アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
アリストテレスの倫理学を構造主義との対比で取り上げる。
私の実感でも、知的権威が昔より相対化されたと感じられる。自分は大学教授だぞとか、どこそこの研究者ですごい研究してるんだぞ!という肩書きでは良くも悪くも通用しなくなってきている。
アカウンタビリティーという言葉が象徴するように、いくら知的権威があっても、それを素人の一般市民に説明できなければいけない、という風潮を感じる。
それは 「知」の民主化、という意味では良い側面だと思われるが、悪い側面としては、一般市民が、知的オーソリティーを信用しなくなった、つまり、より陰謀論じみた話や、そもそもおよそ学術的に間違った話を臆面もなく信じ込む、という現象が現れてきた。
そこに政治が漬け込むと、いわゆるポピュリズム政治が生まれ、政治が極端な方向へと進む傾向が見られるようになってきた。これは、構造主義による「知」の権威の相対化の功績とも言えるのではないか。
ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、こう書いている。
「形而上学者たちの根本信仰は諸価値の反対物を信仰することである」
ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、その哲学者は 「善」を信じているというより、「善」の価値を正当化するために、その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、というわけである。
「不思議の国のアリス」の世界で、価値の問題を文字通り体現していたのは、トランプのすがたをした登場者たちだった。なぜなら彼らの存在は、トランプの序列における差異を基準にして、その「価値」を決められていたからである。
ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。
それは、カードの「価値」とは役割であること、言い換えれば、カードの 「価値」は、それぞれのカードの差異の関係と、トランプ全体の体系内における各カードの位置関係から生まれてくるということである。
つまり「王」や「女王」も、他のカードがなければ、そしてトランプと呼ばれるカードの体系がなければ、「王」や「女王」として君臨できなかった。それゆえ 「王」や「女王」の権力は、たとえどれほど周囲の者たちに脅威を与えたとしても、彼らのなかに存在しているものではなく、トランプのゲームを構成している多くの要素の関係から生まれた幻想としての効果にすぎない。
「カード」の体系を現実世界に当てはめれば、現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への忠誠心は、それが飽くまでも 「ゲームの体系」の中でしか効果を 持ち得ない、という意味において 著しく相対化 されているのである。
(参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76)
しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか?
そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。そして、そういうことをあなたも分かってくれるから、お互いに思いが共有できる」という、この基盤がなければ言語というものは実は働かない。
人間は社会的動物である。仮に眼前に他者がいないとしても、それは必ずしも他者の <不在> ではない。
他者が眼前にいない時でも、人は他者とやりとりをしている。言い換えれば、コミュニケーションをしている。
自分の発言を、相手はどう解釈し、相手がどんな応答をしてくるか、それに対して自分はどう答えるか、そんな複雑な入れ子構造の往還を、人は無意識に行っている。
人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。ならば、逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
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