概念の調律、あるいは「貧困」の流転について
言葉というものは、放っておくとすぐに錆びつき、重く硬くなってしまう。なかでも「貧困」という言葉の扱いは難しい。それはしばしば、逃れられない泥沼や、冷たいコンクリートのような質感を持って、人の思考を停止させる。
だから私は今日、この「貧困」という古びた概念を、一度特別なプロセスで洗い直してみることにした。
まず、この乾いた概念に、たっぷりの「潤」と「残滓」を摂取させる。効率という名のもとに切り捨てられてきた「残滓」には、実は豊かな物語がこびりついている。それを潤いとともに注ぎ込むと、ガリガリに痩せていた概念が、にわかに生々しい肉体性を持ち始める。
次に、その身体を「灰」で洗う。
かつて何かが燃えた証である灰は、優しく、しかし確実に、表面にこびりついた現代的な虚飾を削ぎ落としてくれる。そうして、十分に水分を吸わせた状態で、「炭」の熱にさらす。サウナのようなその工程の中で、内側に溜まっていた「諦め」という名の毒素が、熱い蒸気となって抜けていく。
火照った概念を、今度はよく冷えた「潤」で一気に引き締め、そこにわずかな「味」を足す。
ただの欠乏だったはずのものが、豊かな「想像」へと変質したその瞬間を見計らって、私は、まず「希望」を一滴、その胸元に垂らした。瞳の奥に小さな、しかし消えない灯火が宿る。
それからだ。再び「潤」と「残滓」を与えて内側を太くしてから、いよいよ、あらゆる流れが混じり合う液体としての「湊(みなと)」を注ぎ込んだのは。
「湊」という液体は、定住を許さない。それは常に異質な成分を孕み、絶えず揺らぎ、形を変え続ける境界そのものだ。その流体を全身に浴び、自らの一部としたことで、彼はもはや「固定された状態」であることをやめた。
最後に、ダメ押しのように「希望」をもう一、二滴、その波紋に落とす。
合計して二、三滴の光を湛え、液体としての「湊」をその身に携えたかつての「貧困」は、ひとつの豊かな「流れ」となって、世界へと漕ぎ出していった。
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