2023年3月17日金曜日
尾崎豊と戦後社会 (再掲)
愛という感情が日本の歴史上にも古くから存在していたことは、源氏物語にも書かれていることで、わかる。 しかし、日本の宗教観念には、愛を裏打ちするものがない。 曾根崎心中は、男が女郎をカネで身受けしようとするが、心中する、という悲劇である。 物語上で彼らが悲劇的な最期を遂げざるを得ないのは、男が、女郎を身受けすれば、男は商人として大阪から追放される運命にあったからでもある。 貴穀賎金という言葉があるように、江戸時代の日本では、カネは汚いものという観念があった。 見方によっては、曾根崎心中において示されたのは、カネと愛は両立しえない、もし純愛を遂げようとすれば、命を犠牲にせざるを得ない、という当時の観念を表現していたとも言える。 六部殺しの伝承のように、カネには罪に穢されているいる、という感覚もあるだろう。 曾根崎心中は、むしろ、カネという原罪を担保に、愛を成就させようとする文学的効果があると言えるかもしれない。 尾崎豊の歌に「僕が僕であるために」という楽曲があるが、現代日本においては、男は、曾根崎心中の男のように、社会に抗いながらも、純愛を遂げられない。 「僕が僕であるために、勝ち続けなければならない」のに、女に対しては、非自発的に別れを告げなければならない。 夏目漱石の「それから」の代助が百合の香りにむせぶシーンのように、純愛を遂げようとすれば、それは理性を放擲せざるを得ないような、不可能な冒険なのだ。 それは、漱石という作家の文脈では、日本人はイエを存続させるために、純粋な異性愛を犠牲にしなければならない、という明白な義務と、近代の西洋的ラヴという観念が、齟齬をきたしているのである。 「こころ」においては、「先生」は、妻をめぐって、非自発的に友人を殺してしまった、という原罪を設定することで、純粋な異性愛に漸近しようと試みる。 しかし、その試みは、「先生」は、その友人の死という残虐劇を、明治という時代に殉死する、というように、国家への忠誠心にすり替えてしまう。 現代日本という社会においては、愛は成就しないものなのだろうか? 尾崎以降、ありとあらゆる純愛の歌が唄われてきたが、結局むき出しの愛は破綻せざるを得ないことを、社会そのものが証明しているのではないだろうか? 尾崎が愛を謳いながらも、成就できないのは、現代日本社会の特質なのだろうか? その姿は、社会の中での生存場所を犠牲にする代わりに、自らの命を犠牲にした曾根崎心中の男と似てはいるが、そこに純愛は成就されない。 なぜなら、「僕が僕であるために、勝ち続けなけれならない」からである。 たとえ異性愛に殉死しても、それは社会に敗北しているからである。 曾根崎心中の男女のように、純愛に殉死することで、社会に勝っていない。 その意味で、江戸時代と現代日本は、やはり異なる社会ということになるだろう。 「三島は紛うことなく戦後社会の外部に立とうとした。だが、戦後社会は自分の外部があることを許容しない。この拒否は生の哲学という全面的な肯定の所作において行われているためほとんど意識されない。どんな精神のかたちにせよ、それが生命の形式であるかぎりー体制派も、全共闘運動もふくめてー戦後的な生の哲学はそれを是認しうるのである。三島は死に遅れたものとして、戦後社会とのそのような共犯性、あるいは戦後社会の総体性にたいして潔癖ともいえる反発の意思を隠そうとしなかった。三島の精神による抵抗に意味があるとすれば、それが生の哲学の軌跡に回収されないことであり、死を如実にはらんでいる限りにおいてであった。三島は自分の精神を思想的な形象でみたしたが、そうした彩りはただ死の線分に接続する限りにおいてのみ精神の形象でありえたにすぎなかった。」(395ページ) 国土論 内田隆三 筑摩書房 上皇上皇后ご夫妻の結婚が体現した、愛の成就のカタチは、性愛に基づく核家族という生のあり方を提示したが、それは、三島のように自らの命を死の線分に接続し続けることによってしか、社会の外部に立てないことをも呈示した。 尾崎豊もまた、悲劇的な死という形象によってのみ、社会に「勝った」のである。
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