光
「光を見た」という言葉には、どこか救済の響きが伴う。しかし、私たちが日々目にしている光の多くは、実はそれ自体が見えているわけではない。光が何かにぶつかり、跳ね返り、その対象の輪郭を浮き彫りにしたとき、私たちは初めて「そこに光がある」と認識する。
光とは、常に「他者」を必要とするメディアなのだ。
窓から差し込む一筋の陽光が、宙に舞う微細な塵を黄金色に輝かせる。もしそこに塵がなければ、光はただ透明なまま通り過ぎ、虚空を突き抜けていくだけだろう。私たちの生もまた、これに似ている。何もない空白の時間を歩んでいるつもりでも、誰かの言葉や、ふと手にとった書物の熱、あるいは予期せぬ躓きという「塵」にぶつかることで、自分という存在の軌跡が光として可視化される。
思えば、眩しすぎる光は時に残酷だ。それはすべてを白日の下に晒し、影を消し去ってしまう。だが、真に豊かな光とは、深い陰影を連れてくるもののことをいうのではないか。谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で説いたように、闇があるからこそ、磨かれた漆器や古びた柱の肌に宿る微かな光が、言葉以上に雄弁に物語を語り始める。
情報が光の速さで駆け巡り、あらゆるものが過剰なまでに照らし出される現代において、私たちは「照らされすぎること」の疲弊の中にいる。そんな時こそ、自らの内側に、静かな闇を蓄えておきたい。
光は、遠くから降り注ぐものだけではない。
暗闇の中で目を凝らし、沈黙の中に耳を澄ますとき、自らの内側からじわりと滲み出すような、体温を持った光がある。それは他者に誇示するための輝きではなく、ただ自分が自分であることの証として、ひっそりと灯される「暖簾」の灯火のようなものだ。
今日もまた、世界は光と影の織りなす綾で満たされている。
その中で、どの光を拾い上げ、どの影を慈しむか。その選択の積み重ねが、いつか私という人間の、たった一つの物語を形作っていく。
コメント
コメントを投稿