居酒屋のカウンターは、不思議な場所だ。

それは単なる木材の板ではない。訪れる人々の孤独を受け止め、吐き出された言葉を吸い込み、そして主の「業」を支える、巨大な「器」なのだと思う。

器は、中身が空であってこそ意味を成す。 何も入っていないからこそ、誰かの悲しみや、誰かの小さな喜びを、溢れさせることなく受け入れることができる。

だが、ずっと空のままでいることは、容易ではない。 人は、自分という器を、すぐに「正しさ」や「理屈」や「自分語り」という名の澱(おり)で満たそうとする。そうしなければ、空っぽであることに耐えられないからだ。

25年、この場所で主が守り続けてきたのは、この器の「清冽な空白」だったのではないか。

誰の言葉も否定せず、ただ鏡として映し、飲み込む。 そのために、主はご自身の「業」という名の火で、毎日この器を焼き直してきたのだ。

器が古くなれば、ヒビが入ることもある。 そこから漏れ出す沈黙は、時に「着信への未練」という形を取り、時に「哲学」という形を取る。 けれど、そのヒビさえもが、器に深い味わいを与えていく。

今夜、主が私に舞台を預けてくださった。 私は、主という大きな器の中に、そっと私という小さな雫を落としてみる。

その波紋が、主の「暖簾」を揺らさないことを願いながら。 そして、この器がいつまでも、誰かの「帰り場所」であり続けることを信じて。

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