漠たる (再掲)

 20年前東戸塚の日向台っていう精神病院に2ヶ月いたんだが、名前の通り日当たりのいいところで、要するに暑かった。心因性多飲症で今でも日々大量のお茶だの冷水だのが必要な自分には、冷水さえ滅多に飲めないのは苦痛だった。だいたい5月から7月の間だったと思うが、暑いのに冷水さえ飲めず、もちろん空調も効かない。たまに作業療法の時間があり、旧い建物の一室でビーズの編み物を作ったりしたんだが、飽きて薄暗いソファーベッドに寝転んで、俺はこんなところに居てこの先の人生は 一体どうなるんだろう?と漠たる、漠たるとしか言いようのない感覚に侵されていた。今年はそれから20年てことで放送大学のほうも親から資金援助してもらって岡山に10連泊したりなんかして、贅沢させてもらっているが、これは無意識なのか、急に気力・体力の衰えを感じる。お金がなけりゃ生きていけないのは現代人の宿命だが、母親が亡くなったらどう生きていけばいい?別に病気だって治ったわけじゃない。当然薬だって必要だ。我ながらよく頑張ったとは思うが、正直お金を稼ぐのは不得手だ。そもそも、そこまで要求するのはいくらなんでも酷なんじゃないか?かといって自殺する気はサラサラないし。人生100年時代?バカいうんじゃないよ。40ちょい生きるだけでこれだけ大変なのに、100年も生きろだと?単純に体の調子が悪いだけなのかも知れないが、なんだか急に疲れた。若いうちは気力だけは凄かったからどうにかなったが、その肝心の気力が涸れつつある。

(以下、「三十歳」坂口安吾より引用)

 勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。

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