2022年3月4日金曜日
論考7
「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。 ドゥルーズ+ガタリ<アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255
特に象徴的なのは、「こころ」において、『先生』がKの頭を持ち上げようとした時に感じた、重さ、そして絶望。その、原罪と言っても過言ではないほどの負債観念が、明治という時代に殉死する、という言葉とともに、読者を明治以降の日本人とともに、日本という大地に縛りつける役割を果たしたと言っても過言ではないだろう。
酒井英行先生が、「漱石その陰翳」(沖積社)で書いているように、夢十夜に出てくる、盲目の子供を背負って、言われるまま森の中をさまよっていると、突然、子供が、おとっつあん、ちょうど100年前の今日だったね、あんたが俺を殺したのは、という粗筋のテーマは、漱石のみならず、伝承として広く伝えられている主題らしい。
特に、六部殺しというカテゴリーでは、あの富豪は、昔人を殺したから金持ちなのだ、という逸話が多いそうだ。
日本の資本主義の幕開けに立っていた漱石にとって、最後に行き着いた先は、原罪というテーマだったのか。
「それから」における主客合一のまどろみから、現実の世俗の世界に踏み出した漱石にとって、貨幣を媒介として形成される「管理された世界」(アドルノ)の中に足を踏み入れることは、否応なく、イノセントではいられない世界に生きることを余儀なくされることだったのかもしれない。
ゲーテの「ファウスト」における「ワルプルギスの夜」では、自己増殖的な金融のソドム的性質が暴かれるが、メフィストフェレスとともに散々やりたい放題やったファウストの魂は、最後の最後には、救済される。
この、日本とドイツの文豪における、貨幣に対する捉え方の違いはなんなのか。
一つの簡単な答えは、結局、ヨーロッパでは、金融は卑しむべきものとして、ユダヤ教徒に押し付けられていた、という背景があったということだろうか。
近松門左衛門の「曾根崎心中」では、商都大阪において、カネ絡みで心中を余儀なくされる恋人がテーマとなっているが、主人公が篤く仏教を信仰していたことからもわかるように、まだ江戸時代には、カネ絡みで白眼視されるくらいなら、死を選ぶ、という気風があったのだろう。
内田隆三氏が「国土論」で記述しているのは、戦後の日本においては、なによりも<生>とカネへの執着であって、三島由紀夫が命を賭して嫌悪を示したのは、まさにその執着心であった。
愛という感情が日本の歴史上にも古くから存在していたことは、源氏物語にも書かれていることで、わかる。
しかし、日本の宗教観念には、愛を裏打ちするものがない。
曾根崎心中は、男が女郎をカネで身受けしようとするが、心中する、という悲劇である。
物語上で彼らが悲劇的な最期を遂げざるを得ないのは、男が、女郎を身受けすれば、男は商人として大阪から追放される運命にあったからでもある。
貴穀賎金という言葉があるように、江戸時代の日本では、カネは汚いものという観念があった。
見方によっては、曾根崎心中において示されたのは、カネと愛は両立しえない、もし純愛を遂げようとすれば、命を犠牲にせざるを得ない、という当時の観念を表現していたとも言える。
六部殺しの伝承のように、カネには罪に穢されているいる、という感覚もあるだろう。
曾根崎心中は、むしろ、カネという原罪を担保に、愛を成就させようとする文学的効果があると言えるかもしれない。
尾崎豊の歌に「僕が僕であるために」という楽曲があるが、現代日本においては、男は、曾根崎心中の男のように、社会に抗いながらも、純愛を遂げられない。
「僕が僕であるために、勝ち続けなければならない」のに、女に対しては、非自発的に別れを告げなければならない。
夏目漱石の「それから」の代助が百合の香りにむせぶシーンのように、純愛を遂げようとすれば、それは理性を放擲せざるを得ないような、不可能な冒険なのだ。
それは、漱石という作家の文脈では、日本人はイエを存続させるために、純粋な異性愛を犠牲にしなければならない、という明白な義務と、近代の西洋的ラヴという観念が、齟齬をきたしているのである。
「こころ」においては、「先生」は、妻をめぐって、非自発的に友人を殺してしまった、という原罪を設定することで、純粋な異性愛に漸近しようと試みる。
しかし、その試みは、「先生」は、その友人の死という残虐劇を、明治という時代に殉死する、というように、国家への忠誠心にすり替えてしまう。
現代日本という社会においては、愛は成就しないものなのだろうか?
尾崎以降、ありとあらゆる純愛の歌が唄われてきたが、結局むき出しの愛は破綻せざるを得ないことを、社会そのものが証明しているのではないだろうか?
尾崎が愛を謳いながらも、成就できないのは、現代日本社会の特質なのだろうか?
その姿は、社会の中での生存場所を犠牲にする代わりに、自らの命を犠牲にした曾根崎心中の男と似てはいるが、そこに純愛は成就されない。
なぜなら、「僕が僕であるために、勝ち続けなけれならない」からである。
たとえ異性愛に殉死しても、それは社会に敗北しているからである。
曾根崎心中の男女のように、純愛に殉死することで、社会に勝っていない。
その意味で、江戸時代と現代日本は、やはり異なる社会ということになるだろう。
「三島は紛うことなく戦後社会の外部に立とうとした。だが、戦後社会は自分の外部があることを許容しない。この拒否は生の哲学という全面的な肯定の所作において行われているためほとんど意識されない。どんな精神のかたちにせよ、それが生命の形式であるかぎりー体制派も、全共闘運動もふくめてー戦後的な生の哲学はそれを是認しうるのである。三島は死に遅れたものとして、戦後社会とのそのような共犯性、あるいは戦後社会の総体性にたいして潔癖ともいえる反発の意思を隠そうとしなかった。三島の精神による抵抗に意味があるとすれば、それが生の哲学の軌跡に回収されないことであり、死を如実にはらんでいる限りにおいてであった。三島は自分の精神を思想的な形象でみたしたが、そうした彩りはただ死の線分に接続する限りにおいてのみ精神の形象でありえたにすぎなかった。」(395ページ) 国土論 内田隆三 筑摩書房
平成天皇夫妻の結婚が体現した、愛の成就のカタチは、性愛に基づく核家族という生のあり方を提示したが、それは、三島のように自らの命を死の線分に接続し続けることによってしか、社会の外部に立てないことをも呈示した。
尾崎豊もまた、悲劇的な死という形象によってのみ、社会に「勝った」のである。
(以下、森本先生よりご指摘)
◆「曾根崎心中」およびこれに象徴される<江戸の恋>;
「金銭 vs. 愛」という前に、まずは「金銭=欲望=性」の公式を前提とすべきか、と。
「お初」は遊女で、まさに「金」に買われる=「性」を売るのがその境涯。その上に、「徳兵衛」は主人に返すつもりの大金を友情にほだされて、そっくり貸した友人に、返済してもらえないばかりか貸した事実まで無いことにされて、男も立たず、身も立たず…。性的身体を金銭に拘束された女と、金銭で面目失墜へ追い込まれた男と。現世にあっては、ドン詰りまで追い詰められてしまった男女が「生命」を犠牲に、命で贖ったのが「あの世・彼岸」における「(純)愛」の成就。
近世には男女の間柄に「愛」という<観念>を想定する発想は未だないわけですが、逆に、生命を代償に、現世を断ち切ったところに、(現世に対する)超越性が発生する、というわけです。現世が<金銭と性>――欲望的なものに汚されていればいるほど、それを切断したところに開ける超越的世界は美しい。
◆漱石に代表される「近代(西欧)」発祥の「ラブ」
レポートにあったように、近代という時代は、「性愛」に基づく「夫婦家族」を社会の最小単位に設定するわけですが、男女関係の紐帯としてきわめて精神的(観念的)な「(恋)愛」を発見する(創造する)。所謂「性愛(性的快楽)―生殖―ラブ」の「三位一体幻想」です。そもそも社会的役割としての「生殖」や本能に根差した肉体的「性愛」と、神の前に披瀝し得るような崇高な(=肉欲を抑制した)「(純)愛」とは原理的にも背馳しているわけですが、これが「三位一体」足り得る――というのが近代のロマンチックな理想として成立する(故にこのような純愛は「ロマンチックラブ――幻想としての愛」と呼ばれる)。
漱石はある意味、純情かつ理想主義的にこれを夢見、同時にその仕掛け(幻想性)に気付き、葛藤し続けた作家。その代表作が小林君の挙げた『それから』と『こころ』で、共に、信奉していたはずの「純愛」が幻想にしかすぎないことが露わになり、傷つきながら破綻へ向かって突き進んでゆく物語です。
『それから』も『こころ』も、唯一の人と決めた女性への愛が、実は同じく彼女を愛する同性の親友への嫉妬や競争心に媒介されていたことに気付いてゆく物語。だから『こころ』では、小林君が見事に指摘したように、すでに自殺を以て<不在>になってしまっている<無二の親友=強大な恋の競争相手>に対して贖罪意識を持ち続けることで、二者関係だけでは成り立ちようもない「純愛」を仮構し続けるわけです。『それから』では、ラストで、まさに「官能」――肉体の力を借りながら、もはや純愛とは言い切れない愛を瞬時、成立させます。作中、その前段階で生じているのは、「西洋的ラブ」と「家」との対立ではなく(その意味で、漱石は自然主義作家たちに比べて、そもそも「家」からは自由。存在しようもない異性愛を存在させようとして苦しんでいる)、「西洋的ラブ」なるものがまさに「観念」にすぎない虚妄ではないか、と疑い、逡巡し始めている。代助はふと「永遠の愛」なるものを思い浮かべ、それこそまさに「三千代」だと思いながら、彼の脳裡をよぎるのは、次のような実に醒めた疑念です。
彼は肉体と精神に於て美の類別を認める男であった。…あらゆる美の種類に接触して、そのたび毎に、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家であると断定した。…
その真理から出立して、都会的生活を送る凡ての男女は、両性間の引力に於て、悉く随縁臨機に、測りがたき変化を受けつつあるとの結論に到着した。…代助は渝らざる愛を、今の世に口にするおのを偽善家の第一位に置いた。 (12章)
つまり、「家」から自由な「個」としての――人それぞれの嗜好=意思に基づく愛、なるものは、嗜好であるが故に、永遠ではない、一人の女への強い嗜好などというものは、一体、どれだけの期間継続し得るものなのだろう(賞味期限)。すでに「ロマンチックラブ」は観念の上で自壊し始めています…。
◆「曾根崎 vs. 尾崎」――<外部>の喪失;
2作品の対比は、鮮やかでした。命を絶つ、という形で<社会>を出ることの出来たお初・徳兵衛が超越性を獲得する姿に対して、「勝たねばならない」という当為をみずからに課さねばならない現代人は<社会>の中に閉ざされている。内田氏の三島論が利いています。
内田氏が指摘するように「戦後」は、ますますそうなのでしょうが、<近代>という時代そのもの、近代国家そのものが<外部>の喪失を不可避にしているのかもしれません。ことほどさように、恋愛の<三位一体>とは、そしてその基底を成すプロテスタンティズムは、まさに現世主義――超越性を内包していた近代以前の「愛」を脱色化し、世俗の地平へひきずりおろした(崇高な愛・純愛、とは名付けてみても、性欲・生殖と合体した愛は、まさになまぐさい地上性そのものです)、とは、ドニ・ド・ルージュモンの名言です(『愛について』平凡社文庫)。
家族が、資本主義化された社会野全体の部分集合になっていて、社会的な諸人物のイメージが「父―母―子」の三角形に還元される、ということですね。「還元(縮小)される se rabattre」という所がミソです。資本主義社会全体が三者関係によって表象されるわけではなく、その一部だけが家族の中で二次的表象を作り出すわけです。家族は、資本主義機械によって植民地化されているわけで、「父」や「母」は資本主義機械の一部を代理して、「私」を躾け、飼いならすわけです。
「父―母」を「消費する consommer」というのは、家族の中で父や母によって子供としての私の欲望が充足される、ということでしょう。恐らく、社会機械と繋がっている人間の欲望の発展の方向性は元来かなり多様なはずなのだけど、核家族の中で育てられると、それはかなり限定的なものになっていく、ということでしょう。小さい私はもっぱらパパやママから与えられるものを消費する受動的な存在にすぎません。大人になって、「社長―指導者―神父・・・」等の職に就いたら、消費するだけでなくて、自らも生産活動に携わるようになるので、社会体に対して能動的に働きかけ、自己の欲望の回路を拡大できるようになるかと言えば、そうはいかない。子供の時に教えられたように消費しようとする。それが、エディプス三角形の中での「去勢」でしょう。 ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義 p.300~301 作品社 仲正昌樹
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