日露関係と日本の近代化 Googleの生成AIが詳細なレポートを作成してくれました。 (再掲)

日本の近代化とロシアの脅威:歴史的連関から第二次世界大戦への道筋

はじめに:日本の近代化とロシアの脅威

日本の近代化は、単なる内発的な社会変革に留まらず、特にロシア帝国からの外部的脅威に対する戦略的対応として深く根差していた。本報告の目的は、19世紀後半から20世紀前半にかけての日露関係の変遷を歴史的起源から詳細に考察し、それが日本の国家形成、外交政策、そして最終的に第二次世界大戦へと至る道筋に与えた多大な影響を分析することにある。

日本の本格的な近代化は、1854年にアメリカの戦艦に大砲を突きつけられ、不平等な条件の下で開国を強いられたことによって本格的に始まった。この「屈辱的な開国」は、当時の日本が資本主義的手法で急速に発展していた西側諸国に対し、経済的・社会的後進性にあることを痛感させた結果であり、近代化の実施が不可欠な措置であると認識された。同時期、ロシアもまた、1853年から1856年のクリミア戦争での敗北によって、同様に不利な講和条約を締結し、自国の後進性を認識して改革の必要性に迫られていた。両国は、外部からの圧力という共通の背景の下で近代化に着手したという点で共通の出発点を持っていた 。  

しかし、この共通の出発点は、皮肉にも両国の利害衝突、特に東アジアにおける勢力圏争いを激化させる遠因となった。近代化の過程で、両国は自己の安全保障を確保するために軍事力を増強し、これが互いを新たな脅威と見なす悪循環を生み出したのである。日本にとって、ロシアの伝統的な南下政策と東アジアへの進出は、国家存立を脅かす直接的な脅威として認識された 。この認識こそが、明治政府の「富国強兵」「殖産興業」といった近代化政策を強力に推進する原動力となった。  

本報告は、日露間の連関を軸に、両国の対立がどのように深化し、それが東アジア及び世界の地政学的状況にどのような影響を与えたかを時系列で追う。特に、ロシアの南下政策の挫折と東方進出が日本に与えた具体的な脅威、日清・日露戦争、そしてその後のソビエト政権との関係までを考察する。

第一章:ロシアの南下政策と東方進出:その歴史的背景と日本への影響

この章では、ロシアの伝統的な外交政策である南下政策の挫折と、それに伴う東方への軸足の移動が、日本に与えた直接的な脅威と、その後の日露関係の基盤を形成した経緯を詳述する。

クリミア戦争と露土戦争:ロシアの外交政策転換の契機

ロシアは、産業革命の資金確保のため、安価な麦の大量生産と輸出を計画していた。しかし、国全体が高緯度に位置するロシアでは、秋ごろから港が凍りつき、船が出せなくなるという地理的な問題に直面した 。このため、凍らない港を確保しようと、温暖な南方地域への進出、すなわち「南下政策」を本格化させたのである 。  

クリミア戦争(1853-1856年)は、ロシアがオスマン帝国への影響力拡大を図る中で、イギリスやフランスの介入により敗北した戦争であった 。この敗北は、ロシアの南下政策が西欧列強によって阻止されうることを明確に示し、ロシアに「非常に不利な条件の講和条約」を強いる結果となった 。この挫折は、ロシアの外交戦略に大きな影響を与え、新たな進出方向を模索する契機となった。  

続く露土戦争(1877-1878年)では、ロシアは「ギリシア正教徒の保護」や「パン=スラヴ主義」を口実にバルカン半島への進出を図り、サン=ステファノ条約で大ブルガリア国の独立を認めさせるなど、一時的に南下政策の「画期的な成果」を得た 。しかし、この動きも列強の警戒を招き、最終的にはベルリン会議で成果が修正されるなど、西欧方面での南下政策の限界が露呈した。  

ロシアの南下政策は、当初バルカン半島や中東を主軸としていたが、クリミア戦争や露土戦争における西欧列強による抵抗が強まるにつれて、より抵抗の少ない東アジアへとその軸足を移さざるを得なくなった。この戦略的な「方向転換」が、それまで直接的な脅威ではなかった日本にとって、突如としてロシアの東方進出が現実の脅威として浮上するきっかけとなったのである。これは、ある地域での大国間の競争の挫折が、別の地域での新たな競争と紛争を引き起こすという、地政学的な連鎖反応の典型的な事例である。

清朝との国境確定とユーラシア大陸東進の具体像

西欧方面での南下政策の挫折は、ロシアの関心を東アジアへと向けさせた。ロシアは17世紀末にはすでにシベリアを東進しており、清朝との間で1689年のネルチンスク条約、1727年のキャフタ条約を締結し、アムール川流域や中央アジア方面の国境を確定させていた 。これらの条約は、ロシアがユーラシア大陸を東へと進出する上での法的基盤を築き、その後の極東への影響力拡大の足がかりとなった。  

太平天国の乱と義和団事件:ロシアの満州駐留と列強の警戒

太平天国の乱(1850-1864年)は清朝の国力を疲弊させ、列強の中国への介入を招いた。この時期、ロシアは清朝との間でアイグン条約(1858年)や北京条約(1860年)を締結し、沿海州を獲得するなど、東方進出を加速させた。

義和団事件(1900年)は、清国内の排外運動であったが、列強の共同出兵を招いた。この際、ロシアは義和団鎮圧を名目に満州に大軍を駐留させ、事件後も軍隊を撤退させなかった 。ロシアの満州占領は、列強、特に清での利権確保を目指すイギリスや、朝鮮進出を狙う日本に強い警戒心を抱かせた 。日本は、満州から南下すれば朝鮮半島に到達するという地理的近接性から、ロシアの動きを自国の安全保障に対する直接的な脅威と認識したのである 。  

義和団事件におけるロシアの満州占領は、単なる領土拡張に留まらず、日本にとってロシアが国際協調の原則よりも自国の帝国主義的野心を優先する国家であるという認識を強めた。この認識は、日本がロシアとの外交交渉に限界を感じ、軍事的な対決を不可避と考えるようになる重要な心理的・戦略的転換点となり、後の日露戦争への道を加速させることになった。

第二章:日露対立の激化:朝鮮半島と満州を巡る攻防

この章では、朝鮮半島と満州を巡る日露の直接対決がどのように激化し、日清戦争、三国干渉、日英同盟、そして日露戦争へと繋がっていったかを詳細に分析する。

表1:日露関係主要年表(1850年代~1930年代)

年代

出来事

1853-1856年

クリミア戦争(ロシア敗北)

1854年

日米和親条約(日本の開国)

1863-1864年

薩英戦争、下関戦争(日本の屈辱的開国)

1875年

江華島事件

1876年

日朝修好条規

1877-1878年

露土戦争(ロシア南下政策の一時的成功)

1894-1895年

日清戦争

1895年

三国干渉

1896年

露清密約(東清鉄道敷設権)

1900年

義和団事件(ロシアの満州駐留)

1902年

日英同盟締結

1904-1905年

日露戦争

1905年

ポーツマス条約締結

1907年

英露協商(ロシアのバルカン半島再関心)

1914-1918年

第一次世界大戦

1917年

ロシア革命(ソビエト政権成立)

1918-1922年

シベリア出兵

1920年

尼港事件

1925年

日ソ基本条約締結(国交樹立)

1931年

満州事変

1932年

満州国建国

1933年

日本、国際連盟脱退

1935年

日ソ軍事バランス崩壊(軍拡競争)

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東清鉄道敷設権と日清戦争の勃発

日清戦争(1894年)は、明治初年より日本が朝鮮の近代化を促し、共にロシアの南下を防ごうと考えたことが要因の一つであった。日本は朝鮮を近代化させることで、ロシアの南下政策に対する防波堤とすることを意図していたのである 。この朝鮮半島における日本の影響力拡大は、ロシアとの直接対峙を不可避なものとした。  

日清戦争に日本が勝利すると、下関条約によって遼東半島、台湾、澎湖島を獲得した 。この勝利は、日本が朝鮮半島と中国東北部で直接ロシアと対峙する状況を生み出すことになった。日本に対抗するため、清はロシアに接近し、1896年に露清密約を締結した。これによりロシアは、シベリアから満州を通ってウラジオストクに至る東清鉄道(中東鉄道とも呼ばれる)の敷設権を獲得し、極東支配の基礎を固めようとした 。この鉄道の南満支線(旅順-長春間)が1903年に完成すると、ロシアが旅順・大連へ直接軍を送ることが可能となり、日本はこれを「大きな脅威」と捉えた 。  

三国干渉とロシアへの反感の深化

日清戦争後の1895年4月、日本が下関条約で獲得した遼東半島に対し、ロシア、フランス、ドイツの三国が清への還付を勧告した(三国干渉) 。当時の日本は列強に対抗できる国力がなく、この要求を受け入れざるを得なかった 。  

この三国干渉は、日本に深い屈辱感と「ロシアに対する復讐心」を抱かせ、後の日露戦争への重要な要因となった 。日本は、自国の勝利の成果が列強、特にロシアによって一方的に否定されたことで、国際社会における自国の地位の不安定さを痛感し、自力での安全保障の確立、すなわち軍備拡張と国力強化への道を一層強く意識するようになった。この屈辱的な経験は、「臥薪嘗胆」の精神を呼び起こし、ナショナリズムを煽る決定的な出来事となった。外交的解決の限界を示し、軍事力こそが国益を確保する唯一の手段であるという認識を政府と国民の間に深く根付かせ、結果として日本の軍事費は飛躍的に増大し、対外強硬路線への傾斜を加速させ、日露戦争の不可避性を高めたのである。朝鮮王朝では、日本がロシアに屈したと受け取られ、親ロシア派(閔妃一派)が台頭する結果となった 。  

日英同盟の締結:ロシア牽制の戦略

ロシアの満州占領と韓国への進出の動きに対し、インドを植民地とするイギリスはロシアの南下政策に脅威を感じていた 。  

1902年、日本はイギリスと同盟(日英同盟)を結んだ。この同盟は、極東進出を図るロシアを牽制し、中国における日本・イギリス両国の利益を擁護することを目的とした攻守同盟であった 。日本は、この同盟を背景に日露戦争を戦うこととなる 。  

日英同盟とそれに続く日露戦争は、単なる東アジア地域紛争ではなく、グローバルな帝国主義的対立の縮図であった。日英同盟は、日本が国際的な孤立を脱し、国際政治の舞台で自己の地位を確立するための画期的な外交的成功であり、同時にイギリスがロシアの脅威を極東で食い止めるための戦略的手段であった。日露戦争が「第零次世界大戦」と称される学者もいるのは 、それが第一次世界大戦へと繋がる国際的な同盟関係の再編と、大国間の勢力均衡の変化を予兆していたためであり、その影響は東アジアに留まらず、ヨーロッパの地政学にも波及したのである。  

日露戦争とその後の東アジア情勢の変容

東清鉄道南満支線の完成とロシアの旅順・大連への軍事力強化は、日本の「主戦論」を強め、1904年に日露戦争が勃発した 。この戦争は、東清鉄道とその南満支線を巡る日露の戦いという側面を持っていた 。  

日本は日露戦争に勝利したが、その代償は甚大であった。100万人超の将兵が大陸に送り込まれ、9万人近くが戦死・戦病死、15万人以上が負傷し、国家として膨大な借金を背負った 。ロシアも同規模の人的損失を出した 。  

ポーツマス条約の内容と日露双方への影響

1905年、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介により、ポーツマス条約が締結された 。この条約は、日露間の勢力均衡を大きく変化させ、日本の朝鮮半島と中国東北部への影響力を強める決定的な転換点となった。  

表2:日露戦争後のポーツマス条約における主要な取り決め

取り決め事項

内容

影響

日本の朝鮮半島における優越権の承認

ロシアは日本の朝鮮半島における指導・監督権を認める 。  

日本の朝鮮半島支配を国際的に正当化し、後の併合への道を開いた。

満州からの軍隊撤退

鉄道警備隊を除き、日露両国の軍隊は満州から撤退する 。  

満州における日露の直接対峙を一時的に緩和したが、利権争いは継続した。

南樺太の割譲

ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する 。  

日本の領土が拡大し、北方における日本の影響力が増大した。

関東州(旅順・大連)の租借権譲渡

ロシアは旅順・大連を含む遼東半島南端部の租借権を日本へ譲渡する 。  

日本が中国大陸における重要な戦略拠点を獲得し、満州進出の足がかりとした。

南満州鉄道の利権譲渡

ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満州支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する 。  

日本は満州における経済的・戦略的動脈を確保し、後の満州支配の基盤とした。

沿海州沿岸の漁業権

ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える 。  

日本の経済的利益を拡大し、極東における活動範囲を広げた。

賠償金

日本は賠償金を獲得できなかった 。  

日本国内で国民の不満が高まり、日比谷焼き討ち事件などの暴動を誘発した。

しかし、日本は賠償金を「1円も払わなかった」ことに国民は納得せず、国内で不満が高まった 。これは、日本が金も武器も兵も尽きていたのに対し、ロシアにはまだ戦う余力があったためであった 。  

ロシアは南下政策を中断せざるを得なくなり、外交政策を転換し、1907年に英露協商を結び、汎スラヴ主義を掲げてバルカン半島への進出を開始した 。日露戦争は、単に東アジアの勢力図を塗り替えただけでなく、ロシアの外交政策の方向性を西欧へと再転換させ、結果として第一次世界大戦の勃発に間接的に貢献したのである。これは、グローバルな地政学において、ある地域での大国の行動とその結果が、遠く離れた別の地域での新たな紛争の引き金となる連鎖反応を示している。  

第三章:革命後のロシアと日本の大陸進出

この章では、ロシア革命によって帝政ロシアが崩壊しソビエト政権が成立した後も、日露間の緊張関係が継続し、日本が中国大陸での権益拡大を追求した経緯を考察する。

ロシア革命とソビエト政権の成立

1917年のロシア革命により帝政ロシア(ロマノフ王朝)が崩壊し、ソビエト政権が成立した 。これは、日露関係におけるイデオロギー的側面を新たに加えることとなり、従来の帝国主義的対立に加え、資本主義と社会主義の対立という新たな軸が加わった。  

日本の対ソ干渉:尼港事件とシベリア出兵の動機と結果

西欧資本主義国家はロシア社会主義革命に脅威を感じ、革命勢力の拡大を阻止するため共同出兵を提案した。これがシベリア出兵である 。日本はチェコスロバキア軍救済を名目として、7万人もの「破格の人員」を動員したが、その真意は沿海州方面の権益獲得にあった 。  

英仏諸国やアメリカ軍が撤兵した後も、日本軍だけは駐留を続けた 。日本国内では世論がシベリア出兵に反対する中、日本政府はシベリア支配に固執し、多くの犠牲と戦費を費やした 。  

1920年5月、シベリア出兵の渦中で「尼港事件」が発生した。ニコラエフスク(尼港)の日本軍守備隊と居留民が赤色パルチザンの襲撃を受け「全滅」するという凄惨な事件であった 。この事件は、日本国内の「反ソ世論をあおり」、日本政府は出兵継続の口実として利用した 。日本は尼港事件解決まで北樺太を保障占領すると声明し、最終的に1922年に撤兵したが、「所期の目的を達成することなく」終わった 。  

シベリア出兵は、日本の大陸進出戦略が、国際的な共通目的(チェコ軍救済、反革命)を隠れ蓑にしつつ、実際には自国の帝国主義的利益を追求する性格を強く帯びていたことを浮き彫りにする。この日本の行動は、後のワシントン体制下での国際協調の精神とは相容れないものであり、日本が国際的な合意よりも自国の野心を優先する傾向を強化した。これは、第一次世界大戦後の国際秩序が、大国のエゴイズムによっていかに容易に揺らぎうるかを示す早期の兆候であった。

大正期における日本の機会主義的野心

シベリア出兵は、ロシア革命後の混乱に乗じて、日本が大陸における影響力を拡大しようとする機会主義的な野心の現れであったと言える。日本は、ソビエト政権に対する干渉を続け、中国東北部への進出を深めた。

第四章:ヨーロッパ情勢との連関:第一次世界大戦と国際秩序の変容

この章では、ロシアの南下政策がヨーロッパ大陸の地政学に与えた影響、特に第一次世界大戦勃発の背景にある汎ゲルマン主義と汎スラヴ主義の対立、そして戦後の国際秩序の変容と日本のアジアにおける行動を関連付けて考察する。

バルカン半島の汎ゲルマン主義と汎スラヴ主義の対立

日露戦争後、南下政策を中断せざるを得なくなったロシアは、外交政策を転換し、1907年に英露協商を結び、汎スラヴ主義を掲げてバルカン半島への進出を開始した 。  

バルカン半島では、ロシアが支援する汎スラヴ主義と、オーストリア=ハンガリー帝国やドイツが推進する汎ゲルマン主義との対立が深刻化していた 。この対立は、2度のバルカン戦争を誘因として、第一次世界大戦へとつながる最も尖鋭な帝国主義と民族主義が重なり合った対立構造を生み出した 。日露戦争という東アジアの地域紛争の結果が、ロシアの戦略的焦点をヨーロッパへと回帰させ、その結果としてヨーロッパの火薬庫であるバルカン半島での緊張を決定的に高めたのである。これは、グローバルな地政学において、ある地域での大国の行動とその結果が、遠く離れた別の地域での新たな紛争の引き金となる連鎖反応を示している。  

三国協商と三国同盟の形成と第一次世界大戦への発展

第一次世界大戦前のヨーロッパでは、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアによる「三国同盟」(1882年成立)と、イギリス、フランス、ロシアによる「三国協商」(イギリス・フランス協商、イギリス・ロシア協商を経て形成)が対立する二大陣営を形成していた 。  

この国際対立は、1914年のサラエボ事件を契機に第一次世界大戦へと発展した 。  

第一次世界大戦後のオスマン帝国分割と中東情勢の混乱

1918年に戦争が終結すると、戦勝国はオスマン帝国を分割し、その領土を占領した。特にイギリスは、フセイン・マクマホン協定(アラブ人国家建設約束)、サイクス・ピコ協定(英仏露による旧トルコ領分割)、バルフォア宣言(パレスチナでのユダヤ人国家建設容認)という3つの秘密協定を締結し、中東問題の遠因を作った 。  

この結果、中東情勢は複雑な混乱状況に陥り、現在に至るまでその影響が続いている 。  

日本の中国大陸利権拡張(二十一カ条要求)と欧米列強の警戒

三国協商側に立って第一次世界大戦に参戦した日本は、欧米諸国の関心がヨーロッパに集中している隙を突き、中国大陸での利権をさらに拡張させることを試みた 。  

1915年、日本は中華民国に対し「二十一カ条の要求」を提示した。これには、ドイツが持っていた山東省の権益の継承、旅順・大連の租借権と南満州鉄道の権益の99年間延長、漢冶萍公司の共同経営化、福建省沿岸の不譲渡・不貸与、そして政治・財政・軍事・警察への日本人顧問採用などが含まれていた 。  

これらの要求は、中国人の間で「排日機運」を高めるとともに、欧米列強の「警戒心」を引き起こした 。特に第5号要求は内外の批判が強く、日本政府が取り下げた 。ワシントン会議の結果、山東問題は1922年の九カ国条約で日本が放棄することとなった 。  

日本の二十一カ条要求は、第一次世界大戦後の国際協調体制(ワシントン体制)が、いかに大国の帝国主義的野心によって脆弱であったかを示す早期の事例である。この行動は、日本が国際的な規範よりも自国の「特殊権益」を優先するという姿勢を明確にし、欧米列強との信頼関係に亀裂を生じさせた。これは、後の満州事変や国際連盟脱退へと繋がる、日本の対外政策における孤立主義と強硬路線の萌芽であり、国際秩序が内包する矛盾と限界を露呈させた。

第五章:国際協調体制の崩壊と日ソ緊張の加速

この章では、1920年代に成立した国際協調体制が、世界的な経済恐慌と日本の大陸進出によっていかに崩壊し、ソビエト連邦との緊張関係が加速したかを分析する。

1920年代の国際協調体制の成立と金融恐慌の頻発

第一次世界大戦後、国際連盟の設立やワシントン軍縮条約などにより、1920年代には国際協調体制が一時的に成立した 。しかし、日本国内では金融恐慌が頻発し、経済的脆弱性が露呈していた 。  

世界恐慌と日本の満州事変:国際連盟脱退への道

1929年に発生した世界恐慌は、アメリカ向けの生糸輸出の激減など、日本経済に深刻な打撃を与えた 。特に農村部は深刻な打撃を受け、多くの農家が借金に苦しみ、社会不安が高まった 。この農村の疲弊が軍部の台頭を後押しし、やがて日本は「対外膨張政策」へと向かっていくことになった 。  

世界恐慌が各国に保護貿易主義の高まりをもたらし、世界経済がブロック化の道を辿る中、資源・植民地を「持たざる国」は対外侵略に頼るほかなくなった 。  

1931年9月、日本の関東軍が満州の柳条湖で南満州鉄道を爆破した「柳条湖事件」を契機に満州事変が勃発し、関東軍は満州の大半を占領した 。  

国際連盟はリットン調査団を派遣し、満州事変を日本の「侵略行為である」とする報告書を公表した 。日本はこれに反発し、1933年3月27日に国際連盟を脱退した 。  

世界恐慌は、単なる経済危機に留まらず、日本の国内社会に深い亀裂を生み出し、既存の国際協調体制からの離脱と対外強硬策への転換を促した。経済的困窮は、国民の不満を内政から対外へと転換させるための土壌となり、軍部が「満州事変」という形で解決策を提示することで、その政治的影響力を飛躍的に拡大させた。これは、経済危機がナショナリズムと軍国主義を煽り、国際秩序の崩壊へと繋がる典型的なパターンであり、第二次世界大戦への直接的な道筋を形成した。

この国際連盟脱退は、第一次世界大戦後の国際体制である「ワシントン体制」の崩壊を意味し、日本は軍縮条約を破棄し軍備を増強していくことになった 。日本の国際連盟脱退は、第一次世界大戦後の国際協調を象徴するワシントン体制への決定的な決別を意味した。これは単なる外交的孤立に留まらず、日本が国際的な規範や制約から解放され、自国の軍事力のみを頼りに対外政策を進める無制限の軍拡競争へと舵を切ったことを意味する。  

スターリン指導下のソ連と日本との緊張関係の深化

スターリン指導による一党独裁体制が確立したソ連は、極東での大規模な軍事再編を進め、外交・安全保障政策における極東戦略の優先順位を高めた 。  

ソ連指導部は、日本との緊張が高まる中、「日ソ両国の軍事衝突の危険性を高く見積もっており」、満州を最も可能性の高い戦場と見なしていた 。満州事変と満州国の成立の結果、日本とソ連はともに極東における「軍事力の拡大を余儀なくされ」、軍拡競争が加速した 。1935年には両国の軍事バランスが「完全に崩れてしまった」とされる 。  

結論:日露対立が第二次世界大戦へ与えた影響

19世紀末から20世紀前半にかけての日露間の激しい対立は、日本の近代化の方向性を決定づけ、東アジアの地政学的状況を大きく変容させた。日本の近代化は、ロシアの南下政策と東方進出という外部からの脅威に強く駆動されたものであった。日清戦争後の三国干渉は、日本にロシアへの強い反感を抱かせ、軍備拡張への道を加速させた。

日英同盟の締結と日露戦争は、極東における日露間の勢力圏争いの頂点であり、日本の勝利は東アジアにおける日本の優位を確立したが、同時にロシアの戦略的焦点をバルカン半島へと回帰させ、第一次世界大戦の遠因となった。ロシア革命後のソビエト政権成立後も、日本のシベリア出兵や尼港事件に見られるように、両国の間にはイデオロギー的な対立と、大陸権益を巡る地政学的競争が継続した。

日露間の対立は、両国に継続的な軍事力増強と軍拡競争を強いた 。特に満州事変以降、日本とソ連は極東における軍事力を拡大し、軍事バランスが崩れるほどの緊張状態に陥った 。スターリン指導下のソ連は、日本との軍事衝突の危険性を高く見積もり、満州を「最もありうる戦場」と見なしていた 。この継続的な対立と軍拡は、第二次世界大戦におけるアジア・太平洋戦線、特にソ連と日本の間の潜在的な「東部戦線」の地政学的・軍事的基盤を築いたのである。  

世界恐慌による国際協調体制の崩壊と日本の国際連盟脱退は、日本を国際社会から孤立させ、軍国主義的対外膨張政策を加速させた 。日露(日ソ)間のこの絶え間ない対立と軍拡の連鎖は、東アジアにおける不安定化の主要因となり、最終的に日本が中国大陸での全面戦争、そして第二次世界大戦へと突き進む大きな要因の一つとなった。日露戦争は「日本の生き残りをかけた壮大な」戦いであり、有色人種国家の独立への希望を与えた一方で、「黄禍論が欧米に広がるきっかけにもなった」という歴史的評価もある 。


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