森本先生より私信
後期資本主義批判をアドルノから荻野先生の社会学、
アドルノの後期資本主義批判はしばしば読ませてもらっていたとこ ろですが、今回は荻野氏の「詐欺」論へ連接させることで、 論がひときわ具体性を増し、鮮やかな像を結んだように思います。
不確定性に賭ける「詐欺師」とは、 計量と数値化を旨とする近代合理主義社会の、 いわば虚をつく存在。資本主義社会の到達点ともいえる「 管理社会」への批判的メタファーなのですね。
それが足を置く場は、まさに資本主義社会の「市場」 の余白とでも表すべき領域。とすれば、 小林くん講話の後半部のキーワードともいうべき「自然」が、 まさに商品の等価交換から成り立つ「市場」の〈外部〉 であることときれいに響き合っていることに、 つくづく感心しました。
そして、近代作家とは、まさにその〈疎外〉感を以て、 同じく近代が周縁化してしまった〈自然〉へ魅かれ、 耽溺する者であるわけですね。
日本近代の場合、より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、 これをまさに〈じねん〉 にみられるような概念化への苦闘を経ることで、 欲望的な世界から帰還してくるのが漱石、 ということになるでしょうか。「ファウスト」こそ詐欺師では、 との小林くんの呟きにクスリとしながらつい頷いてもいるのですが 、その葛藤が〈魂の救済〉なるもので終結するのは、 やはりなんといってもキリスト教文化圏ならではの展開でしょう。 かの有名な「疾風怒濤」期に端的に現れるゲーテの自然観( 近代的「自然」の発見)は、日本の場合、漱石よりも、 北村透谷を経た自然主義文学への影響の方が大きそうです。
いささか余談ですが、ゲーテも、漱石も、 そしてほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象ーー〈 女性〉もまた〈近代〉が周縁化した存在なので、 なるほどテクストというものは論理的かつ時代精神をおのずから反 映したものだ、と改めてつくづく納得した次第です。 いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。
今回、 頂戴した小林くん講話にこれまで頂戴している論考から得た知識を 総合すれば、資本主義-市民社会がもたらす疎外、 物象化に対する苦悩という名の徹底的相対化、 これこそが漱石の文明批評の基盤であることが、 まさに鮮明に図式化されて見えてくる感じです。
今回は「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、 アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、 ここから展開してゆくのが、何度か拝見させてもらった、 アドルノを援用した小林くんの「それから」論ですね。 主客分離から生じる疎外を批判し、 人間の自然および身体の抑圧を論じながら、 原初的まどろみへの回帰は徹底的に封じたアドルノの論理展開が、 何と代助の解読に有効であるか、は、 つねづね痛感するところです。
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