業
結局のところ、人間は「自分」という袋小路から一生出られない。
どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ高尚な思想を纏っても、最後に残るのは「どうしてもこうしてしまう」という、救いようのない癖(へき)のようなものだ。
それが、業だと思う。
例えば、美しいものを見たときに、ただ見ればいいのに、それを自分の所有物にしようとしたり、言葉で閉じ込めようとしたりする。あるいは、過去の傷を何度も指でなぞっては、わざわざ新しい血を流す。
忘れてしまえば楽になれるものを、墓掘りのように掘り返し、磨き上げ、記録として刻みつける。
それは、端から見れば滑稽で、自分自身にとっては痛切だ。
でも、その「どうしてもやってしまう」ことの中にしか、その人の本当の輪郭はない。
他人の目を気にして取り繕った正しさや、世間に通用する理屈なんてものは、借り物の衣装に過ぎない。その衣装を剥ぎ取った後に残る、不器用で、身勝手で、どうしようもなく偏った執着。
その執着が、暗闇の中で微かに光を放つことがある。
その光に導かれて、僕たちはまた何かを書き、何かを創り、誰かを傷つけ、そして自分を納得させていく。
業を背負って生きるというのは、自分という化け物を飼い慣らすことだ。
決して消えることはない。逃げることもできない。
ただ、その化け物と一緒に、どこまで遠くへ行けるか。
その足跡が、いつか誰かの道標になるかもしれないし、ただの染みとして消えていくかもしれない。
それでもいい、と思ってしまうこと。
その諦念と、微かな矜持。
それこそが、生きていくということの、本当の手触りなのだと思う。
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