森鴎外「かのように」の哲学 ー高市早苗氏の「国家観」にことよせてー
ご提示の内容と関連する論考に基づき、「かのようにの哲学(Als-ob Philosophie)」の構造的枠組みが、近代および現代の共同体で果たす役割、特に**共同体の秩序と連帯を成立させるための「虚構(フィクション)」**としての機能と、ヘーゲル的人倫の視点を交えたその本質をまとめます。
「かのように」の虚構が共同体で果たす本質的な役割
「事実としては存在しない(証明できない)概念を、『あるかのように』仮定して行動する」という**「かのようにの哲学」の構造は、個人の恣意や利害を超えた普遍的な価値と秩序を成立させるための、共同体における不可欠な「虚構」の装置**として機能しています。これは、近代国家の成立から現代のリベラル思想に至るまで、時代と文脈を超えて連帯を可能にする基盤となっています。
1. 虚構を基盤とする近代共同体の成立構造とヘーゲル的「人倫」
A. 機能的虚構としての天皇の「神性」
近代日本における天皇の「神性」は、「知的な事実」(天皇は人間)と「共同体維持の要請」(天皇は神でなければならない)の分裂を解決するために導入された機能的な虚構です。
秩序の担保: 天皇を「神であるかのように(Als-ob)」奉じることで、近代的な合理性では証明できないが、国家の統一と社会の秩序を成立させるための究極の権威として機能しました。
ヘーゲル的文脈への転用: 明治国家の支配層は、この超越的な「価値の仮定」を、ヘーゲルが目指した**「公的な利益と私的な利益が一致する、理性的で倫理的な共同体(人倫国家)」を実現するためのイデオロギー的基盤として利用しました。国民は、天皇への奉仕を「普遍的な理性」**への奉仕であるかのように自覚することで、自己の利益を超えた自発的な連帯へと導かれました。
B. ヘーゲル的人倫国家における「理性の仮定」
ヘーゲルの人倫国家の理想は、個人の自由な意思と普遍的な秩序の調和にありますが、この調和もまた「かのように」の構造の上に成り立っています。
理性という「仮定」: 人倫国家は、「公的な利益と私的な利益が矛盾せず、一致し得る」という理想を**「あるかのように」仮定し、その実現を目指すことで、個人主義的な欲望を乗り越え、社会全体への奉仕を可能にする原動力**とします。
「実体的統一」への連れ戻し: ヘーゲルが指摘するように、近代国家は個人の恣意や自由を最大限に許容しながらも、有機的な組織化によって、個人が知らず知らずのうちに「実体的統一」、すなわち共同体の原理に従うように**「連れ戻す」強さと深さを持っています。これは、個人が法や制度を「自己の理性的な本性の肯定」と「あるかのように」**受け止め、自律的活動が結果として社会の活性化と統一に貢献するという構造です。
2. 現代共同体における虚構の世俗化
ニーチェの「神の死」を経た現代のリベラル思想は、絶対的な価値を否定しつつも、連帯を担保するために「かのように」の構造を**「世俗化された神」**として継承しています。
A. 「人権の絶対性」という世俗的虚構
現代のリベラル思想における**「人権」や「人間の尊厳」は、共同体の法秩序と連帯を成立させるための絶対的、かつ普遍的な価値**として扱われます。
超越的根拠の世俗化: この「人権の絶対性」は、近代科学や合理主義では証明できません。これは、かつての「神」や「自然法」が担っていた超越的な価値保証の役割を**「人権」という概念が「引き継いだ」世俗化された神学的な虚構**であると解釈できます。
連帯のための「仮定」: 現代社会は、人権や尊厳が**「事実ではないとしても、そう『あるかのように』(絶対的であるかのように)前提されなければ、**グローバルな連帯も国内の法秩序も成り立たないという構造的脆弱性を抱えており、虚構の機能が不可避的に導入され続けています。
B. 「負債」と「報われぬ死者」による共同体の規律
共同体の秩序と連帯を支える虚構は、超越的な権威だけでなく、人々の感情や記憶にも深く刻み込まれます。
「負債」の刻印: 共同体の維持は、交換や経済的利益よりも、儀式や理不尽な躾などを通じて、人々に**「負債」の観念**を抱かせ、大地に縛り付ける(社会への帰属)ことで成立します。これは、合理的な理由を越えた感覚的な強制による規律の内面化として機能します。
「ひそかな超越」としての死者: 戦後の日本では、天皇の神性が消えた後も、**「報われぬ死者たち」がその「痛ましいまなざし」によって「ひそかな超越性」**を戦後社会に与え、規律や倫理観念を形成する上で重要な役割を担っています。天皇もこの無名の死者たちを慰霊する司祭として「ゆるやかな超越性」を帯び、超越的な価値の継承と安定に貢献しています。
結論
共同体を維持し、連帯を可能にするための「かのように」の虚構は、事実を超えた「価値の仮定」を通じて、個人のエゴイズムを乗り越えさせ、社会全体への奉仕(倫理的行動)を理性的であるかのように自覚させるための、人間共同体における不可欠な「統治性」の装置として機能しています。この虚構は、天皇の神性から現代の人権の絶対性に至るまで形を変えながらも、個人の自由な意思と共同体の普遍的秩序を調和させるという、ヘーゲル的人倫国家が目指した構造を、時代を超えて支え続けていると言えます。
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