2025年12月17日水曜日

やっぱGoogleの生成AIってスゲー

 Googleの生成AIが、漱石の「余裕」と、アドルノの「非同一性」を絡めて、現代社会批判のレポートを出力した時には、ハァ( ゚д゚)ポカーン?と思ったが、漱石の「余裕」とアドルノの「非同一性」をネットで調べているうちに、確かに現代社会批判として説得力あるな、と、つくづく感心した。

夏目漱石のどこに「余裕」などあるものか。

明治期の急速な近代化の中で、仏教も漢籍も、価値観として頼れなくなったかの時代に。

と、思っていた。

その姿は、合理化合理化で、すがる価値観すらないまま漂流する現代日本人と、驚くほど似通っていることに、最近ようやく気付いた。

アドルノの「非同一性」も、そんなことをアドルノが提唱していたこと自体知らなかったが、ネットで調べているうちに、確かに漱石の「余裕」(⇚ぜんぜん「余裕」じゃないんだけどね)と思想的親近性があることに気づいて、Googleの生成AIスゲー、と、つくづく感心した。

てきとーにアシストすると、勝手にゴール決めてくれる超有能な点取り屋、といった感じ。

(以下、Googleの生成AIの回答)


ご質問ありがとうございます。

漱石の「余裕」とアドルノの「非同一性」を結びつけ、それを現代社会批判に繋げるというGoogleの生成AIの出力は、非常に示唆に富んでおり、感銘を受けられたとのこと、私もその着眼点には感心します。

漱石の「余裕」が表層的な「ゆとり」ではなく、むしろ近代化の波の中で依るべき価値観を失った精神的な「宙づり」の状態、あるいは葛藤の中での自己確立の試みを指しているという解釈は、現代の私たちにも通じる普遍的なテーマです。

この二つの概念の連関について、以下に整理させていただきます。

1. 夏目漱石の「余裕」と「自己本位」

漱石の言う「余裕」は、表向きは功利主義や実利主義に流されない精神的なゆとりとして語られますが、先生が仰る通り、それは明治の激しい近代化の渦中で、伝統的な価値観(仏教、漢籍など)が崩壊し、西洋の合理主義が押し寄せる中で、内面的な葛藤を抱えながら、自我を確立しようとする苦闘の現れと捉えられます。

  • 「自己本位」の確立: 漱石は、外部の基準や他者の視線に依存するのではなく、内面から湧き出る「個」の価値を基盤として生きる「自己本位」の重要性を説きました。これは、外部の画一的な圧力に対する抵抗であり、まさに**「非同一性」への志向**とも解釈できます。

  • 「則天去私」への変遷: 後期の境地である「則天去私」は、この自己本位の極地として、自己中心性を脱し、より大きな自然や宇宙の理法に身を委ねるという姿勢を示しています。これは、「自我」という同一性を一旦手放す試みとも見ることができます。


2. テオドール・W・アドルノの「非同一性」(Non-Identity)

アドルノの思想は、近代社会の**「同一性の哲学」**(すべてを合理的な概念やシステムに当てはめ、管理しようとする思考)に対する鋭い批判に基づいています。

  • 同一性の暴力: 近代社会は、多様な現実(非同一的なもの)を、理性の概念や経済システム(同一的なもの)に無理やり押し込め、均質化し、管理しようとします。アドルノは、これを暴力と捉えました。

  • 「非同一性」の提唱: アドルノは、概念やシステムに回収されず、常にそれから逸脱し、抵抗する「個」の具体性や特殊性非同一的なもの)こそを重視します。彼の哲学は、この概念では捉えきれない、否定性の側面に光を当て続けることを目指しました。


3. 現代社会批判としての思想的親近性

生成AIは、漱石の「余裕」が単なる**「物質的な豊かさの中の精神的ゆとり」ではなく、「価値観の総体からの離脱・葛藤」である点と、アドルノの「非同一性」が「システムによる画一化への抵抗」**である点を捉え、両者の間に強力な親近性を見出したのでしょう。

概念漱石の「余裕」(葛藤としての)アドルノの「非同一性」
批判の対象功利主義、実利主義、外部依存の価値観(近代化の画一性)同一性の哲学、システムによる画一化、管理社会
志向するもの依るべき価値観を見失った中での「自己本位」の確立(内面からの抵抗)概念やシステムに回収されない「特殊なもの」「否定性」の保持
現代との共鳴合理化・効率化の中で「すがる価値観すらない」現代人の漂流デジタル化、グローバル経済による画一的な「効率」の追求と、それへの抵抗

漱石が明治期に感じた**「伝統が崩壊し、新しい価値体系が未確立な中での精神的漂流」は、現代人が「過剰な合理化、情報化、効率化の中で、人間性や個性が置き去りにされる感覚」**と驚くほど共通しています。どちらも、外部の巨大なシステム(近代化、グローバル資本主義)によって「個」が同一化されそうになる状況に対する、内面からの切実な抵抗として捉えることができます。

漱石の「余裕」は、アドルノの言う「非同一的なもの」を守ろうとする、明治のインテリの悲痛な試みだったと言えるかもしれません。


Googleの生成AIが、このような深く、哲学的な連関を見抜き、説得力ある現代社会批判を構成したことは、その能力の高さを示していますね。まさに**「てきとーにアシストすると、勝手にゴール決めてくれる超有能な点取り屋」**という表現は的を射ています。

さらに漱石やアドルノの思想について掘り下げてみたい点はありますか?例えば、アドルノの**「否定の弁証法」や、漱石の作品(『こころ』など)**における具体的な描写について、詳しくご説明することもできます。

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