自己の禁欲的な練り上げ、あるいは精神の遍歴 (再掲)

  思えば、ずーっと自分自身との距離を、近くに縮めている生活を続けていた。

それは、自分で敢えてそうしていた、とも言えるし、そうすることが要求される家庭環境だった、ということもあるだろう。

とにかく、恒に自分自身を肌身離さず自分に繋げておかないと、自分がバラバラになってしまう、という恐怖感に支配されていたし、現にその通りだったのかも知れない。

敢えて高校受験などしなければ、もっと楽な人生だったかも知れない。

でも、それじゃきっとつまらない人生を送ることになっていただろう。

(申し訳ないが。)

敢えて難しい環境に身を置くことで、人生が豊かになったことも、揺るがし難い事実だ。

しかし、その代償も大きかった。

精神的には、ずっとキツいままだった。

周囲を、やたら優秀な人に囲まれる、というのは、想像以上に過酷なことだし、下手に自分への期待値をあげてしまったものだから、自分で自分に対する期待や、家族からの期待値も、完全にバブルを起こしていた。

それに応え続けるのは、とても辛いことだった。

(そうして、汲々として呻吟する姿を、つねに姉から嗤われていた。)

栄光もあったかも知れないが、間違いなく挫折もあった。

しかし、敢えて自分自身と距離を適度に離す、という実践が奏功して、だいぶ楽になった。

いまでは、ブログに何を書こうか、ネタがないほどである。

人間とは、本来その程度の生き物のはずだ。

しかし、現代の日本では、そんな当たり前のことでさえも、当たり前ではないのだろう。

それが、今の時代特有のものなのかは、正直わからない。

でも、「らしく」生きていくだけでも、頑張らざるを得ない、と宮本浩次も歌っている。

ならば、そんな当たり前の生き方も、きっと当たり前ではないのだろう。

ボードレールが述べたように、「現代性」に生きる我々は、自分自身を禁欲的に練り上げる宿命に縛られている、というのは、あながち嘘ではないのだろう。

でも、どこかで、自分はこれでいい、と諦念できる日が来ることを、信じていたい。


アヴェ・マリア

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