2022年3月4日金曜日
論考5
ところで、ルソーは疎外論の元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」と「社会的仮面を被ったワタシ」の分離という中学生が本能的に感じるようなことに言及していたそうである。ここで、いわゆる『キャラ』について考えてみよう。
サークルの飲み会で、場にあわせてドンチャン騒ぎをやることに倦み果てて、トイレに逃げ込んだときに自分の顔を鏡でみるのは一種のホラーである。鏡に映る、グダグダになって油断して仮面を剥がしかけてしまった見知らぬ自分。それを自分だと思えず一瞬見遣る鏡の前の男。男は鏡に映る男が自分であることに驚き、鏡の中の男が同時に驚く。その刹那両方の視線がカチあう。俺は鏡を見ていて、その俺を見ている鏡の中に俺がいて、それをまた俺が見ている・・・という視線の無限遡行が起こって、自家中毒に陥ってしまう。
このクラクラとさせるような思考実験からは、<顔>についてわれわれが持っているイメージとは違う<顔>の性質を垣間見ることが出来るのではないか。そもそも、自分の顔は自分が一番よく知っていると誰もが思っているが、鷲田清一によれば、「われわれは自分の顔から遠く隔てられている」(「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22)という。それは、「われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。」(P.22)からだ。
言い換えれば、「わたしはわたし(の顔)を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけないということである。」(P.56)ゆえに、「われわれは目の前にある他者の顔を『読む』ことによって、いまの自分の顔の様態を想像するわけである。その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう視覚の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者とはそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。」(P.56)
そして、「こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞっているという、その解釈の共同性のみに支えられているような共謀関係に<わたし>の存在は依拠しているわけである。他者の<顔>、わたしたちはそれを通して自己の可視的なイメージを形成するのだとすれば、<顔>の上にこそ共同性が映しだされていることになる。」(P.56)
こう考えると、「ひととひととの差異をしるしづける<顔>は、皮肉にも、世界について、あるいは自分たちについての解釈のコードを共有するものたちのあいだではじめてその具体的な意味を得てくるような現象だということがわかる。」(P.58)これはまさに、サークルなどで各々が被っている<キャラ>にまさしく当てはまるのではないか。サークルという場においては、暗黙の解釈コードを共有しているかどうかを試し試され、確認し合っており、そのコードを理解できないもの、理解しようとしないものは排除される。その意味では<キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。視線の交錯の上に成り立つ「規律」に反するものを“排除”する構造は、<キャラ>を媒介として成り立つ、目には見えない一望監視装置と言えるだろう。
以下「フーコー・コレクション6 ちくま学芸文庫」より引用
こうしてわれわれは、私が社会的整形外科と呼ぶものの時代に入ります。それ以前に知られていた固有の意味での刑罰社会に対して、私が規律社会として区別する社会の一タイプ、権力の一形態のことです。それは社会的コントロールの時代です。先ほど引いた理論家のなかに、ある種のしかたで、この監視社会、社会的整形外科の図式のようなものを予想し呈示していた人がいます。それがベンサムです。(中略)われわれの生を取り巻く権力形態を最も厳密に規定し記述したのは彼なのです。それに彼は整形外科の一般化したこの社会の、小さいけれどもすばらしい、有名なモデルを呈示しています。あの一望監視装置(パノプティコン)です。精神に働くあるタイプの精神の権力を可能にする建築形態、学校や病院、刑務所、感化院、養老院、工場にとってものを言うにちがいない一種の施設です。(103ページ)
ベンサムによれば、このちょっとしたすばらしい建築学的からくりは、一連の施設に使うことができるのです。一望監視装置は一社会のユートピアであり、実のところ、われわれが今経験している社会という権力のタイプの、実際に実現されたユートピアなのです。このタイプの権力は掛け値なく一望監視方式と名づけることができます。われわれはその一望監視装置が支配している社会に生きているのです。(103ページ)
一望監視装置とともに、まったく違った何かが生み出されます。もはや調査ではなく、監視が、検査があります。もはや出来事を再構成することではなく、何か、というより、不断に、すみずみまで監視されるべき誰かが問題になります。誰かが諸個人を不断に監視し、その誰かが―教師、作業監督、医師、精神科医、看守長―彼らの上に権力を及ぼし、権力を及ぼすかぎりで、監視するとともに、監視される者たちについて、彼からに関して、知を構成するのです。この知はもはや、何かが起きたのかどうかを決定するのではなく、ある個人がしかるべく振舞うかどうか、規則に適して振舞うかどうか、進歩するかどうかを見定めることを特徴とするものなのです。この新しい知はもはや、「これこれがなされたか?誰がそれをしたのか?」という問いのまわりに組織されるのではありません。もはや、いたとかいないとか、あったとかなかったとかの用語で整序されるのではなく、規範を中心に、正常かそうでないか、適正かどうか、なすべきことかいなか、といったタームで整序されるのです。(104ページ)
フーコー学者からすれば、例えば国勢調査などはまさに「生‐政治」の典型だろうけど、自分はこの類の「教科書的フーコー理解」は、結局国家の牧人的国民管理からの反逆、打倒政府、行政性悪説に辿り着くものでしかなく、また、フーコーの考える「生‐政治」の可能性を矮小化させてしまうものだと思う。フーコーの考えた「生‐政治」というのは、常に我々のすぐそばで起こっている現象だと考える。これは『キャラ』の牢獄に閉じ込められた我々に当てはまる。「生‐政治」というのは、「私」が「国家権力」によって常に監視されている、という妄想的発想ではなく、われわれ自身が、お互いを監視し、排除する当事者であるのではないか?というように考えるのです。そう考えれば、<キャラ>はすぐれて「生‐政治」の性質を帯びている。キャラという社会的仮面は、ある種の権力闘争の末に得られるものであり、あたかもゲームで得たポイントに応じて得られるものであり、本来的に素顔ではない。このように考えると、現代人が感じる「疎外」も、貨幣の暴力と本質を同じくすると言えるのでないか。
以下では、国家が経済発展するにしたがって、精神が物象化される様を刻印した夏目漱石の「それから」の一節を参考に、アドルノとの類似点という点から考察する。
代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。
やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章)
もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合にはいっそうそれに敵意を示したとは言っても、それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ)
ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、あるいはまた、人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、アドルノは深い疑念をいだいていた。『主観‐客観』は、完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)
理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
こういう風に考えてみて下さい。主体化した人間は、主客未分化で混沌とした自然から離脱して自立しようとしながら、その一方で、身体的欲望のレベルでは自然に引き付けられている。自らの欲望を最大限に充足し、完全な快楽、不安のない状態に至ろうとしている。それは、ある意味、自然ともう一度統合された状態と見ることができます。母胎の中の胎児のように、主客の分離による不安を覚える必要がないわけですから。そして、そうした完全な充足状態に到達すべく、私たちは自らの現在の欲望を抑え、自己自身と生活環境を合理的に改造すべく、努力し続けている。安心して寝て暮らせる状態に到達するために、今はひたすら、勤勉に働き続け、自分を鍛え続けている。しかし、本当に「自己」が確立され、各人が計算的合理性のみに従って思考し行動するだけの存在になってしまうと、自己犠牲によって獲得しようとしてきた自然との再統合は、最終的に不可能になってしまいます。日本の会社人間の悲哀という形でよく聞く話ですが、これは、ある意味、自己と環境の啓蒙を通して、「故郷」に帰還しようとする、啓蒙化された人間全てが普遍的に抱えている問題です。啓蒙は、そういう根源的自己矛盾を抱えているわけです。(「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ)
かなり抽象的な説明になっていますが、エッセンスは、先ほどお話ししたように、自然との再統合を目指す啓蒙の過程において、人間自身の「自然」を抑圧することになる、ということです。啓蒙は、自然を支配し、人間の思うように利用できるようにすることで、自然と再統合する過程だと言えます。自然を支配するために、私たちは社会を合理的に組織化します。工場での生産体制、都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等を合理化し、各人の欲求をそれに合わせるように仕向けます。それは、人間に本来備わっている“自然な欲求”を抑圧し、人間の精神や意識を貶めることですが、啓蒙と共にそうした事態が進展します。後期資本主義社会になると、その傾向が極めて顕著になるわけです。それが、疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、アドルノたちはそれを、資本主義経済に固有の現象ではなく、「主体性の原史」に既に刻印されていると見ます。(「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ)
アドルノについては、ポスト構造主義が大きくクローズアップされた80年代から
しばらくの間、私たちでも手に取るような一般的理論書の引用、あるいは論文の
脚注で名前はよく知りながら、レポートを拝見して、初めてその具体的実像について
アウトラインを教えて頂いたことになります。
理性と個人の誕生に重きを置きながらも、それが疎外を産み出さざるをえない
一種の必然に対して、それを批判しながらも反動的な主客合一論へは与しない、
むしろ代償を支払いながら手にする「反省能力」に信頼を置く……
こんな感じで理解しましたが、何より漱石との親近性に瞠目に近い思いを
抱きました。漱石の文明批評は、いうまでもなく「近代」批判なのですが、
しかしけっして、傷だらけになりながらも獲得した「個人」を手放そうとはしません
でした、それが彼を果てしない葛藤に陥れたにも拘わらず。
レポートを拝見させて頂き、末尾の件り――アドルノの「疎外」批判が、
それを資本主義に固有の現象としてそこに帰させるのではなく、「主体性の歴史」
に「刻印」されたものとして把握しているとの括りに、漱石との類縁性を改めて実感
し直すと同時に、漱石論への大きな励ましのステップを頂戴する思いです。
なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した
レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、
むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。
確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが
出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、
まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が
主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を
批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の)
反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。
漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。
しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという
この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード
だったのだろう、と、今、実感しています。
三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの
です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。
過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに
ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる
代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を
バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。
こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、
そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。
ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して
いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の
<近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。
だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。
静岡大学 森本隆子先生より
補論:1
アドルノは、理性の暴力性が、主体性の原史に既に刻印されている、と見るわけだけど、カントは、議論を、空間と時間から始める時に、この二つは現存在が感じられる限りのものとして、ア・プリオリに感じるものだ、としている。むしろ、人間の理性が、感性と悟性で認識できる、その裏側のいわば現代風に言えばデフォルトとしての「物自体」、つまり神には、人間は手出しをできないはずだ、という論法を採っている。
アドルノは、主体性を放棄することの危険性を繰り返し論じるわけだが、同時に理性は主体性に最初から刻印されていると見るわけだけだから、結局は、理性とは主体性の問題ということになる。
カントは、時間と空間は、人間が現存在としてある意味無条件に感じられるもので、人間が悟性を働かせることで超越論的に理性的統一、つまり超越論的統覚に至ると論じる上で、むしろその裏側のデフォルトな部分を論じるところにキモがある。
しかし、カントにしても、理性は当然に主体性と不可分のものとして論じられていることは、論をまたない。
カントは、主体性としての理性は当然のものとして論じているわけだが、アドルノは、むしろ、現代人は下手をすると理性の主体としての主体性それ自体を放棄してしまうことがあることの危険性に対して、警鐘を鳴らしている。
アドルノは、理性の裏側のいわばデフォルトな部分はタッチしてなくて、理性が暴力的にあらゆるものを計量的に測定可能な対象へと解消してしまうことを論じている。
漱石の「それから」における代助は、百合の香りの中に自己を全的に放擲し、理性そのものから逃れようと試みた時点で、やはりアドルノの圏域にいると見ていいだろう。
補論:2
ハイデガーは、個人が共同現存在のまどろみから覚醒して、ドイツ民族としての使命に目覚めなければならない、と説いたわけであるが、それが、かつての神聖ローマ帝国という誇張を含んだ憧憬の土地を回復する、というドイツ民族の「使命」を掲げるナチスのプロパガンダと共鳴してしまった。
アドルノは、そもそもの共同現存在からの個人としての覚醒が、集団的暴走と親和性があったことを念頭に置きながらも、集団に埋没しない理性的な個人としての人間を提示した。
理性の暴力性に警鐘を鳴らしながらも、主体性の原史に既に刻印されている理性から逃れる道は、再び集団的暴走への道であると考えた。
計算的理性が近代的個人を産み出した源泉であるとしても、理性から逃走し、始源のまどろみへと回帰することはなお危険であると説いたのである。
付記:社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感じでしょうか。まるでオウム真理教のようですね。
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