2023年10月16日月曜日
ある統合失調症患者の夢の記録
まーた
ひでえ夢みたなあ。
尊厳ある
おじいちゃんが、
ひたすら
シコってんだよ。
医者が、残念だが
この人は
施設に入れるしかない、と言う。
俺は、
おじいちゃんは
戦争で死の恐怖にさらされて、
それがトラウマになってるんだ、と
説明する。
(俺そうとう欲求不満なのかな?)
狂気とは狂人のなかにのみ
あるものであろうか?
確かに俺は
薬がなければ死ぬ以外に
道がない人間だが。
しかし、たとえ錯乱するレベルの
狂人であろうとも、
狂人には狂人なりの理屈があるのだ。
俺も
言うまでもなく
閉鎖病棟に二ヶ月いたが、
本気で前後不覚、ラリってる患者は
一人しか
見たことがない。
こいつはグレートだ、という患者。
あれはもう
自分の意思とかたぶんない。
(とはいえこれも
外見から判断してのことだが。)
何かというと
シコってるやつはいたが、
そいつも別に前後不覚ではなかった。
単なる依存症だ。
人間の無意識のリビドーを抑圧するのがトラウマだと
言った
フロイトは確かに正しいかも知れない。
(とはいえ、単純に俺が
欲求不満なだけかも知れない。)
しかし、ラリってるやつだから
ひたすら
シコってるとは言えないし、
ひたすら
シコってるから、ラリってるとも
言えない。
つまり、
ラリってる、と、シコってる、は
必要条件でも十分条件でもない。
知的障害の人に
公衆の面前でシコらないように
教え込むのは大変と聞いたことはあるが。
それは
実地の研究が足りないからなんとも言えない。
しかし、いずれにせよ
性的欲動など、
健全な人間なら誰でも
持っているものだ。
狂気と性を安易に結びつけるのは
間違いだろう。
むしろ、無意識の欲動を制御する
理性のほうに
注意を向けてみたい。
我々は資本主義機械を動かすために、
リビドーをうまく
コントロールしながら生きている。
しかし、俺の経験では、
資本主義に適合した人間にも、
羊の皮を被った狼のようなやつはいる。
非常に抜け目なく、
独裁者の素質に恵まれ、
時代と環境次第では
どんな
ヒトラーにでもなれる人間だ。
(ドイツ人ごめん。)
あるいは、参政党支持者みたいに、
反ワクチン、ノーマスクで、
最近は
三橋貴明に自ら進んで洗脳されてるような
連中も、
一種の狂気だ。
つまり、資本主義機械に適合する
一見”まとも”な
やつにこそ、狂気は潜んでいる。
ひとたび
社会が崩壊すれば、そういう奴らの
狂気は
社会に溢れかえることになるだろう。
まさに
ホッブズのいう「自然状態」だ。
理性を突き詰めた先に、
合理的な社会が
待っているだろうか?
俺は人間社会はそんなに単純ではない
と
思う。
完全に合理的な社会、というのは
そもそも
フィクションでしかないからだ。
ランドル・コリンズが言うように、
合理的な社会における
合理的な人間は、
つねに
己の利得のために
他人を出し抜く欲望に駆られるために、
一度
成立した
社会契約を、無限に掘り崩すからだ。
したがって、合理性の先に
合理的な社会があるのではなく、
秩序ある社会が
存在しているということ自体が、
人間が
完全に合理的には
生きてはいないことの
証拠なのだ、と
井上俊は指摘する。
ナチスは、ユダヤ人だけでなく、
精神病患者も殺した。
(ドイツ人ごめん。)
日本でも同じようなことを
やっていた。
理性を突き詰めた先に待っている社会は、
合理的な社会とは逆に、ディストピアだろう。
こうしてわれわれは、
私が社会的整形外科と
呼ぶものの時代に入ります。
それ以前に知られていた
固有の意味での
刑罰社会に対して、
私が規律社会として
区別する社会の一タイプ、
権力の一形態のことです。
それは社会的コントロールの時代です。
先ほど引いた理論家のなかに、
ある種のしかたで、
この監視社会、社会的整形外科の
図式のようなものを
予想し呈示していた人がいます。
それがベンサムです。
(中略)
われわれの生を
取り巻く
権力形態を
最も厳密に規定し
記述したのは彼なのです。
それに彼は
整形外科の一般化した
この社会の、小さいけれども
すばらしい、有名なモデルを
呈示しています。
あの一望監視装置(パノプティコン)です。
精神に働く
あるタイプの精神の権力を
可能にする建築形態、
学校や病院、刑務所、感化院、養老院、工場にとって
ものを言うにちがいない
一種の施設です。(103ページ)
ベンサムによれば、
このちょっとした
すばらしい建築学的からくりは、
一連の施設に使うことができるのです。
一望監視装置は
一社会のユートピアであり、
実のところ、われわれが
今経験している社会という
権力のタイプの、
実際に実現された
ユートピアなのです。
このタイプの権力は
掛け値なく一望監視方式と
名づけることができます。
われわれはその
一望監視装置が
支配している社会に
生きているのです。(103ページ)
一望監視装置とともに、
まったく違った
何かが生み出されます。
もはや調査ではなく、
監視が、検査があります。
もはや出来事を
再構成することではなく、
何か、というより、
不断に、
すみずみまで
監視されるべき
誰か
が
問題になります。
誰かが諸個人を
不断に監視し、
その誰かが
―教師、作業監督、医師、精神科医、看守長―
彼らの上に権力を及ぼし、
権力を及ぼすかぎりで、
監視するとともに、
監視される者たちについて、
彼からに関して、
知を構成するのです。
この知はもはや、
何かが起きたのかどうかを
決定するのではなく、
ある個人が
しかるべく振舞うかどうか、
規則に適して振舞うかどうか、
進歩するかどうかを
見定めることを
特徴とするものなのです。
この新しい知はもはや、
「これこれが
なされたか?
誰がそれをしたのか?」
という問いのまわりに
組織されるのではありません。
もはや、
いたとかいないとか、
あったとかなかったとかの
用語で整序されるのではなく、
規範を中心に、
正常かそうでないか、
適正かどうか、
なすべきことかいなか、
といったタームで
整序されるのです。
(フーコー・コレクション6 ちくま学芸文庫 104ページ)
つまり、言い換えれば、
フーコー流のベンサム的
一望監視社会の背後にあるのは、
ホッブズ的「自然状態」なのだ。
たとえ可視化された
リヴァイアサンがいなくても、
現代の我々は
一望監視装置がなければ、
お互いを殺し合う、
自然状態に陥らざるを得ない。
そもそも
可視化されたリヴァイアサンなど
本物の
独裁国家でない限り
存在しないのだから、
ホッブズの問題意識と、現代の
資本主義社会は、重なり合うのである。
こういう風に考えてみて下さい。 主体化した人間は、 主客未分化で 混沌とした自然から 離脱して 自立しようとしながら、 その一方で、 身体的欲望のレベルでは 自然に引き付けられている。 自らの欲望を最大限に充足し、 完全な快楽、 不安のない状態に至ろうと している。 それは、ある意味、 自然ともう一度統合された状態と 見ることができます。 母胎の中の胎児のように、 主客の分離による 不安を覚える必要がない わけですから。 そして、 そうした完全な充足状態に 到達すべく、 私たちは 自らの現在の欲望を抑え、 自己自身と生活環境 を 合理的に改造すべく、 努力し続けている。 安心して寝て暮らせる 状態に到達するために、 今はひたすら、 勤勉に働き続け、 自分を鍛え続けている。 しかし、 本当に「自己」が確立され、 各人が計算的合理性のみに従って 思考し行動するだけの 存在になってしまうと、 自己犠牲によって 獲得しようとしてきた 自然との再統合は、 最終的に不可能に なってしまいます。 日本の会社人間の悲哀という 形でよく聞く話ですが、 これは、ある意味、 自己と環境の啓蒙を通して、 「故郷」に帰還しようとする、 啓蒙化された人間全て が 普遍的に抱えている問題です。 啓蒙は、 そういう根源的自己矛盾 を 抱えているわけです。 (「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ) かなり抽象的な 説明になっていますが、 エッセンスは、先ほどお話ししたように、 自然との再統合を目指す 啓蒙の過程において、 人間自身の「自然」 を 抑圧することになる、 ということです。 啓蒙は、自然を支配し、 人間の思うように利用できる ようにすることで、 自然と再統合する過程だと 言えます。 自然を支配するために、 私たちは社会を 合理的に組織化します。 工場での生産体制、 都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等 を 合理化し、 各人の欲求をそれに合わせる ように仕向けます。 それは、 人間に本来備わっている “自然な欲求”を抑圧し、 人間の精神や意識 を 貶めることですが、 啓蒙と共にそうした事態が 進展します。 後期資本主義社会になると、 その傾向が極めて顕著になるわけです。 それが、 疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、 アドルノたちはそれを、 資本主義経済に固有の現象ではなく、 「主体性の原史」 に既に刻印されていると見ます。 (「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ)
ホルクハイマーと アドルノの 主張するところによれば、 事実、 ファシズムは ある程度まで 人間の抑圧された 神話的過去の 回帰とも、 また 道具的理性が 自然支配のために 発達させた 多くの道具を 逆用しての 支配された 自然の復讐とも 解されうるのである。 こうして「進歩」は、 おのれと 正反対のものを、 つまり 現代の制御技術を 駆使することによって はるかに 非情なものになった ひとつの 野蛮を 産み出すことになる。 科学は、 人間を 向上させる比類なき 力であるよりも、 むしろ ある新しいかたちの 非人間化の種子を 抱懐するものであることが 明らかになるのである。 科学が成立する 前提条件の一つは、 自然がまだ 道具的理性によって 支配されていない 状態の記憶を 消し去ってしまう ことにある。 ホルクハイマーと アドルノが、 きわめて 頻繁に 引用される その所感の一つで 強調しているように、 たしかに、 「あらゆる 物象化は 一種の 忘却なのである。」 (「アドルノ」 岩波現代文庫 49頁)
理性とはもともと
イデオロギー的なものなのだ、
とアドルノは主張する。
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上
その関数に貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性
である
絶対的支配
なるものを
ともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。」
(「アドルノ」 岩波現代文庫 98ページ)
「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より
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