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10月, 2024の投稿を表示しています

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

https://www.youtube.com/watch?v=zRqFFqtGOhU

Japanese media reported that CNN has shown a concern for Japan's politics, regarding this time the defeat of LDP. But I believe this time outcome is positive for Japan's political future. Ishiba is far more dependable than Abe and its cronies. At least, he would never try to make China angry in vain, and he is realistic on the seriously problematic Japan's fiscal policy. But, he and his ally Komei must search for a relatively stable political partner. I believe that Kokumin Minsyu, whose leader is Yuuichirou Tamaki, is one of the candidates. His academic and vocational career assures he is smart. However, I seriously anticipate Mr. Tamaki might be a populist and positive for unleashing expanding fiscal policy. I fear his ambition for the PM would cost Japanese fiscal bankruptcy. Or he uses his potential alliance as political ammunition.  日本のメディアは、CNNが今回の自民党の敗北について、日本の政治に懸念を示したと報じた。しかし私は、今回の結果は日本の政治の将来にとってプラスになると信じている。石破氏は安倍首相やその取り巻きよりもはるかに頼りになる。少なくとも、無駄に中国を怒らせようとはしないだろうし、深...

神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って 山岡龍一先生からのご回答 (再掲)

一つの簡単な答えは、 ヘーゲル的な意味での 統治は 不可能だ ということです。 その代替案は 複数ありえますし、 フーコーは その一つでしょう (ただし、「知と権力」の 共犯関係が いかなる統治を 具体化するのかは、 わたしには 理解しがたい 難しさが あるように思えます)。 最も わかりやすい代替案が 新自由主義の統治だといえます。 もしも これを拒絶するとすれば、 問題は、 何らかの形での ヘーゲル的な統治への回帰か、 神無き時代の連帯の 可能性の追求となります。 現代の リベラルな政治理論は だいたい 後者のさまざまな バリエーションですが、 密かに 神が導入されている 可能性があるのものが多いので、 フーコーのような議論が 流行るのだと思われます。 鴎外については、 わたしにはコメントする能力はありません。 ただ、 そのような苦悩があるとすれば、 それは鴎外が いかにヨーロッパ(ドイツ)文明に 拘束されていたのかを 示す ことになるでしょう。 ただし、 そのような苦悩を まったく抱かない (ないしは、 そのような苦悩の可能性に思い至らない) 日本人よりは、 はるかにましな 精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、 ある意味では、 神無しで ヘーゲル的な全体性を 国家は維持できるのか、 という問いを いち早く 突きつけられていた ともいえます。 この問いへの回答の一つは、 現在でも、 「新たな神の創造」ですが、 そのような回答が、 必然的に 政治的に 悲惨なものになることは、 我々が 歴史から学んだことだといえます。 キリスト教文化圏では、 たとえ 神が死んだ時代でも、 この危険性が よく知られていますが、 はたして日本ではどうでしょうか。 考えてみてください。

妄想卒論その1・2 (再掲)

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合...

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 並んだのが 1920年前後。 そのころ吹き荒れた 革命運動の恐怖は 今も 資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う 究極の反格差運動ともいえる共産主義。 17年の ロシア革命の2年後に 国際的な労働者組織である 第3インターナショナルが誕生し、 反資本主義の機運が 世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは 当時のロシアにも 急速な 経済成長をもたらした。 しかし 人口の大半を占める 農民や労働者に恩恵はとどかず、 格差のひずみが生じる。 さらに 日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。 1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。 内戦を経て 22年にソ連が建国されると、 富の集中度は 20%強まで下がった。 1921年には 「半封建、半植民地」 脱却を 掲げる 中国共産党が発足。 スペインやフランス、日本でも 20年代に共産党が結党した。 そして現代。 怒りの 受け皿になっているのが ポピュリズムだ。 21世紀の世界も 分断をあおる ポピュリズムに脅かされている。 米国のトランプ前大統領や ハンガリーのオルバン首相は 国際協調に 背を向ける姿勢で 世論の支持を集める。 なぜ 人々は 刹那的な主張と政策に なびくのか。 世界価値観調査で 「他者(周囲)を信頼できるか」 の問いに 北欧諸国は 6〜7割がイエスと答えた。 北欧より 富が偏る 米国や日本で イエスは4割を切る。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、 合理的判断によって ではなく、 直観や好き嫌いによって 信・不信を決める。 だが、 信用とは 本来そうしたものではないのか。 客観的ないし 合理的な 裏づけをこえて 存在しうるところに、 信用の信用たるゆえんがある。 そして 信用が そのようなものであるかぎり、 信用には 常に リスクがと...

不胎化されたレポートその9 (再掲)

第9節:以上を踏まえながら、アリストテレスの倫理学を構造主義との対比で取り上げる。私の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたと感じられる。 自分は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! という 肩書きでは 良くも悪くも通用しなくなってきている。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思われるが、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」...

回想 (再掲)

SFCに復学して、会計の授業の初回の授業の前に座っている時に、新入生が、しつこく何回生ですか?何回生ですか?って聞いてきて、 て・め・え! 俺がどんな苦労してここに座ってると思ってんだコラァ!!! って言ってやりたかったね。 適当にごまかしたけど。 病気になったこと敢えて周知してたし、 相当後ろ指さされてた と思うけど、 よくまあ単位取ったね。 卒業は出来なかったけど。

政策割り当ての原理 インタゲと増税はワンセット (再掲)

質問: 中央銀行は 民間に供給される 通貨量を コントロールしながら 物価の安定を実現させる、 とありますが、 アベノミクスの第一の矢である 2%物価上昇目標では、 インフレを起こすことにより、 デフレ脱却はもちろんのこと、 インフレによって 財政再建を同時に目指す としていますが、 これは 「政策割り当ての原理」 に反しては いないでしょうか? あるいは、 新古典派経済学では 「政策割り当ての原理」 は 成立しないのでしょうか?  回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、 「n個の政策目標を実現するためには、 n個の政策手段が必要である」 という有名な定理を唱えています。 すなわち、「政策割当の原理」です。 したがって、 「インフレ」と「財政再建」の 2つの政策目標を実現するためには、 2つの政策手段が必要となります。 本来、 中央銀行の政策目標は 物価の安定ですが、 アベノミクスの第一の矢は 2%の物価上昇が政策目標でした。 本来の金融政策の目標 (物価の安定) と異なるため 黒田日銀総裁は 「異次元の金融政策」 という言葉を使ったのです。 このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、 物価上昇によって 企業利潤が増加すると 法人税の増収、また、それに伴った 賃金の上昇による 所得税の増収、 すなわち 直接税の自然増収が 財政再建に繋がる シナリオを描いていたのです。 このシナリオどおりに進めば、 もう一つの政策目標である 「財政再建」の目標に繋がります。 ただ、 経済成長なきインフレは 国民の生活レベルを引き下げることになります。 したがって、 アベノミクスの第二の矢である 積極的な財政支出による 経済成長が重要になってくるため 「財政再建」 が先送りになってしまいます。 それゆえに、 「財政再建」 の政策目標の一環として 消費税の引上げが考えられています。 このように、「政策割当の原理」は 成立しています。

「金融と社会」質問と回答その6

質問:ケインズ経済学では、中央銀行が利子率を下げることにより、投資を喚起しようとしますが、日本経済がこれほど利子率を下げても投資が喚起されないのは、そもそもリスクを取って投資をしようという意欲が弱いからでしょうか?あるいは、そもそも投資の需要が弱いのでしょうか?  回答:企業投資の要因は、利子率(資本コスト)以外にもいろいろあり、ケインズの場合は「アニマル・スピリット」を強調しました。心理面も含めて、日本の企業投資が低迷した原因を分析した論文として、花崎。羽田「企業の投資行動の決定要因分析 : 投資の多様化の進展と内部資金の役割」財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」平成 29 年第 4 号(通巻第 132 号)を紹介します。難しい論文ですが、「はじめに」「主要な結果とその解釈」だけでも読んでみてください。 https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12514362/www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list7/r132/r132_03.pdf なお、『経済財政白書』などによると、去年、今年と金利が少し上昇したにもかかわらず、企業投資が好調のようです。https://www5.cao.go.jp/keizai3/whitepaper.html#keizai

妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

貨幣数量説 (再掲) なぜ貨幣供給量を増やすと物価があがるのか?

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の 所得流通速度が一定不変で, かつ 伸縮的な 価格メカニズムの作用により 実質産出量 (実質国民所得) の水準が 長期の 均衡値に 一致するならば, 貨幣数量の変化は 国民所得の 大きさや構成には なんら影響を与えず, ただ 物価水準を 比例的に変化させる と 主張する説。」 有斐閣経済辞典第4版

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。