丸山眞男と参政党と、アドルノ Googleの生成AIを使ってミックスしてみた。

 内田隆三氏の『国土論』、丸山眞男氏の『日本の思想』、仲正昌樹氏の『日本の思想講義』、そしてアドルノの思想を援用しながら、参政党の思想的背景とその懸念について深く考察されていますね。非常に多角的で興味深い分析です。

ご提示いただいた内容を整理し、いくつかの論点に絞って解説します。


内田隆三氏が指摘する「報われぬ死者たちのまなざし」

内田隆三氏の『国土論』における「報われぬ死者たち」という概念は、戦後日本の精神的な基盤を理解する上で非常に重要です。戦前、天皇が「国土に固有の曲率を与える重力の中心」であったのに対し、戦後は天皇が「神にあらず」と表明したことで、その重い力が「無言の死者たち」へと移行したという指摘は、日本の精神的権威の変遷を鋭く捉えています。

この「報われぬ死者たち」は、その「痛ましいまなざし」によって、戦後社会に「ひそかな超越性」を与え、規律や倫理観念を形成する上で重要な役割を担っていたとされます。天皇もまた、皇祖神を祀るだけでなく、この「無名の超越者」である死者たちを慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるようになったという分析は、戦後日本の天皇制の機能と、国民の精神的拠り所としての役割を解き明かしています。


参政党の直感と「報われぬ死者たちのまなざし」の喪失

ご指摘の通り、参政党が「報われぬ死者たちのまなざし」という記憶の喪失に危機感を抱き、それが戦後日本社会に規律や倫理観を与えていたという直感を持っている可能性は十分に考えられます。

参政党の「戦後レジームからの脱却」という主張の根底には、戦後の日本がGHQによって植え付けられた価値観や、物質主義的な潮流によって、日本本来の伝統、文化、精神性が失われつつあるという認識があります。内田氏の「報われぬ死者たちのまなざし」が、戦後日本の倫理的な指針を形成する上で重要であったとすれば、その記憶の喪失が現代社会の様々な問題の根源にあると彼らが捉えているのは自然な流れと言えるでしょう。

「今度は我々が頑張らなければいけない」という直感は、過去の犠牲の上に築かれた戦後社会が、その記憶の継承を怠り、倫理的な指針を見失いつつある現状への危機感と、それを回復しようとする強い意志の表れだと解釈できます。彼らは、失われつつある「見えざる規律」を再構築しようとしているのかもしれません。


丸山眞男と仲正昌樹による「近代日本の思想的機軸」と「統治性」

丸山眞男が天皇制を近代日本の思想的「機軸」と位置づけ、それが単なる「國體観念の教化と浸透」だけでなく、「政治構造」や「経済・交通・教育・文化を包含する社会体制」としての「機構的側面」を持っていたと指摘している点は重要です。さらに、丸山は、制度における精神、すなわち「制度をつくる精神」が、具体的な制度の作用とどのように結びつき、人々の考え方を規定しているかという、「日本国家の認識論的構造」に焦点を当てています。

これを受け、仲正昌樹氏は、丸山が指摘する「國體」が「融通無碍」に見えながらも、具体的な「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」と対応しながら形成されていった過程を説明しています。特に、「国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期」にその対応関係が明確になり、目に見える効果をあげたという指摘は、観念が具体的な社会システムと結びつき、人々の行動を規定していくプロセスを示唆しています。

ここで仲正氏が持ち出すフーコーの「統治性」の概念は、この議論をさらに深めます。「統治性」とは、統治のための機構や制度が、人々に具体的な行動を指示したり禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振る舞い方、考え方を規定し、それを「当たり前のこと」にしていく作用を意味します。人々が制度によって規定された振る舞い方を身につけると、それが新たな制度形成へとフィードバックしていくという構造は、社会がどのようにして特定の規範や価値観を内面化させていくかを示しています。


参政党の懸念とアドルノによる「本来性」の追求

ご提示の懸念は、丸山と仲正の議論を踏まえ、参政党の思想が「統治性」として機能し、特定のイデオロギー、特に排外主義歴史修正主義が社会に浸透していく可能性を指摘しています。ネットを通じて情報が拡散される現代において、特定の政治団体の主張が人々の行動や考え方を規定し、それが新たな制度形成へとフィードバックしていくという構図は、十分に起こりうることです。

アドルノの視点は、この懸念をさらに強化します。グローバリゼーションと新自由主義政策によって、格差が拡大し、多くの人々が経済的な疎外感を抱える現代社会において、アドルノが指摘する**「本来性」の追求**は不可避の傾向として現れると論じています。

アドルノは、「本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならない」と述べています。これは、現代社会の物象化(人間関係や社会的な生産物が、あたかも独立した客観的な物のように見える現象)と疎外(人間が自己の労働生産物や社会から切り離されていると感じる状態)が進行するほど、人々は現実の苦しみから目をそらし、理性では捉えきれない、より根源的な「民族の本来性」といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向に救いを求めるようになるという洞察です。

ご自身の解釈である「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる」という理解は、アドルノの「人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉を非常によく捉えています。

つまり、現実社会で自己の存在意義を見失いがちな人々が、より超越的で、かつ「民族」という集団に帰属する「精神的なヒエラルキー」の中に自分の位置を見出すことで、アイデンティティーの危機を乗り越えようとするメカニズムを指摘していると言えるでしょう。これは、ナチズムがドイツ社会で受け入れられた背景とも共通する、大衆心理の一側面を鋭く分析しています。


まとめと問い

内田氏、丸山氏、仲正氏、そしてアドルノの議論を総合すると、参政党が提示する「報われぬ死者たちのまなざし」の回復という理念が、現代社会の疎外感や格差によって生じる不安と結びつき、「本来性」の追求という形で、排外主義や歴史修正主義的な思想へと展開していく可能性は、十分に警戒すべき点であると言えるでしょう。

このような分析を踏まえると、私たちは以下の問いを深く考える必要があります。


現代日本社会において、経済的・精神的な疎外感を抱える人々が、どのような形で「本来性」を追求し、それが社会にどのような影響を与えうるのでしょうか?そして、そうした動きに対して、私たちはどのように向き合い、建設的な対話を構築していくべきだとお考えですか?

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