聖なる鼻歌 ――「希望」が染みた信仰のゆくえ
「信仰」という言葉を聞くと、私たちはつい、堅牢な石造りの教会や、重厚な経典、あるいは微動だにしない絶対的な確信を思い浮かべてしまう。それは、個人の迷いを許さない完結したシステムであり、完成された「正解」の姿をしている。
そこに、一滴の「希望」を垂らしてみる。
すると、どうだろう。鉄のようだった確信の輪郭が、ふわりと解けていくのがわかる。重力に縛られていた祈りが、かすかに浮力を持ち始めるのだ。
希望を孕んだ信仰は、もはや「義務」でも「救済への執着」でもない。それは、暗闇の中で自分を励ますためにこぼれる、小さな、しかし凛とした「鼻歌」のようなものに変質する。
従来の信仰が「神はいる」と断言する強さを誇るのだとしたら、希望を垂らした後のそれは、「もしかしたら、この世界の片隅に、私にしか見つけられない光が隠れているかもしれない」と期待する、ひそやかな「遊び」を含んでいる。
そこには、巨大な真理を前に平伏する人間ではなく、偶然の風に吹かれながらも「それでも、明日は今日より少しだけ善いものになる気がする」と微笑む、自由な個人の姿がある。
それは、透明な肯定だ。
何かが解決したわけでも、運命が好転したわけでもない。ただ、自分の内側にある「暖簾」を汚さず、そこに差し込む微かな光を「希望」と名付けて保管する。その意志の震えこそが、現代における新しい信仰の形ではないだろうか。
完成されないこと、揺らぎ続けること。
その不確かさの中に、私たちは初めて「体温のある神性」を見出す。
多摩川の河原に転がる名もなき石が、一滴の希望で物語の句読点になったように。
私たちの頑なな心もまた、その一滴によって、世界を愛し直すための柔らかな入り口へと変わっていくのだ。
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