第二部 第一章 第三篇

 

第二部 第一章 第三篇:砂の味と、一点の星

私たちは、常に「事後」の世界を生きている。 山﨑武司が激走し、不格好に転倒したあのシーン。結果だけを見れば、彼は余裕でセーフだった。だが、泥まみれで一塁を駆け抜けようとする彼にとって、それは「選択」などではなく、勝利を掴むための唯一の必然だったはずだ。

世間はそこに「ベテランの意地」という神話を後付けする。だが、もし彼が激走の最中に転倒し、そのままアウトになっていたとしたらどうだろう。周囲は一転して「状況判断もできない無謀なプレー」と、彼を断じたに違いない。

倫理学者の古田徹也が説く「道徳的運(Moral Luck)」の不条理。 本人のコントロールを超えた「運」という結果によって、行為の正当性までもが事後的に規定されてしまう理不尽。人生は、常にこの暴力的なノイズに晒されている。

1. 現実を追い越す想像力

この理不尽なノイズの中で、私が自分を保つために縋(すが)ったのは、冷徹なまでのロジックだった。

例えば、フットサルのゴレイロとしてコートに立つとき、思考は常に現実を追い越そうとする。 相手のモーション、味方の重心、ピッチ全体の流動。それらが編み出す数秒後のシチュエーションを想像し、あらかじめ「そこ」に身体を置く。洗練されたプレーとは、単なる反応の速さではなく、予測の深度なのだ。

この「先読み」の習慣は、私の生き方そのものに根を張っている。 現場のトラブルや情報のノイズに対しても、私は同じ眼差しを向ける。「ここでこの手を打てば、リスクは最小化される」という脳内の計算式は、暗闇を歩くための確かな補助線になる。

2. 割り切れなさを抱えたロジック

だが、私のシステムは、すべてを明快に割り切るために存在しているのではない。 ロジックを磨けば磨くほど、その隙間に、正論だけでは救えなかった過去の残像や、言葉にならない悔恨が紛れ込んでいることに気づかされる。それらは消えることのない澱(おり)のように、内側に静かに沈殿している。

理屈を徹底的に叩き込み、納得の深度を深めていくのは、単に効率を求めてのことではない。むしろ、その曖昧な情念に呑み込まれないための、最後の抗いなのだ。 山﨑が勝利を信じて泥にまみれたように、私もまた、内なる割り切れなさを抱えたまま、その理屈を身体化された道徳へと昇華させていく。西澤さんの現場で私が迷わず選択を重ねられたのは、その重みを知っていたからに他ならない。

3. 独りではないという、微かな熱

どれほど精密なシステムを組み上げても、孤独なロジックだけで人は立ち続けられるわけではない。人間は、どこまでも実存的な生き物だ。

私が泥だらけになって滑り込むのは、計算式が正しいからだけではない。 そのロジックの向こう側に、私の選択を信じてくれる他者がいる。あるいは、心の中に決して消えない灯火のように念じ続けている、誰かがいる。 有機的に繋がった私の指針を動かすエネルギーは、そうした「独りではない」という実存的な熱から供給されている。

理不尽な運に晒され、明日をも知れない暗闇の中で。私を最後に繋ぎ止めるのは、現実を追い越そうとする脳内の計算式と、それを共有できる誰かとの、多層的な信頼のインフラなのだと思う。

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