2025年12月21日日曜日

日本財政、インフレとバラマキの懸念 (再掲)

 

日本の財政健全化の虚実:インフレと政治的誘因が蝕む長期安定性 — 「アベノミクス・レジーム」再来の危険性分析 —

第1部:序論 — インフレ下の財政不安と「無策の選択」の論理

1.1. 報告書の背景:インフレ環境下における日本のマクロ財政動向の再評価

近年の日本経済は、デフレ期には見られなかったマクロ経済環境の転換期を迎えている。長年の異次元緩和と、国際的なインフレ圧力が複合的に作用し、名目GDP成長率が上昇傾向を示している。この名目成長は、特に税収の増加という形で政府の歳入に反映され、基礎的財政収支(Primary Balance, PB)の数値目標を一時的に改善させる効果をもたらしている。

政府はこのPB改善を財政健全化への道筋として提示しがちであるが、専門家の間では、この数値改善の「質」に対する根本的な懐疑論が共有されている。PBの改善が、実質的な経済構造改革や生産性向上に基づくものではなく、インフレによる名目的な効果に大きく依存しているとすれば、その持続性は極めて低いと言わざるを得ない。本報告書の出発点は、この「名目的な改善」の裏側に潜む構造的な脆弱性を徹底的に分析することにある。

この状況下で、特定の政権(ユーザーの指摘する高市政権など)が、物価高対策を名目とした新たな財政出動(いわゆる「バラマキ」)を開始している。これは、財政規律が一時的に緩むことによる政治的なモラルハザードの典型例である。もし、財政規律を重視する政策が有権者の支持を得られにくいという構造的な制約が存在するならば、経済政策において「余計なこと(バラマキ)をするくらいなら、まだ経済に関しては何もしないほうがマシ」という、政策不信に裏打ちされた「無策の便益」の論理が、政策論の核心として重みを増すことになる。

1.2. ユーザーの核心的懸念の構造:名目改善 vs 実質的な財政規律

ユーザーが抱える懸念は、日本の財政問題の複合的な側面を正確に捉えている。第一に、PB改善が「インフレ税」効果、すなわち既存の国債の実質価値圧縮と名目税収増加に依存している危険性である。この効果は短期的には政府の帳簿を改善させるが、将来の金利上昇リスクと構造的な歳出圧力の増加という形で、長期安定性を蝕む。

第二に、島澤諭教授が指摘する「アベノミクス・レジーム」への回帰である。このレジームは、積極財政の恒常化、日銀による暗黙の財政ファイナンス、そして財政再建目標の形骸化を特徴とする。インフレによる名目的なPB改善の機会を捉え、構造改革を回避し、短期的な政治的利益を追求するバラマキが始まることは、このレジームが依然として政治的誘因として強く作用していることの証明である。

第三に、門間一夫氏の論考のような複雑な債務動学、すなわち金利上昇時に利子収入が民間へ還流するというメカニズムへの言及は、ユーザーが高い専門知識レベルを有していることを示す。しかし、このような複雑な分析が、危機意識を麻痺させ、必要な財政健全化の議論を先送りにするための政治的な口実として利用されるリスクも同時に内包している。

これらの懸念を総合的に検討する時、日本の財政危機は、数値的な破綻として顕在化する以前に、すでに構造的な機能不全という形で「始まっている」という診断を下す必要性が高まる。本報告書は、この構造的脆弱性を多角的に分析し、日本の財政健全化に向けた現状を診断する。

第2部:基礎的財政収支(PB)改善の虚構性:インフレ税の光と影

2.1. 近年のPB改善の内訳分析:歳入側の要因分解

基礎的財政収支の改善が持続可能であるか否かを評価するためには、その改善分がどこから来ているかを厳密に分解することが不可欠である。PB改善の要因は、大別して以下の三要素に分類できる。すなわち、①実質GDP成長による生産性の向上、②インフレ(価格効果)による名目値の上昇、③裁量的政策(増税や構造改革)である。

近年のPB改善において支配的であるのは、②のインフレによる名目税収の増加である。インフレは、企業の名目売上、家計の名目所得、および商品・サービスの販売価格を押し上げる。これにより、法人税、所得税、そして消費税の税収が名目ベースで大幅に増加する。この現象は、実質的な国民の購買力や生産能力の上昇を伴わないにもかかわらず、政府のPB計算においては歳入改善として計上される。これは、インフレが既存の債務の実質価値を低下させるとともに、名目税収を押し上げるという二重の効果を持つ「インフレ税」として機能していることを示唆する。

名目成長率によるPB改善は、技術的には財政健全化に見えるが、実質的にはインフレを通じた債務の「ソフトな踏み倒し」であると解釈することができる。これは、政府が将来の痛みを伴う改革(増税や歳出カット)を回避するための口実を提供する。財政規律とは、現在の世代が将来世代に過度な負担を負わせないことにあるが、インフレは既存の債務の実質価値を低下させ、現在の政府の負担を軽減する。この軽減効果を真の構造改革と誤認することは、将来世代への負担を可視化させず、倫理的・構造的な危機を先送りする行為となる。

また、PB改善の持続性は、現在のインフレの「質」に大きく依存する。もし現在のインフレが輸入物価高によるコストプッシュ型であれば、実質賃金が低迷し、企業利益も圧迫されるため、税収の弾性値は低下する。この場合、法人税収や所得税収の伸びは鈍化し、名目税収増は短命に終わる可能性が高い。逆に、賃金と需要がともに上昇するデマンドプル型インフレであれば、実質成長と名目税収増が両立し、改善は持続しやすい。現状、実質賃金の伸び悩みが見られることから、インフレ寄与度の高い税収増は一時的な可能性が高いと分析される。

2.2. インフレによる歳出圧力の検証と相殺効果

インフレがPBに与える影響は、歳入側での即時的な改善だけでなく、歳出側での遅延的な圧力も考慮しなければならない。インフレによる歳出圧力は、主に社会保障費と国債費の二つの経路を通じて発生する。

第一に、社会保障費である。日本の年金給付額などは、物価スライド制に基づいているため、インフレ発生後、数年間のタイムラグを経て増加する。医療費や介護費も、物価や人件費の上昇に伴い増加傾向にある。

第二に、国債費(利払い費)の急増リスクである。デフレ期にはゼロ金利政策によって利払い費が抑制されてきたが、インフレが持続し、金融政策が正常化に向かい金利が上昇すれば、国債の借り換えコストが数年単位のタイムラグを経て急増する。

インフレによる歳入増が単なる一時的なもので終わった場合、金利上昇による国債費増加と物価スライドによる社会保障費増加という、構造的な歳出圧力だけが残る。この歳出側の構造変化は遅れて必ず発生するため、PBは名目的な改善すら維持できず、インフレ前の水準以上に急速に悪化する危険性を内包している。

2.3. 名目的な財政改善がもたらす「財政のモラルハザード」

財政指標の数値的な改善が、政治家に対し構造改革を回避するインセンティブを与えることを「財政のモラルハザード」と定義する。

PB黒字化目標の達成時期がインフレによって近付くと、「目標達成のために痛みを伴う改革を行う」という政治的動機が失われる。本来、税収増は財政構造を強化し、将来のショックに備えるためのバッファーとして利用されるべきである。しかし、このモラルハザードが作用すると、政治家は増加した税収を構造改革ではなく、短期的な人気取りのための裁量的財政出動、すなわち「バラマキ」に転用する誘惑に駆られる。

ユーザーの懸念が指摘するように、PB改善のモメンタムを無視した特定の政権による財政出動は、この財政のモラルハザードの結果として現れた現象であり、財政規律の弛緩が具現化したものである。これは、インフレがもたらした財政的猶予期間を、構造的な脆弱性を増幅させるために利用しているという、政策運営上の重大な失敗を示している。

名目的なPB改善要因の構造分析を以下に示す。

Table Title: 基礎的財政収支(PB)改善要因の構造分析(名目成長 vs インフレ効果)

分析項目

名目PB改善への寄与

実質PB改善への寄与

財政健全化への長期的な影響

実質GDP成長による歳入増

高い

高い

持続可能だが、潜在成長率の維持が課題

インフレによる名目税収増(インフレ税)

極めて高い

低い(実質購買力は不変)

規律の弛緩(モラルハザード)、将来の歳出圧力増加

裁量的財政出動(バラマキ)

マイナス

マイナス

財政目標の形骸化、市場信頼の低下

第3部:財政規律の弛緩:「アベノミクス・レジーム」への回帰分析

3.1. 島澤教授の定義する「アベノミクス・レジーム」の再構成

島澤諭教授が定義する「アベノミクス・レジーム」とは、単なる特定の経済政策の集合体ではなく、日本の財政・金融政策の運営方法における構造的な変化、すなわち規律の喪失を意味する。このレジームは、主に以下の三つの要素によって構成されていると分析される。

  1. 積極財政の恒常化: 財政再建を名目上掲げながらも、実質的には景気対策や政治的配慮による一時的な財政出動が恒常化し、構造的な歳出改革が忌避される状況。

  2. 日銀による異次元緩和を通じた暗黙の財政ファイナンス: 中央銀行が国債を大量に買い入れることで、政府の資金調達コストを極めて低く抑え、市場規律による制約を事実上無効化する。

  3. 財政再建目標の形骸化と政治的利用: PB黒字化目標などが、経済状況に合わせて柔軟に変更され、政治的な都合の良いタイミングで利用されることで、財政規律に対する市場の信頼が損なわれること。

ユーザーが指摘する特定の政権による物価高対策を名目とした財政出動は、PB改善のモメンタムや中長期的な財政安定性を無視した行動であり、この「アベノミクス・レジーム」への明確な回帰シグナルである。これは、短期的な政治的満足度を優先し、長期的な財政安定性を犠牲にするというレジームの本質を体現している。

3.2. 最近の財政出動の評価:政策の必要性と財政規律への影響

コストプッシュ型インフレが続く現状において、低所得者層や現役世代に対する短期的な生活支援策(給付金、一時的な減税)の必要性は否定できない。しかし、問題はその規模と、財源の質、そして継続性にある。

財政規律の観点から最も問題視されるのは、これらの出動の財源が、実質的な構造改革や安定的な増税ではなく、インフレによる一時的な税収増に依拠している点である。すなわち、一時的な歳入増を恒久的な歳出増加に充てるという、持続不可能な財源構造に立脚している。

さらに、この「アベノミクス・レジーム」への回帰は、市場に対し「日本政府は構造改革を行わない」という明確なネガティブシグナルを送る負の外部性を持つ。政治的リーダーシップがPB改善の好機を利用してまでバラマキを選好するという事実は、政府が財政規律の回復よりも政治的安定を優先しているという市場の確信を強める。ユーザーが「何もしない方がマシ」と考えるのは、このネガティブシグナルを避けること、すなわち「無策の便益」に大きな価値を見出しているからに他ならない。

3.3. 政治的バラマキが持つ経済的帰結:有効需要とインフレ期待への影響

裁量的財政出動がもたらす経済的帰結は、有効需要創出効果の限界と、長期インフレ期待の助長という二つの側面から評価される。

まず、有効需要創出効果について、将来不安が高い状況下では、家計は将来の増税や社会保障の不安定化を懸念するため、給付金や一時的な減税は消費ではなく貯蓄に回されやすく、乗数効果は限定的となる 1。特に、現役世代は将来のリスクを強く認識しており、一時的な収入増に対する消費性向が低下する傾向にある。

次に、長期インフレ期待への影響である。財政の規律が失われ、政府が資金調達を容易に行えるという市場の確信(財政ドミナンス)が強まることで、投資家は長期的な国債リスクプレミアムを引き上げる。これは、将来の金利上昇圧力を自ら招く行為となる。財政政策の第一の役割は、経済の安定化と効率化であるべきだが、バラマキは短期的な政治的安定化(有権者の支持)に特化しており、将来のインフレと増税リスクを増大させる。

ユーザーの諦観(「有権者はそれじゃ納得できないんだから、しょうがない」)は、短期的な利益供与と長期的な財政規律のトレードオフにおいて、民主主義的な構造が短期を選好する自己強化的な罠に陥っていることを示唆している。政治家は短期的な給付金で再選を狙い、痛みを伴う財政規律の回復を回避する。この構造こそが、日本経済の最大のボトルネックであり、財政の健全化を阻む「アベノミクス・レジーム」の本質である。

第4部:金利上昇環境下の債務管理リスクと門間論考の再評価

4.1. 門間一夫氏の論点:金利上昇と民間部門への利子収入還流メカニズムの解説

金利上昇が財政に与える影響に関する議論は、政府の利払い費の増加という直接的なコストだけでなく、マクロ経済全体への影響という複雑な側面を持つ。門間一夫氏の論点は、この複雑性を理解する上で重要である。

この論考の理論的妥当性は、金利上昇に伴う政府の利子支払い(国債費)の増加が、そのままマクロ経済的な需要減退につながるわけではないという点にある。なぜなら、増加した利子収入の大部分は、国債を保有する金融機関、保険会社、および家計などの民間部門に還流するからである。この利子収入の還流は、民間部門の収益を押し上げ、理論上は金利上昇による総需要の減少を部分的に相殺する効果を持つ。この議論は、金利上昇が必ずしも直ちに深刻な財政危機を引き起こすわけではないという認識を政策議論に提供する。

4.2. 債務管理上の制約:金利上昇の速度と政府の平均償還期間戦略

門間論考の有効性は、いくつかの重要な制約条件に依存する。

第一に、金利上昇の速度である。金利が緩やかに上昇する場合、政府は資金調達戦略を調整する時間的余裕を持つが、急激な上昇は即座に市場の信認を揺るがし、借り換えコストを急増させる。

第二に、国債の残存期間構成である。日本の国債の平均残存期間は比較的長いため、金利上昇の財政コストへの影響は緩やかである(数年単位のタイムラグ)。しかし、この緩慢さは、コスト増加自体を不可避なものとして先送りしているに過ぎない。一旦金利上昇が始まれば、借り換えのたびにコストが増大し、最終的な利子支払額は政府の歳出を急速に圧迫する。

さらに、金利上昇による利子収入の還流は、家計の中でも特に金融資産を多く保有する高齢層や富裕層に集中する。これは、財政ショックが経済全体で均一に作用しないことを示している。利子収入増加の恩恵は高資産層に偏る一方、現役世代は住宅ローン金利の上昇や将来的な税負担の増加という形でコストを負う。これは所得格差を拡大させ、社会の安定性を損ない、最終的に政府に対するさらなる分配政策(バラマキ)の要求を強めるという悪循環を引き起こす。

この門間氏の論考は、その理論的精緻さとは裏腹に、「金利が上がっても心配ない」という誤った政策判断を導き出し、必要な財政構造改革の議論を封じるために利用されるリスクが高いことを留意すべきである。政治家が短期的な判断材料を求めるとき、利子収入の還流という緩和メカニズムは、財政健全化の必要性を緩和する材料として利用されやすい。

4.3. 金融政策(日銀)と財政政策(政府)の相互依存関係(財政ドミナンス)の現状

金利上昇の真の制約は、政府の債務コストそのものだけでなく、日本銀行のバランスシートの健全性にも深く関わっている。日銀は現在、国債の約半分を保有するという特殊な立場にある。

金利上昇が起こると、日銀は市中の金融機関から預かっている当座預金に対して支払う付利(超過準備への利子支払い)が増加する。この付利支払いの急増は、日銀の収益を圧迫し、バランスシートを急速に悪化させる。結果として、日銀が政府に納付する国庫納付金が減少し、最悪の場合、日銀の資本増強が必要となる可能性がある。この日銀の財務悪化は、最終的には政府の隠れ債務として財政に跳ね返る。

この状況は、金融政策が財政の持続可能性によって制約される状況、すなわち「財政ドミナンス」が顕在化していることを示している。これが、日銀がデフレ脱却後も政策金利をそう簡単にあげられないでいる、最も深刻な理由である。金融政策の自由度が財政リスクによって奪われている状況こそが、日本の財政危機が構造的に進行している明確な証拠である。

第5部:「貯蓄から投資へ」の構造的失敗と政策介入の逆説

5.1. 貯蓄から投資への流れが確立されなかった歴史的経緯と現状のデータ検証

「貯蓄から投資へ」のスローガンは、2001年に掲げられて以来、20年以上が経過しているにもかかわらず、日本の家計金融資産構成において大きな変化を生み出すには至っていない。この政策目標の構造的な失敗は、マクロ財政の不確実性と密接に関連している。

日本の家計金融資産の構成は、欧米諸国と比較して際立って異常である。家計における現金・預金の保有比率は54.2%と異常な高水準で推移しており、リスク資産(株式・投信等)保有比率は低位で停滞している 1。特に債務証券(国債等)の保有比率はわずか1.3%にとどまっており 1、家計が現金選好志向に固執している実態が明らかである。

金融庁などが推進する「貯蓄から投資へ」の政策目標は、家計金融資産の増加を通じて企業の成長投資の原資を提供し、企業価値向上を経て成長と資産所得の好循環を生み出すことを目指している 1。しかし、長年の異次元緩和による低金利環境(預金の機会費用の低下)と、政府の規律なき財政出動(将来不安の増大)によって、この目標は構造的に失敗する運命にあった。異次元緩和は、銀行預金のリターンをゼロに近づけ、現金保有の機会費用を極小化した。同時に、政府の財政不安が将来のリスクプレミアムを高めた結果、家計は最も安全に見える現金選好に固執した。つまり、マクロ経済政策全体が一貫性を欠き、金融改革の目標を自ら打ち消してきた。

日本の家計金融資産構成と「貯蓄から投資へ」の阻害要因を以下に整理する。

Table Title: 日本の家計金融資産構成と「貯蓄から投資へ」の阻害要因(2023年時点)


資産項目

日本 (比率 %)

日本の主要な阻害要因

現金・預金

54.2 1

将来不安による現金選好志向 1

債務証券

1.3 1

リスク資産の期待収益率の低さ 1

リスク資産合計(株式・投信等)

低位で推移 1

金融リテラシーの不足 1

5.2. 阻害要因の詳細分析:金融リテラシー、制度設計、および将来不安の役割

「貯蓄から投資へ」の阻害要因として、リスク資産の期待収益率の低さや未成熟な投資促進制度に加え、金融リテラシーの不足と将来不安が特に重要であると分析されている 1

金融リテラシーの欠如は、具体的な行動の壁となっている。金融庁の調査によれば、金融教育を受けていない層は、資産運用に関して、確実性のある方が安心だから(54.2%)、購入・保有することに不安を感じるから(49.1%)、資産運用に関する知識がないから(38.5%)といった理由を非投資の根拠として挙げる 1。金融リテラシーや専門家のアドバイスは、金融商品購入意欲に影響を及ぼし 1、個人の行動変容を促すミクロな手段としては重要である。

しかし、これらのミクロな努力の限界は、マクロ財政の不透明性、すなわち将来不安の深刻性に起因する。経済合理性から逸脱した極端な現金選好は、「老後不安」や「社会保障制度への不信」といった、政府の財政安定性に対する根本的な不信感に深く根差している。

5.3. マクロ財政の不透明性が家計の投資行動に与える負の影響(政策の逆説)

マクロ財政の不透明性は、家計のリスク回避行動を強固にし、結果的に投資環境を自ら悪化させているという構造的な問題を生み出している。

財政規律の欠如は、将来の増税や社会保障給付の削減リスクを高め、家計の将来不安を増大させる。将来不安が高まれば、家計はより流動性の高い、安全な資産、すなわち現金・預金へと逃避する。これにより、長期的な視点でのリスク資産への資金供給が抑制され、結果的にリスク資産の期待収益率が低迷する。

これは、ユーザーが嘆く「貯蓄から投資へ、の流れが出来つつあったのに、高市政権が余計なこと(『アベノミクス・レジーム』への回帰)をするくらいなら、まだ経済に関しては何もしないほうがマシ」という意見に、経済学的な正当性を与える。規律なき財政出動は、市場信頼の低下、将来不安の増大、および財政規律の弛緩という構造的なコストを生み出し、長期的な投資行動を阻害する負の外部性を発生させる。

もしマクロなレベルで財政不安が存在し続ける限り、金融教育やアドバイスといったミクロな努力による効果は限定的である。知識があれば、リスクを理解し、投資を始めるかもしれない。しかし、政府の財政が破綻リスクを抱えていると感じれば、合理的な投資家はリスク資産を避ける。このため、財政の健全化こそが、最もコスト効率の高い「金融リテラシー向上策」となる。

第6部:結論と最終提言 — 財政危機の診断と「無策」が最善となる時

6.1. 総合診断:日本の財政危機はどこまで進行しているか

本報告書の分析に基づき、日本の財政状況について総合的な診断を下す。日本の財政危機は、国債の暴落や金利の急騰といった劇的な形で表面化しているわけではないが、「静かなる財政危機」の過程にあると結論付ける。

財政危機の診断:

  1. PB改善の脆弱性: 基礎的財政収支の名目的な改善は、主にインフレによる一時的な歳入増に依存しており、実質的な財政健全化は達成されていない。この名目改善は、将来の歳出圧力(社会保障費と国債費)を無視した「虚構の健全化」である。

  2. 規律の喪失: 特定の政権による物価高対策を名目とした財政出動は、インフレによる財政的な猶予期間を構造改革の推進に利用せず、短期的な政治的利益のために長期的な財政安定性を犠牲にする「アベノミクス・レジーム」への回帰を示す。

  3. 財政ドミナンスの定着: 金融政策は、日銀のバランスシート保護という財政的な制約によって自由度を奪われており、金利を上げられない真の理由は財政の持続可能性への懸念にある。

結論として、財政危機はすでに「始まっている」というユーザーの認識は、名目的な改善の裏に隠された、財政規律の構造的な脆弱性と政治的なモラルハザードに着目した、極めて正確な診断である。

6.2. 「何もしない方がマシ」の論理の経済学的な正当性

ユーザーが提示した「経済に関しては何もしないほうがマシ」という論理は、マクロ経済政策の負の外部性を回避するという点で、経済学的な正当性を持つ。

政治的バラマキは、有効需要創出効果が限定的であるにもかかわらず、市場に対し、財政規律が放棄され、将来的にインフレと増税リスクが高まるというネガティブなシグナルを与える。このネガティブシグナルは、家計の将来不安を増大させ、投資行動を抑制し、「貯蓄から投資へ」の構造改革を自ら打ち消す。

したがって、短期的な財政出動が構造的なコスト(市場信頼の低下、不確実性の増大)を上回る利益を生み出せない場合、政治が「何もしないこと」(すなわち、裁量的財政出動を控え、既存の財政再建コミットメントを堅持すること)は、最もコストの低い政策選択となり得る。真の「無策」とは、政治的な誘惑を断ち切り、財政規律回復のロードマップを堅持することに他ならない。

6.3. 長期的な財政安定化に向けた構造改革提言

日本の財政健全化と経済成長の好循環を実現するためには、インフレによる一時的なPB改善を構造改革の「準備期間」として利用し、以下の三つの柱に基づく改革を断行することが不可欠である。

  1. 歳出構造改革の断行:

  • 最も重要なのは、社会保障制度の持続可能性を確保するための給付と負担の明確な見直しである。物価スライド制による自然増に加え、高齢化による構造的な費用増大を抑えるための抜本的な改革が必要である。

  1. 成長を阻害しない歳入改革の実現:

  • 裁量的出動ではなく、安定した財源を確保するための議論を再開すべきである。成長を阻害しない形での税制改革、特に、社会保障の費用を賄うために最も効率的で安定的な消費税を主軸とした議論の再開は避けられない。

  1. 「貯蓄から投資へ」を可能にするマクロ環境の構築:

  • 金融リテラシー向上策(ミクロ政策)も重要だが、それ以上に、財政不安を払拭し、家計の将来不安を根本的に軽減することが、家計がリスク資産へ資金を振り向けるための最優先のマクロ政策となる。財政規律の回復こそが、潜在成長率を高め、リスク資産の期待収益率を向上させるための最大の特効薬である。

6.4. 政治的リーダーシップへの要請:財政規律回復のロードマップ

現在のPB改善は、政治家が痛みを伴う改革を行うための貴重な時間的猶予を提供している。この猶予期間を「アベノミクス・レジーム」への回帰、すなわちバラマキに費やすことは、将来世代に対する裏切りに等しい。

政治的リーダーシップには、インフレによるモラルハザードを克服し、国民に対して明確かつ透明性の高い財政再建ロードマップを提示することが要請される。そのロードマップは、PB黒字化を単なる数値目標としてではなく、構造的な財政の安定性を取り戻すためのマイルストーンとして位置づけるべきである。市場と家計に対する信頼回復こそが、持続的な経済成長と財政健全化の前提条件となる。

引用文献

  1. 「貯蓄から投資へ」の現状と課題, 12月 14, 2025にアクセス、 https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202311/202311i.pdf

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