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プロフェッショナル

久しぶりに 見た。 校正者の 大西寿男さん。 自分も普段 こうして テキトーに 文章書いてるけど、 身が縮む思いがした。 単に誤字脱字を 正すだけじゃなく、 表現のひとつひとつ 細かいところから 立ち現れる イメージに、すごく こだわる。 英文法にも通じるところが あるような 気がする。 英文法を細かく詰めることで、 機械翻訳に英文を打ち込んで、 Deeplがうまく 日本語に訳出してくれない時、 冠詞を入れたり入れなかったり、 コンマを打ったり打たなかったりすることで、 機械翻訳が訳出する 日本語がガラッと 変わったりすることはよくある。 自分は到底 大西さんほど 言葉に細かくこだわれないが、 その姿勢は 日本語文化、ことばそのものの 質を維持していく上で、 このうえなく 価値が高い仕事だと思う。 明らかに そんなにカネになる仕事ではなさそうだったが。 ただ、姿勢は見習いたい。 背筋がただされる感じがした。 ナカマサ先生の最新刊で、 今まで読んだことのない 出版社の本だったけど、 かなり 校正が甘いな、と 感じた。 オスマントルコと書いてあるが、 中東の専門家から言わせれば、 オスマン帝国と呼ぶのが正しく、 オスマン・トルコ帝国と呼ぶのは 間違っているとか、 全体の中でかなり核心の部分 なのに、 句読点の打ち方が微妙で 意味がぼやけていたり、 あるいは、これは 単純に誤字脱字なんじゃないか? とか。 まあ、そういう部分で、 逆にさすがの ナカマサ先生も 神様ではないんだな、 生身の人間なんだな、 ということが わかったけど。

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夏目漱石とアドルノ:「それから」を題材に (再掲)

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