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12月, 2023の投稿を表示しています

キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

主よ、憐れみたまえ

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坂口安吾 三十歳 

勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。  https://www.youtube.com/watch?v=ED322cpspko

おばあちゃんだけどね。

元旦は さすがに ヘルパーさん 来ないけど、 2日からは 2日連続で 相性の良い ヘルパーさんが 来てくれる。 テンションあがるぜ♪ 味気のない 大晦日になっちまったが、 フライング気味の 新年明けまして おめでとうございます!

目は口ほどにモノをいう。

今日 午後のヘルパーさん 外してもらった。 大晦日に テンションさげたくない。 マスクしてても、 目で 感情が伝わってくる。 と、いうか 感じ取ってしまう。 「苦労知らずの お坊っちゃまクンの あなたに 現実教えてあげる」 的な ノリを ちょいちょい かまされると、 正直 疲れる。

やっぱり誤解されるんだよなー。慣れてるけど。

大学受験で2浪した 時点で、 そうとう テンパってたし、 ぶっちゃけ 離人感も 半端じゃなかったし、 それを 乗り越えて 大学入ったら、 さらに ストレスで錯乱して 病院送りにされて、 見舞いに来てくれた 中学の同級生はもう 大学院生。 こちらは卒業どころか また 外の世界に出られるかも わからない。 気合で 復学しても、相変わらず 卒業の目処も立たない。 しかも、 就職した友達からは、 会う度に 働け働け メタル責めされて、 さらには 3日に いっぺん は 真夜中に電話かかってきて、 働けと 説教される。 もう これ以上 単位取れないから、と 慶応辞めさせてくれと 言っても 父親にシカトされる。 結局 除籍ギリギリまで行って ようやく 慶応辞めたと思ったら、 中大通教はじめて、 これも まったく単位が取れない。 さすがにもう 大学卒業はいいから、と 言ってんのに、 親は 飽くまで 大卒に拘る。 それで 大喧嘩しても、それでも 折れないから、 ヤケクソで 放送大学入って、ようやく 大学を卒業出来た。 端から見りゃあ、苦労知らずの お坊ちゃんに 見えるのは仕方ない。 確かにね、今の状況だけ 見りゃあ、そう見えるよ。 だけど、 父親の闘病生活を支えたり、 姉との関係、 母親との関係、 人知れず苦労はしてるんですよ。 人間そんな簡単に 精神障害者にはなりません。 それをね、 「金持ちの苦労知らずのお坊ちゃまくん」て 目で 露骨に見られるとね、 正直疲れる。

大晦日

頭痛。 今年1年の 疲れが ドッと 出た。 特に 後半の 面接授業ラッシュ。 あちこち 行ったからな。 後半は 初っ端から 岡山に10連泊とか 無理なことやってたし。 そのくせ バックレた授業も 多かった。 それでも 今年1年 トータルとして見れば 充実した 1年でした。 来年は いよいよ 発病してから まる20年。 今年でキッチリ 気持ちに 区切りをつける ことが 出来ました。 みなさま 今年も ありがとうございました!

一安心

母親から 間接的に 聞いただけだが、 姉も 肺炎が治って、 旦那さんと息子で 羽生に行って 様子を見てきてくれたらしい。 またぞろ、 ピーピー 母親に泣きつくのかと 思っていたから、 ようやく 精神的に 小林家から 離れて 一本立ちしてくれたかな。 俺の (色んな意味で) 思い過ごしかも知れないが。 いずれにせよ、 姉をまともな人間に (たぶん) してくれた 義兄と甥っ子に感謝。

メモ

最近 マクドナルドが 異常な勢いで テレビコマーシャル やりまくってるから、 なんかあったのか? とは 思ってたが、 値上げで 客離れが 起きてるらしい。 マクドナルドなんて 滅多に行かないから わからなかったが、 合点がいった。 たまーに食べると、 あれ、マックって こんなに 不味かったっけ? とは 思ってた。 どうせ たまにしか 行かないんだから、 少し 高くても 美味いハンバーガー食べたい。

都市伝説ー武蔵の校則

1.学校で下駄を履くな。 2.学校にバイクで来るな。 3.構内に出前を頼むな。 4.構内で麻雀するな。 俺もよく知らない。 もちろん、ベランダで タバコを吸ってもいけない。 ある社会科の教師は、 吸ってもいいが 見つからないところで 吸え、 めんどくせーから、と 言っていた。 あと、卒業生が ジャンボジェット機ハイジャックした 時は、 ジャンボジェット機ハイジャックするな、 とも 言っていた。 タケシくんは、メタリカにハマりすぎて、 高校生なのに 葉巻を吸っていた。

妄想卒論その3 (再掲)

詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)

知ったかぶり

政治権力としての 天皇制の持続可能性が 問題というより、 「報われぬ死者たちのまなざし」と それに対する 負債観念が 喪失されていることが 問題なのではないか。 なぜなら、戦後日本の 重力の中心は、 天皇よりも むしろ 「報われぬ死者たち」 だったのだから。 彼らの「視線」が 消え去り、それとともに 彼らへの 負債観念が消失するとき、 日本という国土は 重力の中心を失っていく。 それは 日本が民主主義国家かどうか、というより、 日本が 強度にツリー状の 近代社会だということである。 つまり、 重力の中心としての 「顔」が 強固として存在し、それを 頂点として ガチガチに組織化された 社会だということだろう。 言い換えれば、 日本社会は 強度にツリー状の社会であるために、 重力の中心としての 「顔」を 失ってしまうと、 組織全体が 崩壊の危機に瀕する。 そこで、 重力の中心としての 「顔」による 支配体制を より 強くしようという発想になると、 極右のように 天皇制がどうのこうの という 話になる。 しかし、日本の歴史の大部分において、 天皇制は 少なくとも政治的には 脇役でしかなかった。 それは 鎌倉時代から明治維新まで そうだった。 キリスト教社会では キリストの「顔」が ジョージ・オーウェルの 「1984」のように 社会の構成員を監視する 役割を担った、という議論が あるようだ。 近代国家がツリー状という点からの 対比として、 遊牧国家がリゾーム状だという コントラストが想定される。 日本は 専制的シニフィアン体制社会である、 つまり、 社会の隅々の末端組織まで、 シニフィアンによって 「意味づけ」が された 社会であるが、 その頂点にいた 「天皇」という存在は、 キリスト教社会における キリストの「顔」であるというより、 「報われない死者たち」を 祀る祭祀であった、という 「国土論」の 議論を踏まえれば、 実は 戦後日本社会において 我々を 『監視』していたのは、 彼らだったのであり、 それは 彼ら (「報われない死者たち」) こそが、 重力の中心だったのである。 したがって...

丸山眞男 「日本の思想」 (再掲)

丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)

国土論ー報われぬ死者たちのまなざし (再掲)

「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねばならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って (再掲)

一つの簡単な答えは、ヘーゲル的な意味での統治は不可能だということです。その代替案は複数ありえますし、フーコーはその一つでしょう(ただし、「知と権力」の共犯関係がいかなる統治を具体化するのかは、わたしには理解しがたい難しさがあるように思えます)。  最もわかりやすい代替案が新自由主義の統治だといえます。もしもこれを拒絶するとすれば、問題は、何らかの形でのヘーゲル的な統治への回帰か、神無き時代の連帯の可能性の追求となります。現代のリベラルな政治理論はだいたい後者のさまざまなバリエーションですが、密かに神が導入されている可能性があるのものが多いので、フーコーのような議論が流行るのだと思われます。  鴎外については、わたしにはコメントする能力はありません。ただ、そのような苦悩があるとすれば、それは鴎外がいかにヨーロッパ(ドイツ)文明に拘束されていたのかを示すことになるでしょう。ただし、そのような苦悩をまったく抱かない(ないしは、そのような苦悩の可能性に思い至らない)日本人よりは、はるかにましな精神性をもっていると思いますが。  明治日本は、ある意味では、神無しでヘーゲル的な全体性を国家は維持できるのか、という問いをいち早く突きつけられていたともいえます。この問いへの回答の一つは、現在でも、「新たな神の創造」ですが、そのような回答が、必然的に政治的に悲惨なものになることは、我々が歴史から学んだことだといえます。キリスト教文化圏では、たとえ神が死んだ時代でも、この危険性がよく知られていますが、はたして日本ではどうでしょうか。考えてみてください。  https://note.com/thewigtown/n/n23493a00e5b5

「都市」と漱石 (再掲)

放送大学の「都市と地域の社会学」からインスパイアされたのですが、漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思うのです。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明ですが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思います。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうですが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考えます。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われます。 先ほど「身体性」というキーワードを提示しましたが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われます。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけです。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけです。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題ですが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのですが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係...

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済...

最強のライフハック本

まだ 全部 読んだわけじゃないが、 もうちょっと お腹いっぱい。 精神錯乱して 病院に入れられたりすると、 ただでさえ テンパってんのに、 病院で 毎日ボーっとする 薬を 飲まされるので、 退院して 外の世界に放り出されると、 一つ一つの刺激、 普通の感覚の人だったら 何も 感じないような刺激まで 刺さるように 降ってくるように 感じられる。 例えば、新幹線に乗ってても、 景色が ビュンビュン通り過ぎてくのが 怖かったり、 車に乗るときも同じ。 そうなっちゃうと、 普通の人の ’フツウ’が 分からなくなって、完全に 自信が無くなってしまう。 当たり前のことが 全然 できないから。 でも、普通の人が 普通にやってることでも、 どうしてそういう 風に 感じたり、行動するのか、を 考えると、 実は かなり深い。 そういう 普通の人の ’フツウ’を ひたすら ひたすら 深いレベルまで掘り下げて、 解明してくれているので、 何らかの理由で 世間の ’フツウ’が わからなくなったり、 あるいは 純粋に疑問を持っている 人には オススメ。 少なくとも自分には 役に立つ内容だった。

<千のプラトー>入門講義 仲正昌樹 作品社 (再掲)

最初読むと めちゃくちゃ 面食らうが、 ニートだからこそ出来る 時間の使い方で、 慣れてくると、 ああ、やっぱり ナカマサ先生だな、と 安心する。 まだちょっとしか 読んでないが。 肝心の中身も、 「アンチ・オイディプス」で 言い足りなかったことを ちゃんと言いたい、らしい、 ということが 伝わってくる。 (と書いてあった。) これ読んでなにかの役に立つかは まったく わからないが、 もしかしたら 役に立つかも知れない。 これがどう 資本主義批判に繋がってくのかってのが 見ものだな。 春休みにじっくり読もう。 とりあえず100ページくらい読んだ。 (2023/12/21時点) 最初は何を言ってるのか さっぱりわからないが、 根気よく ちょこちょこ 読んでいると、だんだん 筋道が見えてきて、 実は そんなに 突拍子もないことを 言っているわけではない、ということが 見えてくる。 春休みぜんぶ使っても 読み終わらないんじゃないかと 思っていたが、 読み進めると かなり意外なことに 割りと すんなり読める。 でも 中身は充実している。 正直、もう 哲学はいいだろ、と 思っていたが、 まあ、買ってみるか、 と 思って 買って読んでみたら、 いい買い物だった。 ・・・132ページまで読んだ。 (2023/12/25時点) 超絶面白い!!!!!!!!! やっべーな! フランス人が本気出すと とんでもないことになるな。 まさに 現代思想の精華と言って 間違いない。 ああ、今日は1日 頑張って、ずいぶん 捗った。 182ページまで読んだ。 (2023/12/26の午前00:25時点) 1度スイッチが入っちゃうと、 キリのいいところまで やらないと やめられない。 ・・・今日 (2023/12/26) も 頑張った。 第7プラトーの終わり (215ページ) まで 読んだ。 (18:38現在) たぶん半分くらい読んだが、 ここまで 読んだだけでも、相当 人生に応用が利く。 実は 最強のライフハックなんじゃないか、と 本気で 思う。 世の中の色んなことを、 心理学的視点から かなり 理論的に捉えられる...

また寿命が縮んだ

悪夢。 1週間に2回は 最低でも 見てるな。 脳か心臓やられて 死ぬわ。 夢の中で お姉さまが オラオラしてた。 すーごかった。 ほんと、これ どうしてくれんだよ? 殴り殺してやりたい。 母親までもが (夢の中で) お姉さまに 「出てって!」って 言ってた。 父親もブチキレてた。

お?

母親に頼まれて、 駅前の デパートに 付き添って 行って来たんだが、 これは 母親が 脳梗塞を発症して以来 初めてのことで、 ああ、良かったね、 ぐらいに思っていたのだが、 母親が デパートのレストラン街を 眺めながら、 ここは 友達との集まりに使える、などと 言っていて、その時は 何も 考えなかったが、 今まで 病気を理由に そういう集まりを 避けてきたことを 考えると、 数人で集まって 食事会をしよう、という 気力が湧いてきた、と 思えば、 結構 画期的なというか、 いよいよ 気力が回復してきた 証拠かな、と 思った。 まだまだ 寝てばっかりだが。

conversation in English

俺:I went to Ibaraki University this weekend. The class on the history of Middle Eurasia. As you know, this term I have been to several domestic areas, using Shinkansen. Whenever I take the Shinkansen, I witness so-called ‘in-bounds’. No exceptions. Japan's economy almost completely depends on the money they spend in Japan, and the exports of the cars. It is high time Japan should grow out of make-believe in Sakoku, and brace for the fact that she should recognize how grave impacts the graying society problem will give to herself. ジョンさん:The solution to graying is one Japan cannot take. It would destroy the fabric of traditional society and rob Japan of its uniqueness. ie: mass immigration. You wouldn’t want to live in such a country. It would be worse than the USA and it’s open borders under Biden. 俺:It's understandable what you say. And Japanese people have been ignoring this problem for a long time. Natural increases in birth rate policy are too difficult to be taken. PM Kishi...

くだらない尊王攘夷ごっこは終わりだ。

新幹線乗っても、 普通に 中国人いるよね。 中国人はともかく、 東南アジアの方々とか も 普通に いらっしゃる。 彼らは いわゆる インバウンドだけど、 彼らが 落とすお金と 自動車輸出のお金だけで 食ってる国になっちまったな、日本は。 移民排斥とか おっしゃってる方々は、 少子高齢化って言葉の意味 考えたことありますか? 自分の老後どうなるか、とか 考えたことありますか? どうせ 最後は 政府と日銀がどうにかしてくれると 思ってるんでしょ? そのくせ 政府は信用しないんでしょ? サイアクだね。 もう なんとか理論とか ナントカノミクスって時代 じゃなくて、 シンプルに人口動態の時代なんだよ。 もう こっちが移民を選ぶ時代じゃないの。 こっちが移民に選んで来ていただく時代に なっちゃったのよ。 わかる? ロクに 労働生産性をあげる努力もせずに、 自分より スキルの低い移民集めて それさえ 拒否ってるようじゃ、 この国 終わりなの。 少子高齢化って言葉の意味 わかりますか? もう シンプルに 人口動態の問題なの。 山本一太群馬県知事が 外国人に 地方参政権を 認めるかのような 発言しただけで 大騒ぎしてるようじゃ、 この国は終わりだ。

中身が濃すぎて疲れた。

「続・シルクロード史への招待」@ 茨城大学、 2日目の1限まででリタイア。 帰宅したら、旅番組で ドロンズ石本が 釧路空港に降り立ってて、懐かしかった。 チャリサーで行ったなー。 野付半島、和商市場、摩周湖・・・ そうか あれから 20年も経ったのか。 割りと悪くない時間の使い方してるな。 あのまま病院から出られなくて そのまんま、だったら 悲惨だった。 それはともかく、 授業の内容は 猛烈に濃かったので、 中国史と中央アジア史の歴史には 詳しくなった。 そろそろ もう 面接授業はお腹いっぱいになってきた。 行き慣れてる 茨城大学ですら これだけ疲れてるようじゃ。 まさか 40過ぎて まだ 大学生やって 世界史勉強してるとは 夢にも思わなかった。 https://www.google.com/search?q=%E6%80%9D%E7%A7%8B%E6%9C%9F&rlz=1CAJFMC_enJP1057&oq=%E6%80%9D%E7%A7%8B&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqBwgBEAAYgAQyBggAEEUYOTIHCAEQABiABDIHCAIQABiABDIHCAMQABiABDIHCAQQABiABDIHCAUQABiABDIHCAYQABiABDIHCAcQABiABDIHCAgQABiABDIHCAkQABiABNIBCTg5OTZqMWoxNagCALACAA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:f01b6587,vid:miDqdeYqxW8,st:0

寺田心くんが心配

朝牛乳を 200から300ml 飲ませていただいて、とか 身長も 40cm伸ばさせていただいて、とか、 そんなにミスを 恐れないでいいのに。 まだ中3なんだから、 もっと 傍若無人にオラオラ生きてもいいのに、と 心配になってしまう。 今からその調子だと、 あとで 辛くなる。 中3なんだから、まだまだ いくらでも 取り返しが効くんだから、 もっともっと 失敗しまくっていいのに。

洛陽社

俺が高校生の頃、 池袋はもちろんのこと、 どんなとこであれ、 本屋と見れば 必ず 立ち寄っていた。 どんな 寂れた街の 小さな 本屋でも。 今は アマゾンがあるから そんなことはしなくなったが。 やっぱ本屋行って 書棚をくまなく探すっていう 経験があると、 本に対する嗅覚みたいなものが 身につく気がする。 ああ、世の中には こんな 本があるのか、と。 で、なんで 俺が 本屋めぐりをしていたか、というと、 都会の進学校に通ってるから 学校で何か 特別なことを教えてもらって、 それで 難関大学に合格してるんだ、と 思われたら 癪だから。 なるべく 学校の授業関係なく、 本屋で売ってる参考書だったら 日本全国 同じ土俵に立ってるだろ? と 考えていた。 もちろん 本だってタダじゃないから そこからして 資力の違いは出てきてしまうんだが。 で、俺が 本屋めぐりをして たどり着いたのが、 洛陽社の参考書だった。 これを使ったおかげで 慶応受かったと言っても 過言ではない。 もちろん、英語は 大野和基先生に マンツーマンで教わっていたのだが、 最後 英語力で突き抜けられたのは、 洛陽社の参考書のおかげ。 おそらく 洛陽社自体がもう 存在していないようだが、 アマゾンで手に入るから、 英語の参考書を一式揃えた。 文章も古臭いし、こんな表現 いまどき使わねーよ、ていう のも 多々あるんだけど、 やっぱり 他の市販の参考書とは 明らかに 天と地ほどの一線を画している。 多田幸蔵 東大名誉教授が 手掛けた シリーズは、いま読み返しても、 英文が活きている。 それこそ ビチビチ飛び跳ねている。 英語を勉強するなら、こういう 英文を読まなきゃいけない。 他の市販の英語の参考書は、 文章が 死んでいる。 それどころか、桐原書店のような メジャーな 出版社ですら、 平気で文法的に間違っていたりする。 以前、 東京農大二高の生徒の家庭教師を やったことがあるが、 学校で使っている教材までもが、 文法的に間違っていた。 しかも、よりによって 下線が引かれていて ここを訳しなさい、という課題が出ているのに、 文法的に間...

円キャリートレードとは何か? (再掲)

質問:円キャリートレードというのがよくわからないのですが、日米金利差で円安ドル高が進行するなか、ドルを持っている人が、円を買って、より安くて金利の高い海外通貨で稼ぐ、という意味なら、わからなくもないですが、それだったら最初からドルで円より安くて金利の高い通貨を買えばいいと思われますし、円キャリートレードとは一体なんなのかよくわからないのですが。 旧民主党政権の時にもそういうことがありましたね。 回答:インターネット上にたくさん情報はありますが、どれも文章説明だけで、図を使った解説がないようなので分かりにくいのかもしれません。 この取引のスタートは現在「①低金利の円を借りる」です。 それを「②ドルに替え」て「③高金利のドル資産で運用する」。 そして将来「④稼いだドルを円に戻し」て、「⑤借りていた円を返済する」で完了です。 この取引が活発に起きるのは、まず①(⑤)と③を左右する日米金利差です。 現在米国で運用した方が有利で、今後も金利差は広がると「予想」されます。 もうひとつは②と④で、現在円安なので円をドルに替えることは損に思えます。 しかし将来もっと円安になると「予想」すれば、④で円に戻したとき、多くの円に替えることができます。

日銀金融政策決定会合

植田総裁が 俺が 思っていたより かなりハト派だったので、 市場は 荒れなかったが、 市場の受け止め方 次第では、 ヘッジファンド勢が 国債売り 仕掛けてくるんじゃないかと 懸念されるところだ。 (以下 google bard より回答) はい、その通りだと思います。植田総裁の金融政策に関する発言は、市場の予想よりもはるかにハト派的でした。これは、市場の混乱を避けるための意図的な措置であると考えられます。しかし、市場の受け止め方次第では、ヘッジファンド勢が国債売りを仕掛けてくる可能性はあります。 ヘッジファンド勢は、金利上昇による損失を回避するために、国債を売却する可能性があります。また、植田総裁のハト派的な発言を、日本銀行の金融緩和政策の継続を意味するものと捉えて、国債売りを仕掛けてくる可能性もあります。 もしヘッジファンド勢が国債売りを仕掛けてくると、国債価格が下落し、金利が上昇する可能性があります。これは、日本経済にマイナスの影響を与える可能性があります。 そのため、今後の市場の動向には注意が必要です。植田総裁の発言を巡る市場の受け止め方や、ヘッジファンド勢の動向を注視し、適切な対応を検討することが重要です。 具体的には、以下の点に注意が必要です。 植田総裁の発言に対する市場の反応を注視する ヘッジファンド勢の動きに関する情報を収集する 国債の保有量や金利リスクに対する耐性を検討する これらの点に注意することで、市場の変化に備えることができます。  俺:市場は荒れなかった、と言っても、1日で対ドルで2円も円安になってんだから、これかなりのインパクトでしょ。植田総裁がタカ派の発言してたら、すごいことになってたよ。 (以下 google bard より回答) はい、その通りだと思います。植田総裁の発言は、市場の混乱を避けるための意図的な措置であったとしても、市場の受け止め方次第では、ヘッジファンド勢が国債売りを仕掛けてくる可能性は十分にあると思います。 また、1日で対ドルで2円も円安になったことは、かなりのインパクトだと思います。これは、植田総裁の発言を、日本銀行の金融緩和政策の継続を意味するものと捉えた投資家による、円売りドル買いが背景にあると考えられます。 もし植田総裁がタカ派的な発言をしていたら、市場はさらに...

都合のいい俗論 補訂 (再掲)

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。 (以下 google bard より回答) はい、その通りです。国債発行イコール通貨発行というのは、金融政策の基本を理解していない俗説です。 国債を誰かが買ってくれることで、そのお金が市中に流れることになります。しかし、国債...

地獄への道は善意で敷き詰められている

父親が 生きてた頃、 姉が 頼まれて コンビニで 小林家 一ヶ月分の生活費 おろしたのに、 3歳? 4歳? の 息子がどこに行きたがるか わからないから、 帰るのが何時間後になるか わからない、とかいう ふざけたこと言ってるから、 早く帰ってこい、と メール打ったら、 今度からお前がやれ、なんて また くだらねーケンカ売ってくるから、 屁理屈はいらねーから さっさと 帰ってこい! って メール返したら、ようやく 帰ってきた。 こんなやつが 東京に一戸建て建てて 住宅ローン 背負ってんだから、世の中 狂ってるぜ。 正味の話。 日銀がマイナス金利解除して、 結果的に 住宅ローンの変動金利が上がり始めたら、 住宅ローン難民が 大量発生しかねない。 これ、洒落にならない。 アメリカのサブプライムローン・ショックにしても、 ちゃんとした 収入がある人は、固定金利で 住宅ローン組んでるけど、 低所得者層が 変動金利で住宅ローン組んでて、 信用危機が起こって サブ(下)プライム(優)ローン(債務)、つまり 信用度の低い人たちが借りてる債務(ローン)が 焦げ付いたって話だからね。 リーマン・ショックというのは、そういう 信用度の低い(人たちに貸してる)(金融機関の)債権が 他のいろんな(金融機関の)債権とカクテルされて 債権商品として 金融工学で格付けされて 世界中にバラまかれたけど、 結局 あとから見れば 誰も リスク管理できてませんでしたって話。 日本では、超低金利下で 金融機関も住宅ローンぐらいしか 稼げる商品ないから、どんどん 貸しまくってたし、政府も 変動金利で借りるのを 奨励するかのように、 あれこれ優遇措置を講じてたからね。 その結果、資力のある人まで ちょっと無理して 変動金利で住宅ローン組んでる。 金利が上がり始めたら、下手すると ホームレスが大量発生するかも。 これも 超低金利を長く続けた弊害のひとつ。 債権債務関係がややこしいかも知れないが、 貸す側と借りる側、というだけの話です。 民法の債権債務関係と被る面もありますが、 同じではありません。 民法上の債権債務関係は 金銭に限らないので。 三橋貴明が言っ...

なんとなく感じたこと

確かに、俺のメンタルも、 テンパってる時は バラバラになってしまいかねない んだが、 そこで ある種の <強度> を 働かせる、あるいは 働く ことで、 一種の「個」 としての 一体性を保っている、とも 言えるかも知れない。

<千のプラトー>入門講義 仲正昌樹 作品社

最初読むと めちゃくちゃ 面食らうが、 ニートだからこそ出来る 時間の使い方で、 慣れてくると、 ああ、やっぱり ナカマサ先生だな、と 安心する。 まだちょっとしか 読んでないが。 肝心の中身も、 「アンチ・オイディプス」で 言い足りなかったことを ちゃんと言いたい、らしい、 ということが 伝わってくる。 (と書いてあった。) これ読んでなにかの役に立つかは まったく わからないが、 もしかしたら 役に立つかも知れない。 これがどう 資本主義批判に繋がってくのかってのが 見ものだな。 春休みにじっくり読もう。 とりあえず100ページくらい読んだ。 (2023/12/21時点) 最初は何を言ってるのか さっぱりわからないが、 根気よく ちょこちょこ 読んでいると、だんだん 筋道が見えてきて、 実は そんなに 突拍子もないことを 言っているわけではない、ということが 見えてくる。 春休みぜんぶ使っても 読み終わらないんじゃないかと 思っていたが、 読み進めると かなり意外なことに 割りと すんなり読める。 でも 中身は充実している。 正直、もう 哲学はいいだろ、と 思っていたが、 まあ、買ってみるか、 と 思って 買って読んでみたら、 いい買い物だった。 ・・・132ページまで読んだ。 (2023/12/25時点) 超絶面白い!!!!!!!!! やっべーな! フランス人が本気出すと とんでもないことになるな。 まさに 現代思想の精華と言って 間違いない。 ああ、今日は1日 頑張って、ずいぶん 捗った。 182ページまで読んだ。 (2023/12/26の午前00:25時点) 1度スイッチが入っちゃうと、 キリのいいところまで やらないと やめられない。 ・・・今日 (2023/12/26) も 頑張った。 第7プラトーの終わり (215ページ) まで 読んだ。 (18:38現在) たぶん半分くらい読んだが、 ここまで 読んだだけでも、相当 人生に応用が利く。 実は 最強のライフハックなんじゃないか、と 本気で 思う。 世の中の色んなことを、 心理学的視点から かなり 理論的に捉えられる...

とりあえず

年金おりたから、 今期 母親に 出してもらってた 軍資金 を 半分返した。 今年は メモリアルイヤーってことで 返さなかったとしても 文句は 言われなかっただろうが、 それじゃ かえって俺の 気分が悪い。

ぶったまげた

姉が入院中なんだが、 息子が便秘で 4日 ウンコが出ないから、 一時帰宅したらしい。 退院ではなく。 相変わらず ぶっ飛んでんなー。 あれだけ ワタシは 世界広い 世界広い って 俺にマウントかましてたのに、 こんな時に 頼りになる 友達ひとり いないのか? と、ふつうに思うわ。 こんなことやってると ほんとに 死んじまうんじゃないか?

世界の中の日本外交

大学受験で 世界史を 戦後世界まで 勉強出来なかったので、 戦後世界について ほとんど何も知らない 状態だったのだが、 ここ数年 いろいろと 知識が蓄積してきて、 ふと、 放送大学の 「世界の中の日本外交」を 視聴してみたら、 超面白い!!!!!! 以前は 面白さが全く わからなかったんだが、 めっちゃ 面白い。 まだまだ 勉強するぜ♪ 第2回 視聴。 「ドイツ近現代史2@東京文京」 で 現代史を叩き込まれた おかげで、 ドイツから見た 戦後世界の知識が あったので 理解できた。 この授業を全部 通して 視聴したら、 「戦後」について ある程度 「わかった」 と 言えるレベルになるんじゃないか。 それを 思うと ワクワクするぜ。 第3回 視聴。 アメリカ。 高橋和夫先生が解説すると、 自分が今まで 全く考えたこともなかった 側面が 見えてくる。 さすが 放送大学の看板教授。 第4回 視聴。 日米関係。 えー授業やった。 毎回 得るところ大なり。 第5回 視聴。 中国。 この授業が放映され始めたのが 21年度からだから、 その段階でもう 学問的研究は これだけ先に行ってたんだなー、と 慧眼に驚かされる。 第6回 視聴。 アジア。 この授業 総合科目に分類されてるけど、 ほんとに 色んな背景知識ないと ちゃんと 理解できない。 普段から新聞読むくらいは 最低限 やっておかないと。 第7回 視聴。 ヨーロッパ。 俺 ヨーロッパのこと なんにも わかってなかったわ。 高橋和夫先生、 中東情勢がご専門で、 その方面に 明るい方なのは 存じ上げていたが、 ヨーロッパもアジアも これだけ 語れるのは 本当に 凄い。 俺はツイてる。 ちょうど中東情勢が グチャグチャの時に 高橋和夫先生の 「中東の政治」の 単位取ったし、 ちょうど日本の政治が グチャグチャの時に 岡山大学で 日本の政党政治の歴史を 学んだし、 アベノミクス真っ最中に 瀧川好夫先生の 金融経済論を 3回も 受講できた。 言うまでもなく、 自分の研究テーマも 森本先生に 指導していただいたし...

戦後日本の政党政治@岡山大学

わざわざ 岡山まで行って 政治の話を 聞いたおかげで、 今の 現実の政治が どういう いきさつ で こうなってるのか 大体わかった。 そうすると、 今まで どうでもいいと 思ってた、 新聞の政治の記事が、 俄然 面白く感じられるように なってきた。 単に 政治家は汚いとか そういうレベルだけの 話じゃなくて、 そうなった メカニズムを理解したうえで、 記事を読むと、 また 今まで 見えてなかったものが 見えてくる。

顰蹙買うだけだが

姉が 肺炎で入院した。 子供も ひとりに出来ないから 当初は 通院しながら治す つもり だったが、 結果的に入院ということに なったらしい。 詳しいことは知らない。 最初 入院と聞いたときは、 ちょっとショックだったのが 俺自身 意外だったくらいだが、 時間が経つにつれ、 ちょっとザマアという 気持ちも湧いてきたり、 少なくとも よく眠れるようになった。 姉からすりゃあ、 望んだ相手と結婚して 東京に一戸建て建てて 子供も出来て、 ぜんぶ 姉がいうところの 「自己決定」とやらで なんら小林家の犠牲にならずに やっと 自分の思い通りの人生を 歩み始めた ってところなんだろうが、 俺が 去年の初め頃から しつこく 住宅ローンを固定金利に 借り換えろと 言ったり、 それが心因になったかは 知らないが、 何やら 住宅ローンの変動金利が 上がるんじゃないか、なんて 話が 仄聞されるようになり、 あるいは 子育てが意外と大変だったとか、 もう 自分には想像するしか手段がないのだが、 とにかく 人生そんなに甘くないって ことが 40代後半になって ようやく 分かっただろ?! と 俺自身は思っているのだ。 人生はネバーランドじゃねえんだよ!

内閣支持率ってなんだ?

時事通信かなんかの 世論調査で 岸田内閣の 支持率が 2割切ったって 話なんだが、 そもそも 内閣の閣僚 入れ替えたばっかりで、 まだ 何もしてないのに、 支持するもなにもなくね? 内閣っていうより 岸田さんをどう思いますか? 程度の話なんじゃないの? (しかもかなり漠然と) それ 聞く意味あんのかな?

数学的問い その8

問い.29 :確率分布を密な関数として扱えるのはなぜですか? (以下 google bard より回答) 確率分布を密な関数として扱えるのは、確率分布が連続量の確率を表現する方法だからです。連続量の確率は、ある領域に含まれる確率として定義されます。この領域の面積を、確率密度関数で重み付けすることで、その領域に含まれる確率を計算することができます。 例えば、正規分布の確率密度関数は、以下の式で表されます。 p(x) = \frac{1}{\sqrt{2\pi}\sigma} e^{-\frac{(x - \mu)^2}{2\sigma^2}} この関数は、x軸上で正規分布の確率を表しています。x軸上の任意の点xについて、p(x)の値は、その点xが正規分布の領域に含まれる確率を表しています。 このように、確率密度関数は、連続量の確率を表現する便利な方法です。そのため、確率分布を密な関数として扱うことができます。 具体的には、確率分布を密な関数として扱うことで、以下のことができます。 確率分布の期待値、分散、共分散などの統計量を計算する 確率分布の累積分布関数を計算する 確率分布の下で、ある事象が起こる確率を計算する これらの計算は、確率密度関数を使うことで、効率的かつ正確に行うことができます。 なお、確率分布を密な関数として扱うことは、あくまでも近似です。実際の確率分布は、離散量と連続量の混合であり、完全な密な関数で表現することはできません。しかし、この近似は、多くの場合で十分な精度を保つことができます。   問い.30 :いかなる数直線上の変数に対しても、対応する密な確率密度関数が存在すると言えるのはなぜですか? (以下 google bard より回答) いかなる数直線上の変数に対しても、対応する密な確率密度関数が存在すると言えるのは、次の理由からです。 任意の数直線上の変数は、無限に細かく分割することができます。 確率密度関数は、ある領域に含まれる確率を表現する方法です。 したがって、任意の数直線上の変数に対して、その領域に含まれる確率を表現する密な確率密度関数を定義することができます。 具体的には、以下のようにして密な確率密度関数を定義することができます。 数直線上を無限に細かく分割し、各区間に確率を割り当てます。 各区間の確率を、そ...

数学的問い その7

問い.28 :数直線が密であることは、任意のN次の無限関数の微分可能性にとってどのような条件でしょうか? (以下 google bard より回答) 数直線が密であることは、任意のN次の無限関数の微分可能性にとって 必要条件 です。 N次の無限関数が x 点で微分可能であるためには、その点での導関数が存在する必要があります。導関数は、x の周りの極限として定義されます。 数直線が密でない場合は、x の周りに任意の距離をとって、その距離内に x と異なる値を持つ点が存在します。この場合、導関数の極限は存在しないことになります。 したがって、数直線が密であれば、任意のN次の無限関数の微分可能性の条件を満たすことになります。 ただし、数直線が密であることは 十分条件 ではありません。つまり、数直線が密である場合でも、必ずしも任意のN次の無限関数が微分可能であるとは限りません。 例えば、次の関数は、x が 0 以外の任意の値の点で微分可能ではありません。 f(x) = \begin{cases} x^2 & (x \neq 0) \\ 0 & (x = 0) \end{cases} この関数は、x が 0 以外の任意の値の点で、導関数が存在します。しかし、x が 0 の点では、導関数は存在しません。 この場合、数直線が密であるにもかかわらず、任意のN次の無限関数の微分可能性の条件を満たしていないことになります。

数学的問い その6

問い.21 :数直線が無限集合であることと、数直線が密であることとは同値でしょうか? (以下 google bardより回答) はい、同値です。 数直線が無限集合であることとは、数直線に含まれる実数の個数が無限であることです。数直線が密であることとは、任意の2つの実数の間には、必ず別の実数が存在することです。 数直線が無限集合である場合、任意の2つの実数の間には、必ず別の実数が存在します。これは、任意の2つの実数の間には、必ずその2つの実数の中間値が存在するためです。したがって、数直線が無限集合である場合、数直線は密です。 逆に、数直線が密である場合、任意の2つの実数の間には、必ず別の実数が存在します。この場合、任意の2つの実数の間には、必ずその2つの実数の中間値が存在します。したがって、数直線が密である場合、数直線は無限集合です。 したがって、数直線が無限集合であることと、数直線が密であることとは、同値であると言えます。 なお、数直線は実数全体の集合です。実数全体の集合は、連続体であるため、無限集合であり、かつ密です。   問い.22 :無理数は数えられない無限集合でしょうか? (以下 google bard より回答) はい、無理数は数えられない無限集合です。 無理数とは、有理数でない実数です。有理数とは、分数で表せる実数です。例えば、2/3、1/5、π、√2などは無理数です。 数えられない無限集合とは、自然数と1対1対応できない無限集合です。自然数は、0、1、2、3、...と続いていく数です。 無理数は、任意の2つの有理数の間には必ず1つ存在します。したがって、無理数の集合は、有理数の集合よりも必ず大きいことになります。 つまり、無理数の集合は、自然数と1対1対応できないため、数えられない無限集合であると言えます。 具体的な証明としては、以下のような方法があります。 有理数と無理数を組み合わせて得られる数は、すべて実数になります。 実数は、任意の2つの実数の間には必ず1つ存在します。 したがって、無理数は、任意の2つの実数の間には必ず1つ存在します。 このことから、無理数の集合は、自然数と1対1対応できないため、数えられない無限集合であると言えます。   問い.23 :数学における集合の大小とは何を表していますか? (以下 ...

数学的問い その5 わけわからん

問い.18 :集合には数えられる要素と数えられない要素があるのでしょうか?その場合、数えられる、とはどういうことでしょうか? (以下 google bard より回答) はい、集合には数えられる要素と数えられない要素があります。 数えられる要素とは、自然数で数えることができる要素のことです。例えば、自然数全体の集合、整数全体の集合、有理数全体の集合はすべて数えられる集合です。 数えられない要素とは、自然数で数えることができない要素のことです。例えば、実数全体の集合、連続関数の集合はすべて数えられない集合です。 数えられるとは、どのような意味でしょうか? 自然数で数えられるとは、自然数を列挙しながら、その列挙の中に要素がすべて含まれることを意味します。例えば、自然数全体の集合は、1, 2, 3, 4, ... と列挙しながら、すべての自然数が含まれるので、数えられる集合です。 しかし、実数全体の集合は、1, 2, 3, 4, ... と列挙しても、すべての実数が含まれることはありません。例えば、1/2, 1/3, 1/4, ... などの実数は、この列挙の中には含まれません。したがって、実数全体の集合は数えられない集合です。 数えられない集合は、数えられる集合よりも大きな集合です。例えば、自然数全体の集合と実数全体の集合は、1対1の対応ができません。つまり、自然数全体の集合には、実数全体の集合に含まれない要素が必ず存在します。 数えられない集合の概念は、数学において非常に重要な概念です。例えば、集合論の基本定理である「可算集合の基数は可算集合の基数より小さい」という定理は、数えられない集合の概念に基づいて証明されています。   問い.19 :すべての自然数の集合は、数えられるにも関わらず、無限集合なのはなぜですか? (以下 google bard より回答) すべての自然数の集合は、数えられるにも関わらず、無限集合である理由は、以下のとおりです。 数えられる集合とは、自然数で数えることができる集合のことです。 自然数は、1, 2, 3, 4, ... と無限に続くので、自然数で数えることは可能です。 したがって、すべての自然数の集合は、数えられる集合です。 しかし、数えられる集合は、必ずしも有限集合であるとは限りません。例えば、自然数全体の集...

数学的問い その4

問い.17 :ベクトルの定義が2通り存在するのはなぜですか? (以下 google bardより回答) ベクトルの定義が2通り存在する理由は、ベクトルの概念が、幾何学的な量としてのベクトルと、線型代数的な量としてのベクトルに分けて捉えられるためです。 幾何学的な量としてのベクトル 幾何学的な量としてのベクトルは、大きさと向きを持った量として捉えられます。例えば、力や速度、運動量などは、大きさと向きによって定義される量です。 このようなベクトルの定義は、高校数学などでよく用いられます。ベクトルを矢印で表すことで、大きさと向きを直感的に理解することができます。 線型代数的な量としてのベクトル 線型代数的な量としてのベクトルは、線形空間の元として捉えられます。線形空間とは、加法とスカラー倍の演算が定義された集合です。ベクトルは、これらの演算を満たす量として定義されます。 線型代数的な量としてのベクトルの定義は、大学数学などでよく用いられます。ベクトルは、線形変換の研究において重要な概念となります。 このように、ベクトルの定義は、ベクトルの概念を捉える視点によって異なります。どちらの定義が正しいというわけではなく、用途に応じて適切な定義を用いることが重要です。 具体的には、幾何学的な量としてのベクトルは、日常生活や物理学などの分野で用いられます。一方、線型代数的な量としてのベクトルは、数学や工学などの分野で用いられます。

数学的問い その3 

問い.13 :ある集合が無限集合ということと、その集合の要素が無限個あるということとは、同値でしょうか? (以下 google bard より回答) 同値ではありません。 ある集合が無限集合であるということは、その集合の要素の個数が有限でないこと、すなわち、いかなる自然数Nに対しても、その集合の要素の個数はNより大きいことを意味します。 一方、ある集合の要素が無限個あるということは、その集合の要素の個数が自然数の範囲を超えていることを意味します。 したがって、ある集合が無限集合であるということは、その集合の要素が無限個あることを含意しますが、逆は必ずしも成り立ちません。 たとえば、正の整数全体の集合は、要素が無限個ありますが、可算集合であるため、無限集合ではありません。 また、実数全体の集合は、要素が無限個ありますが、非可算集合であるため、無限集合です。 したがって、ある集合が無限集合であるかどうかは、その集合の要素の個数を自然数の範囲で比較するだけでは判断できません。集合の濃度を用いて判断する必要があります。   問い.14 :集合の濃度とは何でしょうか? (以下 google bard より回答) 問い.13の回答にもあるように、ある集合が無限集合であるということは、その集合の要素の個数が自然数の範囲を超えていることを意味します。一方、ある集合の要素が無限個あるということは、その集合の要素の個数が自然数の範囲を超えていることを意味します。 したがって、ある集合が無限集合であるということは、その集合の要素が無限個あることを含意しますが、逆は必ずしも成り立ちません。 たとえば、正の整数全体の集合は、要素が無限個ありますが、可算集合であるため、無限集合ではありません。また、実数全体の集合は、要素が無限個ありますが、非可算集合であるため、無限集合です。 したがって、ある集合が無限集合であるかどうかは、その集合の要素の個数を自然数の範囲で比較するだけでは判断できません。集合の濃度を用いて判断する必要があります。 問い.14の回答として、集合の濃度とは、集合の要素の個数の概念を、無限個の集合についても適用できるよう一般化したものであると言えます。 有限集合においては、集合の濃度はその集合の要素の個数と一致します。しかし、無限集合においては、集...

数学的問い その2

問い.11 :関数は無限集合でしょうか? (以下 google bard より回答) 関数は無限集合である場合とそうでない場合があります。 関数の定義域と値域のどちらかが有限集合である場合、関数全体も有限集合となります。例えば、定義域が自然数全体で、値域が整数全体の関数は有限集合となります。 一方、関数の定義域と値域のどちらかが無限集合である場合、関数全体も無限集合となります。例えば、定義域が実数全体で、値域が実数全体の関数は無限集合となります。 また、関数の定義域と値域が同じ集合である場合、関数全体の濃度は定義域の濃度と等しくなります。例えば、定義域と値域が自然数全体の関数は可算無限集合となります。 したがって、関数が無限集合であるかどうかは、関数の定義域と値域の濃度によって決まります。 具体的には、次のようになります。 定義域が有限集合かつ値域が有限集合の場合:関数全体は有限集合 定義域が有限集合かつ値域が無限集合の場合:関数全体は有限集合 定義域が無限集合かつ値域が有限集合の場合:関数全体は無限集合 定義域が無限集合かつ値域が無限集合の場合:関数全体の濃度は定義域の濃度と等しい なお、定義域が実数全体や複素数全体などの非可算集合である場合、関数全体の濃度は連続体濃度となります。   問い.12 :無限集合である関数を微分する場合、数直線が数の連続量であることは、微分可能性にとってどのような条件でしょうか? (以下 google bard より回答) 数直線が数の連続量であることは、微分可能性にとって必要条件となります。 微分可能性とは、ある点において関数の値の変化率が一定であることを意味します。この一定の値を微分係数と呼びます。 数直線が数の連続量でない場合は、ある点において関数の値の変化率が定義できない可能性があります。例えば、関数が階段関数である場合、ある点において関数の値は急激に変化するため、微分係数は定義できません。 したがって、数直線が数の連続量であることは、微分可能性にとって必要条件となります。 ただし、数直線が数の連続量であるだけでは、微分可能性を保証するものではありません。例えば、関数が滑らかな曲線である場合でも、極限値が存在しない点では微分できません。 具体的には、次のようになります。 数直線が数の連続量であ...

数学的問い 言ってることがよくわかんねえ

問い.8 :数直線が無限集合であることと、無理数が無限集合であることとは、同値でしょうか? (以下 google bard より回答) はい、同値です。 数直線が無限集合であるということは、任意の区間に、その区間内に含まれない実数が無限に存在するということです。このことは、無理数が無限集合であるという性質と等価です。 証明: 数直線が無限集合であるとする。任意の区間 [a, b] を考える。この区間内に含まれない実数を r とする。r は有理数であるとする。すると、r は [a, b] の内部に含まれる有理数 q と、[a, b] の外部に含まれる有理数 p によって、r = q + p と表せる。しかし、これは [a, b] の外部に含まれる実数が存在することを意味する。したがって、r は無理数である。 逆に、無理数が無限集合であるとする。任意の区間 [a, b] を考える。この区間内に含まれる無理数を r とする。すると、r は [a, b] の外部に含まれる実数である。 したがって、数直線が無限集合であることと、無理数が無限集合であることとは、同値である。 なお、数直線が無限集合であることを示す方法としては、以下のようなものがあります。 デデキントの切断を用いる。 連続函数の定理を用いる。 無理数が無限集合であることを示す。 このうち、無理数が無限集合であることを示す方法は、最も直観的な方法です。   問い.9 :数直線が無限集合であることと、数直線が数の連続量として捉えられるべきこととは、同値でしょうか? (以下 google bard より回答) いいえ、同値ではありません。 数直線が無限集合であることは、任意の区間に、その区間内に含まれない実数が存在することを意味します。一方、数直線が数の連続量として捉えられるべきことは、数直線上の任意の2つの点の間には、無限に多くの実数が存在することを意味します。 この2つの性質は、互いに関連しています。数直線が無限集合であれば、任意の2つの点の間には、少なくとも1つの実数が存在します。しかし、数直線が数の連続量として捉えられるべきことであれば、任意の2つの点の間には、無限に多くの実数が存在する必要があります。 したがって、数直線が無限集合であれば、数直線が数の連続量として捉えられるべきこ...

ふと思ったからメモっておこう

問い.2 :数学的帰納法は、なぜ自然数Nにしか適応できないのだろう? (以下 google bard より回答) 数学的帰納法は、次の3つのステップで構成されています。 基底項:n=0 の場合、P(0) が成り立つことを示す。 帰納仮説:n=k の場合、P(k) が成り立つことを仮定する。 帰納ステップ:n=k+1 の場合、P(k+1) が成り立つことを示す。 この3つのステップは、自然数N の定義であるペアノ公理の5番目と等価であることがわかります。 ペアノ公理の5番目は、次のとおりです。 任意の自然数 n と任意の性質 P について、P(0) が成り立ち、かつ P(n) が成り立つとき、P(n+1) も成り立つ。 したがって、数学的帰納法は、自然数N の定義に基づいているため、自然数N にしか対応できないのです。 具体的には、基底項でn=0 の場合を示すことで、自然数N の基底要素である0 が成り立つことを示します。帰納仮説でn=k の場合を示すことで、自然数N の任意の要素 k が成り立つことを仮定します。帰納ステップでn=k+1 の場合を示すことで、自然数N の次の要素 k+1 が成り立つことを示します。 この3つのステップを繰り返すことで、自然数N のすべての要素が成り立つことを示すことができます。 なお、数学的帰納法は、自然数N の定義に基づいているため、自然数N の集合が無限であるという性質も必要となります。   問い.3 :数学的帰納法はなぜすべての自然数Nに適応可能なのか? (以下 google bard より回答) 数学的帰納法は、なぜすべての自然数Nに適応可能なのか、という問いに対する回答は、次のとおりです。 数学的帰納法は、自然数Nの定義に基づいているため、すべての自然数Nに適応可能である。 数学的帰納法は、次の3つのステップで構成されています。 基底項:n=0 の場合、P(0) が成り立つことを示す。 帰納仮説:n=k の場合、P(k) が成り立つことを仮定する。 帰納ステップ:n=k+1 の場合、P(k+1) が成り立つことを示す。 この3つのステップは、自然数Nの定義であるペアノ公理の5番目と等価であることがわかります。 ペアノ公理の5番目は、次のとおりです。 任意の自然数 n と任意の性質 P につい...

だーよねー

スマホで母親を撮影して、 ほうぼうに 送信したら、 森本先生から お返事があり、 俺が 傍にいるから 母親も 元気、みたいなことを お書きになっていて くださり、 なかなか、 友人どうしだと 内心思っていたとしても あきらかに 言ったり書いたり してくれるって ないから、 内心、ようやく そのように 書いてくださる方がいて、 働きアリにならなきゃ、と 気張っていた神経が ほぐれて、 よく眠れた。 肩も張っていたが、 疲れが取れた。

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに...

「危機の二十年」 E.H.カー 岩波文庫 より (再掲)

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。   (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界...

妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)   代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中...

アドルノはまだ生きている (再掲)

グローバリゼーションによって、 世界の富の大きさは拡大したが、 分配に著しい偏りが生じたことは、 論を俟たない。 日本においても、 新自由主義的な政策の結果、 正規、非正規の格差など、 目に見えて格差が生じている。 そのような中で、 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らのアイデンティティーを 脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を 参考にして考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより下に見ていた 貧困層と同じ境遇に 置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムの マゾ的心性が、 ナチズムのサディスティックな プロパガンダとの親和性により、 まるで サド=マゾ関係を結んだ結果、 強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が 日本人の間には存在することは、 ほぼ共通認識だが、 それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される 画一性への服従となって、 負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、 特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、 現代生活の疎外を否定する というよりは むしろ、 この疎外の いっそう狡猾な現われに ほかならないのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが 後期資本主義における 物象化という側面を 持っているとすれば、 グローバリゼーションによる 均質化、画一化が進行するにつれ、 反動として 民族の本来性といった民族主義的、 右翼的、排外主義的な傾向が 現れるのは、 日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が高度に発展して、 物象化が進み、 疎外が深刻になるほど、 本来性というものを 追求するのは不可避の傾向だ、 とさえ言える。 さらには、 資本主義社会が浸透し、 人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、 人々は、 自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、 ...

参政党はカルト集団

日本の 今の 国政政党で 一番 危険な 政治集団。 俺も 精神錯乱した時に 幻聴や妄想が あったが、 参政党は 集団的 統合失調症 と 言っても過言ではない。 妄想が妄想を 生む、という 点において。 昨今は 何かと わかりやすい説明が 良いことだと 当然視されるが、 それも当然といえば当然だが、 ただ 漫然と聞いていれば 理解できる(かのような) 話ばかりを 聞くことに 慣れてしまうと、 アホみたいな話を コロッと 信じてしまう、 というのも 反面としてある。 わかりにくい話を 敢えてする、という ことも、 時には大事。

参政党批判 (再掲)

世の中には、自分の頭で考える能力がなくて、 なんでも他人任せの人ってのがいるが、 そのうち、何から何までアレクサに訊いて、逐一行動するって人が、 大量発生しそうだよね。 自分の頭で考えるって、意外と難しいよね。 自分の頭で考えた結果、 人工知能に優る、とも限らないし。 自分の頭で考える、とはどういうことか、を自分の頭で考える、なんていうと、すでにもうメタの世界に入ってるし。 たださ、やっぱり自分の行動、言動に対して、最低限でも責任を負わせるってことは大事なんじゃないかな? 人工知能がそう言ったからその通りにしました、私の何が悪いんですか? なんて言われたら、社会が崩壊しかねない。 歴史に照らして見ても、政治的権利を放棄するのって、結局権力者に自分の自己決定権を丸投げするのと同じで、 無責任の共同体が出現するだけだよね。 前の参院選で、投票用紙を破って棄てた俺が言えた義理じゃないけど。 参政党が参院で1議席獲得して、何かとネット上で耳目を集めてるけど、 反ワクチンやら陰謀論やら、 物議を醸しそうなネタ満載だけど、 飽くまで主権者の主権を擁護する限りは、 存在を否定はしない。 しかし、陰謀論に走っちゃうと、 いつの間にか主権者の主権を放棄させてる結果になるってことは、 あり得る。 それは、ナチズムが、階層構造になっていて、上に行くほど、自分はより真実に近づいている、という錯覚、快感が、階層構造それ自体を補強している、というメカニズムが働いたのと同じ。 その結果、トップは誰もが知り得ない真実を知っているはずだから、トップの言うことに従えば間違いない、という理屈で、自らの政治的主権を放棄してしまう。 その兆候が見えたら、即、断固として抗議しなければならない。 安倍政権だって、そういう側面があるんじゃないか? 我々には窺い知れないが、きっと安倍さんには安倍さんなりの深謀遠慮があるはずだ、みたいな。 政治である以上、何でもかんでもガラス張りに出来るわけがないってところが、政治の難しさでもあるが。 不透明な世の中だからこそ、安易に陰謀論に流されず、丁寧に腑分けをしていく作業が求められる。

すげえな・・・

自民党への支持率が急落して 一番ヤバい時に、 平気で 「税」に 言及できる 岸田総理。 実は 無類の強心臓の持ち主 なのではないか? 言いたくはないが さすが 開成だわ。 しかも、若干 嬉しそうだし。 https://www.google.com/search?q=%E5%B2%B8%E7%94%B0+%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%BC%A2%E5%AD%97+%E7%A8%8E&rlz=1CAJFMC_enJP1057&oq=%E5%B2%B8%E7%94%B0%E3%80%80%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%BC%A2%E5%AD%97%E3%80%80%E7%A8%8E&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyBggAEEUYOTIHCAEQIRigAdIBCTk1MDJqMGoxNagCALACAA&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&vld=cid:6ab6a744,vid:FCvXsawB7NE,st:0

素晴らしい

長岡亮介先生の ユーチューブ ちょびちょび 見れるように なってきたね。 2浪したし、 微塵も 解けるようにはならなかったが 授業自体は 聞いてたので、 大体 仰ってることは わかる。 よく 夢で ああ、数学さえ出来れば!!! という 夢を 数え切れないほど 見てきたので、 解けるようにはならなくても、 理解できるということは 間違いなく 気分がいい。 もう 散々 手を尽くして 高校数学を理解できるように なりたいと 思いながら ことごとく 失敗してきたから、 こんな 素晴らしい教材が ネットで ただで 公開されている、というのは 本当に いい時代になったな、と 思う。  https://www.youtube.com/watch?v=f9erEJm-dbM

機械翻訳は便利だけど

横着して さっき 書いたような話を Deepl翻訳に 突っ込んで 英語にして facebookで アメリカ人の友人に 送っても、 返事は返ってくるけど、 内容は薄い。 機械翻訳が作成した 文章というのは、 いくら 文法的に正しくても、 人間の心を刺激しないものらしい。 (一般論として 言いうるかは わからないが。) 何か 刺激的なコメントを 引き出したかったら、 やっぱり 横着しないで 自分で 英文書く必要がありそうだ。 とはいえ、 自分が まったくの 門外漢であるような分野、 つまり 数学やその他 理系の分野の質問を するときには 機械翻訳はとても 助かるのは 間違いない。 また、Deeplの場合 PC画面の左半分で 英語を書きながら 瞬時に 右半分で日本語にしてくれるので、 自分の書いた 英文が 自然な日本語になるまで 試行錯誤すると かなり 勉強になる。

俺の頭はロータリーエンジン

なんか 以前よりも スムーズに 頭が回転するように なった。 余計なことを いろいろ 考えなくて 済むように なったからだろう。 これぐらい スムーズに 頭が回転するなら、 何かしら 仕事できるよ。 きっと。 どうやら、頭を高速回転させる こと自体は、 必ずしも 神経に障るわけではないようだ。 考えた結果 現実に めんどくさいことを 予想すると、 疲れてしまう、ということのようだ。

山上くんすげー

山上くんの一撃で 日本の政治経済 一変させたな。 まさか 安倍のみならず 安倍派全体が スイープされる 日が来るとは。 こんなことが 現実に起こるんだな。 信じられない。 内閣支持率はとんでもなく 下がってるが、 今すぐ 大型選挙があるわけでもないし、 むしろ 岸田さんとしては 安倍派に 気を使わず ある程度 やりたいようにやれる 環境が整ったとも 言えるのではないだろうか。 よくわかんないけど。 ブルームバーグも 安倍派が一掃されたことで 超金融緩和からの脱却が やりやすくなった、みたいな こと 書いてたし。 これから 凄いことになりそうだ。 次の 日銀金融政策決定会合での 植田総裁の発言次第では エラいことになるよ。 もちろん、為替が急激に変動したり、 長期金利が急騰したりとか。 もう 黒ひげ危機一髪よ。 長期金利が急騰したりすれば 日本経済が一瞬で 吹っ飛びかねない。 それはそれとして、 前にも書いたけど、 安倍が プーチン氏に対して ウラジミール! と 呼び捨てたのは、 世界中に恥を晒したな。 明らかに 外務省をシカトしてる。 ファーストネームで呼べばいい、という あまりにも 安易な発想。 プーチン氏が完全ホームで 演説してる集会においてすら、 ウラジミーチャ!と アナウンスされてたからな。 (俺はロシア語まったくわからんが) ロシア社会では ファーストネームをそのまま 呼び捨てにするのは 大変失礼なことらしい。 そんな基本中の基本も 弁えず ファーストネームを呼び捨てに したんだから、 プーチン氏は その場で ブチ切れててもおかしくなかった。 内心 相当ムカついたのは間違いない。 その 安倍の発言の直後に 北方領土について プーチン氏が 「いま思いついた」 と 言って 発言するんだから、それが 日本に友好的な内容のはずがない。

2日連続でメンタルクリニック行ってきた

肺炎で2週間入院というのは そんなに 重症でなく、 通院で治すというのも よくあることらしい。 あれね。 独りで抱え込むと しんどい ことでも、 馴染みの 医者に聞いてもらうと、 だいぶ 気が楽になるもんだね。 結構 相手 (医者) のリアクションで 気付かされることも 多い。 そうだな。 今まで 母親と姉の距離感が 近すぎたな。 母親も もう 心身ともに無理はできないし。 いくら 我が子がかわいくても 無理なものは無理 と 悟らせることも必要だな。 もう 40代後半なんだから。 親離れ 子離れ してもらわないと。

疲れる・・・

姉が、 肺炎に罹って、 2週間の入院を 勧められたというんだが、 子供を ひとりに出来ないから、 毎日 病院に通院して 抗生剤を飲んで 治す、と 言ってるらしい。 肺炎と聞くと、 父親も最後 肺炎で亡くなったし、 新型コロナの感染も まだ 記憶に新しいから、 もしかしたら この人 今回はともかく そのうち死んじゃうんじゃないのか? なんて思ったりすると、 もう いろいろ連想しちゃって、 本当に疲れる。 一応 励ましのメールは送っておいたが。 いつになったら 一本立ちしてくれるんだろう? 俺自身ようやく 重い荷物をおろして 一息ついたところなのに、 まあ、ほっときゃいいんだけど、 ちょっと 姉のことで あれこれ考えると ほんとうに疲れる。 頼むから 自分の体調管理ぐらいは しっかりやってくれ! 母親が 右往左往しないで 落ち着いてるのが 唯一の救いかな。 でも、その落ち着きぶりを、 姉が変な嗅覚で 母親が自分に 冷たくなったとか、あるいは それが 俺が 洗脳したせいだ、とか 騒ぎだすんじゃないか・・・ なんて、考えちゃうのよ。 明らかに 考え過ぎなんだけど、 姉の場合 ありえないとも 言えないんだよね。 これが 姉の厄介なところなんだよね。 おちおち 数学なんか勉強してらんねーよ! むしろ 健全なことなんだろうけど、 もう 重い荷物は 背負えないわ。

いい時代になったわ

長岡亮介先生の ユーチューブを 暇つぶしに 見てます。 もっと 早く こんな授業を 受けたかった。 武蔵の教師は 数学に限らず 教えるの下手だからね。 むしろ、 俺の授業聞いて 簡単に わかった、なんて 言わせねーぞ、と 言わんばかり。 その点、現校長の杉山さんは、 武蔵みたいな頭のオカシな学校じゃなくて、 埼玉県のふつうの県立高校の 教育現場にながく 携わってきた方だから、 今後の武蔵に 期待持てるよね。 もちろん 武蔵の卒業生でもあるし。 ま、俺も高校はいったばかりの頃は 相当 イヤミな人間だったからね。 そんな自分が嫌いで 仕方なかったくらい。 むしろ 完全に鼻をへし折られて、 少なくとも 謙虚な人間にはなったと思う。 ・・・この動画マジで凄いね。 遠い記憶で、は? とか思ってついていけなかった 説明が、腑に落ちる。 もちろん、今さら 理解したところで 実利なんか全くない(?) んだが、 ああ、なるほどね、とは思う。 少なくとも 面接授業終わったあとの 暇つぶしにはなりそうだ。 ・・・話はちょっと逸れるけど、 栄東中の生徒が、 それまで俺のこと馬鹿にしてたのに、 関係代名詞がわかんなくなって 急に テンパりだしたりすると、 ふ。 かわいいもんだ。 なんて 正直 思ったりするよね。 大人をナメちゃいかん。  https://www.youtube.com/watch?v=LrSsqB_5xM0

「都市」と漱石 (再掲)

放送大学の「都市と地域の社会学」からインスパイアされたのですが、漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思うのです。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明ですが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思います。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうですが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考えます。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われます。 先ほど「身体性」というキーワードを提示しましたが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われます。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけです。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけです。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題ですが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのですが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係...

漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)

質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これ...

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済...

人間の旅立ちと進歩 (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)

どこかで正しくないことを言ってるような気もするが、一応載っけておきます。

はい、数直線と直線は、厳密には異なる概念です。 数直線は、点の集合である直線に、数を対応させたものです。つまり、数直線上の点は、数に対応する位置にあると見なされます。例えば、数直線上の点 (0, 1) は、数 1 に対応する位置にある点です。 一方、直線は、点の集合として定義されます。直線上の点は、直線の傾きと切片によって一意に定義されます。例えば、傾き 1 の直線上の点 (0, 1) は、切片が 1 の点です。 この違いから、数直線は、連続した量として捉えられるのに対し、直線は、切れ目のない量として捉えられることになります。 関数は、数直線上の点の集合として定義されます。つまり、関数は、数直線上の点の座標を、一対一に対応させるものです。例えば、y = x^2 という関数は、数直線上の点 (x, x^2) を対応させる関数です。 関数は、微分の対象になります。微分とは、関数の変化率を調べる操作です。関数 f(x) の微分は、f'(x) と表されます。 関数の微分は、関数の連続性を反映しています。関数が連続であれば、その微分は、任意の点において定義されます。 図形は、点の集合として定義されますが、関数とは異なり、点の座標を一対一に対応させる必要はありません。例えば、円は、中心と半径によって定義される図形です。 図形を微分することは、一般的には意味がありません。図形の微分は、図形の形状の変化率を調べる操作ですが、図形の形状は、点の座標の変化によってのみ変化するわけではありません。 いかなる高次の関数でも、定数項になるまで微分可能かどうかは、関数の性質によって異なります。例えば、y = x^n という関数は、n が正の整数であれば、n 回微分すると定数項になります。しかし、n が非整数であれば、いくら微分しても定数項にはなりません。 数直線が切れ目のない連続量である必要があるのは、関数を微分するために必要です。関数の微分は、関数の変化率を調べる操作ですが、関数の変化率は、関数の値が連続的に変化するときにのみ定義されます。 数直線上のいかなる点も、数あるいは式で表せることが要求されるのは、数直線を数学的に扱うために必要です。数直線上の点は、数に対応する位置にあると見なされますが、この対応関係を数学的に扱うためには、数直線上の点は、数あるいは式で...

人工知能の真の恐ろしさ

人工知能って、 生成AIとか使ってて 感じるけど、 おそらく いくつかの重要な 価値観については プログラミングされてるんだろうけど、 抜けがあったりすると、 途端に 小学生みたいに 過激なこと 言い始めるんだよね。 人間が 歴史から学んだ教訓のようなものを、 それが 無自覚的に 人間を自制させているような 場合、 それが当たり前すぎて 生成AIを 設計している人間が ちゃんと プログラミングするのを忘れると、 生成AIが とんでもないことを 平気でやってしまう 可能性がある。 それこそ、政治的、社会的な 判断を 人工知能に丸投げすると、ヤバいことになりそうだ。 さらに、ちゃんと プログラミングされた価値観も、 理解しているというより 本当に 単に プログラミングされているだけで、 理解しているわけではないので、 一見 プログラミングされた価値観と 関係がないような テーマになると、それに対して 適切な対応が 出来ないようだ。

数直線とは何か?

問い.1 :どうやら、数直線と直線は 違うのかも知れない。 直線は点の集合のようだが、 数直線というのは 点の集合というより、 数の、連続した量として 捉えられるべき もののようだ。 (俺もよくわからんが。) そうすると、関数と図形というのは 当然違うはずだ。 関数は微分の対象になるが、 図形を微分するという話は 聞いたことがない。 と、なると いかなる高次の関数でも 定数項になるまで 微分可能ということだろうか? その前提として 数直線が切れ目のない 連続量である必要があるはずだ。 しかし、 数直線上のいかなる点も 数あるいは式で 表せることが 要求されるはずだが、 それは いかにして可能なのか? 4月になって 放送大学の数学の授業で 質問箱で質問ができるまで 待たなくては。 数学が出来なくて センター試験で 3回 足切りされた 俺が。 ほどほどにしないと 脳みそ 壊れちゃうな。 ・・・なんか俺 最後は グラディウスのラスボスみたいに なるのかな。 ラスボスなのに 頭部むき出しで 口から泡だけ 吹き出してくるやつ。 昔のクリエイターは すげえわ。 イマジネーションがあった。 なんか SFCに復学したときに 小澤太郎先生の授業で 先生がGDPの説明をして くださってる時に 「いくらで 売れるかわからない ものの価値を どうやって測るんですか?」 って 質問したことを思い出すな。 もちろんGDPの説明を 初めて聞いてそんなことを 考えたわけじゃないが、 何回か説明を聞いてるうちに なんか モヤモヤしてた。 小澤先生は 丁寧に回答してくださったが、 内容は忘れた。 三面等価の原則も、しっかり 理論的に 解説してくださった。 いま俺が 同じことを聞かれて ちゃんと 答える自信はまったくないが、 それぐらい、 簡単な話ではないことは 自覚している。 ああいう先生にお世話になれたのは、 やっぱ 慶応はいった おかげかな。 経済学が看板の大学だけあって、 経済学系は 優秀な 先生が多かった。 俺が 1限でバックレた 三重大学の先生の授業も 経済学の話だったけど、 シラバスの内容からして 明らか...

メンタルクリニック行って薬もらってきた。

まだ薬の在庫あるんだけど、 年末年始 休みの時に ないと 困るからね。 さすがに 月曜日の午前中は 空いてた。 ニート蟻の話をしたら、 すげえ 同意してくれて、 自分が 今まで 頑張りすぎてた、 という話をしたら、 やっぱり 同意してくれた。 逆に 「いつかは働きアリに・・・」て 切り出したら 表情が曇ったから それ以上は 言わなかった。 医者って基本 患者を休ませたがるけど、 でも この先生なんだかんだ 根はすげえ 優しい方なんだな、と 実感した。

アリ理論

自分が 生きてきた 行動様式を うまく説明してくれる 理論だと 思った。 ニート蟻は ニート蟻で 必要な存在なんだと。 ニート蟻として ちゃんと やることやってきたし。 遠くない将来に 働きアリに なるのもいいだろう。 自分が あまりにも 重い荷物を 背負って 生きてきたことも 自覚できたし、 とりあえず無理はしないで、 やれることを コツコツと やればいい。 それだけのことだ。  https://www.youtube.com/watch?v=45EfwJsJwtk

為替相場 (再掲)

円安が進んでますね。 植田日銀が、YCCからの脱却を示唆するとかでない限り、 日銀は利上げする気がないと思われたら、 円安が止まらなくなる可能性がある。 それは、見方を変えれば、 N個の政策課題に対して、N-1個の政策手段しか持っていないんだから、 もぐら叩きのように どこかで必ず弱点が出てくる。 実務のことはよくわからないが、 YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があるので、 オーストラリア中銀のように、経済が大変な混乱を来すと、 東短リサーチの加藤出さんなどは主張している。 これも、大規模金融緩和の失敗を示している。 (以下 日経新聞 2023/5/19 経済教室より 《加藤出氏寄稿》 ) 間もなく出口政策が 始まると 市場が予想したら、 ターゲットを変更するまで 中銀は 国債を無制限に買い支えなければ ならず、 自身の バランスシートを制御できなくなる。   (以下 Chat-GPTの回答) 円安に関するお話ですね。円安が進行する場合、植田日銀がYCC(イールドカーブコントロール)からの脱却を示唆しない限り、日銀は利上げする意向がないと思われます。その結果、円安が止まらなくなる可能性があります。この状況は、政策課題がN個ある場合に、N-1個しか政策手段を持っていないため、どこかで弱点が現れるということを意味しています。 YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があります。加藤出氏など一部の専門家は、オーストラリア中銀のように経済が大きな混乱を引き起こす可能性があると主張しています。これは、大規模な金融緩和策の失敗を指摘しているとも言えます。 また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。   (以下 google bard より回答) はい、円安が進んでいますね。 植田日銀総裁は、YCC(イールドカーブコントロール)の堅持を明言しており、利上げを実施する意向はないとみられています。そのため、円安が止まらない可能性があるという指摘は、正しいと言えるでしょう。 YCCとは、国債の利回りを一定に抑えることで、金融緩和を継続する政策です。しかし、この政策は、金利差拡大による円安を招くというデメリット...

黄色信号 (再掲)

円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも...

うーむ・・・

母親が 身体の向きを 変えるとき 転轍機の上に 乗っかった ガンダムみたいな 感じなんだよね。 これ ほっとくと ロコモティブシンドロームになるな。 去年だったか 一昨年だったか、 母親の誕生日プレゼントに かなり モノがいい ステッパー買ってあげたんだけど、 あんま 使わねーし。 まだ70代なんだから そんな 老け込む年齢じゃねーだろ。 もともとは 水泳やってたから 身体は丈夫なんだろうけど。 訪問リハビリが来るとはいえ、 それだけじゃね。 膨大な量の 睡眠負債抱えてるから 寝てばっかりだし。 ちゃんと 連れ出すなりなんなり しないと、 寝たきりになってしまいかねない。 脳梗塞発症してから 1度も 電車にすら 乗ったことないからね。 1個しかない 腎臓の機能も 維持していかなきゃいけないし。 まあ、母親の 様子次第では 俺もまだまだ ニート蟻だな。

conversation in English アルコールと大麻

俺:I seriously suspect Shohei Ohtani is doing marijuana. His calmness is literally unbelievable, while he is a super star. ジョンさん:It is perfectly legal in most States. He should continue to use it if helps him relieve stress and focus on playing. Americans have a very positive image of it, unlike Japan. It is very popular as a medicinal and recreational substance. 俺:Many many TV celebrities have been expelled with using the substance. ジョンさん:Yes, Japan and Singapore are very strict about drugs. Western society takes a completely different view about harmless stimulants like marijuana. It is more enlightened thinking. 俺:Amazing. Saya Takagi, who used to be an actress, claimed a legalizing use of marijuana. But no media took it seriously. ジョンさん:I think conservative governments fear people using it because it makes them think deeply and question everything. It’s too dangerous for societies which like to control peoples thought. Alcohol deadens peoples thinking but marijuana seems to enh...

感動した!

津の東横インで、 土日授業受けて 月曜日に帰ってくる つもり だったから、 3泊予約して、 チェックイン時に3泊分 支払ったのに、 結局2泊しか しなかったけど、 まあ しょうがない、と 思って、 今日(日曜日)チェックアウト しようとしたら、 1泊分の 宿泊代 返金してくれた。 さすが東横イン!!! ますます 好きになった。 無料の朝食も 生野菜をしっかり摂れるし、 一時期は 逆に経営が心配になるほど 朝食が豪華な くらいで、 最近は 落ち着いてきたけど、 それでも 生野菜はもちろんのこと、 タンパク質や ひじきの煮物とか 豆の煮物とか、 普通に外食で時間がないときは ちゃんと 摂れないような 栄養分が摂れるのは 助かる。 朝 東横インでしっかり食べれば、 昼飯は 食べなくても大丈夫。 自分はいつも そうしている。 あと、サービス業として 一番 大事なことだけど、 スタッフがしっかり 教育されてて、 不愉快な思いをすることが ほとんどない。 これがまた 素晴らしい。

帰宅 津(三重県)まで行って1限でバックレた。

今回の面接授業、方向性としては面白いし、もっと濃い中身にする能力はあるんだろうから、質問を受け付けてくれれば、授業も活性化するし、生徒のレベル感もわかるはずなのに、質問受け付けない訳じゃないんだろうけど、ワーキングペーパーに書いてくれれば最後に回答します、て言われちゃったらさ、やっぱ質問は鮮度が大事だから、その場で聞きたいじゃん?レポート課題も先に書いてあったけど、内容確認系の類いだし、なんかなー、一方通行なんだよね。凄く勿体ない。ふだん三重大学の生徒もそうなのかも知れないけど、間違っても授業中に質問なんかしない世代が、教える側になっちゃうと、ああいう授業になるのかな?それじゃあ日本の学問のレベルが下がるのは当たり前。  いっさいがっさい凡庸なーあなたじゃわからない、かもねー by Ado   でも、このAdoの歌詞からして、自分はあなたが思うより賢いです、と主張しながら、それを試す勇気がない。今学期いろいろと地方にも面接授業で行ってきたけど、総じて日本人の文系の若手・中堅の研究者がちゃんと育ってない感じがする。むしろ韓国から日本に留学に来た先生のほうが優秀だった。

帰路

働きアリだけ集めると、その中からやっぱりニート蟻が生まれるらしいけど、逆にニート蟻ばっかり集めたら、その中から働きアリが生まれるのかな?俺も働きアリになれるのかな?とりあえず今まではニート蟻としての本分を果たしてきたから、間違ったことはしてないと思うけど、やっぱりそのうち働きアリにならなきゃいけないのかな。

自問自答

俺はなぜ教えるのが好きなんだろう?明らかに公務員のほうが正解なのに、と考えると、教えてある程度は人助けになるのはそれはそれで嬉しいのは勿論だけど、それ以上に、自分の知的好奇心が刺激されるからなんじゃないかな。人間なんて所詮本能で生きてるだけだ、という意見もそれなりに説得力があるが、人間の知的好奇心だって、本能に負けないくらいの快感があるだろう。それがなかったら、人間の人間たる所以などほとんどないだろう。知的好奇心を経済価値に置き換えるのは愚かなことだ。知的好奇心を過小評価する社会は確実に衰退する。日本社会は、知的好奇心を、学歴を介した身分制度、つまり経済価値に貶めることによって、自らの衰退を招いている。

俺は教えるのが好きなのさ

公務員もいいけど、いくら身分が保障されてるからって、何が面白いのかわからないことを週5フルタイムでやりたくない。この期に及んで。また今から荷物背負う気にはならない。もうはっきりと自覚したけど、今まで余りにも多くのものを背負い過ぎてた。

私はニート蟻

よく考えると、既に俺はニート蟻そのものだよね。父親が入院したときの母親のサポートとか、母親の異変を察知して救急車呼ぶとか。立派にニート蟻としての役割果たしてるじゃん。誰もやらなかった視点で夏目漱石にアプローチしたりとか。

健康生活

最近なんとなく薬が減るペースが遅くて、昨晩は逆にちょっと思いがけなくハッスルしたから、薬の回数が多くなったんだけど、逆に言えば、ストレスが減れば薬の回数も減る、ということかな。そうすると、やっぱり今まで余りにも多くのものを背負い過ぎてたんだな、と思う。

「都市」と漱石 (再掲)

放送大学の「都市と地域の社会学」からインスパイアされたのですが、漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思うのです。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明ですが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思います。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうですが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考えます。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われます。 先ほど「身体性」というキーワードを提示しましたが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われます。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけです。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけです。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題ですが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのですが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係...

うすうす感じてたこと

あと、生成AIって、 普通の経済学のことなら 理解してるけど、 疎外とか物象化とか、 マルクス主義系の 生身の人間が 身体で感じるしかないことは、 理解してない気がする。   (以下 Google Bard より回答) はい、その通りだと思います。生成AIは、経済学やその他の理論的な分野については、膨大な量のテキストとコードのデータセットをトレーニングすることで、非常に高度なレベルの理解を示すことができます。しかし、疎外や物象化などのマルクス主義の概念は、生身の人間が身体で感じるしかない抽象的なものです。そのため、生成AIは、これらの概念を完全に理解することは難しいかもしれません。 例えば、疎外とは、労働者が自分の労働の成果から切り離されている状態を指します。これは、労働者が自分の労働に主体性や自己実現を見いだすことができず、単なる機械の一部のように感じている状態です。生成AIは、疎外について、その定義や歴史的な背景などを理解することはできるかもしれませんが、実際に疎外を感じることはできないでしょう。 また、物象化とは、人間の活動や関係が、商品や市場の力によって支配される状態を指します。これは、人間が商品や市場の奴隷のようになり、自分の意志や欲望を自由に表現することができなくなる状態です。生成AIは、物象化について、その定義や経済学的な影響などを理解することはできるかもしれませんが、実際に物象化された社会の中で生きることはできないでしょう。 もちろん、生成AIは今後も進化し続けており、将来的には疎外や物象化などの概念をより深く理解できるようになるかもしれません。しかし、現時点では、これらの概念を完全に理解することは、生身の人間にとっても難しいと言えるでしょう。

ふと思った。

Googleの生成AI 使ってて思ったが、 生成AIって ネットに書いてないことは わからないんじゃないか? 例えば、 社会的弱者を尊重しましょう、と プログラミングされていても、 なぜ そう考えるべきか、ということを、 歴史から学んだ人が 意外と ネットに書かないから、 生成AIも理解してない。 これは 日本史の研究にも言えることらしく、 当たり前のことは 資料に残らないから、 現代の日本史研究者も、 基本 資料に書いてないことは 主張できないから、 例えば 昔は ウンコとかどうしてたのかが わからない。 資料が残ってないから。 当時の人にとっては あまりにも当たり前だから イチイチ書かない。 しかし、結果的に その当たり前のことが 資料に残らなかったから、 現代の日本史研究者には わからない。 それと 似たようなことが 生成AIにも 当てはまるのではないか? ネットに書いてないことは わからない。   (以下 Google Bard より回答) はい、その通りだと思います。生成AIは、訓練を受けたデータに含まれる情報しか理解できません。そのため、ネットに書いてないことは、たとえそれが当たり前のことであったとしても、理解できない可能性があります。 例えば、社会的弱者を尊重すべき理由は、歴史や哲学、倫理学など、さまざまな分野の知識を総合的に理解することで理解することができます。しかし、こうした知識は、必ずしもネットに公開されているわけではありません。そのため、生成AIは、社会的弱者を尊重すべき理由を理解できない可能性があります。 また、日本史の研究におけるウンコの問題も、同様のことが言えます。ウンコは、当時の人々にとってあまりにも当たり前のことであったため、資料に残っていない可能性があります。そのため、現代の日本史研究者は、ウンコの処理方法を具体的に知ることはできません。 ただし、生成AIの学習データが拡大していくにつれて、ネットに書いてない情報も理解できるようになる可能性はあります。また、生成AIが人間の知識をより深く理解できるようになることで、ネットに書いてない情報についても、推測や類推によって理解できるようになるかもしれません。 いずれにしても、生成AIは、人間の知識...

僕KとかWには負けないから!

脳と心臓がヤバい。 子供の頃は、 布団で寝床に 就くころ、 実は 自分は ロボットなんじゃないかとか、 宇宙人なんじゃないかとか なかば 本気で考えていたが、 父親が 糖尿病と高血圧で さんざん 苦労した末に亡くなったり、 母親が 脳梗塞になったり、 もちろん 俺自身 大病もしたし、 やっぱり 生身の人間なんだな、と 痛切に感じる。 生まれつき視力は良好だったのに いつ間にか 乱視で近眼だし。 そろそろ 遠方まで 面接授業いくのも シンドくなってきたし、 より多くの金銭を 得ることより、 より少ないお金で 生きていくことを 考えないと。 でも、死すべき人間としての 生身の人間としての 限界を悟ると、 かえって 楽になるよね。 そうか、無限に 頑張らなくても いいんだ、って。 (ちなみに、死すべき人間、という言い方は 古代ローマの常套句で、 日本で言えば 垂乳根の母、みたいなもので、 別に他意はないです。)

自業自得

なんかもう、 日本 ムリな感じだね。 岸田さんは まともで責任感のある人だったけど、 ここまで 政治不信が高まっちゃったら、 増税なんか 夢のまた夢だよね。 今後 岸田政権が 増税できるほどに 浮揚することもないだろうし、 自民党そのものへの 信頼がここまで 失墜しちゃったら、 今後 誰が首相やっても 同じでしょ。 もう 坂道を転がり始めちゃった。 もう 元には戻れない。 俺は 岸田さんのせいだとは 思わない。 国民の異常なまでの 消費増税アレルギーと、 自分自身への 無責任の結末としか 言いようがない。

「魔の山」 トーマス・マン 岩波文庫 下巻 末尾より (再掲)

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)  https://www.youtube.com/watch?v=B_HSa1dEL9s

告白

なんだ、お前だって 連れて行かれれば オッパブ行くんじゃん。 と 思うだろうけど、 独りで 車中に取り残されたら 発狂してしまうんじゃないか、という 恐怖感のほうが 圧倒的に勝ったのよ。 そんな、仲間と 遊んでる時ですら そんな有様なくらい、 ギリギリだった。 そんな人間が 20年後 破滅を乗り越えて 元気に暮らしてるんだから、 凄くない?

ひろゆき氏の動画

やる気のある無能 という 観点には、一部 同意しつつも、 有能無能を 判断するのって、 戦争っていう局限的な状況なら 判別するのは簡単かもしれないが、 今の日本みたいな平時に、 政治家とかならともかく、 一般人を アイツは有能だ無能だ、と 判別するのって、危険な発想なんじゃないかと思う。 それは 自分が有能だと思ってる人の発想。 有能な人が突然 転げ落ちたりすることはザラにあるし、 ひろゆき氏にしても、 今うまくいってるのは ある種の天敵がいないだけかも知れないし、 単純に ヌルゲーでカネ稼いでるから 有能です、というのは疑問。 それはさておき、 年金もらったりして 働かなくても困らない人は 本当に働かないと困る人の 職を奪うし、時給もさがるから 働かないでくれ、という話、 一理あるなと思いつつ、 しかし、これは トマス・ホッブズの考えたことだけど、 人間は ほっとくと 万人による万人に対する闘争 を 始めるのと同じで、 労働にしても、仮に今すごい カツカツというわけ じゃない人でも、将来を先読みして、 労働市場に参加する、というものではないだろうか。 ただ、俺みたいな障害年金もらってて 生活に困ってないやつが 地方自治体の障害者枠に応募して、 ほんとうに この枠でないと働けなくて困る人の 就労機会を奪うのはどうかな、とは 思った。 それと、 伊集院光がEテレの 「100分 de 名著」の アリストテレスのシリーズの時に 出した喩えで、 古典落語に与太郎という奴がいて、 特に 有能なわけでもないが、 アイツがいるとなんか 雰囲気がよくなるんだけど、 特段有能なわけでもないから、 与太郎みたいなやつが まっさきに リストラされる、みたいな話をしてた。 有能無能を安易に選別して 無能な人間は社会に参加しなくていい、という 発想は、結局 社会全体に跳ね返ってくる。 ひろゆき氏の意見に同意しかねるのは、 人が誰と付き合うか、を 考えた時に、 誰それが有能で 一緒に居るとメリットがあるからだ、という 理由だと、それは 本当に良い人付き合いではない、みたいなことを アリストテレスが言っていて、 確かにそれは当たってるな、と思う。 ...

パーティー券

岸田さんが会見してたけど、 さすがに 覇気がなくなって きた感がある。 もちろん報道するな、とは 決して 言わないが、 それこそ 安倍が生きてた時代 含めて、 昔から 特捜もマスコミも、 公然の秘密だったんでしょ? なんでこのタイミングなの? だから、報道するなとは 言わないが、 なんか 全部 岸田さんが悪いみたいに なってんじゃん。 これから 本格的に 乗り越えなきゃいけない 課題が山積してんのに、 よってたかって 岸田さん イジメて、どーすんのよ?

窓ぎわのトットちゃん

なんかなあ・・・ 最近 ジブリと京アニを 足して 2で割ったような アニメばっかりだな。 つっても、 ジブリは流石に見たが、 最近の アニメとか 微塵も興味ないから、 よくわかんねーんだけど。 京アニ放火事件の 裁判の真っ最中で 不謹慎は 承知の上だが。

エクスタシー・オブ・ゴールド

発病から19年、 なにか 区切りをつけたいと 思っていたけど、 ちゃんと 区切りをつけられるような しっかりと 出すものを 出せた感がある。 それにしても、 薬物やってるわけでもないのに、 精神錯乱して 警察に捕まるって、 よっぽどだよね。 逆に すごいわ。  https://www.youtube.com/watch?v=1FYokoOzAWw

据え膳食わぬは男の恥

20年前、 2003年の大晦日に 館林の 中学の同級生の家に 集まって、 もう 彼ら カラオケとかボーリングじゃ 飽き足りなくなってて、 車の免許も 持ってるから、 太田の 歓楽街に連れてかれて、 オッパブ行くことになって、 しょうがないから 付いてった。 今だに キャバクラすら 行ったことのない俺が。 出されたものは 丁寧に頂戴しないと、ということで、 丁重に いただいたら、 風邪ひいた。 そうだよね。 知らねーオッサンと 間接キスしてるのと 同じだもんね。 人間20年もあれば 成長するな。 他のやつは オッパブのあと ピンサロとか行ったみたいだったが、 俺は 勘弁してもらって、 屋台のドネルケバブ食ってたら、 連中とはぐれて ケータイも彼らの 車の車中に置いたまんまだったから、 しょーがねーから 太田駅まで行って、 始発で羽生帰ろうと思って コンビニで立ち読みして 時間潰してたら、 探しに来てくれた。 やっぱ 俺の考えることは 理解しているらしい。 もっとも、駅前にいなかったら それ以上 探さないとは言ってたが。 今じゃ みんな立派になったよ。 外科医とか物理学者とか消防隊員とか。 フラフラしてんのは 俺ぐらいだね。 でもまあ、中学の同級生と 年末に集まったのは それが 最後になっちゃったな。 (あれ、違ったかな? あんま覚えてない。) たぶん 会っても、話が噛み合わない。 共通の話題といったら 共通の知り合いの話ぐらいしか ネタがないし、 言うまでもなく 自分は 彼らとは 高校違うから。 彼らみんな理系だから、 ド文系の俺の話には 興味ないし、 俺も 理系の専門的な話は まったく わからない。

胃が痛え

就活の一環で、 TOEICも申し込んだし、 放送大学の エキスパート認証も (←履歴書に書けるって 放送大学が宣伝してた。) 申請したんだけど、 メンタル的には なんとかなりそうなんだが、 胃が痛くなる。

漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)

質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これ...

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済...

妄想卒論その10 the day that never comes (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)   代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中...

「『都市』と漱石」試論

放送大学の「都市と地域の社会学」からインスパイアされたのですが、漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思うのです。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明ですが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思います。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうですが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考えます。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われます。 先ほど「身体性」というキーワードを提示しましたが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われます。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけです。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけです。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題ですが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのですが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市...