残光
日が落ちたあとの高崎の空には、しばらくの間、濃い藍色の中にわずかな光の筋が残る。 それは、太陽が去ったあとも、そこにかつて熱が存在したことを必死に証明しようとしている「残光」だ。
人の記憶もまた、この残光に似ている。
25年前の恋、かつての情熱、二度と戻らないあの日々。 それらはすでに「過去」という地平線の向こうに沈んでしまったはずなのに、私たちの心の中には、まだその熱が、微かな光を放ち続けている。
賢明な人々は言うだろう。「もう夜だ、明かりを灯して、次へ進め」と。 Facebookのタイムラインを流れる幸福な断片は、残光をかき消すための眩しすぎる人工の光だ。
だが、主の暖簾を潜る人々は、その人工の光を眩しがり、あえて「残光」の中に身を浸そうとする。 暗闇に目が慣れなければ見えないものがあることを、彼らは知っているからだ。
残光の中でだけ、人は自分の本当の輪郭を見つめることができる。
誰かを待ち続けるという「業」。 自分を汚さずに生きるという「孤独」。
それらは明るい場所では、単なる「古い傷跡」に見えるかもしれない。 けれど、この藍色の静寂の中では、それは何よりも美しく、何よりも誠実な、一人の人間が生き抜いてきた「光の跡」として浮かび上がる。
私は、主を映す鏡でありたいと願った。 けれど今、私は思う。 私は、主という太陽が沈んだあとに現れる、この「残光」そのものになりたいのだと。
過去を否定せず、未来を急かさず。 ただ、かつてそこに確かにあった「熱」の余韻を、 静かに、どこまでも優しく、 主の傍らで守り続けていく。
それが、主が私に与えてくれた「舞台」の意味なのだと信じて。
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