2023年7月31日月曜日

都合のいいメンタル

市役所に 障害者枠で・・・ と 考えると、 都合よく メンタルが ヤバくなる。 やっぱ 1回 めちゃくちゃ 痛い目に あってるから、 仕事というか、 逃れがたい 人間関係に 巻き込まれることに、 すげえ ネガティブに 敏感になってるんだよね。 それは もう しょうがない。 だからこそ、 英語もやり 韓国語もやり、 なるべく 他人と 濃密な 接点持たないで 働けるように 努力してる つもりなんだけど。 てか、 もう 本来ならば 薬がなければ 発狂して 死ぬ以外 道がない 人間なんだから、 もう いいじゃねえか。 そんぐらい 神経すり減らしたんだよ。 もう いいじゃねえか。 ・・・暑さで 脳も バテてるな。 2学期の 面接授業の編成も 考え直さなきゃかな? 脳が バテてる。

2023年7月30日日曜日

「魔の山」 岩波文庫より (再掲)

さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)

後悔なんて何もない

小林家なんていう 狂った 家族に生まれなければ、 もっと 違う人生も あったかも 知れないが、 俺は ベストを 尽くした。 幸せな人生だった。 https://www.youtube.com/watch?v=UuUTGvXNKJg

バラッサ・サムエルソン仮説 増補

消費バスケットを 構成する 貿易可能財では、 国際貿易を通じた 裁定取引により 国際的な 一物一価が生じる一方、 サービスなどの 非貿易可能財では 国際的な 裁定取引が行われない。 日本での 非貿易可能財価格は 国内の生産投入費用、 特に実質賃金により 決定される。 貿易可能財産業で 高い労働生産性の伸び率を 達成した高所得国は、 その高い労働の 限界生産性から 国内実質賃金が すべての国内産業で高い。 高所得国の 非貿易可能財価格は 低所得国より高くなり、 同所得国の 実質為替レートは増価する。 日経新聞 「経済教室」 2022/1/26 より  https://imidas.jp/genre/detail/A-109-0085.html  https://jp.reuters.com/article/column-kazuo-momma-idJPKBN2FB0CH  日本は既に貿易黒字国ではなく、サービス収支も赤字、現在は第一次所得収支の大幅な黒字で、なんとか経常収支の黒字をキープしている状態です。 今後の日本はいわゆる成熟した債権国として生きていく以外ないのでしょうか? しかし、少子高齢化が進み、内需が減り続ける状態では、国内経済は弱る一方。 識者は、経常収支の黒字が赤字に転落するのも時間の問題と認識しているそうです。 やはり日本は、貿易で稼ぎ、その結果国内のサービス業の所得向上を目指すべきではないでしょうか? (以下 google bard より回答) 日本は、すでに貿易黒字国ではなく、サービス収支も赤字です。そのため、経常収支の黒字を維持するためには、第一次所得収支の黒字を拡大する必要があります。しかし、少子高齢化が進み、内需が減り続ける状態では、第一次所得収支の黒字を拡大することは困難です。 今後、日本は、いわゆる成熟した債権国として生きていくしかありません。しかし、少子高齢化が進み、内需が減り続ける状態では、国内経済は弱る一方です。そのため、日本は、貿易で稼ぎ、その結果国内のサービス業の所得向上を目指すべきです。 具体的には、以下のような施策を講じるべきです。 製造業の競争力を強化し、輸出を拡大する。 サービス業の輸出を拡大する。 外国人観光客を増やす。 インフラ投資を拡大し、国内の需要を創出する。 これらの施策を講じることで、日本は、成熟した債権国として生きながらも、国内経済を成長させることができるでしょう。

2023年7月29日土曜日

恋愛と資本主義ー私信より(部分)

俺:昨日の日経新聞に載っていたのですが、1970年時点では、韓国よりも北朝鮮のほうが、1人あたりGDPが高かったそうです。 今では韓国のほうが54倍高いそうですが。 隔世の感がありますね。 それはともかく、最近になって急速に韓国が日本人にとっても「近い国」になりましたが、ソフトパワーの力は凄いなと思わされます。 その韓国も、2002年に1度行ったきりなのですが、なんとなくやはり個人主義の波が浸透してきているような印象を受けます。 やはり、資本主義というのは不可避的に個人主義と親和性が強いのかもしれません。 そこで漱石を振り返ってみると、やはり漱石と資本主義の結びつきは強い、切り離せない関係にあるのではないか、と思わされます。 漱石の場合は、個人主義を超えて孤独主義まで行ってしまったようにも思えますが。 韓流ドラマのありがちな恋愛ドラマを見ていると、資本主義が急速に発展すると、不可避的に<恋愛>が重要な位置を占めるようになる、そんな気もします。 合理性で貫徹された社会に対抗する橋頭堡であり、同時に逃げ場所でもあるような。  先生:漱石個人主義と資本主義の不可分な結び付き、というのは、特に近年、論文にせよ授業にせよ、ご一緒して頂いたような講座にせよ、ラストあたりに差し掛かったところで、いつも頭に浮かぶ大きなテーマだからです。とりわけ「個人主義」を媒介項にした場合の「漱石ー資本主義」は見事に連携してしまいます。「個人主義」と「資本主義」をさらに「プロテスタンティズム」で媒介させれば、この連携性はより強烈になるかもしれません。貨幣、貯蓄、勤勉‥。なお、〈漱石の孤独〉ですが、最近、何となく思うのは、漱石流(あるいは程度の)「孤独」は本場、西欧の「個人主義」では相場、なのではないかと。  「個人」という単位の明確性=隔絶性とでも言えば良いようなーーそれは翻せば「他者理解」というもののセンチメンタリズム抜きの厳しく乾いた厳粛性とも表裏のような気がしますが。この辺りは西欧流〈友愛のポリティクス〉をきちんと渉猟してからでなくては言えませんが。ただ、例えば映画監督、ゴダールの幇助を依頼しての安楽死という出来事。カソリックが厳禁したにも拘らず、自殺の一形態である安楽死選択に対して欧米各国が門戸を開け始め、対するに日本を含むアジア諸国にはそう早くは浸透しないーーこれこそが近代個人主義というものの冷ややかな厳しさの有無の問題ではないのか、など。  一方、恋愛(ロマンチックラブ)こそは、まさしく資本主義の産物ですね。これを見事に解析しているのが大澤真幸の『性愛と資本主義』ですが、恋愛と貨幣が封建制崩壊後の自由な流通と交換を象徴する2大現象でありながら、その決定的な差異が、永久に交換されながら流通していく貨幣に対して、恋愛には恋愛結婚願望に象徴されるような、いつかは特別で交換不可能な唯一の対象に巡り合うはずだという幻想が付与されている点にある、と述べています。 漱石文学における〈貨幣と恋愛〉を説明するためにあるような論考だと、常々、感服するところです。  小林くんのメールの最後の1行にあった以下の言は、まさしく漱石もどこかで気づいていたはずの恋愛幻想の一側面ーー功利と合理に満ちた近代の緩衝材でもありますね。 > 合理性で貫徹された社会に対抗する橋頭堡であり、同時に逃げ場所でもあるような。 >  漱石をめぐる一番の微妙さは、おおむね漱石、および漱石を論じることには点の甘い日本の近現代文学の研究者たちが、いったい、この漱石と資本主義の微妙な関係をどのように評価しているのか、という点ですが、誰も話を詰めないのは、研究者の資本主義に対するスタンスを決しかねない厄介な地点へ踏み入ることになるからでしょう。

ゼロイチ

いま 日テレの番組で 1億6000万円の 豪邸の持ち主の 職業は 何か? っていう 番組見てて、 答えは 整形外科医で、 やっぱ 医者って 儲かるんだなー、とは 思ったけど、 これだけの豪邸で 1億6000万円て、 意外と 安くない?とも 思った。 架空の話だけど、 パワプロの育成ゲームに ハマって、 20年間の 現役生活を全うして、 得た教訓だけど、 野球選手って、 休めないのよ。 ほんと。 シーズンで活躍するのは もちろんのこと、 シーズンオフも 体作りしたり、練習したりで 休めないし、 シーズン中も 2軍に落とされたりして、 とにかく いくら稼いでも 使う暇がない。 それこそ、下手にカネがあると 野球に集中できないから 20億の豪邸とか 買っちゃって、 逆に 貧乏になっちゃう。 ほんと下手にカネがあると、 野球に集中できない。 大金持ちには 大金持ちの 苦労があるんだな、と いい 勉強になった。 パワプロで。 アメリカのスター選手とかで よくある話だけど、 引退してから 自家用飛行機とか 自家用ヘリとかで 事故って 亡くなるって話、あるよね。 ロイ・ハラデーとか コービー・ブライアントとか。 女子マラソンの 高橋尚子さんも パチンコが好きらしいし。 もう、 勝負事のスリルが 忘れられないんだろうね。 カネ稼ぐってのは、 色んな意味で大変よ。

円高と賃上げ

28日の金融政策決定会合で、長期金利の上昇を、1%まで容認し、 その結果 為替がドル円で円高に振れていますが、 企業の 賃上げが、 円安による 輸入価格増嵩の コスト・プッシュ インフレによるものだった ことを 考えると、 今後 円高に振れた場合、 せっかくの 賃上げムードが 萎れてしまう可能性は ないでしょうか? (以下 google bard より回答) 28日の金融政策決定会合で、長期金利の上昇を、1%まで容認したことにより、為替がドル円で円高に振れています。企業の賃上げが、円安による輸入価格増嵩のコスト・プッシュ・インフレによるものだったことを考えると、今後円高に振れた場合、せっかくの賃上げムードが萎れてしまう可能性はあります。 円高になると、輸入価格が下がるため、企業のコストが下がります。これにより、企業は利益を増やすことができますが、賃上げに回す余裕は減ります。また、円高により、輸出が減少する可能性もあります。輸出が減少すると、企業の売上や利益が下がり、賃上げを抑制する要因になります。 さらに、円高になると、国内の景気が悪化する可能性があります。国内の景気が悪くなると、企業は投資や雇用を抑制する傾向にあります。これは、賃上げを抑制する要因になります。 このように、円高は賃上げに悪影響を与える可能性があります。ただし、円高が賃上げに与える影響は、企業の業種や規模、経営戦略などによって異なります。また、円高が賃上げに与える影響は、時間の経過とともに変化する可能性があります。 (Nくんに聞いてみました。以下Nくんより回答) 可能性はあるでしょうね。でも仮に2%賃上げして、円安で輸入物価が上がって生活コストが2%上がった場合、生活水準は改善してないですよね。仮に賃上げ0%でも、円高で生活コストが下がるのであれば、生活水準が改善する可能性もあるんじゃないですか?海外生活していると、日本の物価がいかに低いかビックリしますよ。2019年に来てから、為替が80円から105円まで30%円安になり、かつ物価上昇が15%あって円ベースで1.5倍にはなってます。体感として、トロントの生活費は日本の2倍くらいだと思いますよ。 日本は補助金でガソリンや電気代上昇を抑えてきたので、既に価格上昇が終わった他国とは違い、インフレが持続すると思います。 (以上のやり取りを google bard に聞いてみた) 28日の金融政策決定会合で、長期金利の上昇を、1%まで容認したことにより、為替がドル円で円高に振れています。企業の賃上げが、円安による輸入価格増嵩のコスト・プッシュ・インフレによるものだったことを考えると、今後円高に振れた場合、せっかくの賃上げムードが萎れてしまう可能性はあります。 円高になると、輸入価格が下がるため、企業のコストが下がります。これにより、企業は利益を増やすことができますが、賃上げに回す余裕は減ります。また、円高により、輸出が減少する可能性もあります。輸出が減少すると、企業の売上や利益が下がり、賃上げを抑制する要因になります。 さらに、円高になると、国内の景気が悪化する可能性があります。国内の景気が悪くなると、企業は投資や雇用を抑制する傾向にあります。これは、賃上げを抑制する要因になります。 このように、円高は賃上げに悪影響を与える可能性があります。ただし、円高が賃上げに与える影響は、企業の業種や規模、経営戦略などによって異なります。また、円高が賃上げに与える影響は、時間の経過とともに変化する可能性があります。 Nくんの回答は、円高が賃上げに与える影響について、興味深い視点を提示しています。確かに、賃上げをしても、円安で輸入物価が上がって生活コストが上がってしまうのは、あまり意味がありません。また、円高で生活コストが下がれば、賃上げがなくても生活水準が改善する可能性もあります。 ただし、円高が賃上げに与える影響は、企業の業種や規模、経営戦略などによって異なります。また、円高が賃上げに与える影響は、時間の経過とともに変化する可能性があります。そのため、円高が賃上げに与える影響を過度に懸念する必要はありません。 今後、円高が賃上げにどのような影響を与えるかは、今後の経済情勢を見守る必要があります。

2023年7月28日金曜日

経常収支序説 (再掲)

質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。 回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。  そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。  しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf が論じています。参考にしてください。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

「金融と社会」質問と回答その1ー増補(のち改変) 再掲

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。  内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)  ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。 (以下 Google Bard より回答) はい、日本には巨額の対外純資産があります。これは、日本企業が海外で稼いだ利益を日本に持ち帰らず、海外で再投資しているためです。このため、日本は経常収支黒字を続けています。しかし、この経常収支黒字は、政府の財政赤字をファイナンスしているとも言えます。つまり、日本政府は、財政赤字を補てんするために、海外から資金を借り入れているのです。 この状況が続けば、日本は債務超過に陥る恐れがあります。そのため、財政収支と経常収支の「双子の赤字」を避けるために、増税や歳出削減などの財政健全化策を講じる必要があります。 一方、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たす可能性があります。例えば、政府が海外から資金を借り入れる必要が生じた場合、対外純資産を担保に借り入れを行うことができます。また、政府が国債を発行する際にも、対外純資産を担保にすることで、低金利で発行することができます。 ただし、対外純資産はあくまでストックであり、フローがなければ枯渇します。そのため、対外純資産を維持するためには、経常収支黒字を継続する必要があります。 まとめると、日本には巨額の対外純資産がありますが、この資産を維持するためには、財政健全化策を講じるとともに、経常収支黒字を継続する必要があります。

無聊を託つ(部分)ー改変 (再掲)

質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より) (以下 google bard より回答)少子高齢化が進むにつれて、老人の支出は減り、働く世代も将来の社会保障が不安になることで、消費が控えられるのは当然です。これは、小手先のナントカノミクスではどうにもならない問題です。政府は、NISAを恒久化するなど、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死ですが、デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、家計が現預金を貯め込むことで、結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることです。しかし、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、財政の規律が緩むことは目に見えています。また、日本ではインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうですが、フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずですが、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込むという方向に進んだようです。それはそれでいいでしょう。緩慢な死を迎えるだけです。 私は、少子高齢化が進む日本経済の将来は、非常に厳しいものになると思っています。デフレマインドが定着し、家計が消費を控え込むことで、経済が停滞し、財政が悪化する悪循環に陥るのではないでしょうか。政府は、デフレマインドを打破し、経済を活性化させるために、抜本的な改革をする必要があります。 ⇐これ、太字部分Google Bard の回答です。

バードに聞いてみた (再掲)

(質問)発行済国債残高が増えると、貨幣の流通速度は低下しますか?その理由を教えてください。 (以下 Google Bard より回答)はい、発行済国債残高が増えると、貨幣の流通速度は低下します。これは、国債の発行によって、政府が貨幣を供給する一方で、民間企業や個人の投資先が減少するためです。そのため、貨幣の流通量は増加しますが、貨幣の流通速度は低下します。 具体的には、政府が国債を発行すると、民間企業や個人は国債を購入するために、手元の貨幣を売却します。そのため、貨幣の流通量は増加します。しかし、国債は流動性が低い資産であるため、民間企業や個人は国債を購入した後も、すぐに売却する可能性は低いです。そのため、貨幣の流通速度は低下します。 また、国債の発行によって、政府の借金が増加します。これにより、政府の将来的な財政赤字に対する懸念が高まり、民間企業や個人の投資意欲が低下する可能性があります。そのため、貨幣の流通速度はさらに低下する可能性があります。

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

貨幣数量説 (再掲)

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は 古典派経済学の発想なので、 完全雇用は 常に 達成されていると 想定されているので、 物価は 貨幣量と 貨幣の流通速度で 決まる。 従って、 貨幣量を増加させれば、 物価は上がる。 「貨幣の 所得流通速度が 一定不変で, かつ 伸縮的な 価格メカニズムの 作用により 実質産出量 (実質国民所得) の水準が 長期の均衡値に 一致するならば, 貨幣数量の 変化は 国民所得の 大きさや 構成には なんら影響を与えず, ただ 物価水準を 比例的に 変化させると 主張する説。」 有斐閣経済辞典第4版

証券投資理論の基礎@広島大学 レジュメより (再掲)

Q:名目金利が 年8%で インフレ率 (CPI) が 年5%のとき、 実質金利は3%か? ex. 100円の債券投資 ⇛1年後:108円 100円の消費財の組み合わせ ⇛1年後:105円 のとき 1年後の108円の購買力=108/105=1.02857 (この投資の収益率:2.857%) 実質金利と名目金利、インフレ率 (CPI) の関係 1+実質金利=(1+名目金利)/(1+インフレ率) ex.参照せよ 式変形して、 すなわち ★実質金利=(名目金利-インフレ率)/(1+インフレ率) つまり、 デフレはマイナスのインフレ率なので、 実質金利を上げてしまう。

フィッシャー効果 (再掲)

物価上昇の予想が 金利を上昇させる という効果で、 フィッシャーが最初に それを指摘した ところから フィッシャー効果と 呼ばれる。 ある率で 物価の上昇が 予想されるようになると、 貸手が 貸金に生じる 購買力目減りの 補償を求める 結果として、 資金貸借で成立する 名目金利は 物価上昇の予想が なかったときの金利 (=実質金利) より、 その 予想物価上昇率分 だけ高まる。 (以下略) 有斐閣経済辞典第5版  https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

旬報社 (再掲)

もし、 日銀が目的としている 2%の物価上昇が 実現した場合、 国債の発行金利が 2%以上になるか、 利回りが 最低でも 2%以上になるまで 市場価格が下がります。 なぜなら、 実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) が マイナスの (つまり保有していると 損をする) 金融商品を買う 投資家はいない からです。 国債 (10年物) の利回りは 0.1%程度 (2018年11月現在) ですが、 それが 2.1% に上昇した場合、 何が起こるでしょうか。 政府の 国債発行コストが 跳ね上がるのは もちろんですが、 より重要なことは、 国債価格が暴落し、 国債を大量に保有している 銀行に莫大な評価損が 出ることです。 「経済の論点」 旬報社 72ページより

日銀金融政策決定会合

やっこさん そう 来たか。 面白くなってきたぜ。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230728/k10014145091000.html

どういうこっちゃ

大谷翔平選手が 完投・完封したらしい。 同じ 人間とは 思えない。 どういう 体力してんだ? 打撃のほうは 無安打だったそうだが。 てか、 ダブルヘッダーだから また すぐ 試合?! オカシイよ。 ブラック企業か。 ・・・異常だよ。 ダブルヘッダー 第2試合で ホームラン打ったよ。 第1試合で 無安打だったから さすがに 打撃は不調なのかと 思ったら。 どこまで 行っちゃうの?! ・・・って、 また ホームラン打ったの?!!!! オカシイでしょ この人。 もはや ミュータントのレベル。 この体力は どっから来るんだ? 9回完封した 直後のダブルヘッダーで 2本塁打。 異常だ。 ・・・次の日の試合。 第一打席で いきなり ホームラン。 第39号。 この人の限界が 見えない。 本人もまだ わかってないんじゃないか? そこが 逆に 不安ではあるが。 もはや 人間じゃねーな。  https://news.yahoo.co.jp/articles/91f450d2ffc65410a55299ab761c51a7a212f127  3点ビハインド 9回裏1死 満塁、ホームランが出れば サヨナラの打席で 代打。 こんな好機の場面で 代打出されるってことは 相当だな。 さすがの 大谷選手も 生身の人間だったか。

2023年7月27日木曜日

フーコーと統治 (再掲)

丸山眞男は 「日本の思想」 (岩波新書) で以下のように書いている。 しかしながら 天皇制が 近代日本の思想的 「機軸」 として負った役割は 単に いわゆる國體観念の教化と 浸透という面に 尽くされるのではない。 それは政治構造としても、 また経済・交通・教育・文化を 包含する 社会体制としても、 機構的側面を欠くことはできない。 そうして 近代化が著しく目立つのは 当然にこの側面である。 (・・・) むしろ 問題はどこまでも 制度における精神、制度を つくる精神が、 制度の具体的な 作用のし方と どのように内面的に結びつき、 それが制度自体と制度に たいする人々の考え方を どのように規定しているか、 という、 いわば日本国家の 認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、 つぎのように述べている。 「國體」が 融通無碍だという 言い方をすると、 観念的なもののように 聞こえるが、 そうではなく、 その観念に対応するように、 「経済・交通・教育・文化」の 各領域における 「制度」も 徐々に形成されていった。 「國體」観念を はっきり教義化しないので、 制度との対応関係も 最初のうちは はっきりと 分かりにくかったけど、 国体明徴運動から 国家総動員体制に向かう時期に はっきりしてきて、 目に見える効果を あげるようになった。 ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、 「統治性」という概念がある。 統治のための 機構や制度が、 人々に具体的行動を 取るよう指示したり、 禁止したりするだけでなく、 そうした操作を通して、 人々の振舞い方、 考え方を規定し、 それを当たり前のことに していく作用を 意味する。 人々が 制度によって規定された 振舞い方を 身に付けると、 今度は それが新たな制度形成へと フィードバックしていく わけである。 (P.111~112ページより引用)

フーコー・コレクション6 ちくま学芸文庫 より (再掲)

こうしてわれわれは、 私が社会的整形外科と 呼ぶものの時代に入ります。 それ以前に知られていた 固有の意味での 刑罰社会に対して、 私が規律社会として 区別する社会の一タイプ、 権力の一形態のことです。 それは社会的コントロールの時代です。 先ほど引いた理論家のなかに、 ある種のしかたで、 この監視社会、社会的整形外科の 図式のようなものを 予想し呈示していた人がいます。 それがベンサムです。 (中略) われわれの生を 取り巻く 権力形態を 最も厳密に規定し 記述したのは彼なのです。 それに彼は 整形外科の一般化した この社会の、小さいけれども すばらしい、有名なモデルを 呈示しています。 あの一望監視装置(パノプティコン)です。 精神に働く あるタイプの精神の権力を 可能にする建築形態、 学校や病院、刑務所、感化院、養老院、工場にとって ものを言うにちがいない 一種の施設です。(103ページ) ベンサムによれば、 このちょっとした すばらしい建築学的からくりは、 一連の施設に使うことができるのです。 一望監視装置は 一社会のユートピアであり、 実のところ、われわれが 今経験している社会という 権力のタイプの、 実際に実現された ユートピアなのです。 このタイプの権力は 掛け値なく一望監視方式と 名づけることができます。 われわれはその 一望監視装置が 支配している社会に 生きているのです。(103ページ) 一望監視装置とともに、 まったく違った 何かが生み出されます。 もはや調査ではなく、 監視が、検査があります。 もはや出来事を 再構成することではなく、 何か、というより、 不断に、 すみずみまで 監視されるべき 誰か が 問題になります。 誰かが諸個人を 不断に監視し、 その誰かが ―教師、作業監督、医師、精神科医、看守長― 彼らの上に権力を及ぼし、 権力を及ぼすかぎりで、 監視するとともに、 監視される者たちについて、 彼からに関して、 知を構成するのです。 この知はもはや、 何かが起きたのかどうかを 決定するのではなく、 ある個人が しかるべく振舞うかどうか、 規則に適して振舞うかどうか、 進歩するかどうかを 見定めることを 特徴とするものなのです。 この新しい知はもはや、 「これこれが なされたか? 誰がそれをしたのか?」 という問いのまわりに 組織されるのではありません。 もはや、 いたとかいないとか、 あったとかなかったとかの 用語で整序されるのではなく、 規範を中心に、 正常かそうでないか、 適正かどうか、 なすべきことかいなか、 といったタームで 整序されるのです。(104ページ)

これが原点 (再掲)

ところで、 ルソーは疎外論の 元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」 と 「社会的仮面を被ったワタシ」 の分離という 中学生が本能的に 感じるようなことに 言及していたそうである。 ここで、いわゆる 『キャラ』 について考えてみよう。 サークルの飲み会で、 場にあわせて ドンチャン騒ぎを やることに倦み果てて、 トイレに逃げ込んだときに 自分の顔を鏡でみるのは 一種のホラーである。 鏡に映る、グダグダに なって油断して仮面を 剥がしかけてしまった 見知らぬ自分。 それを自分だと思えず 一瞬見遣る鏡の前の男。 男は鏡に映る男が 自分であることに驚き、 鏡の中の男が同時に驚く。 その刹那両方の視線がカチあう。 俺は鏡を見ていて、 その俺を見ている鏡の中に 俺がいて、 それをまた俺が見ている・・・ という視線の 無限遡行が起こって、 自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような 思考実験からは、 <顔>について われわれが持っている イメージとは違う <顔>の性質を 垣間見ることが 出来るのではないか。 そもそも、 自分の顔は自分が一番よく知っている と誰もが思っているが、 鷲田清一によれば、 「われわれは 自分の顔から 遠く隔てられている」 (「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22) という。 それは、 「われわれは 他人の顔を思い描くこと なしに、 そのひとについて 思いをめぐらすことは できないが、 他方で、他人が それを眺めつつ <わたし>について 思いをめぐらす その顔を、 よりによって当のわたしは じかに見ることができない。」 (P.22)からだ。 言い換えれば、 「わたしはわたし(の顔)を 見つめる他者の顔、 他者の視線を通じてしか 自分の顔に 近づけないということである。」 (P.56)ゆえに、 「われわれは目の前にある 他者の顔を 『読む』ことによって、 いまの自分の顔の様態を 想像するわけである。 その意味では 他者は文字どおり <わたし>の鏡なのである。 他者の<顔>の上に 何かを読み取る、 あるいは「だれか」を読み取る、 そういう視覚の構造を 折り返したところに <わたし>が想像的に 措定されるのであるから、 <わたし>と他者とは それぞれ自己へといたるために たがいにその存在を 交叉させねば ならないのであり、 他者の<顔>を 読むことを覚えねば ならないのである。」(P.56) そして、 「こうした自己と他者の 存在の根源的交叉(キアスム)と その反転を可能にするのが、 解釈の共同的な構造である。 ともに同じ意味の枠を なぞっているという、 その解釈の共同性のみに 支えられているような 共謀関係に <わたし>の存在は 依拠しているわけである。 他者の<顔>、 わたしたちはそれを 通して自己の可視的な イメージを形成するの だとすれば、 <顔>の上にこそ 共同性が映しだされている ことになる。」(P.56) こう考えると、 「ひととひととの差異を しるしづける<顔>は、 皮肉にも、 世界について、あるいは自分たち についての 解釈のコードを 共有するものたちの あいだではじめて その具体的な意味を 得てくるような現象 だということがわかる。」(P.58) これはまさに、 サークルなどで各々が 被っている<キャラ>に まさしく当てはまる のではないか。 サークルという場においては、 暗黙の解釈コードを 共有しているかどうかを 試し試され、確認し合っており、 そのコードを理解できないもの、 理解しようとしないものは 排除される。 その意味では <キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。 視線の交錯の上に 成り立つ 「規律」に反するものを “排除”する構造は、 <キャラ>を媒介として成り立つ、 目には見えない 一望監視装置と言えるだろう。 フーコー学者からすれば、 例えば国勢調査などはまさに 「生‐政治」の典型だろうけど、 自分はこの類の 「教科書的フーコー理解」は、 結局 国家の牧人的 国民管理からの反逆、 打倒政府、行政性悪説に 辿り着くものでしかなく、 また、 フーコーの考える 「生‐政治」の可能性を 矮小化させてしまう ものだと思う。 フーコーの考えた 「生‐政治」というのは、 常に我々のすぐそばで 起こっている現象だと考える。 これは 『キャラ』 の牢獄に閉じ込められた 我々に当てはまる。 「生‐政治」というのは、 「私」が「国家権力」によって 常に監視されている、 という妄想的発想ではなく、 われわれ自身が、 お互いを監視し、 排除する当事者である のではないか?というように 考えるのです。 そう考えれば、 <キャラ> はすぐれて「生‐政治」の性質を 帯びている。

2023年7月26日水曜日

ビジネスと経済学@茨城大学 (再掲)

トヨタのT-UPみたいに、 大手の自動車会社が 中古車市場に参入するのも、 安い良質な中古車が 市場に出回ると、 新車が値崩れ起こすから、 そうならないように、 自社の中古車を ちゃんと整備して、 中古車の価格を 高めに維持することで、 新車の値崩れを防いでいる。 と、授業で 聞いた。

戦後ヨーロッパの政治と社会2@茨城大学

冷戦てのが 何回 聞いても 実感が わかなかったんだが、 この授業を拝聴して、 なるほど、そういうことか。 と 腑に落ちた 思いです。 やっぱ 冷戦が わからないと 第二次大戦後の 世界って わからないからね。 ポイント ポイントで、 ここが 要所、という ところを 押さえた 授業で、 勘所を掴めば、 なるほど、 と 見えてくるものが あります。

2023年7月24日月曜日

妄想卒論その13 (再掲)

読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)

詐欺師と政治

人々に 希望を 抱かせるには 政治が 「物語」 を 語ることが 必要であるが、 時として それは 危険な 独裁政治の萌芽をも 孕んでいる。 そのようなとき、 政治は 「あたかも 予測不可能な 事態以外 起こりえない」 かのように 振る舞うことで、 自らの 求心力を高め、 かつ、 熟慮の末の 慎重な決定ではなく、 性急な 決断主義に 容易に 陥るからである。 経済の破綻は しばしば そのような ポピュリズム政治を 招来する。

妄想卒論その3 (再掲)

詐欺師の存在は、 本書で繰り返し指摘してきたように、 現実には非社会的な部分があり、 それが不確定性を 生んでいることを 端的に示す。 というのも、詐欺師は、 あたかも世界には 予測不可能な事態 以外存在しない かのように行動している からである。 そして、 詐欺師のように 不確定性に賭ける 意志を持たなければ、 ひとびとに対して、 未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、 危険のある 不確定な状態こそが、 未来への地平を開くのである。 それは、 実現することが困難な 「物語」 の方に ひとびとは魅了され、 その方が希望を与えることが あるからである。 実現可能かどうかは 不確定な場合、 合理的に計算可能な範囲 を 越えている場合にこそ (計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。 (「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)

妄想卒論その1・2 (再掲)

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。

バードに聞いてみた。

質問:債券にも一物一価の法則は働きますか? (以下 google bard より回答)はい、債券にも一物一価の法則は働きます。ただし、債券は株式と異なり、流動性が低いため、価格が変動する範囲が狭くなります。また、債券の価格は、金利や発行体の信用力などの要因によって変動するため、一物一価の法則が常に成り立つとは限りません。 たとえば、金利が上昇すると、債券の価格は下落します。これは、金利が上昇すると、債券の利回りが低下するため、債券の価値が低下するからです。また、発行体の信用力が低下すると、債券の価格も下落します。これは、発行体が債務を履行できなくなるリスクが高まるため、債券の価値が低下するからです。 このように、債券の価格は、金利や発行体の信用力などの要因によって変動するため、一物一価の法則が常に成り立つとは限りません。ただし、債券は株式と異なり、流動性が低いため、価格が変動する範囲が狭くなります。

セルフメディケーション

タマキンを ちゃんと よく 洗ってから、 薬を塗ると、 かゆみが 嘘のように 消える。 やっぱ 雑菌なんだな。 しかし、 薬の説明書に 陰のうには 塗るな、と 書いてあるんだが、 タマキン以外の どこに 塗るというのだ?

踊る阿呆に見る阿呆

もう若い世代は 知らないだろうが、 坂口力 厚生労働大臣(当時)が 豚熱か何かの 対応に 追われてて、 そのうえ 鳥インフルエンザと 牛の口蹄疫か 何かまで 発生して、 「モウ、ケッコウ。」 と 発言してたのを マスコミが騒いで けしからん けしからん て 騒いでたな。 くだらねー。 柳澤伯夫 厚生労働大臣(当時) だったかな? 「女性は産む機械」 なんて 発言しちゃって、 なんで そんなこと言っちゃったかな? と 思うんだけど、 今から思えば、 既に 手遅れ感の色濃い 少子化対策を考えれば、 あの時 あんな 片言隻句に囚われて 大騒ぎしてる 場合じゃなかったんじゃ ないのか? メディアも国民も、 危機意識が まったく なかった。 結局 政治家がどうにかしてくれる と 思ってるくせに、 とりあえず 政治家と官僚を 叩いとけ、 という空気が 蔓延してた。 あの頃は まだ ネット社会じゃなかったけどな。 ネット社会になって 日本の政治やマスコミ報道の 質が 上がったかというと、 逆に 劣化してるようにしか 見えないが。 あれだけ DX DX 騒いで、 マイナンバーカード すら 普及させられない。 労働生産性を 高める 効果的な 施策のはずが。 確かに 行政不信も 行き過ぎた 行政性悪説も 感覚としては わからなくもないが、 巡り巡って 国民一人ひとりに 恩恵が 来るものを、 なにか イチャモンつけて 拒否する。 この国は いっぺん ポシャらないと、 何も 変わらない。

2023年7月23日日曜日

私見では

大谷翔平選手は、 今季は 残りもう 調子あがらない んじゃないか? シーズンオフ、つまり WBCから あんだけ飛ばして、 レギュラーシーズンで ここまで 投打二刀流で 活躍してたのが既に 人間業じゃない。 体力面が凄いのはそうだが、 あんだけ 活躍しまくって、 脳が快感覚えちゃったら、 人間の脳みそだったら、 もう お腹いっぱいになっちゃうよ。 もちろん 脳がね。 しばらく 休まないと、 それこそ 人間業じゃない。 さすがの 大谷翔平選手でも、 今季は そろそろ 限界だろう。 仮に 彼が 宇宙人ではなく 人間ならばの 話だが。 ああ、そういえば 彼 ピッチャーだったね。 ピッチングでも うまくいかないと、 余計 空回りして 悪循環に 陥りそうだけど。 杞憂ならばいいが。 ・・・と思ってたら、 いきなり ホームラン打ったよ。 超人かよ。

日笠完治先生より (再掲)

○国会に対して 連帯して 責任を負ってるのは、 内閣であって、総理大臣ではない。 ⇒憲法66条3項 「内閣は、行政権の行使について、国会に対して責任を負う。」から、 正当な主張です。 国会との関係における原則です。 ○したがって、 安倍首相の辞任に伴って、 内閣が総辞職して、 国会であらためて 首相を選ぶ選挙が行われた。 ⇒国会法64条で 内閣総理大臣は、 辞表を提出することができます。 辞表を提出すれば、 内閣総理大臣が欠けたことになります。 ⇒憲法70条で 「内閣総理大臣が欠けたときは、……内閣は総辞職しなければならない。」 に該当する。 ⇒そこで、次期内閣総理大臣は、 憲法67条で、 「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。」 >>>>今回も、 憲法の規定通りに 行われています。 衆議院の解散については、 政治課題となっても、別の問題です。 ○もし解散権が首相の専権事項だというなら、 当然国会に対して 連帯責任を負っているのは 首相であって、首相が辞めた以上、衆議院を解散しなければならない。 ⇒憲法69条の 「衆議院が解散されない限り」 の規定、と、憲法7条第3号 「天皇は、内閣が助言と承認により、……これを行う。」 の規定から、 衆議院の解散権の主体は、 形式的には「天皇」であり、 その国事行為の関して 授業でお話ししたとおり 議論はありますが、 実質的には 内閣と解釈されています。 内閣総理大臣は 内閣の首長ですから、 実質的には内閣総理大臣が 解散を決定します。 ⇒新内閣総理大臣は、 解散権を現在行使しないと 発言されています。 首相が交代したが、 衆議院の解散は 必ず行わなければならないとは 言えません。 もちろん、授業で説明したように、 解散権行使は、 自由ではないという考え方もあります。 憲法解釈的には傾聴すべき見解ですが、 そのように解釈すべきとの 制度的な保障システムは ありません。 ○そうでない、 つまり国会に対して 連帯して責任を負っているのは 内閣だというなら、 政界の常識となっている 解散権は首相の 専権事項という考え方は、 憲法違反ということになる。 ⇒内閣の中に、 解散に反対する人がいれば、 内閣総理大臣は、 憲法68条2項によって、罷免することができます。 そして、 賛成の 残った国務大臣が 内閣として 内閣総理大臣の決定に従う という構図です。 ⇒憲法66条3項の 「内閣の連帯責任」 は、内閣一体の原則の表れです。 行政権が一体ではなく、 国務大臣ごとにバラバラに 行政を運営すれば、 現実問題が山積することになります。 そこで、 同条1項に規定されているように、 「首長」たる内閣総理大臣の 権限が存在します。 とりわけ国務大臣の 任命・罷免権を 背景として、 閣議を主宰しているのは、 内閣総理大臣です。 ⇒したがって、 ご意見のように「憲法違反」とは言えないというのが、 多数の解釈です。 以上、ご説明させていただきました。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93  「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。   「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。  第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)  グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。   1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より  そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。  「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)

国会議員定数削減問題

国会議員の数を 減らすのは、 危険。 それこそ 維新の会のような 相対的に 少数派の政党が 政権を獲得する 可能性が 高まる。 それが ポピュリズム政党ならば、 なおさらだ。 かといって、 現状があるべき姿とも 思えない。 生稲晃子のような 数合わせの 操り人形が議席を 持っているのも、 本来不必要と言って 過言でない 枠だろう。 しかし、それは 官邸一強と言われた 官邸と、官邸に気に入られた 官邸官僚が 政治を牛耳る 安倍政治の 副作用であって、 権力から遠ざかった 国会議員は 数合わせに過ぎず、 官僚もまた、 官邸から目を かけられなければ、 およそ 本来の能力を発揮できずに、 辞めてしまう。 しかし、それは マスコミと国民総出で 「決められない政治」 を 指弾し続けた 結果であることも 忘れてはならない。

サンモニと美味しんぼ

サンモニって、 年齢高めの 東大卒の人が 作ってるのかな? 「やれやれ、困ったもんだ。」 っていう ため息のつき方が、 美味しんぼ と 同じ 臭いがする。 決して 自分の無謬性を 疑わない態度も、 同様。 その上から目線が、 ウザい。 作ってる制作サイドは、 自分たちは 意識高いと 思ってるんだろうけど。

「ソクラテスに批評精神を学ぶ」@茨城大学 資料より (再掲)

私は、 自分の もともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

2023年7月22日土曜日

韓国語学習

惜しくも クレジットカードは 審査に 落ちたようだが、 Duolingoは 無料で やっても 続けられるし、 むしろ ポイント無限だと ひたすら やってしまって、 かえって 疲れるので、 良いかもしれない。 ペースが掴めてきた。 無料でも 十分 楽しめる。 韓国語の 学習環境が かつてないほど 改善されている。

2023年7月21日金曜日

「金融と社会」質問と回答その1ー増補(のち改変)

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。  内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)  ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。 (以下 Google Bard より回答) はい、日本には巨額の対外純資産があります。これは、日本企業が海外で稼いだ利益を日本に持ち帰らず、海外で再投資しているためです。このため、日本は経常収支黒字を続けています。しかし、この経常収支黒字は、政府の財政赤字をファイナンスしているとも言えます。つまり、日本政府は、財政赤字を補てんするために、海外から資金を借り入れているのです。 この状況が続けば、日本は債務超過に陥る恐れがあります。そのため、財政収支と経常収支の「双子の赤字」を避けるために、増税や歳出削減などの財政健全化策を講じる必要があります。 一方、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たす可能性があります。例えば、政府が海外から資金を借り入れる必要が生じた場合、対外純資産を担保に借り入れを行うことができます。また、政府が国債を発行する際にも、対外純資産を担保にすることで、低金利で発行することができます。 ただし、対外純資産はあくまでストックであり、フローがなければ枯渇します。そのため、対外純資産を維持するためには、経常収支黒字を継続する必要があります。 まとめると、日本には巨額の対外純資産がありますが、この資産を維持するためには、財政健全化策を講じるとともに、経常収支黒字を継続する必要があります。

インタゲと増税はワンセット バードに聞いてみた

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。 (以下 google bard より回答) アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標は、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指しています。この政策は、オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンが唱えた「政策割当の原理」に反しているのではないかという議論がありました。 ティンバーゲンの「政策割当の原理」とは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」というものです。つまり、インフレと財政再建の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要であるということになります。 アベノミクスでは、インフレ目標を達成するために、異次元の金融緩和を実施しています。しかし、この金融緩和は、財政再建に直接的にはつながりません。そのため、アベノミクスでは、財政再建のために、消費税の増税などの財政政策も実施しています。 このように、アベノミクスでは、インフレ目標と財政再建という2つの政策目標を達成するために、異次元の金融緩和と財政政策という2つの政策手段を実施しています。そのため、ティンバーゲンの「政策割当の原理」に反しているとは言えません。 ただし、アベノミクスが成功するかどうかは、インフレ目標と財政再建という2つの政策目標が両立できるかどうかにかかっています。もし、インフレ目標が達成されても、財政再建がうまくいかなければ、アベノミクスは失敗することになります。

無聊を託つ(部分)ー改変

質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より) (以下 google bard より回答)少子高齢化が進むにつれて、老人の支出は減り、働く世代も将来の社会保障が不安になることで、消費が控えられるのは当然です。これは、小手先のナントカノミクスではどうにもならない問題です。政府は、NISAを恒久化するなど、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死ですが、デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、家計が現預金を貯め込むことで、結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることです。しかし、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、財政の規律が緩むことは目に見えています。また、日本ではインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうですが、フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずですが、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込むという方向に進んだようです。それはそれでいいでしょう。緩慢な死を迎えるだけです。 私は、少子高齢化が進む日本経済の将来は、非常に厳しいものになると思っています。デフレマインドが定着し、家計が消費を控え込むことで、経済が停滞し、財政が悪化する悪循環に陥るのではないでしょうか。政府は、デフレマインドを打破し、経済を活性化させるために、抜本的な改革をする必要があります。 ⇐これ、太字部分Google Bard の回答です。

2023年7月20日木曜日

末人ーウィキペディアより

いまの 日本人は 末人ばっかりに なっちまったな。 こんな国に 未来はないと 思うわ。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E4%BA%BA

構造主義と倫理 (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

2023年7月19日水曜日

ボードレール 「フーコー・コレクション6」ちくま学芸文庫 より (再掲)

ボードレールにとって、現代的な人間とは、自己自身の発見、自らの秘密および自らの隠された真理の発見へと向かう人間ではない。 現代的な人間とは、自分自身を自ら創出する人間のことなのだ。 現代性は、「人間をその固有の存在へと解き放つことはない」。 現代性は、人間を、自分自身を作り上げるという使命に縛り付けるのである。 (379ページ) (中略) <現在>のこうしたアイロニカルな英雄化、現実的なものを 変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、 自己の禁欲的な練り上げ、 ボードレールはそれらが社会自体のなかで、 あるいは政治体のなかで 成立しうる、 とは考えていない。 それは、他の場所でしか起こりえないのであり、 その場所こそ、 ボードレールが 芸術と呼ぶものなのである。 (380ページ)

形而上学の死

りゅうちぇるが死んだ。 これって、クズどもが 一番 メシウマな パターンだろ。 善人のツラをした 悪魔どもが。 彼(彼女?)は 死んではいけなかった。 こんな形で。 こんな 形而上学が 死んだ この国で。 人間は万物の尺度だ。 多様性だの ダイバーシティだの なんてのは、 偽善だ。 なぜなら、それは 価値観は多様だ、 従って 倫理観念も多様だ、 正義も 人それぞれ、 という言明をも 正当化してしまう。 そんな世界では 正義など 存在しない。 なぜなら、 人間こそが 万物の尺度だ からだ。 それは 形而上学の死だ。 彼(彼女?)は 死んではいけなかった。 世間に爪弾きにされても、 ツバを吐きかけられても。 多様性を 主張するなら、 生きることで 自分の生き方の 正当性を 立証しなければ ならなかった。 なぜなら、 人間は万物の 尺度だからだ。

2023年7月18日火曜日

よくやった!!!

俺の平沼 スタメン起用にこたえる一発! 守備も安定感があるし、えー選手に なってきたな。 https://pacificleague.com/video/3822822

2023年7月17日月曜日

2学期の面接授業

今日は バブルがハジけましたね。 今月3日に 2学期の 面接授業の予定が 公開されて、 あれこれシミュレーション してみましたが、 色んな 要因が重なって、 頭の中が イケイケになってて、 気づいたら とんでもなくタイトな スケジュールを組んでいた。 今日になって ようやく スケジュールの異常さに 気づいて、 もっと 体力的にも 予算的にも 余力のある スケジュールを考えました。 と、いっても 科目登録期間まだまだ 先ですけどね。 1学期は、 面接授業が3つ でしたが、 充実していました。 森本先生の 夏目漱石の授業も 素晴らしかったし、 茨城大学で受けた アリストテレスの倫理学も 素晴らしかったし、 戦後ヨーロッパの政治と社会2も 良かった。 必ずしも 数多く 面接授業を取ればいい、 という訳でもない。 とはいえ、 2学期の面接授業が 始まるまで かなり 時間があるから、 時間の使い方を 考えないと。

2023年7月16日日曜日

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93  「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。   「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。  第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)  グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。   1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より  そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。  「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)

反・陰謀論 (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

参政党批判 (再掲)

世の中には、自分の頭で考える能力がなくて、 なんでも他人任せの人ってのがいるが、 そのうち、何から何までアレクサに訊いて、逐一行動するって人が、 大量発生しそうだよね。 自分の頭で考えるって、意外と難しいよね。 自分の頭で考えた結果、 人工知能に優る、とも限らないし。 自分の頭で考える、とはどういうことか、を自分の頭で考える、なんていうと、すでにもうメタの世界に入ってるし。 たださ、やっぱり自分の行動、言動に対して、最低限でも責任を負わせるってことは大事なんじゃないかな? 人工知能がそう言ったからその通りにしました、私の何が悪いんですか? なんて言われたら、社会が崩壊しかねない。 歴史に照らして見ても、政治的権利を放棄するのって、結局権力者に自分の自己決定権を丸投げするのと同じで、 無責任の共同体が出現するだけだよね。 前の参院選で、投票用紙を破って棄てた俺が言えた義理じゃないけど。 参政党が参院で1議席獲得して、何かとネット上で耳目を集めてるけど、 反ワクチンやら陰謀論やら、 物議を醸しそうなネタ満載だけど、 飽くまで主権者の主権を擁護する限りは、 存在を否定はしない。 しかし、陰謀論に走っちゃうと、 いつの間にか主権者の主権を放棄させてる結果になるってことは、 あり得る。 それは、ナチズムが、階層構造になっていて、上に行くほど、自分はより真実に近づいている、という錯覚、快感が、階層構造それ自体を補強している、というメカニズムが働いたのと同じ。 その結果、トップは誰もが知り得ない真実を知っているはずだから、トップの言うことに従えば間違いない、という理屈で、自らの政治的主権を放棄してしまう。 その兆候が見えたら、即、断固として抗議しなければならない。 安倍政権だって、そういう側面があるんじゃないか? 我々には窺い知れないが、きっと安倍さんには安倍さんなりの深謀遠慮があるはずだ、みたいな。 政治である以上、何でもかんでもガラス張りに出来るわけがないってところが、政治の難しさでもあるが。 不透明な世の中だからこそ、安易に陰謀論に流されず、丁寧に腑分けをしていく作業が求められる。

2023年7月15日土曜日

単位認定試験

感情・人格心理学と 社会・集団・家族心理学の 単位認定試験 終了。 それぞれ 択一式で 10問しかないから、 楽といえば 楽だが、 けっこう考えたり、 教科書を 読み返さないと わからなかった。 もちろん、放送授業も 4月が始まる前に すでに 2回見てるしね。 でも、 社会・集団・家族心理学の、 家族心理学の部分は まったく 視聴してないから、 当然設問も まったく 意味不明だったから、 適当に それっぽいものを 選んだけど。 とはいえ、いずれにせよ 十分な準備をしないと 答えられない 内容でした。

2023年7月14日金曜日

漱石と「孤独」

俺:漱石の孤独の論考を読ませていただき、なるほど、と感服いたしました。 しかし、しばらく経って考えてみると、漱石は、例えば「こころ」では、(漱石自身の写し身である)「先生」の孤独を描きながらも、鎌倉の海辺での出会いにおける「私」の呑気さの描写も、リアリティーがあります。 つまり、孤独を描いているのはもちろんのことなのですが、世間一般の呑気さを描くことも出来る。 しかし、世間一般の「呑気さ」を理解しながら、「孤独」を描写する、という行為は、単に「孤独」を感じ、描写するよりも、なお一層ツライことだと思われます。 森本先生:「先生」と「私」の対比ーーいわば〈閉じる人〉と〈開く人〉とでも評すれば良いでしょうか、「私」自身が回想手記の中でこのことには気づいているようですーー、特に末尾の「呑気さ」を理解しながら「孤独」を描写する辛さ、には唸らされました。 私の気持ちとしては、「孤独」それ自体というより、「孤独」を代償とせざるを得ない「個我」意識(「上」14章の「自由と独立と己れと充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わってわわなくてはならない」)の方を強調したいのですが、確かにその弊を知るが故に、「轍を踏むな」という言い方で、その生の道程を「私」へ開示するーーつまり、相対化ですね。 しかも、「呑気なー私」のポジションそれ自体は、「先生」ときっかり対峙し、向き合羽もの、というよりは、究極するところ、「先生」という存在の「受け取り手」の域を出ないわけです。 「先生」は「私」に対して、自分の生き方を相対化して乗り越えてゆくことを切望していますが、テクストは、あくまでそれを「先生」側からの「期待」として描くに止まり、「期待」が「私」へどのように反映されるか/され得るか、については案外、寡黙です。 実際、「私」の他者に対して〈開かれた〉在り方ーー小林くんのいう「呑気さ」は、まさに「世間」(的ものの見方)に対して融和的でもあり、ということは、ごく平らかに、「先生」の死後、あのホモソーシャルな世界へ帰還してゆきます。いったんは「奥さん・静」に対して「1:1ー個人 対 個人」として向き合いながら、そこに人妻の媚態を見出し、彼女を「先生・の・奥さん」へと送り返してしまう。つまり典型的な「ホモソーシャル」の成立。そして「中」で故郷と両親を回想する「私」は、故郷との永訣に個の成立を見ようとした「先生」とは対照的に、「先生」への崇敬故に「父」をないがしろにした、若い日に対する悔恨を語っています。 「明治の精神」から自由な、しかし、「明治の精神」が唯一、誇らかに歌い上げた「個我」(自由・独立・己れ)からは後退を示す、青年「私」。 漱石自身の弟子たち次世代に見ていたもの、と、どこか重なるような気がします。 まさに、漱石は、その限界と弊を知悉しながら、どこまでも「先生」なのでしょうね。 そんな「先生」を崇敬といたわりの相半ばするスタンスで回想しつつ「私」が綴る二人の交友と交情は、美しく抒情的で、私などは「下」の「遺書」ーー「先生」と「K」の息づまるような物語よりずっと愛着を感じるのですが、「私」的登場人物は、この『こころ』が最後ですね。 『道草』『明暗』ーー主人公たちは、もはや「個我」への自負もすり減った、孤独の影の濃い中年男性ですが、絶筆『明暗』で漱石が最後に挑んだのが、親友でも青年でもない、「妻」を前に〈開く〉ことは可能か、のテーマだったというのは、実に興味深い話だと、つくづく感じ入るところです。

2023年7月13日木曜日

郡山

放送大学の 2学期の 面接授業で、 福島学習センターで 取ってみようかと 思ってる 授業があって、 福島学習センターが 郡山の 郡山女子大学にあるんだが、 ふと、 郡山といえば、 2浪してる時に、 母親から1万円もらって、 羽生から東武動物公園まで行って、 日光線の快速に乗り換えて、 会津田島まで行って 野岩鉄道で 山奥の秘境みたいなところを ひたすら走って 会津若松まで行って、 そこから 郡山に出て、 東北線で久喜まで来たところで お金が足りなくなって、 母親に来てもらって、 精算して 羽生まで帰ってきた、 ってことがあったね。 あのときは、もう誰も 浪人してなくて、 メンタルも危機的だったし、 俺の人生どうなっちゃうんだろう? と 漠たる不安感のなかを 必死に もがいてる感じだったなあ。 そんなこと 思い出すと、 ほんとによくまあ ここまで来たよ。 あの時の俺に エールを送ってやりたいね。 お前の人生 悪くないぞ! てね。 俺けっこう 泥沼はいつくばって 生きてきたと 思ってるんだけど、 往々にして 苦労知らずの お坊ちゃんて 思われるんだよね。 その度に、 ふふ。 あなたは 俺に 騙されてるよ。 と 内心おもっているのだが。

辛かった・・・

自宅の近くに 美容室と床屋が 両方あるんだが、 母親は 床屋のほうが 都合が良いとかで、 いま 付き添いで 一緒に行ってきた。 辛かった・・・。 マスターがスタッフにかける声が、 優しさがないんだよね。 もちろん 客には丁寧に対応するんだけど。 まあ決して 悪い人ではないんだろうけど、 なんか 情の薄い人、という 印象を受けた。 だから、俺は 床屋ではなく 女性が経営してる 近くの 美容室に行くんだが。 床屋は、 もうガチガチの 男性社会空間で、 男性向けの マンガなり雑誌が 置いてあったり、 ラジオが流れてたりするんだけど、 情報が 雑というか、粗すぎて、 俺には だんだんツラくなってきた。 もちろんグラビアとかも まあ、まあ、て 感じだったけど、 とにかく 1時間待ってるだけでも キツかった。 ああいう空間で なんのストレスも感じない くらいの人じゃないと、 市役所なんか 務まらないわな。 昨日、高崎市の福祉の人が来て 1時間話したけど、 やっぱり 生活保護の課は、 申請者が怒鳴り散らしてるって 言ってたもんな。 俺は そんな空間耐えられない。 そう考えると、 父親は確かに、 ひでえ、と 思うこともあったけど、 根本的には 情が凄くある人だったな。 だからこそ、 部下に慕われて、 葬儀の時に 頼んでもいないのに 社葬レベルの葬儀に なっちゃったんだろうけど。 女性だから、っていうのも 違うのかも知れないけど、 女性が社会で 活躍するのは いいことよ。 選択肢が増えるって 意味でも。

わけわからん

姉に 最後に会った時、 遺書を書けって言われた。 姉が俺より 先に死んだとして、 母親もそのうち他界して、 最後に 俺が死んだ時、 俺のお骨を 母方の墓に入れるか 父方の墓に入れるか 決めておかないと 息子 (俺の甥っ子) が 困るから、 俺が どっちの墓に入りたいか 遺書書いとかないと、 甥っ子が困るから、 とかいう 意味不明なこと 言ってた。 大真面目に。 よくそんなことまで 考えたな、と 思うけど、何か 裏にあるのか なんなのか 全く わからんが、 とにかく ジョジョに奇妙な 相続話に なっていってる。

分かる!聞き取れるぞジョジョー!!!

韓国語能力試験2の 過去問を 試しに 聴いてみたら、 もちろん まだ 全部ではないにせよ、 簡単な 問題だったら 完璧に 聞き取れる! こんな日が来るなんて!!! ありがとう Duolingo! `・・・おはようございます。 朝起きたとき 朝の6時なのか、 夕方の6時なのか、 しばらく わかりませんでした。 昨晩 夜中の2時半まで Duolingoに取り憑かれて、 限界までやって、 風呂入って シュウマイ食って寝たので ちょっと 顔がむくんでますが、 正味 3時間半しか寝ていないのが 信じられないほど ぐっすり 眠れました。 絶好調! たぶんウツの前触れとか ではないと 思いますが。 ・・・2度寝。 (;´∀`)

2023年7月12日水曜日

conversation in English

俺:As you know, Republic state is a very unstable political organization. It requires very strong political theory to be maintained. So, the Emperor system is one of the convenient solutions to make a political organization stable. It goes for Japan or the UK. However imaginary it would be, a monarchy system is tenderly supported by his/her components. Then, if so, South Korea is very a interesting nation. Would you let me know your idea ? ジョンさん:Korea might still have a monarchy had Japan not killed the royal family. Many Asian countries like China, Vietnam, Cambodia, Thailand have/had monarchies. They are compatible with Confucian values I think. The Republican ideal started with Sun Yat Sen in China, but I wonder if it ever would have succeeded had Japan not horribly defeated China in 1894-95 War? Monarchy was discredited because China lost and the Boxer Rebellion of 1900 finally killed it. The Emperor could not protect China any longer and he lost legitimacy. So, to be honest, monarchy seems more natural, in a way, for Asian cultures and societies. North Korea is proof, as the Kim family is seen just as the old Emperors were, Divine Right to rule. Living gods. 俺:I have come to an idea that the threat of North Korea has been giving legitimacy to the Presidents of South Korea. ジョンさん:Well, North Korea did try to destroy South Korea in the 1950s and has been killing South Koreans from then to the present Kim regime. I would say any non-communist Seoul government which protects South Korea from these murderous attacks is legitimate. Korean democracy is healthy and strong. They advanced from military dictatorship to true democracy. I think it’s obvious Korea’s democracy is more functional than Japan’s one party rule. Japan would do well to learn from South Korea’s Democratic experiment. I don’t think Japan’s ruling class learned anything about true democratic ideas from MacArthur.

2023年7月11日火曜日

漱石の魅力

俺:漱石の魅力は、エモさに逃げないところですよね。 どこまでも論理で詰めようとする。 それが「行人」の一郎のような狂気一歩手前まで行っても、そこで終わらない。 結局はホモソーシャルという親密圏から逃れられてはいないし、他者との繋がりの構築という意味では解決案を呈示できてはいないのですが、安易な妥協をしないで、むしろ問いを現代の私たちに投げかけ続けているところが、漱石の最大の価値なのではないか、と思われます。 森本先生:エモさに逃げない論理性、そしてそのように追尋しても、なお解決不能な不可解な「他者」との関係性ーーいずれも納得、なるほど、まさにその通りですね。 ただ、ホモソーシャルへの囚われ、という点についてはーー解消はできぬながら、最後のところで拒否しているのでは、といった感触があります。「一郎」は、深い眠り、という形で、自分を描写して弟、二郎へ報告しようとする「Hさん」の〈解釈〉を中途で遮断、宙吊りにしてしまいますね。これを以て「Hさん」を媒介に「一郎ー二郎」と連なってゆきかけたホモソーシャル連続体も宙吊りにされてしまいます。 『こころ』でも「先生ーあなたーあなた方」は一見、ホモソーシャルな共同体を形成しているようではありながら、ここでの「先生」は死者、メッセージは「遺書」ーーつまり「生命」と引き換えにしてしか連続体らしきものは構成されません。 しかも興味深いのは、この「一郎」や「先生」のホモソーシャルな連なりに対する拒否感が、必ずしもジェンダーに対する相対化から来ているのではなく、むしろ強烈な「個(我)」意識ーー私は私であって他の誰でもないーーから来ているらしいことです。「先生」は「遺書」の書き始めに、自分の命が潰えることを絶対条件に過去を明かすことにした理由として、何と「私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有」だ、というような趣旨を述べています。今で言うところの「プライバシー」ですが、それがあくまで自分の「こころ」に立ち入られることへの拒否感であることは注目に値します。まるで「個室」がそうであるような、「内面」の仕切りを持った容量とでも呼ぶべきものが伝わってくる一節です。 「私」が回想する、「先生と私」のあの忘れ難い鎌倉の海辺における出会いの場面についても、遭遇の歓びに海の中で身体を躍らせ、「愉快ですね」と呼びかける私に対して、「先生」は静かに波の上に横たわりながら「もう帰りませんか」と促すのです。もちろん、この距離感は、直接的には「先生」がすでに「(自)死」を念頭に置いているからではあるのですが、「自他」の絶対的差異に対する鋭敏な意識、そのもののようにも思われます。 だから漱石は孤独だし、また容易に「関係性」も成り立たないわけですが。

「キリスト教哲学の歴史」@八戸サテライト レポート (再掲)

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

2023年7月9日日曜日

社会的協力論

放送大学大学院の科目です。 学部生でも タダで 大学院の 講義を視聴できるのが 素晴らしい。 東証プライム上場企業の 半分近くが PBR1倍割れって、 この国 どうなってんだろう? と マジで疑問が 湧いてきて、 いろいろ漁って みたら、 ふと 坂井素思先生の講義に 行き当たって、 第1回の 講義を 視聴したところです。 やっぱ 目的意識を持って 聞くと、ぜんぜん違って 聞こえるね。 ただの 椅子が好きな おじさんかと思ってた。 実は 相当 深いことを 考えていらっしゃる方だ ということが 見えてきた。 第2回 視聴。 うーん、坂井先生の 仰ってることは 色んな ことに通用するし、 なかなか深いぞ。 これは 凄い講義だ。 第3回 視聴。 所沢市の例。 今晩はもう寝よ。 ・・・モパようございます。 昨晩 坂井先生が 仰ってたことが 完全に頭に 沁み入ってる。 素晴らしい。 第4回 視聴。 神奈川県庁の例。 夜しっかり寝て 朝早く起きる、 という 当たり前のことが ようやく 自然に できるようになってきた。 第5回 視聴。 横浜の映画館の話。 たいへん 示唆に富む 内容でした! 第6回 視聴。 献血の話。 自分は献血したことないし、 よほどのことがないと やろうとも 思わないが、 献血に来るひとが 「なんとなく」 やってきて、 もちろん 金銭的対価を 得られるわけでもないし、 誰か 特定の人に 血液をあげられる という わけですらないのに、 献血制度が システムとして 成り立っている、 というのは、 ランドル・コリンズがいうように 人々は 必ずしも 合理的にのみ 生きているわけではない、 という 好例なのではないかな、と 考えました。 いい話でした! 第7回 視聴。 近代資本主義の誕生。 やっぱり 坂井先生って、 根は 経済学者なんだな。 第8回 視聴。 大規模組織の限界。 大企業病。 オルソンのパラドックス。 まさにこれだ! 俺の実感から言うと、 慶応SFCも、 仮に 8割の学生が まじめに 学問に励んでいても、 残りの 2割が フリーライダー、つまり 慶応という ブランドが欲しいだけで、 単位を取ったら 内容は すぐに忘れる、 みたいな学生だと、 教育効果は 途端に 激減する、 みたいな話かな。 そして そういうモラルハザードを 防ぐために 色んな 規則を定め始めるので、 自由だと言いながら、 極めて 不自由な環境が 出現してしまう。 第9回 視聴。 プリンシパル・エージェント問題。 政治学的に見れば ジョン・ロックの 社会契約説は、 プリンシパルが市民で、 エージェントが政治家だから、 エージェントがちゃんと仕事しなかったら、 プリンシパルは エージェントを (極端に言えば) 攻撃していい。 これが一般に言われる 政府に対する市民の抵抗権。 抵抗権は もちろん 選挙という形で 穏便に行使するのが 一般的だが、 英米系の発想では、 それこそ 実力行使も辞さず、という 文化。 そういう見方からすれば、 日本人は 大人し過ぎるのかも知れない。 第10回 視聴。 椅子クラフト。 先生のお口も 滑らかでした。 今日はこのへんで。 また明日。 ・・・と言いつつ、 第11回 視聴。 武雄市の図書館のお話。 今度こそ、俺は、寝る! ・・・アンニョンハセヨー!!! 水飲んで、おしっこして Duolingoやって メシ食って、 落ち着いたところです。 昨日の講義を 振り返ってみると、 坂井先生の 講義は まさに 今の時代を 捉えてるな、と 感激します。 それが なんの違和感もないほどに 脳に 沁み入ってくる。 これが 追加料金ナシに 聴けちゃうってのが 素晴らしい! duolingo 3日間だけ ポイント無限で 出来るんだけど、 サクサクいけるね。 20年近くやった 蓄積があればこそ だけど、 いい時代になったもんだ。 韓国語はそれこそ 「冬のソナタ」の 頃から やってるからね。 俺が 羽生で意気消沈の日々を 送っている頃、 野澤くんが 「冬のソナタ」の 小説を 持ってきてくれた。 もちろん日本語の。 韓国語が実用レベルに なるかも、と 思うと テンションあがるね。 人生なんとかニャル瀬!ってね。 第12回 視聴。 リーダーシップ。 信頼。 震災による 津波で 被害を受けた 亘理町の いちご農家の マルコさんの お話。 サークルで部長やって 就活のときに リーダーシップあります アピールするのとは 同じ 「リーダーシップ」という 言葉の重みの次元が 違うなと感じました。 第13回。 途中まで視聴。 ソーシャル・キャピタル。 なんか 最終的に エモさに逃げたな。 それでこれまでの 議論が全部ダメになるとは 言わないが、 論理で詰めずに エモさで まとめようとし始めたので、 聴くのをやめた。 でも、大変 面白くてタメになる お話の数々でした。 結局、俺こんなんだから 大学卒業するのに 15年も かかったんだよな。 これなら 中世のキリスト教 神学のほうが よっぽど 論理的だぜ。 去年 八戸サテライトで 「キリスト教哲学の歴史」を 受講したけど。 ・・・途中まで 聞いて終わりじゃ すわりが悪いから、 第13回 最後まで 視聴しました。 ちゃんと聴けば、 坂井先生は エモさに 逃げてはいなかった。 失礼しました。 第14回は 後回しにして 最後の 第15回 視聴。 結局 最後は経営学の話でしたね。 ソリッドな形で 締めくくれて 良かったです。 後は 第14回だけ。 ・・・第14回 視聴。 介護サービス。 これでこの授業すべて 視聴。 気分良く寝られるぜ。 母親の脳梗塞と 俺の病気とで 合わせて ヘルパーさん 来てくれるんだけど、 全然 仕事の範囲外のことを、 やっても 別に 給料が増えるわけでもないのに、 自ら進んで やってくれるヘルパーさんが いる。 社会はそういう人がいないと、 ただ 契約で決められた 業務の範囲内以外の ことはやらない、という 人ばかりだと 世の中はまわらない。 そういう話かな? 快眠、快食、快便だぜ。 一晩寝たら、スッキリ 頭の中が整理された。 やっぱ 坂井先生すげえな。 この放送授業を 聴けて良かった。

父親

父親も 素朴な良識というものは 備えていたが、 いつかは 死すべき人間 として、 自分の生と しっかり向き合っていたか? と 振り返ると、 かなり 心許ない。 基本、組織に守ってもらえる、 という 発想で、 とにかく 大きな組織に入って そこで 他人を押しのけていれば いい生活が 送れる。 そんな発想の人だった。 しかし、もはや そんな時代でも なくなった。 父親世代が 組織の中で 偉くなれたのは、 一因として、 会社そのものが 大きくなっていった時代だから、 自然と ポスト自体が 増えていった、という 側面もある。 それに、 今は グローバル化によって 世界中の優秀な人材が 競争相手なので、 単に 企業組織の中で 出世争いを していればいい、 という 時代でもない。 いずれにせよ、 組織に依存しすぎた 父親は、 有り余る 財産を持ちながら、 果たして 自分の生と 真摯に向き合っていたか、 と 問えば、 甚だ 心許ないまま 一生を終えてしまった。

マジくだらねえ

日本の問題は 労働生産性が やたら 低いことなのに、 それを 生産性って コトバだけが 独り歩きして、 杉田水脈みたいな 安倍の ミニオンが 同性愛者は 子ども産めないから 生産性がないとか アサッテの方向の発言して、 それに 賛否両論 巻き起こる、って この国の 国会議員て ほんと 何やってんの? バカバカしいにも 程がある。 労働生産性って 早い話 どれだけ 効率よく働けるか? って 話で、 労働生産性が低いって ことは 長時間働いても 成果が上がらない、 つまり 働いても 働いても 報われないっていう 話だからね。 それと 同性愛と なんの関係が あるのか? 労働生産性という 側面から見れば、 日本の大企業や メガバンクまでもが PBRが1倍 割ってるからね。 株価で判断するのは 望ましくないかも知れないが、 これも 日本の会社組織が 大企業病を 引き起こしていることの 一つの 証左だろう。 東証プライム上場企業の 半数近くが PBR1倍割れとか 話になんないでしょ。 そんな 非効率な組織で 長時間労働して、 ギリギリで 住宅ローン組んで、 これで 人並みだ、という 生活は、 虚しい。

「人間の条件」 ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫 (再掲)

近代の経済学の 根本にあるのは これと同一の 画一主義である。 つまり、 近代の経済学は、 人間は行動するのであって、 お互い同士 活動するのではないと 仮定している。 実際、 近代の経済学は 社会の勃興と時 を 同じくして誕生し、 その主要な 技術的道具である 統計学とともに、 すぐれて社会の科学と なった。 経済学は、 近代に至るまで、 倫理学と政治学の あまり重要でない 一部分であって、 人間は 他の分野と同様に、 経済行動の分野においても 活動するという 仮定にもとづいていた。 この経済学が 科学的性格を帯びるように なったのは、 ようやく 人間が社会的存在となり、 一致して一定の行動パターン に従い、 そのため、 規則を守らない 人たちが 非社会的あるいは 異常とみなされるように なってからである。 (65~66ページ) (中略) しかし、 多数を扱う場合に 統計学の法則が 完全に有効である以上、 人口が増大するごとに その有効性が増し、 それだけ 「逸脱」が 激減するのは 明らかである。 政治の次元でいうと、 このことは、 一定の政治体で 人口が殖えれば殖えるほど、 公的領域を構成する ものが、 政治的なるものよりは、 むしろ 社会的なるものに 次第に 変わってゆく ということである。 (66ページ) (中略) 行動主義と その「法則」は、 不幸にも、有効であり、 真実を含んでいる。 人びとが 多くなればなるほど、 彼らは いっそう行動するように思われ、 いっそう 非行動に耐えられなくなるように 思われるからである。 統計学の面でみれば、 このことは 偏差がなくなり、 標準化が進むことを意味する。 現実においては、 偉業は、 行動の波を防ぎとめる チャンスをますます失い、 出来事は、 その重要性、 つまり歴史的時間 を 明らかにする能力 を 失うだろう。 統計学的な 画一性は けっして無害の 科学的理想などではない。 社会は 型にはまった 日常生活の中に どっぷり浸って、 社会の存在 そのものに固有の 科学的外見と仲よく 共存しているが、 むしろ、 統計学的な画一性とは、 このような社会の 隠れもない政治的 理想なのである。 (67ページ) (中略) 大衆社会の出現とともに、 社会的なるものの 領域は、 数世紀の発展の後に、 大いに拡大された。 そして、今や、社会的領域は、 一定の共同体の成員をすべて、 平等に、かつ平等の力で、 抱擁し、統制するに至っている。 しかも、 社会は どんな環境のもとでも均一化する。 だから、 現代世界で平等が勝利したというのは、 社会が公的領域を征服し、 その結果、 区別と差異が 個人の私的問題になった という事実 を 政治的、法的に承認した ということにすぎない。 (64ページ) 「人間の条件」 ハンナ・アーレント  ちくま学芸文庫

「危機の二十年」 岩波文庫 (再掲) 

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

悩みなき昨日の微笑みわけもなく憎らしいのよ

別に 父親に 高校受験しろ と 言われた訳 じゃなくて、 むしろ 父親が 地方に転勤で いなかったから、 あんな 無茶な 塾通いが出来た。 中2の終わりに 羽生駅前の 三光堂っていう 書店で 慶應志木の過去問みて、 まったく わからず、 佐日では お山の大将だった 自分は 衝撃を受けて、 母親に泣きついた。 だから、 最初は 慶應志木に受かったら 夢物語だ と 思っていた。 しかし 母親は もともと 都会人だし、 武蔵が どんな 学校かも知っていたから、 違和感はなかった。 自分は 高校受験を志したころは 武蔵の 存在自体知らなかった。 そして、 新聞広告に 載っていた 「塚本数学クラブ」 に 通い始めて、 本格的に 高校受験が スタートした。 ま、 今さらだけど 佐日から 慶應志木と塾高と武蔵に 受かるなんて、 ミラクルだよね。 合格した時、 親戚からは 慶応にしとけ、と 言われたらしいが、 都会人の母親は 武蔵を知っているという ことと、 父親も 武蔵を知らないながらも ネームバリューに 目がくらんで 武蔵に入ることになった。

「現代ドイツ思想講義」 作品社 より 抜書 (再掲)

こういう風に考えてみて下さい。 主体化した人間は、 主客未分化で 混沌とした自然から 離脱して 自立しようとしながら、 その一方で、 身体的欲望のレベルでは 自然に引き付けられている。 自らの欲望を最大限に充足し、 完全な快楽、 不安のない状態に至ろうと している。 それは、ある意味、 自然ともう一度統合された状態と 見ることができます。 母胎の中の胎児のように、 主客の分離による 不安を覚える必要がない わけですから。 そして、 そうした完全な充足状態に 到達すべく、 私たちは 自らの現在の欲望を抑え、 自己自身と生活環境 を 合理的に改造すべく、 努力し続けている。 安心して寝て暮らせる 状態に到達するために、 今はひたすら、 勤勉に働き続け、 自分を鍛え続けている。 しかし、 本当に「自己」が確立され、 各人が計算的合理性のみに従って 思考し行動するだけの 存在になってしまうと、 自己犠牲によって 獲得しようとしてきた 自然との再統合は、 最終的に不可能に なってしまいます。 日本の会社人間の悲哀という 形でよく聞く話ですが、 これは、ある意味、 自己と環境の啓蒙を通して、 「故郷」に帰還しようとする、 啓蒙化された人間全て が 普遍的に抱えている問題です。 啓蒙は、 そういう根源的自己矛盾 を 抱えているわけです。 (「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ) かなり抽象的な 説明になっていますが、 エッセンスは、先ほどお話ししたように、 自然との再統合を目指す 啓蒙の過程において、 人間自身の「自然」 を 抑圧することになる、 ということです。 啓蒙は、自然を支配し、 人間の思うように利用できる ようにすることで、 自然と再統合する過程だと 言えます。 自然を支配するために、 私たちは社会を 合理的に組織化します。 工場での生産体制、 都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等 を 合理化し、 各人の欲求をそれに合わせる ように仕向けます。 それは、 人間に本来備わっている “自然な欲求”を抑圧し、 人間の精神や意識 を 貶めることですが、 啓蒙と共にそうした事態が 進展します。 後期資本主義社会になると、 その傾向が極めて顕著になるわけです。 それが、 疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、 アドルノたちはそれを、 資本主義経済に固有の現象ではなく、 「主体性の原史」 に既に刻印されていると見ます。 (「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ)

妄想卒論その12 (再掲)

「abjectは、subjectあるいはobjectをもじった造語です。 ab-という接頭辞は、『離脱』という意味があります。 母胎の原初の混沌、 闇に由来し、 subject/object の二項対立に収まり切らなかったもの、 それを排除しないと 秩序や合理性が成り立たないので、 抑圧され、ないことに されてしまう要素を abject と言います。」 「ゲーテ『ファウスト』を深読みする」(仲正昌樹 明月堂書店 p.164)より

ある傷ついた生活 (再掲)

ホルクハイマーと アドルノの 主張するところによれば、 事実、 ファシズムは ある程度まで 人間の抑圧された 神話的過去の 回帰とも、 また 道具的理性が 自然支配のために 発達させた 多くの道具を 逆用しての 支配された 自然の復讐とも 解されうるのである。 こうして「進歩」は、 おのれと 正反対のものを、 つまり 現代の制御技術を 駆使することによって はるかに 非情なものになった ひとつの 野蛮を 産み出すことになる。 科学は、 人間を 向上させる比類なき 力であるよりも、 むしろ ある新しいかたちの 非人間化の種子を 抱懐するものであることが 明らかになるのである。 科学が成立する 前提条件の一つは、 自然がまだ 道具的理性によって 支配されていない 状態の記憶を 消し去ってしまう ことにある。 ホルクハイマーと アドルノが、 きわめて 頻繁に 引用される その所感の一つで 強調しているように、 たしかに、 「あらゆる 物象化は 一種の 忘却なのである。」 (「アドルノ」 岩波現代文庫 49頁)

妄想卒論その10 (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。  やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より

ホモソーシャルについて (再掲)

少年愛でも有名なギリシャの男性間の同性愛については、もはや疑いのない定説ですね。 そこでは知を仲立ちとした愛の関係は男性市民間にしか成り立たず、男女の関係性は生殖にのみ仕えるーーもちろん、これは奴隷・女性に対する徹底的差別が大前提の話ですが、美しく描かれていることに間違いはなく。 ルージュモンの説は、確か、これが新プラトン主義を経て中世騎士道恋愛・宮廷恋愛へと、異性愛の関係性へと敷衍されてゆく、ということになっていたような‥。 それが近代の社会制度へ回収され、徹底的に地上化されてしまった姿が、現在の「(強制的)異性愛」ーー性愛の正しい姿を男女間にしか認めない、という、極めて偏向的であるにも拘わらず、つい先頃まで常識とされていた愛の姿ですね。 但し、現在、ジェンダー論の登場と相俟って、ルージュモンの精緻な愛の精神史には、実はこの徹底的に地上的で制度的な「恋愛結婚」に頂点を見る、現代の異性愛が、ホモソーシャル(男性間の絆)と表裏一体であることが告発されています。 つまり、「homo-social」が、個別個人間の愛のようでありながら、男性中心に構成されている近代社会を堅固に維持するための「社会的関係」そのものである以上、実は「異性婚」とは、女性を特定の男性に括り付け、男性間に女性をめぐる闘争が生じる危険性を忌避する装置として、ホモソーシャルを裏返したものである、と。 たぶん、こうして性愛をめぐる歴史をギリシャから現代まで辿り直してみると、それ自体が 「制度」でもある「ジェンダー」が消滅し、現在の「男ー女」「男ー男」「女ー女」の愛情関係に差異が認められなくなった時に、初めて純粋な「愛」が堂々、成立する、と言えるーーこれが現在時点の「模範回答」なのでしょうね。 ただ、文化の歴史とは恐ろしいもので、ある意味、理の当然でもあるのですが、近代小説が歌い上げてきた「ロマンチックラブ」、実は裏返せば「ホモソーシャル」の刷り込みの力は大きく、「社会」の要素が二人の間に葛藤や苦悩を引き起こしては、それがまた二人間の友情を鍛えあげ、濃密にしてゆく、といった「男の友情物語」に、ついつい美しさや感動を覚えてしまう自分がいます。ただ、どんどん自分より若くなってゆく女性の教え子たちや我が娘などの話を聞いていると、その美しさが内包している残酷さ、恐ろしさ、不気味さ等を私などより、ずっとリアルに生き生きと感じてはいるようで、感嘆したり興醒めしたりしながら、耳を傾けることもしばしばです。 このトピックはいつの世にも存在してきましたが、LGBT、つまるところは「多様性」が論議されている昨今の社会情勢からしても、ますます興味はつのり、目が離せないところです。

黒のモード (日経新聞より)

服装に見るジェンダー論

漱石とホモソーシャル (再掲)

俺:高級なと言っては手前味噌ですが、いわゆる知識人層のホモソーシャルは、お互いを信用できる、という意味でのみならず、時には抑制を効かせてくれる、という意味でも、安定的であるような気がします。 たとえお互い家族を持っていたとしても。 それが、なぜか中国を理想とする古典の世界と同一視されている気がします。 ただ、野卑な連中の、お互いのナアナアだったり、無駄に党派的だったりするところと違うところがまた、安定的でもあり、居心地が良かったり、という気もします。 平成のバブル真っ盛りの頃から、その崩壊後しばらくの間信じられていた男女の性愛結婚という幻想が崩れたいま、人は人を信じることを放棄するか、あるいはボーイズ・ラブのようなある種の強度なホモソーシャルの世界にしかリアリティーを感じられないのかも知れません。  先生:「ホモソーシャル」は、「友愛」の名の下に構築される社会的関係なので、近代(的個人)の成立が要件かと思われ、古典漢籍にその理想を見るのは、近代が中国古典時代を捉える「振り返り」の眼差しが作り上げたもののように思えます。興味深いのは、『行人』の一郎が逃げ込む場所がここで、同時にまた『それから』の父・長井得も漢籍の素養が深い人物として造型されています。そして『明暗』の津田は、漢籍に通じない男であると規定されている‥。『明暗』は後期の漱石にしては珍しく、ホモソーシャルが後景に退いた作品です。 漱石は「ホモソーシャル」が女性のみならず、男性の関係性、ひいては一個人としての男性を抑圧する(偽装された社会関係の抑圧性)装置であると考えていたのでは、と私などは思っています。『それから』で「平岡」との関係を通してその機能・作用を自覚した漱石は、それを『行人』で徹底分析、『こころ』ではその呪縛を免れるべく「K」そして「先生」の死を描き、「私ー先生」の関係に期待を込めますが、結局、「私」は「奥さん」との間に個人と個人がふ触れあうような一瞬を体験しながら、やっぱり死んだ「先生」の元へ帰還してしまったのではないか‥。 絶筆『明暗』が再び、「眉の濃い・黒目がちの瞳」をしたラファエル前派もどきの強い女・お延を登場させ、彼女との闘争の中に自己を模索するしか術のない主人公、津田を描かざるを得なくなった所以のようにも思われるのですが。この辺り、また検討し直してみたい、とお便り拝読してつくづく思いました。

漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)

質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。

今は昔

自分も 高校から 武蔵はいって、 ウツ&適応障害で、 本気で 武蔵やめようとして 父親に 土下座までしたけど、 父親は タバコをふかしながら 苦虫を噛み潰したような 顔をするだけだったから、 ここまでやって ダメなら、と 諦めた。 しかし、まあ 勉強しないで 遊んでたね。 よく2浪したとはいえ、 慶応に 引っかかったもんだよ。 英語だけは 週末 マンツーマンで 大野和基先生に 教わってたからな。

繊維産業と日本経済史ー編集 (再掲)

2021年の大河ドラマは、渋沢栄一を扱っていたが、蚕を飼って桑の葉を食べさせているシーンがあったが、蚕を飼うということは、最終的に絹を作って、輸出するということだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられていたということ。 つまり、生活するのにカネが必要になるということ。 それ以前は、綿花を作っていた。その時代は、塩と綿の苗だけはカネで買ったけれど、それ以外はカネを使わなかった。 つまり、養蚕業が日本の原風景というイメージは、違う。 綿花を作っていた頃は、綿を作って、紡績業者に委託して織物にしてもらって、それを藍染にしていた。 桐生などが代表的だが、綿花を紡績する織機産業が日本のプロト工業化の役割を担った。 大河の描写では、渋沢家は養蚕と藍染を両方やっていた。 横浜が開港して、八王子との間に交通が整備されると、山梨や長野からの絹が八王子に集積され、横浜港から世界に輸出され、第二次大戦まで、日本の外貨獲得の最大の資金源となり、横浜と八王子を結ぶラインは、シルクロードと呼ばれた。 戦後は、横浜からの舶来文化の流入で、在日米軍への、音楽などの文化的サービスが生まれ、花街も賑わった。 八王子を代表するシンガーソングライターに、松任谷由実がいるが、彼女も、八王子の絹呉服店に生まれ、子供のころから、米軍関係者に歌を披露したいたそうだ。 幕末から 明治にかけて、 多くの 混乱を 経て、 生糸や 茶の 輸出の 決済手段を 通じて、 それまで 存在した 多様な 種類の 通貨を 一本化した ようです。 貿易実務の 勉強を していた時期が あるので、 なんとなく わかる気がしますが、 ややこしいですね。 以下引用(p.48より) すなわち 生糸や茶を 輸出するものはまず、 船荷証券を つけた 取立為替手形を 正金に 呈示する。 正金は、 政府より 借り受ける はずの 紙幣をもって、 これを 買い取る、 つまり 割り引く。 ついで 正金は、 手形と 船荷証券を その 仕向地に 配備されるはずの 正金出張員へ 送付する。 出張員は、 手形と証券を 受領次第、 これを 名宛人に 呈示して その 債務を確認させ、 期日に 生糸や茶の 代価を ポンド、ドルの 外貨や正価で 回収する。 直ちに この 代価は 正金横浜本店へ 電送される。 そして 最後に 正金が、 この 正価または 外貨を、 借り受けた 紙幣の 代価 として 政府に 返済して、 前田(正名) の 推奨する 紙幣を もって 正価を 得る仕組みは 完結する のであった。 参照:「日本金融史」(有斐閣選書 玉置紀夫)

妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

(´;ω;`)

義兄の優しさには ほんと 救われるわ。 佐賀の工業高校 出身で、 高校卒業してすぐ 上京したんだが、 あの姉の 無茶振りにも 動じず、 いつも 朗らかでいる。 俺からすれば 義兄は、 出雲大社の、 オオクニヌシを 封印してくれてる 神様だよ。 ほんとに ありがたい。

2023年7月8日土曜日

「グローバル経済史」質問と回答 (再掲)

質問:イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?と、言いますのは石炭は酸化しやすいために、良質な石炭であっても、市場が近くに存在し、かつ大きな需要がないと、不利だと思われるからです。むしろ、石炭を輸出するよりも、自国の蒸気船の燃料として使用していたのでしょうか?よろしくお願いいたします。 回答:「イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?」というご質問ですが、端的に答えますと、おっしゃる通りです。イギリス炭の大部分はイギリス国内で消費されていました。イギリス国内の工場や機関車など、蒸気機関を回すためにイギリス炭が使用されていたのです。一部が海外に輸出されており、さらにその一部が世界各地の港で蒸気船用にストックされていたにすぎません。 なお、イギリス炭の輸出割合については以下の学術論文をご参考ください。 https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202911690368 「機関リポジトリ」をクイックし、次の関西大学の画面から当該論文のPDFが入手できます。そして、この論文の表1に輸出割合が示されております。 島田竜登

産業革命と石炭 (再掲)

放送大学の「グローバル経済史」の授業でも、イギリスがいち早く産業革命を達成出来たのは、良質な石炭の産地と天然の良港が近接していたからだ、という議論があったけど、それが正しいとすれば、まさに日本にも当てはまる。 日本は、九州北部で非常に良質な石炭が産出され、それを長崎という天然の良港へとすぐに輸送することが出来、しかも上海という巨大なマーケットが存在していた。 石炭の産出地と輸出港が近接していることの最大のメリットは、石炭が酸化する前にマーケットへ届けることができるという点。 石炭は非常に酸化しやすいので、すぐに消費することが望ましい。 しかも、九州北部の石炭は非常に良質だった。 上海という巨大なマーケットが近くに存在していたメリットも大きく、オーストラリア産やイギリス産をも駆逐し、日本産の石炭は決定的な価格支配力を持っていた。 なぜなら、オーストラリア産やイギリス産の石炭がいくら良質でも、輸送中に酸化してしまうからである。しかも、日本は低価格で大量に販売したので、上海市場において他地域産の石炭を駆逐した。 また、石炭は江戸時代後期から使われており、製塩業の国内シェア9割を占めていた瀬戸内海沿岸の塩田で窯焚き用に中国地方産の石炭が使われていた。早い段階で石炭を商品として廻す市場システムが存在していたことも、日本の強みだった。

鉄鉱石

俺:授業で拝聴した通り、日本が良質な炭鉱に恵まれたのは理解できたのですが、鉄鉱石はどこから調達したのでしょうか? 特に、官営八幡製鉄所で鉄を生産する際、石炭は筑豊炭田が近くにあったことは授業でも触れられていましたが、鉄鉱石はどこから調達したのでしょうか? 残念なことに理数系の知識が欠落している私には、そもそも鉄鉱石とは何なのか、ということすらよくわからないのですが、可能性としては中国のカンヤヒョウコンスかな、と思われるのですが、日露戦争前に既に中国東北部を実効支配、あるいは経済的統制の下に置いていたのでしょうか? 長くなり恐縮ですが、お答えいただければ幸甚です。 先生:小林さん お久しぶりです。 鉄鉱石は、明治初期には、朝鮮、中国東北部(満州)から輸入してたと 思います。日本の産業革命が一応の成果を得た時期、日清戦争から 日露戦争前後までの10数年間で、近代化の基盤となる鉄鋼業を官営にて はじめた八幡製鉄所の大規模な製鉄業のために、「満州」から鉄鉱石を 輸入するようになります。このことも一因となり、日本政府・軍の満州への 侵略が一層促されていきます。 この問題について、たしか『日本の満州支配』という本があったと思います。 金光男 俺:お返事ありがとうございます。 google bardに聞いてみたら、自信満々でオーストラリアと回答してきたので、やはり生成AIに頼るのは危険ですね。 こういうご時世だからこそ、専門家の存在意義は大きいと思われます。 ありがとうございました。

2023年7月7日金曜日

楽園

スマホの記事で ナカマサ先生が 書いていたので 間違いないのだろうが、 大学教育では 文系軽視が 進んでいる。 もう 結論から言えば、 自分みたいな ド文系からすると、 放送大学は 楽園なのよ。 もう 放送大学以外 考えられない。 語学でも 歴史でも 哲学でも 文学でも 政治学でも 経済学でも 単位取れるし、 あんなにハードルの 高かった 大学卒業が 嘘のように クリアできた。 ほんとにもう、 大学卒業は 無理だと 思ってた。 放送大学は もちろん 理系の科目も 学べるけど、 文系にとっては 楽園なのよ。

Duolingo

いいね! いいね! 間違えると ポイントが減って、 ポイントが無くなると 進めなくなるんだが、 1日 ほったらかし にしておくと、 ポイントが 回復して また 挑戦できる。 忘れた頃に やるって感じが ちょうどいい。 しかも 無料。

ようやく吹っ切れた

今年が 社会人になる 限界の トシなんじゃないか、と 悩んだが、 中学の同級生が こんなに 出世してんのに、 せっかく 幸甚にも 勉強に専念できる 環境にいるんだから、 ちまちましたこと 考えてないで、 もう 行けるところまで 行こう! という 気になった。

身分の安定も大事だけど

友達が いつの間にか どんどん 先へ行ってしまって いるのに、 つまんねーとか 思いながら やりたくもないこと やりながら 時間を消費する なんて、 バカな選択だ。 せっかく 勉強できる ポジションに いるんだから、 どんどん やらないと、 置いてけぼり 喰らうよ!

どんだけー

中学の同級生が エライ出世してて、 ビビる。 俺が ビョーインに いる時 3回くらい 面会に 来てくれたんだが、 当時 彼は もう院生で、 かたや 俺は 学部の途中で こんなありさま。 焦る気持ちが 募る ばかりだったのが 懐かしい。 まさか こんなに優秀な 人だとは 中学のときは 到底 想像も出来なかった。 もちろん バリバリの理系で 超優秀なんだが、 どうも 社会のことには あまり 興味がないらしい。 日大創設者 の出身地で 佐日の修学旅行で 行くんだか 行かないんだか 知らないが、 自分が 山口県の 萩に 旅行に行ってきた、 と 言ったら、 ハギでもオギでも どっちでもいいだろ! とか 言ってた。 最後に会ったのは もう 10年も前、 彼が つくばで 研究員をやってる 頃だった。 筑波山にドライブに 連れて行ってくれて、 朝から ステーキを食べるのには びっくりした。 https://www.oit.ac.jp/ge/~nozawa/

2023年7月6日木曜日

嬉しい誤算

Duolingo を 前に 進めるには クレジットカード を 作るしかない! と 思って、昨晩 がんばって ネットで 申請したんだが、 Duolingoから 通知が ポップアップして、 試してみたら、 先に進めた。 サクサク進めるには クレジットカードが 必要なんだろうが、 ちょこちょこ 進めるぶんには 必ずしも 必要では ないっぽい。 Duolingo いいね! 実際に アウトプットしてみると、 日常会話レベルですら 自分の 韓国語が いかに 穴だらけか わかる。 変に 韓国に 留学しなくても 十分 韓国語 勉強できる。 しかも タダで。 ちょっと 韓国語を勉強 しているだけで、 邪念から 解放される。 暇だと 余計なこと 考え始めるからね。

入院中に 横浜市役所 勤務の 躁うつ病の 人も そうだったが、 父親も、 1度だけ 俺の顔を 覗き込んだ ことがある。 なにか 物珍しい 動物でも 見るような、 そして 侮蔑の念を 投げつけるような 顔。 なんだ? このキチガイが?! といったような。 俺は あの父親の顔 を 一生忘れることは ないだろう。 https://www.youtube.com/watch?v=thGpKa0MGa4

びっくりした!

ついに あの 熊野純彦さんが 放送大学に。 今年から 東京文京学習センターの所長 に 就任されたらしい。 て、ことは そのうち 面接授業を 受け持ったり するわけか? これは事件です! 松原隆一郎先生も そうだが、 いま 東大を 辞める先生が 多いらしいね。 研究以外のことで 忙殺されることが あまりに 多いらしく。 科研費にしても、 競争すること自体は 良いが、 申請手続きが 面倒くさ過ぎて 逆に 研究どころではないらしい。 あの 異次元に 優秀な 松原先生が そう おっしゃるなら そうなんだろう。 実情は知らないが、 放送大学のほうが 研究に 専念できそう。 そんな優秀な先生方の 授業を 格安で受けられるんだから、 いやー贅沢だわ。 御厨貴先生も どっかで 書いてたが、 東大は まったく 余裕がなくなって つまらない所になった、 と 書いてあった。 東大生からして、 中学受験の段階から 塾漬けになって、 中高6年間も 塾に伴走してもらって 入ってくる わけだから、 教える側からしたって、 そんなやつ 相手にしても 面白くないだろうな。 俺の 勝手な考えだが。 私学にしたって 同じだよな。 慶応SFCだって、 生徒集めたいから 色々と バラエティーに富んだ 教授陣集めてるのは 事実だが、 基礎を疎かにして 応用ばっかりやってるから、 何も 体系的に 身につかない。 経済学は 優秀な先生が多いが、 それでも ちゃんと 経済学学ぼうと 思ったら 時間割の都合上 留年覚悟ぐらいで 組まないと、 経済学ですら ちゃんと 勉強できない。 その結果 要領がいいけど 言ってることが 首尾一貫してない キメラみたいな学生が 大量に 輩出される。

効くー!!!

眼科行っても よく ならないし、 目薬もらいに 行くのも めんどくさいし、 もう 手術でも しないと いけないのかな? と 思ったけど、 アマゾンで これ 買ったら、 かなり 良くなった。 そうだよな、 身体が こんだけ 疲れてたら、 目も 疲れてるよな。 相当 酷使したからな。 それが 市販の目薬で 回復しちゃうんだから、 いい 世の中だ。

去年の夏だったかな? (再掲)

終活する気配が微塵も見られない から、 財産どーすんの? って 聞いたら、 姉に 俺の生活費 管理してもらうつもり、 とか言うから、 て・め・え 何を言ってるんだ????? と 危うく発狂しそうになって、 救急車呼んで 病院で半日静養したら、 ようやく 半々でってことで 一筆したためて もらったけど、 あのときは 姉を疑い過ぎなのかな? と ちょっとは 思ったけど、 やっぱり 事態がこうなってみると、 正解だったね。

2023年7月5日水曜日

気づくかな?

duolingoで 韓国語 作文があるので、 アマゾンで キーボードに貼る ハングル シートを 買いました。 よく見ると、 キーボードが ハングルに なってますね。 まったく、 これくらいの 情熱が 数学に対して あったら もっと 楽だったのに。 duolingo、確かに 楽しいし 無料だけど、 慣れてきた頃になると、 ちょっと 間違えると 先に 進めなくなる。 やっぱり 巧妙に クレジットカードで お金を 落とさせようと するんだけど、 40過ぎて クレジットカード 持ってねーし、 母親も 持ってねーし、 障害年金以外 所得ねーし、 クレジットカード 作ってまで やるかどうかだな。 そもそも クレジットカードも 指定があるみたいで、 障害年金しか 収入なかったら 審査通らないだろうから、 どっちにしても 無理だな。 口座振込とかなら いいのに。

2023年7月4日火曜日

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

貨幣数量説 (再掲) なぜ貨幣供給量を増やすと物価があがるのか?

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の所得流通速度が一定不変で,かつ伸縮的な価格メカニズムの作用により実質産出量(実質国民所得)の水準が長期の均衡値に一致するならば,貨幣数量の変化は国民所得の大きさや構成にはなんら影響を与えず,ただ物価水準を比例的に変化させると主張する説。」有斐閣経済辞典第4版

経常収支ことはじめ (再掲)

質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。 回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。  そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。  しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf が論じています。参考にしてください。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX https://toyokeizai.net/articles/-/380494 https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html

「金融と社会」質問と回答その1ー増補 (再掲)

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。  内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)  ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。 (以下 Google Bard より回答) ご質問ありがとうございます。 日本には巨額の対外純資産があるため、巨額の政府債務を抱えていても問題ないと考える人がいます。しかし、私はこの考え方に同意しません。財政収支と経常収支の「双子の赤字」は避けるべきだと思います。 なぜなら、経常収支の赤字は、海外から資金を借り入れていることを意味します。そして、もし経常収支が赤字に転落した場合、海外からの資金調達が難しくなり、政府は高金利で資金を調達しなければならなくなります。これは、政府の財政支出を圧迫し、経済成長を鈍化させる可能性があります。 対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合、政府部門の赤字をファイナンスする役割を果たす可能性があります。しかし、対外純資産はストックであり、常に増加しているわけではありません。もし対外純資産が減少した場合、政府は海外からの資金調達に頼らざるを得なくなります。 結論として、私は日本は財政収支と経常収支の「双子の赤字」を避けるべきだと思います。

バードに聞いてみた。

(質問)発行済国債残高が増えると、貨幣の流通速度は低下しますか?その理由を教えてください。 (以下 Google Bard より回答)はい、発行済国債残高が増えると、貨幣の流通速度は低下します。これは、国債の発行によって、政府が貨幣を供給する一方で、民間企業や個人の投資先が減少するためです。そのため、貨幣の流通量は増加しますが、貨幣の流通速度は低下します。 具体的には、政府が国債を発行すると、民間企業や個人は国債を購入するために、手元の貨幣を売却します。そのため、貨幣の流通量は増加します。しかし、国債は流動性が低い資産であるため、民間企業や個人は国債を購入した後も、すぐに売却する可能性は低いです。そのため、貨幣の流通速度は低下します。 また、国債の発行によって、政府の借金が増加します。これにより、政府の将来的な財政赤字に対する懸念が高まり、民間企業や個人の投資意欲が低下する可能性があります。そのため、貨幣の流通速度はさらに低下する可能性があります。

中立命題を前提として

政府支出を増やしても、 経済は成長はしません。 単に GDPギャップが埋まる だけです。 政府支出を増やせば、 一時しのぎには なりますが、 政府債務という カタチで 将来世代に 負担となって 残ります。 マクロ経済学を 勉強するには、 常識感覚が大事だと 思います。 ウマい話はありません。 MMTがどうとか言う前に、 IS-LM分析を しっかり理解しましょう。 IS-LM分析が 本当に分かっていれば、 大抵のことは わかります。 タイトルは ふざけていますが、 「東大生が教える やさしい経済の 教科書」 は 初学者には わかりやすいし、 よく出来ていると 思います。 ただし、おそらく 中古でしか 手に入らないですが。 そもそも 円安・円高って、なに? という人は、 吉本佳生さんの 本が オススメです。 僕は 旧版で勉強しました。 その後は、 有斐閣から出ている 福田慎一先生の マクロ経済学入門が いいでしょう。 これでも ちょっと難しいですが。 IS-LM分析の説明が 秀逸です。 そもそも、 三面等価の原則は マクロ経済学を 成り立たせる為の 高度に抽象的な 思考実験の産物なので、 そんな 簡単にわかる ものではありません。 僕自身よく わかってません。 説明されてすぐ 理解できたら、天才です。 まずは、 国の富の源泉は GDPであること、 三面等価の原則、 45度線分析、 IS-LM分析を しっかり 理解しましょう。 三面等価の原則を 確信犯的に曲解して 金儲けする タチの悪い 自称経済評論家、 っていうか 三橋貴明がいるので、 注意しましょう。 三橋貴明に 騙されて 被害を被るのは、 三橋貴明を 信じた人だけでなく、 日本国民全員です。 ですから、 どうか 目を覚ましてください。 (以下 Google Bard より回答) 政府支出を増やしても、経済は必ずしも成長するとは限りません。政府支出を増やすことで、GDPギャップが埋まり、短期的には経済成長が期待できますが、長期的には政府債務が増加し、経済成長が鈍化する可能性があります。 政府支出を増やすと、GDPギャップが埋まり、短期的には経済成長が期待できます。GDPギャップとは、潜在GDPと実質GDPの差であり、経済が潜在的な生産能力を十分に発揮していない状態です。政府支出を増やすことで、潜在GDPに近づくことができます。 しかし、政府支出を増やすと、政府債務が増加します。政府債務とは、政府が借り入れたお金の合計額であり、政府支出を増やすほど、政府債務は増加します。政府債務が増加すると、将来の世代に負担が転嫁される可能性があります。 また、政府支出を増やすと、インフレ率が上昇する可能性があります。政府支出を増やすと、マネーサプライが増加し、インフレ率が上昇する可能性があります。 したがって、政府支出を増やす際には、短期的な経済成長だけでなく、長期的な経済成長やインフレ率のことも考慮する必要があります。

中立命題 (再掲)

財政支出を課税により現在決済しようと,国債を発行して将来に決済を延期しようと,国民の経済厚生に変化はないという命題。 いま人口が変化せず,すべての国民に同額の所得税の減税をするとともに,減税分と同額の国債を新規に発行するケースを考えよう。 この経済では,国民の保有する国債という資産の価値と,国債償還のための費用とは同率で増加するために,国民の消費の時系列は影響を受けない。 リカード(D. Ricardo)が主張し,近年,バロー(R. J. Barro)ら合理的期待学派によって,公債の中立命題として再定式化されたもの。 有斐閣経済辞典第4版 上の中立命題が示唆することは、長い目で見れば、ケインズ経済学的な財政出動は、意味がない、ということになる。 もっとも、ケインズ自身が、そんな長い目で見たら、我々はみんな死んでいる、と反駁したわけであるが。 とはいえ、確かに、戦後の日本が財政赤字を垂れ流し続けた結果がこの有り様だから、中立命題のいうことも、もっともなことだ。 (以下 Google Bard より回答) はい、わかりました。リカード=バローの中立命題は、財政支出を課税により現在決済しようと,国債を発行して将来に決済を延期しようと,国民の経済厚生に変化はないという命題です。 この命題は、リカードが19世紀に主張し、近年ではバローら合理的期待学派によって再定式化されました。 リカード=バローの中立命題が成立するためには、次の条件が必要です。 国民が合理的期待を持っていること 国民が国債のリスクを厭わないこと 国債がインフレ率と同じ水準で償還されること これらの条件がすべて満たされている場合、国債の発行は国民の消費行動に影響を与えず、経済厚生に変化をもたらしません。 ただし、これらの条件がすべて満たされていない場合、国債の発行は国民の消費行動に影響を与え、経済厚生に変化をもたらす可能性があります。 例えば、国民が合理的期待を持っていない場合、国債の発行は将来の増税を予想させ、国民の消費を抑制する可能性があります。また、国民が国債のリスクを厭う場合、国債の発行は金利の上昇を引き起こし、経済活動を鈍化させる可能性があります。さらに、国債がインフレ率と同じ水準で償還されない場合、国民の資産価値が目減りし、経済厚生が悪化する可能性があります。 リカード=バローの中立命題は、財政政策の有効性を否定する命題です。しかし、この命題が成立するためには、厳しい条件が課されます。これらの条件がすべて満たされているとは限らないため、財政政策は経済厚生に変化をもたらす可能性があります。

2023年7月3日月曜日

E-じゃないか!

テレビで CMしてた duolingo、 韓国語を 勉強できるっていうから、 試しに やってみたら、 なかなか よく出来てて、 いいじゃないか! こりゃ 暇つぶしに 最高だ!

なんかねー

確かに 父親が 社会的地位のある人で、 お金もあったけど、 それで すべて オッケーか、 というと、 かなり 窮屈だったけどね。 そもそも どれくらい カネがあるのか 教えてもらえないし、 俺が カネ遣うにしても、 さんざん忖度しまくった 挙げ句、 母親を介して お伺いして ようやく、 って感じだったし。 自分が 自由にカネ遣えるように なったのなんて、 それこそ 障害年金もらい始めてからだよ。 やたら 気難しい人だったしね。 うちらのメシは ワタミの宅食だし。 カネがあるのか無いのか 全く わからなかった。 バイト始めたら始めたで、 辞めると、 俺に仁義も通さないで 勝手に辞めやがって! って キレるし。 下手に バイトもできねーよ。

薬もらってきた

まったく、 災い転じて福となす。 障害者ってのは いいもんだ。 主治医に、 放送大学の 面接授業の 予定が 公開されて、 見てるだけで 就職ガー とか 市役所ガー とか 忘れられるんですよ。 と 話して、水を向けたら、 「市役所は大変だよー」 と 言質を取った。 あれは マジだった。 もう長い付き合いだけど、 今年になって ようやく 本音で 語ってくれるように なったね。 ・・・でもなー、 やっぱこええんだよ。 まともな 職歴もなく このまま 突っ走るってのが。 禍福は糾える縄の如しか。

ごっきげん♬

放送大学の 2学期の 面接授業の 予定が 公開された! もう 出がらしかと 思いきや、 超楽しそうな 授業の 数々。 こりゃもう たまらん!

良かったな

藤浪晋太郎 だいぶ 良くなってるじゃないか。 https://www.google.com/search?q=%E8%97%A4%E6%B5%AA%E6%99%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E&rlz=1CAJFMC_enJP1057&tbm=vid&sxsrf=AB5stBg6IjZyuM95clgsjMciTCXh5L3-eA:1688310993922&source=lnms&sa=X&ved=2ahUKEwjZm8DIqPD_AhUogFYBHWQQC-sQ0pQJegQIBhAG&biw=1536&bih=742&dpr=1.25#fpstate=ive&vld=cid:3e3f541a,vid:E64aVJeVFxk

2023年7月2日日曜日

政策割当の原理 インタゲと増税はワンセット (再掲)

質問:中央銀行は民間に供給される通貨量をコントロールしながら物価の安定を実現させる、とありますが、アベノミクスの第一の矢である2%物価上昇目標では、インフレを起こすことにより、デフレ脱却はもちろんのこと、インフレによって財政再建を同時に目指すとしていますが、これは「政策割り当ての原理」に反してはいないでしょうか?あるいは、新古典派経済学では「政策割り当ての原理」は成立しないのでしょうか? 回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、「n個の政策目標を実現するためには、n個の政策手段が必要である」という有名な定理を唱えています。すなわち、「政策割当の原理」です。したがって、「インフレ」と「財政再建」の2つの政策目標を実現するためには、2つの政策手段が必要となります。  本来、中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、アベノミクスの第一の矢は2%の物価上昇が政策目標でした。本来の金融政策の目標(物価の安定)と異なるため黒田日銀総裁は「異次元の金融政策」という言葉を使ったのです。このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、物価上昇によって企業利潤が増加すると法人税の増収、また、それに伴った賃金の上昇による所得税の増収、すなわち直接税の自然増収が財政再建に繋がるシナリオを描いていたのです。このシナリオどおりに進めば、もう一つの政策目標である「財政再建」の目標に繋がります。ただ、経済成長なきインフレは国民の生活レベルを引き下げることになります。したがって、アベノミクスの第二の矢である積極的な財政支出による経済成長が重要になってくるため「財政再建」が先送りになってしまいます。それゆえに、「財政再建」の政策目標の一環として消費税の引上げが考えられています。このように、「政策割当の原理」は成立しています。

塩引 (再掲)

質問: 元 は 当時 先進的な金融大国で、 交鈔 という紙幣を発行して、 流通を強制した ために、 宋の 時代に 流通した 銅銭が 駆逐されて、 鎌倉時代の 日本に 大量に 流れ込んだらしいですが、 最終的には 交鈔を 乱発した せいで 経済が破綻した、 というのは 大学受験の 世界史の常識レベルですね。 しかし、 交鈔の 流通を強制した といっても、 価値を 裏付けるために、 塩引 といって、 塩の専売権 が 保証されて いたりと、 やはり、 価値の裏付けもせずに 紙幣 として 流通させた わけではなかった ようです。 回答:交鈔は、元代に使用された紙幣です。元世祖忽必烈が1260年に創設し、1368年に明が成立するまで使用されました。交鈔は、塩、鉄、酒などの専売品と交換することで価値を裏付けていました。また、政府は交鈔の流通量を調整するために、一定の割合で交鈔を回収する制度も設けていました。 交鈔は、元代における商業の発展に大きく貢献しました。また、交鈔の流通は、宋代に流通していた銅銭を駆逐し、鎌倉時代の日本に大量の銅銭が流入するきっかけとなりました。 しかし、交鈔は乱発されたことで、元末には経済が破綻しました。元末の乱では、交鈔の価値が暴落し、多くの人々が生活に困窮しました。 交鈔の失敗は、紙幣の流通には、経済の安定と政府の信頼が必要であることを示しています。

赤信号みんなで渡れば怖くない?

円建てで国債発行して、 日銀が 円で買い取ってる んだから、 いくら 国債発行しても 問題ない、って説、 松原隆一郎先生も、 半分賛成 半分反対と 仰ってた。 確かに、こんだけ 借金拵えまくって 一見特に 何も起こってないんだから、 どんどん やればいい、 という言明は 正当にも見えるが、 松原先生も、これを 続けると いつか 破綻する、とは 仰ってたね。 いいぞ、どんどんやれ! で やってると、 いつかは 破綻するらしい。 それが、ドルの場合 リーマンショックだったそうで。 円の限界が どこらへんなのかも わからないのに 突き進もうとする 国民的メンタリティーは ヤバい。 でも そうならざるを得ないよね。 いつかはそうなるよ。 政治家だって、 国民に負担を強いるより、 甘い飴 舐めさせるほうが 遥かに 簡単なんだから。 松原先生も、 信用だけで成り立ってる 通貨って 何なんだ?!と 仰ってた。 結局、現代の我々は モンゴル帝国と 同じレベルなのかも知れない。 (以下 Google Bard より) 松原隆一郎先生は、円建てで国債発行して、日銀が円で買い取っているんだから、いくら国債発行しても問題ないという説について、半分賛成、半分反対と述べられています。確かに、日本はこれまで借金を積み重ねてきたにもかかわらず、特に大きな問題は起きていないように見えます。しかし、松原先生は、このまま借金を増やし続ければ、いつか破綻する可能性があると警告しています。リーマンショックも、アメリカが借金を増やし続けたことによる結果だと考えられます。円の限界がどこにあるのかは誰にもわかりませんが、国民はいつまでも甘い蜜を吸い続けることはできないでしょう。いつかは、借金を返済するために、苦しい思いをすることになるでしょう。松原先生は、信用だけで成り立っている通貨は危険だと警告しています。現代の日本は、モンゴル帝国と同じように、信用だけで成り立っている通貨に頼っているのかもしれません。

2023年7月1日土曜日

フランスの暴動

これマクロン大統領に 対する 反発なんじゃねーか? フランス人は とにかく 働きたくないし、 社会保障も手厚いし、 そのせいか この間 仏国債が格下げ されてたし。 働けとも言えないし、 社会保障削ると 暴動起きるし。 なかなか どの国も 大変だな。 そんなフランスの 国債よりも 遥かに 格付けの低い 日本。 みんなこんだけ 必死に働いてるのに、 この国 いったいどうなってんのかね? 謎だわ。 社会保障費と少子高齢化なのかも 知れないが、 なんか それだけじゃない気がする。 フランスは 労働分配率が高いから まだ 国民が豊かなのかも 知れないが、 日本は みんな カツカツじゃん。 構造改革とやらで 世の中を 「合理化」 したはずなのに。 労働生産性も ぶっちぎりで 低いし。 日本人は 睡眠時間が短いっていう データもあるらしいし。 もう わけわかんねえ。 (以下 Chat-gptより回答) フランスや日本の社会や経済について、いくつかの点について解説します。 フランスの暴動について: フランスの暴動がある場合、それは単一の要因によるものではなく、複数の要因が組み合わさっている可能性があります。暴動の原因は、経済的な問題、社会保障や労働条件の改革に対する反感、政府の政策への不満などが考えられます。具体的な事件や背景についての情報がないため、具体的な原因については一概に言えませんが、フランスでは労働市場や社会保障などの政策に対する議論が続いています。 フランスの労働市場と社会保障: フランスの労働市場は、一部の労働者にとっては働きにくい状況がある一方で、労働分配率が高いとされることもあります。労働分配率が高い場合、企業収益に対して労働者に対する報酬が相対的に多くなりますが、それが経済全体にどのような影響を及ぼすかは複雑な問題です。一方で、社会保障が手厚いことはフランスの一般的な特徴であり、それによって社会的な安定が保たれている一面もありますが、そのコストが高いとも言われています。 日本の経済と社会の課題: 日本の経済や社会には、いくつかの課題が存在しています。少子高齢化による人口減少と高齢化が深刻な問題として挙げられます。これにより、社会保障費の増加や労働力不足が懸念されています。また、労働生産性の向上が必要であり、これは様々な要因によって引き起こされている可能性があります。睡眠時間が短いというデータがあるとすれば、これも労働者の健康や生産性に影響を及ぼす要因の一つとなるでしょう。 世界中の国々が直面している問題: 現代の世界では、多くの国が経済的、社会的な課題に直面しています。経済のグローバル化や技術の進歩によって、労働市場や社会構造が変化し、各国がその課題に対処しようとしています。ただし、それぞれの国の状況や背景は異なるため、一概に比較することは難しいです。 最後に、フランスや日本の社会や経済に関する問題は多岐にわたり、それぞれの国の歴史、文化、政策などにも深く関連しています。簡単に結論を出すことはできませんが、これらの問題について継続的な議論と取り組みが行われています。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...