2024年6月20日木曜日

不胎化されたレポートその11

第11節:放送大学の放送授業「都市と地域の社会学」にインスパイアされたのだが、夏目漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思われる。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明だが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思われる。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうだが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考える。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われる。 先ほど「身体性」というキーワードを提示したが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われる。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけである。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけである。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題だが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのだが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係というものに、魅了されていく。 あるいは、ムラに暮らしている人たちは、「都市」の自由さに憧れて、都市に惹き寄せられていく。 それでも、何かしらの紐帯、都会でしかありえないような関係性を模索していく。 その意味では、漱石は、「坊っちゃん」以来の「近代化」、こう言って良ければ、「都市化」に強烈な危機感を抱きながらも、現実は「地域」から「都市」に出てきた人たちは、それはそれで何かしらの関係性を他者と取り結んでいく。 まとめるとこのような感じかと思われる。 もちろん、漱石の「近代化」はこれで汲み尽くせるものでは到底ないわけだが、これが一応私なりの考えである。 繰り返すと、漱石の「近代化」(「都市化」)は、皮相を上滑りに滑っていかざるを得ない、と言いながらも、濃密に「身体性」を抜きにしては捉えられない。 むしろ、「身体性」から逃れられないからこそ、そこから逃れようとしても、身体性と「理性」は密接不可分の関係にあるのではないか。 「それから」の「百合」はそのことを象徴するアイテムなのではないだろうか。  

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