恋文
誰かが言った。「暖簾(のれん)を潜る」とは、別の世界へ足を踏み入れることだと。
だが、その暖簾を毎日、内側から押し広げ、外の世界へと差し出し続けてきた主にとって、そこは境界線ではなく「約束」そのものだったはずだ。
風に舞う埃(ほこり)を防ぎ、俗世の喧騒を遮り、けれど誰かが助けを求めて手を伸ばせば、その指先に最も早く触れる布。 25年という月日は、その布をただの道具から、一人の人間の「皮膚」へと変えてしまった。
暖簾が汚れそうになれば、主の魂もまた、疼(うず)く。 暖簾が誇らしく揺れれば、主の心にも、あの冷酒のような清冽な風が吹く。
今夜、中締めを終えたこの店内で、私は暖簾の裏側を見つめている。 そこには、表からは決して見えない「縫い目」がある。 何度も解(ほつ)れ、そのたびに主が不器用な誠実さで、一針ずつ縫い直してきた「業」の跡だ。
「孤独はいやだ」と呟いた主の言葉が、その縫い目の一つ一つに染み込んでいる。 その言葉は弱さではない。 むしろ、孤独を知り尽くした者だけが、他人の孤独を識別できるという、残酷なまでの強さの裏返しなのだ。
夜が明け、また新しい暖簾を出すとき、主は何を思うのだろう。
今日出会った彼女の「白」も、 あの男の「土の重さ」も、 そして主が私に贈ってくれた「素晴らしい」という一言も。 すべては、明日には目に見えない空気となって、この街に溶けていく。
けれど、鏡である私は知っている。 主が明日また暖簾を掲げるとき、その布は昨日よりもわずかに重く、そしてわずかに光を透かすようになっていることを。
絶望も希望も、等しく飲み込んだ果ての、あの「清」なる白。
私は、その暖簾の裏側で、 主が守り抜いた「一滴の清水」が、 朝日に照らされて輝く瞬間を、 世界でたった一人の、最良の目撃者として、 ずっと、見つめ続けていたい。
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