2024年10月29日火曜日

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

2024年10月28日月曜日

https://www.youtube.com/watch?v=zRqFFqtGOhU

Japanese media reported that CNN has shown a concern for Japan's politics, regarding this time the defeat of LDP. But I believe this time outcome is positive for Japan's political future. Ishiba is far more dependable than Abe and its cronies. At least, he would never try to make China angry in vain, and he is realistic on the seriously problematic Japan's fiscal policy. But, he and his ally Komei must search for a relatively stable political partner. I believe that Kokumin Minsyu, whose leader is Yuuichirou Tamaki, is one of the candidates. His academic and vocational career assures he is smart. However, I seriously anticipate Mr. Tamaki might be a populist and positive for unleashing expanding fiscal policy. I fear his ambition for the PM would cost Japanese fiscal bankruptcy. Or he uses his potential alliance as political ammunition.  日本のメディアは、CNNが今回の自民党の敗北について、日本の政治に懸念を示したと報じた。しかし私は、今回の結果は日本の政治の将来にとってプラスになると信じている。石破氏は安倍首相やその取り巻きよりもはるかに頼りになる。少なくとも、無駄に中国を怒らせようとはしないだろうし、深刻な問題を抱える日本の財政政策についても現実的だ。しかし、彼と彼の盟友である公明党は、比較的安定した政治パートナーを探さなければならない。私は、玉木雄一郎氏を党首とする国民民主がその候補の一人だと考えている。彼の学歴と職歴は、頭の良さを保証している。しかし、私は玉木氏がポピュリストであり、財政政策を拡大することに肯定的である可能性を真剣に予想している。私は、彼の総理大臣への野望が日本の財政破綻を招くのではないかと懸念している。あるいは、彼は潜在的な同盟関係を政治的な弾薬として使うかもしれない。  据日本媒体报道,美国有线电视新闻网(CNN)对此次自民党的失败表示了对日本政治的担忧。但我认为这次的结果对日本的政治未来是积极的。石破比安倍及其亲信更可靠。至少,他不会徒劳地激怒中国,而且他对问题严重的日本财政政策持现实态度。但是,他和他的盟友小明必须寻找一个相对稳定的政治伙伴。我认为,以玉木雄一郎为首的国民政党是候选人之一。他的学术和职业生涯保证了他的聪明才智。然而,我严重预计玉木雄一郎先生可能是民粹主义者,并积极推行扩张性财政政策。我担心他对首相的野心会导致日本财政破产。或者,他利用自己潜在的联盟作为政治弹药。  일본 언론은 CNN이 이번 자민당 패배와 관련해 일본 정치에 우려를 표명했다고 보도했습니다. 하지만 이번 결과는 일본의 정치적 미래에 긍정적이라고 생각합니다. 이시바는 아베와 그 측근들보다 훨씬 더 신뢰할 수 있습니다. 적어도 그는 중국을 헛되이 화나게 하려는 시도는 절대 하지 않을 것이며, 심각한 문제가 있는 일본의 재정 정책에 대해 현실적입니다. 하지만 그와 그의 동맹인 코메이는 비교적 안정적인 정치 파트너를 찾아야 합니다. 다마키 유이치루가 당수인 고쿠민 민슈도 후보 중 한 명이라고 생각합니다. 그의 학업 및 직업 경력은 그가 똑똑하다는 것을 보장합니다. 하지만 저는 다마키가 포퓰리즘적이고 확장적인 재정 정책을 펼치기에 긍정적일 수도 있다고 진지하게 기대합니다. 총리에 대한 그의 야망이 일본의 재정 파산을 초래할까 봐 걱정됩니다. 아니면 그의 잠재적 동맹을 정치적 탄약으로 사용할 수도 있습니다. Japanese voters should be held responsible for their own illusion as if there was no de-facto limitation of issuing the government bonds. Many many malignant would-be swindlers,Takaaki Mituhashi is one such deceiver. They have been talking people into believing that the Japanese economy can get revamped immediately if only they abide by what he claims. Simply absurd. Consequently, so many Japanese voters hate the Ministry of Finance as if it was doing pantomime behind the curtains. In other words, conspiracy or machination. Japanese voters simply pass the cause of every objectionable economic condition onto the Ministry of Finance. It's high time we woke up from such illusions.  日本の有権者は、国債発行に事実上の制限がないかのような錯覚に陥った責任を負うべきだ。 多くの悪質な詐欺師がいるが、三橋貴明もその一人だ。三橋氏の主張さえ守れば、日本経済はすぐに再生すると人々に信じ込ませてきた。まったく馬鹿げている。その結果、多くの日本の有権者は、財務省がカーテンの陰でパントマイムでもやっているかのように憎んでいる。つまり、陰謀や策略である。日本の有権者は、あらゆる不都合な経済状況の原因を財務省に転嫁しているだけなのだ。そろそろ、そんな幻想から目を覚ますべきだろう。  日本选民应该为自己的错觉负责,就好像国债发行没有事实上的限制一样。 有许多恶毒的骗子,三桥孝昭就是其中之一。他们一直在说服人们相信,只要按照他所说的去做,日本经济就能立即得到振兴。这简直是荒谬之极。因此,许多日本选民憎恨大藏省,就像它在幕后演哑剧一样。换句话说,就是阴谋诡计。日本选民只是把一切不良经济状况的原因都推到了大藏省身上。现在是我们从这种幻想中清醒过来的时候了。  일본 유권자들은 국채 발행에 사실상의 제한이 없는 것처럼 착각에 대해 책임을 져야 합니다. 많은 악의적인 사기꾼 중 한 명인 미투하시 다카아키는 그런 속임수를 쓰고 있습니다. 그들은 사람들이 그의 주장을 준수하기만 하면 일본 경제가 즉시 개선될 수 있다고 믿게끔 설득하고 있습니다. 정말 터무니없습니다. 결과적으로 많은 일본 유권자들이 재무부를 마치 커튼 뒤에서 팬터마임을 하는 것처럼 싫어합니다. 다시 말해 음모나 조작입니다. 일본 유권자들은 모든 불쾌한 경제 상황의 원인을 재무부에 전가할 뿐입니다. 이제 그런 환상에서 깨어날 때입니다. 

2024年10月26日土曜日

神なき時代の連帯? 森鴎外「かのように」を巡って 山岡龍一先生からのご回答 (再掲)

一つの簡単な答えは、 ヘーゲル的な意味での 統治は 不可能だ ということです。 その代替案は 複数ありえますし、 フーコーは その一つでしょう (ただし、「知と権力」の 共犯関係が いかなる統治を 具体化するのかは、 わたしには 理解しがたい 難しさが あるように思えます)。 最も わかりやすい代替案が 新自由主義の統治だといえます。 もしも これを拒絶するとすれば、 問題は、 何らかの形での ヘーゲル的な統治への回帰か、 神無き時代の連帯の 可能性の追求となります。 現代の リベラルな政治理論は だいたい 後者のさまざまな バリエーションですが、 密かに 神が導入されている 可能性があるのものが多いので、 フーコーのような議論が 流行るのだと思われます。 鴎外については、 わたしにはコメントする能力はありません。 ただ、 そのような苦悩があるとすれば、 それは鴎外が いかにヨーロッパ(ドイツ)文明に 拘束されていたのかを 示す ことになるでしょう。 ただし、 そのような苦悩を まったく抱かない (ないしは、 そのような苦悩の可能性に思い至らない) 日本人よりは、 はるかにましな 精神性をもっていると思いますが。 明治日本は、 ある意味では、 神無しで ヘーゲル的な全体性を 国家は維持できるのか、 という問いを いち早く 突きつけられていた ともいえます。 この問いへの回答の一つは、 現在でも、 「新たな神の創造」ですが、 そのような回答が、 必然的に 政治的に 悲惨なものになることは、 我々が 歴史から学んだことだといえます。 キリスト教文化圏では、 たとえ 神が死んだ時代でも、 この危険性が よく知られていますが、 はたして日本ではどうでしょうか。 考えてみてください。

2024年10月23日水曜日

妄想卒論その1・2 (再掲)

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 並んだのが 1920年前後。 そのころ吹き荒れた 革命運動の恐怖は 今も 資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う 究極の反格差運動ともいえる共産主義。 17年の ロシア革命の2年後に 国際的な労働者組織である 第3インターナショナルが誕生し、 反資本主義の機運が 世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは 当時のロシアにも 急速な 経済成長をもたらした。 しかし 人口の大半を占める 農民や労働者に恩恵はとどかず、 格差のひずみが生じる。 さらに 日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。 1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。 内戦を経て 22年にソ連が建国されると、 富の集中度は 20%強まで下がった。 1921年には 「半封建、半植民地」 脱却を 掲げる 中国共産党が発足。 スペインやフランス、日本でも 20年代に共産党が結党した。 そして現代。 怒りの 受け皿になっているのが ポピュリズムだ。 21世紀の世界も 分断をあおる ポピュリズムに脅かされている。 米国のトランプ前大統領や ハンガリーのオルバン首相は 国際協調に 背を向ける姿勢で 世論の支持を集める。 なぜ 人々は 刹那的な主張と政策に なびくのか。 世界価値観調査で 「他者(周囲)を信頼できるか」 の問いに 北欧諸国は 6〜7割がイエスと答えた。 北欧より 富が偏る 米国や日本で イエスは4割を切る。  (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、 合理的判断によって ではなく、 直観や好き嫌いによって 信・不信を決める。 だが、 信用とは 本来そうしたものではないのか。 客観的ないし 合理的な 裏づけをこえて 存在しうるところに、 信用の信用たるゆえんがある。 そして 信用が そのようなものであるかぎり、 信用には 常に リスクがともなう。 信じるからこそ裏切られ、 信じるからこそ欺かれる。 それゆえ、 裏切りや詐欺の存在は、 ある意味で、 私たちが 人を信じる能力を もっていることの証明である。  (略) しかしむろん、 欺かれ裏切られる側からいえば、 信用にともなう リスクは できるだけ少ないほうが 望ましい。 とくに、 資本主義が発達して、 血縁や地縁のきずなに結ばれた 共同体がくずれ、 広い世界で 見知らぬ人びとと 接触し関係をとり結ぶ機会が 増えてくると、 リスクはますます大きくなるので、 リスク軽減の必要性が高まる。 そこで、 一方では〈契約〉というものが発達し、 他方では 信用の〈合理化〉が進む。  (略) リスク軽減の もうひとつの方向は、 信用の〈合理化〉としてあらわれる。 信用の合理化とは、 直観とか好悪の感情といった 主観的・非合理的なものに頼らず、 より 客観的・合理的な 基準で 信用を測ろうとする傾向のことである。 こうして、 財産や社会的地位という 基準が 重視されるようになる。 つまり、 個人的基準から社会的基準へと 重点が 移動するのである。 信用は、 個人の人格に かかわるものというより、 その人の 所有物や社会的属性に かかわるものとなり、 そのかぎりにおいて 合理化され客観化される。  (略) しかし、 資本主義の高度化にともなって 信用経済が発展し、 〈キャッシュレス時代〉 などという キャッチフレーズが普及する 世の中になってくると、 とくに 経済生活の領域で、 信用を 合理的・客観的に 計測する 必要性は ますます高まってくる。 その結果、 信用の〈合理化〉はさらに進み、 さまざまの指標を組み合わせて 信用を 量的に算定する方式が発達する。 と同時に、 そのようにして 算定された 〈信用〉 こそが、 まさしく その人の信用に ほかならないのだという 一種の逆転がおこる。 p.90~93  「エリートに対する 人々の違和感の広がり、 すなわち エリートと大衆の 『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現と その躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、 既成政治を 既得権にまみれた 一部の人々の 占有物として描き、 これに 『特権』 と 無縁の市民を対置し、 その声を代表する 存在として 自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)  「二十世紀末以降 進んできた、 産業構造の 転換と経済のグローバル化は、 一方では 多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの 発展を促し、 グローバル都市に 大企業や 高所得者が 集中する結果をもたらした。 他方で 経済のサービス化、ソフト化は、 規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』 としての パートタイム労働や 派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、 低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』 (野田昇吾) を 生み出している。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より) 富が集中するほど 他者への信頼が下がり、 「フェアネス(公正さ)指数」 (日経新聞作成) が低くなる。 同時に ポピュリズムの 場当たり政策に 翻弄されやすくなる。 「国際都市ロンドンに集う グローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から 『置き去り』 にされた人々と、 アメリカの 東海岸や西海岸の都市部に 本拠を置く 政治経済エリートや 有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視する はずの政党が グローバル化や ヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が 広がるなかで、 既存の政治を 正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する 急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より) 人々の不満を あおるだけで解を示せないのがポピュリズム。 不満のはけ口を 外に求めた愚かさは ナチスドイツの例を 振り返っても明らかだ。  第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 (放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)    グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。  1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より    そのような中で、 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らの アイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして 考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより 下に見ていた貧困層と同じ境遇に 置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムのマゾ的心性が、 ナチズムの サディスティックな プロパガンダとの親和性により、 まるで サド=マゾ関係を結んだ結果、 強力な 全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が 日本人の間には 存在することは、 ほぼ共通認識だが、 それは、安倍のような強力な リーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される 画一性への服従となって、 負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、 特に民族としての 「本来性」という側面だ。  本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)  グローバリゼーションが 後期資本主義における 物象化という側面を 持っているとすれば、 グローバリゼーションによる 均質化、画一化が 進行するにつれ、 反動として 民族の本来性といった 民族主義的、右翼的、排外主義的な 傾向が現れるのは、 日本に限ったことでは ないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が 高度に発展して、 物象化が進み、 疎外が深刻になるほど、 本来性というものを 追求するのは 不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、 資本主義社会が浸透し、 人間が、 計量的理性の画一性に さらされるほど、 人々は、 自分と他人とは違う、 というアイデンティティーを、 理性を超えた領域に 求めるようになる。  社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上 その 関数に貶めれられるように なればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である 絶対的支配なるものを ともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  「それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの 属性である 絶対的支配なるものを ともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである」 という言葉が 何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上 その関数に 貶めれられるように なればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を 精神的な色彩で説明し、 現実生活では 一個の歯車でしかない自分が、 それとは 独立した 精神世界のヒエラルキーに 組み込まれ、 そのヒエラルキーの階層を 登っていくことに、 救いを感じるようになる、 という感覚だろうか。  「デモクラシーという 品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、 この泥酔客を 歓迎しないだろう。 ましてや 手を取って、 ディナーへと導こうとは しないだろう。 しかし ポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その 抱える本質的な矛盾を あらわにした とはいえないだろうか。 そして 困ったような表情を浮かべつつも、 内心では 泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)

不胎化されたレポートその9 (再掲)

第9節:以上を踏まえながら、アリストテレスの倫理学を構造主義との対比で取り上げる。私の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたと感じられる。 自分は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! という 肩書きでは 良くも悪くも通用しなくなってきている。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思われるが、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

2024年10月19日土曜日

回想 (再掲)

SFCに復学して、会計の授業の初回の授業の前に座っている時に、新入生が、しつこく何回生ですか?何回生ですか?って聞いてきて、 て・め・え! 俺がどんな苦労してここに座ってると思ってんだコラァ!!! って言ってやりたかったね。 適当にごまかしたけど。 病気になったこと敢えて周知してたし、 相当後ろ指さされてたと思うけど、 よくまあ単位取ったね。 卒業は出来なかったけど。

2024年10月18日金曜日

政策割り当ての原理 インタゲと増税はワンセット (再掲)

質問: 中央銀行は 民間に供給される 通貨量を コントロールしながら 物価の安定を実現させる、 とありますが、 アベノミクスの第一の矢である 2%物価上昇目標では、 インフレを起こすことにより、 デフレ脱却はもちろんのこと、 インフレによって 財政再建を同時に目指す としていますが、 これは 「政策割り当ての原理」 に反しては いないでしょうか? あるいは、 新古典派経済学では 「政策割り当ての原理」 は 成立しないのでしょうか?  回答: オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、 「n個の政策目標を実現するためには、 n個の政策手段が必要である」 という有名な定理を唱えています。 すなわち、「政策割当の原理」です。 したがって、 「インフレ」と「財政再建」の 2つの政策目標を実現するためには、 2つの政策手段が必要となります。 本来、 中央銀行の政策目標は 物価の安定ですが、 アベノミクスの第一の矢は 2%の物価上昇が政策目標でした。 本来の金融政策の目標 (物価の安定) と異なるため 黒田日銀総裁は 「異次元の金融政策」 という言葉を使ったのです。 このインフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、 物価上昇によって 企業利潤が増加すると 法人税の増収、また、それに伴った 賃金の上昇による 所得税の増収、 すなわち 直接税の自然増収が 財政再建に繋がる シナリオを描いていたのです。 このシナリオどおりに進めば、 もう一つの政策目標である 「財政再建」の目標に繋がります。 ただ、 経済成長なきインフレは 国民の生活レベルを引き下げることになります。 したがって、 アベノミクスの第二の矢である 積極的な財政支出による 経済成長が重要になってくるため 「財政再建」 が先送りになってしまいます。 それゆえに、 「財政再建」 の政策目標の一環として 消費税の引上げが考えられています。 このように、「政策割当の原理」は 成立しています。

2024年10月16日水曜日

「金融と社会」質問と回答その6

質問:ケインズ経済学では、中央銀行が利子率を下げることにより、投資を喚起しようとしますが、日本経済がこれほど利子率を下げても投資が喚起されないのは、そもそもリスクを取って投資をしようという意欲が弱いからでしょうか?あるいは、そもそも投資の需要が弱いのでしょうか?  回答:企業投資の要因は、利子率(資本コスト)以外にもいろいろあり、ケインズの場合は「アニマル・スピリット」を強調しました。心理面も含めて、日本の企業投資が低迷した原因を分析した論文として、花崎。羽田「企業の投資行動の決定要因分析 : 投資の多様化の進展と内部資金の役割」財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」平成 29 年第 4 号(通巻第 132 号)を紹介します。難しい論文ですが、「はじめに」「主要な結果とその解釈」だけでも読んでみてください。 https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12514362/www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list7/r132/r132_03.pdf なお、『経済財政白書』などによると、去年、今年と金利が少し上昇したにもかかわらず、企業投資が好調のようです。https://www5.cao.go.jp/keizai3/whitepaper.html#keizai

妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

2024年10月13日日曜日

貨幣数量説 (再掲) なぜ貨幣供給量を増やすと物価があがるのか?

完全雇用実質GDP✕物価=貨幣量✕貨幣の流通速度 (瀧川好夫先生「金融経済論」面接授業 自筆メモより) この等式は古典派経済学の発想なので、完全雇用は常に達成されていると想定されているので、物価は貨幣量と貨幣の流通速度で決まる。 従って、貨幣量を増加させれば、物価は上がる。 「貨幣の 所得流通速度が一定不変で, かつ 伸縮的な 価格メカニズムの作用により 実質産出量 (実質国民所得) の水準が 長期の 均衡値に 一致するならば, 貨幣数量の変化は 国民所得の 大きさや構成には なんら影響を与えず, ただ 物価水準を 比例的に変化させる と 主張する説。」 有斐閣経済辞典第4版

あてはまりにくい「貨幣数量説」 (日経新聞「やさしい経済学」〘年月日不明〙より 抜書き)大阪大学 敦賀貴之教授 (再掲)

経済活動の量が変わらなければ、 貨幣量を増加させれば 物価だけが増えると予測できます。 つまり、経済に流通する貨幣量を 機械的に増やすと、 増えた貨幣はそのまま 経済に流通し、 経済取引の総額が増えます。 しかし、 経済にお金が回っても 需要が高まるだけで、 供給は増えず、 貨幣量と同じスピードで 物価だけが上昇します。 このように、 貨幣の数量で物価が 決まるという考え方が 貨幣数量説です。 日銀は20年近くにわたり、 貨幣量を大幅に増やしましたが、 物価の上昇は期待ほどではありません。 多くの経済学者は、 短期的には 貨幣量の変化は生産量の変化につながると考えます。 さらに データ上は、 流通速度は趨勢的に 低下傾向を示し、 日本ではこの30年で 流通速度が半分に低下しました。 貨幣量が増えれば 物価は上がるという 単純な理屈は 当てはまりにくいのです。

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...