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日本外交レポート予備

戦前の外交評論家、清沢洌は一国の外交は「国内政治の対外表現」であり、「国際政治の対内表現」でもあると論じた。危機の時代に国際政治と国内政治は強く共鳴する。 国際的危機が国内の分断を加速させることがあれば、政局絡みの対立が外交政策に表出することもある。とりわけ日中関係は自民党内の派閥対立としばしば結びついてきた。 日中国交正常化に始まる1970年代の日中関係がその典型例だ。佐藤栄作政権の後継を巡る自民党総裁選に出馬した田中角栄は、同じく候補者の三木武夫、大平正芳と中国政策を巡る「3派協定」を締結し、最有力候補の福田赳夫を破った。そして72年7月に首相となった田中は世論の支持を背景に一気呵成に日中国交正常化を成し遂げる。 しかし台湾切り捨てに反対する党内親台湾派の抵抗は激しかった。 日中国交正常化は、田中の決断と強力な政治力があったからこそ、党内の異論を封じて実現できたといえる。 戦後の日中関係では、問題が起きるたびに自民党内の派閥対立と結びつき、親中国派と親台湾派が激しく対立してきた。だが親台湾派に影響力を持つ福田が大局的見地から、自民党内をまとめて日中平和友好条約へ導いたことは、田中の国交正常化に劣らず、80年代以降の日中関係の安定的発展に大きな意味を持った。 自民党政権が40年近く続いた55年体制は派閥の全盛期でもあった。1993年の非自民連立政権への交代と96年衆院選での小選挙区比例代表並立性の導入を経て、派閥の役割が変質した。カネ集めやポストの分配といった機能は薄れた。 1つの選挙区でおおむね3〜5人が当選する中選挙区制と異なり、小選挙区制では各選挙区で1人しか当選できない。政党同士の対決の色が濃くなり、選挙区内で派閥は併存できなくなった。 党総裁を中心に選挙の公認権を握り、選挙応援も派閥から党主導になった。 小泉氏が進めた首相官邸主導の政権運営が党総裁への権限集中に拍車をかけた。主要派閥の領袖が分け合っていた権力は総裁に移り、派閥からは人事やカネ、選挙などを巡る力が徐々に奪われていった。 東大の谷口将紀教授は「小選挙区制になって派閥の政策面や資金面の求心力はなくなった。次の総裁候補がいないと結束は難しい」とみる。 (日経新聞2023/1/11より抜粋)

コメント

  1. 慶応は疲れる。このレポートも、宇都宮大学で行われる予定の、国際政治の先生の授業レポートの予備として作成したものなんだけど、映像授業でしか拝見していないが、単位認定試験取得のために提出したレポートへの講評にしても、なんか圧を感じる。ああ、なんかこの感じ慶応だな・・・SFCだけじゃないのか。熱出てきちゃったよ。ひとりこういう方がいるだけで体調崩しちゃうんだから、俺がどっちにしろ慶応には居られなかったな。ごくろうさん。

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  2. 確かに、今の岸田さんも、国内政治と国際政治の両挟みになってるな。派閥の力が相対化した分、次期総裁候補を意識しないと、自民党が結束しない。

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