はい、その通りだと思います。生成AIは、訓練を受けたデータに含まれる情報しか理解できません。そのため、ネットに書いてないことは、たとえそれが当たり前のことであったとしても、理解できない可能性があります。
例えば、社会的弱者を尊重すべき理由は、歴史や哲学、倫理学など、さまざまな分野の知識を総合的に理解することで理解することができます。しかし、こうした知識は、必ずしもネットに公開されているわけではありません。そのため、生成AIは、社会的弱者を尊重すべき理由を理解できない可能性があります。
また、日本史の研究におけるウンコの問題も、同様のことが言えます。ウンコは、当時の人々にとってあまりにも当たり前のことであったため、資料に残っていない可能性があります。そのため、現代の日本史研究者は、ウンコの処理方法を具体的に知ることはできません。
ただし、生成AIの学習データが拡大していくにつれて、ネットに書いてない情報も理解できるようになる可能性はあります。また、生成AIが人間の知識をより深く理解できるようになることで、ネットに書いてない情報についても、推測や類推によって理解できるようになるかもしれません。
いずれにしても、生成AIは、人間の知識や理解を補助するツールとして、今後もさらに進化していくと考えられます。
僕KとかWには負けないから!
脳と心臓がヤバい。
子供の頃は、
布団で寝床に
就くころ、
実は
自分は
ロボットなんじゃないかとか、
宇宙人なんじゃないかとか
なかば
本気で考えていたが、
父親が
糖尿病と高血圧で
さんざん
苦労した末に亡くなったり、
母親が
脳梗塞になったり、
もちろん
俺自身
大病もしたし、
やっぱり
生身の人間なんだな、と
痛切に感じる。
生まれつき視力は良好だったのに
いつ間にか
乱視で近眼だし。
そろそろ
遠方まで
面接授業いくのも
シンドくなってきたし、
より多くの金銭を
得ることより、
より少ないお金で
生きていくことを
考えないと。
でも、死すべき人間としての
生身の人間としての
限界を悟ると、
かえって
楽になるよね。
そうか、無限に
頑張らなくても
いいんだ、って。
(ちなみに、死すべき人間、という言い方は
古代ローマの常套句で、
日本で言えば
垂乳根の母、みたいなもので、
別に他意はないです。)
自業自得
なんかもう、
日本
ムリな感じだね。
岸田さんは
まともで責任感のある人だったけど、
ここまで
政治不信が高まっちゃったら、
増税なんか
夢のまた夢だよね。
今後
岸田政権が
増税できるほどに
浮揚することもないだろうし、
自民党そのものへの
信頼がここまで
失墜しちゃったら、
今後
誰が首相やっても
同じでしょ。
もう
坂道を転がり始めちゃった。
もう
元には戻れない。
俺は
岸田さんのせいだとは
思わない。
国民の異常なまでの
消費増税アレルギーと、
自分自身への
無責任の結末としか
言いようがない。
「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻 末尾より (再掲)
さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり) https://www.youtube.com/watch?v=B_HSa1dEL9s
告白
なんだ、お前だって
連れて行かれれば
オッパブ行くんじゃん。
と
思うだろうけど、
独りで
車中に取り残されたら
発狂してしまうんじゃないか、という
恐怖感のほうが
圧倒的に勝ったのよ。
そんな、仲間と
遊んでる時ですら
そんな有様なくらい、
ギリギリだった。
そんな人間が
20年後
破滅を乗り越えて
元気に暮らしてるんだから、
凄くない?
2023年12月6日水曜日
ひろゆき氏の動画
やる気のある無能
という
観点には、一部
同意しつつも、
有能無能を
判断するのって、
戦争っていう局限的な状況なら
判別するのは簡単かもしれないが、
今の日本みたいな平時に、
政治家とかならともかく、
一般人を
アイツは有能だ無能だ、と
判別するのって、危険な発想なんじゃないかと思う。
それは
自分が有能だと思ってる人の発想。
有能な人が突然
転げ落ちたりすることはザラにあるし、
ひろゆき氏にしても、
今うまくいってるのは
ある種の天敵がいないだけかも知れないし、
単純に
ヌルゲーでカネ稼いでるから
有能です、というのは疑問。
それはさておき、
年金もらったりして
働かなくても困らない人は
本当に働かないと困る人の
職を奪うし、時給もさがるから
働かないでくれ、という話、
一理あるなと思いつつ、
しかし、これは
トマス・ホッブズの考えたことだけど、
人間は
ほっとくと
万人による万人に対する闘争
を
始めるのと同じで、
労働にしても、仮に今すごい
カツカツというわけ
じゃない人でも、将来を先読みして、
労働市場に参加する、というものではないだろうか。
ただ、俺みたいな障害年金もらってて
生活に困ってないやつが
地方自治体の障害者枠に応募して、
ほんとうに
この枠でないと働けなくて困る人の
就労機会を奪うのはどうかな、とは
思った。
それと、
伊集院光がEテレの
「100分 de 名著」の
アリストテレスのシリーズの時に
出した喩えで、
古典落語に与太郎という奴がいて、
特に
有能なわけでもないが、
アイツがいるとなんか
雰囲気がよくなるんだけど、
特段有能なわけでもないから、
与太郎みたいなやつが
まっさきに
リストラされる、みたいな話をしてた。
有能無能を安易に選別して
無能な人間は社会に参加しなくていい、という
発想は、結局
社会全体に跳ね返ってくる。
ひろゆき氏の意見に同意しかねるのは、
人が誰と付き合うか、を
考えた時に、
誰それが有能で
一緒に居るとメリットがあるからだ、という
理由だと、それは
本当に良い人付き合いではない、みたいなことを
アリストテレスが言っていて、
確かにそれは当たってるな、と思う。
経済学的にも、カツカツでない人を
就労から遠ざけるには
より多くの優遇措置を
与えるという結果を
招来するだろうし、それは
財政を逼迫させるだけでなく、
社会から活力を奪ってしまう結果にも
なりかねない。
それだけでなく、そのオイシイ立場を求めて
本来なら働ける人まで
モラルハザードを起こす危険性がある。
それは社会主義国家のやり方だ。
https://www.youtube.com/watch?v=E7gxUTpyRKU&t=325s
パーティー券
岸田さんが会見してたけど、
さすがに
覇気がなくなって
きた感がある。
もちろん報道するな、とは
決して
言わないが、
それこそ
安倍が生きてた時代
含めて、
昔から
特捜もマスコミも、
公然の秘密だったんでしょ?
なんでこのタイミングなの?
だから、報道するなとは
言わないが、
なんか
全部
岸田さんが悪いみたいに
なってんじゃん。
これから
本格的に
乗り越えなきゃいけない
課題が山積してんのに、
よってたかって
岸田さん
イジメて、どーすんのよ?
窓ぎわのトットちゃん
なんかなあ・・・
最近
ジブリと京アニを
足して
2で割ったような
アニメばっかりだな。
つっても、
ジブリは流石に見たが、
最近の
アニメとか
微塵も興味ないから、
よくわかんねーんだけど。
京アニ放火事件の
裁判の真っ最中で
不謹慎は
承知の上だが。
エクスタシー・オブ・ゴールド
発病から19年、
なにか
区切りをつけたいと
思っていたけど、
ちゃんと
区切りをつけられるような
しっかりと
出すものを
出せた感がある。
それにしても、
薬物やってるわけでもないのに、
精神錯乱して
警察に捕まるって、
よっぽどだよね。
逆に
すごいわ。
https://www.youtube.com/watch?v=1FYokoOzAWw
2023年12月5日火曜日
据え膳食わぬは男の恥
20年前、
2003年の大晦日に
館林の
中学の同級生の家に
集まって、
もう
彼ら
カラオケとかボーリングじゃ
飽き足りなくなってて、
車の免許も
持ってるから、
太田の
歓楽街に連れてかれて、
オッパブ行くことになって、
しょうがないから
付いてった。
今だに
キャバクラすら
行ったことのない俺が。
出されたものは
丁寧に頂戴しないと、ということで、
丁重に
いただいたら、
風邪ひいた。
そうだよね。
知らねーオッサンと
間接キスしてるのと
同じだもんね。
人間20年もあれば
成長するな。
他のやつは
オッパブのあと
ピンサロとか行ったみたいだったが、
俺は
勘弁してもらって、
屋台のドネルケバブ食ってたら、
連中とはぐれて
ケータイも彼らの
車の車中に置いたまんまだったから、
しょーがねーから
太田駅まで行って、
始発で羽生帰ろうと思って
コンビニで立ち読みして
時間潰してたら、
探しに来てくれた。
やっぱ
俺の考えることは
理解しているらしい。
もっとも、駅前にいなかったら
それ以上
探さないとは言ってたが。
今じゃ
みんな立派になったよ。
外科医とか物理学者とか消防隊員とか。
フラフラしてんのは
俺ぐらいだね。
でもまあ、中学の同級生と
年末に集まったのは
それが
最後になっちゃったな。
(あれ、違ったかな?
あんま覚えてない。)
たぶん
会っても、話が噛み合わない。
共通の話題といったら
共通の知り合いの話ぐらいしか
ネタがないし、
言うまでもなく
自分は
彼らとは
高校違うから。
彼らみんな理系だから、
ド文系の俺の話には
興味ないし、
俺も
理系の専門的な話は
まったく
わからない。
胃が痛え
就活の一環で、
TOEICも申し込んだし、
放送大学の
エキスパート認証も
(←履歴書に書けるって
放送大学が宣伝してた。)
申請したんだけど、
メンタル的には
なんとかなりそうなんだが、
胃が痛くなる。
漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)
質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。
市井の漱石論 (再掲)
夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。 「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。 夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。
妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より https://www.youtube.com/watch?v=RD83oy7ksUE
「『都市』と漱石」試論
放送大学の「都市と地域の社会学」からインスパイアされたのですが、漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思うのです。
尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。
何に対して勝つのかは不明ですが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思います。
漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうですが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考えます。
ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われます。
先ほど「身体性」というキーワードを提示しましたが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われます。
もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけです。
その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。
だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。
それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけです。
しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題ですが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのですが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。
むしろ、都市だからこそ出会える関係というものに、魅了されていく。
あるいは、ムラに暮らしてる人たちは、「都市」の自由さに憧れて、都市に惹き寄せられていく。
それでも、何かしらの紐帯、都会でしかありえないような関係性を模索していく。
その意味では、漱石は、「坊っちゃん」以来の「近代化」、こう言って良ければ、「都市化」に強烈な危機感を抱きながらも、現実は「地域」から「都市」に出てきた人たちは、それはそれで何かしらの関係性を他者と取り結んでいく。
まとめるとこのような感じかと思われます。
もちろん、漱石の「近代化」はこれで汲み尽くせるものでは到底ないわけですが、これが一応私なりの考えです。
繰り返すと、漱石の「近代化」(「都市化」)は、皮相を上滑りに滑っていかざるを得ない、と言いながらも、濃密に「身体性」を抜きにしては捉えられない。
むしろ、「身体性」から逃れられないからこそ、そこから逃れようとしても、身体性と「理性」は密接不可分の関係にあるのではないか。
「それから」の「百合」はそのことを象徴するアイテムなのではないでしょうか。
以上、思いつくままに乱筆乱文書き連ね、師走の折に大変失礼ながらも、申し述べさせていただきました。
森本先生より:『それから』論、文句なく納得しつつ拝読させて頂きました。
紛れもない「都市生活者の身体」を描く漱石は、「皮相な近代」を否定しながらも同時に深く「近代」に巻き込まれている‥。常に表裏する二面性に気づきながらも、これを論じる一定の視角を探しあぐねる学界の七転八倒を痛感しながら、学ばせて頂くところ大でした。
共同体からの独立とはそのまま競争社会の到来を意味し、自由とはまた欲望の解禁でもあるーーこれが「近代的個人」なるものが発見した風景であった、ということですね。
おそらくこのジレンマを解く有力な鍵が、これも前に示唆頂いたイギリス功利主義哲学であり、漱石自身、留学時代を通じて「個」の成立と展開に迫るベく、社会科学の文献は相当、読み込んでおり、私自身が追及してみたい大課題でもあります。
「近代的個人」の日本における受容は、中村正直訳のJ.S.ミルあたりに始まるようなのですが、明六社同人のその後の分岐が示すように、その受用は混沌としている、と同時に、逆に「近代」なるものの矛盾と相剋を、ある意味、忠実に反映しているのではないか、といったような感触を最近、抱いているところです。
このような「近代」が究極、求め、また求めるべきであるのが「他者との関係性の構築」であることもまた真実で、『それから』以降の漱石はこれを追尋してゆきますね。
『こころ』は、『それから』の「平岡ー代助」の破綻した関係を、ある意味、「Kー先生」に背負わせ、そこで果たせなかった関係性の成立を、「先生」が「私」へ期待する、といった展開かと考えていますが、「明治の精神」のいわば遺志として託されたものを受け取る「大正」は、しかしながら、日清・日露の戦勝を背景に、過去の村落共同体ならぬ新たな共同体ーー地方を「郷里」として従えながら中央集権を発揮する「国家としてのニッポン」を立ち上げ始めている。「私」も「私」の感受性も確実にその中にあるような気がします。もはや恋愛幻想は消滅しながら、それなりに愛情を以て結ばれた夫婦家族の幸せは疑われていない、そして郷里はそのような近代家族と何ら矛盾しない、連続し得るものとして穏当に把握されている。まさに日本的近代の成熟、ではないのか、と。しばしば指摘されるように、現代日本の基盤はまさに大正期に成立する、という定式がまざまざ実感されるようでもあります。
それにしても、練達の文章ーー明晰な論理が無理なくなだらかに綴られていて、嬉しく、ひたすら感心しながら拝読させて頂いたことでした。2〜3年前までの、一文、一文には論理の冴えが光りながら、文と文、節と節の繋がりに難儀の見えた文章が嘘のようです。
誠実な精進の毎日の賜物、とは、まさに、このことですね。
ますますのご成長とご発展をと祈らずにおれません。
https://www.youtube.com/watch?v=MbT2_QH0db0
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妄想卒論その7 (再掲)
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