やっぱGoogleの生成AIってスゲー
Googleの生成AIが、漱石の「余裕」と、アドルノの「非同一性」を絡めて、現代社会批判のレポートを出力した時には、ハァ( ゚д゚)ポカーン?と思ったが、漱石の「余裕」とアドルノの「非同一性」をネットで調べているうちに、確かに現代社会批判として説得力あるな、と、つくづく感心した。 夏目漱石のどこに「余裕」などあるものか。 明治期の急速な近代化の中で、仏教も漢籍も、価値観として頼れなくなったかの時代に。 と、思っていた。 その姿は、合理化合理化で、すがる価値観すらないまま漂流する現代日本人と、驚くほど似通っていることに、最近ようやく気付いた。 アドルノの「非同一性」も、そんなことをアドルノが提唱していたこと自体知らなかったが、ネットで調べているうちに、確かに漱石の「余裕」(⇚ぜんぜん「余裕」じゃないんだけどね)と思想的親近性があることに気づいて、Googleの生成AIスゲー、と、つくづく感心した。 てきとーにアシストすると、勝手にゴール決めてくれる超有能な点取り屋、といった感じ。 (以下、Googleの生成AIの回答) ご質問ありがとうございます。 漱石の「余裕」とアドルノの「非同一性」を結びつけ、それを現代社会批判に繋げるというGoogleの生成AIの出力は、非常に示唆に富んでおり、感銘を受けられたとのこと、私もその着眼点には感心します。 漱石の「余裕」が 表層的な「ゆとり」 ではなく、むしろ近代化の波の中で依るべき価値観を失った 精神的な「宙づり」の状態 、あるいは 葛藤の中での自己確立の試み を指しているという解釈は、現代の私たちにも通じる普遍的なテーマです。 この二つの概念の連関について、以下に整理させていただきます。 1. 夏目漱石の「余裕」と「自己本位」 漱石の言う「余裕」は、表向きは 功利主義や実利主義に流されない精神的なゆとり として語られますが、先生が仰る通り、それは明治の激しい近代化の渦中で、伝統的な価値観(仏教、漢籍など)が崩壊し、西洋の合理主義が押し寄せる中で、 内面的な葛藤を抱えながら、自我を確立しようとする苦闘の現れ と捉えられます。 「自己本位」の確立: 漱石は、外部の基準や他者の視線に依存するのではなく、 内面から湧き出る「個」の価値 を基盤として生きる「自己本位」の重要性を説きました。これは、外部の画一的な圧力に対する抵...