2022年3月6日日曜日

意識と倫理

自分に意識があるのは、自分で感じられるからいいとして、他人にも意識が宿っていると、どうして確証することができるのだろう? いつも身近に接している母親に対してですら、なぜこの人には意識が宿っているのだろう?と不思議に思ってしまう時がある。 テレビで、外国で飛行機が墜ちたとか、あるいは、国際NGOなんかが、アフリカの貧困地域の、栄養不良で死にかけている子供への支援を訴える広告を見た時ですら、正直ふーん、そうなんだ、ぐらいにしか思わない。 三浦雅士さんが言うには、人間が拷問を行うのは、人間の痛みを想像できるからだ、と述べていたけど、逆に言えば、人間は、相手に痛みを与えることを通して、相手の意識、あるいは存在そのものを、濃厚に感じ取ることができると言えるかもしれない。 しかし、アニメや漫画の登場人物は、架空の存在であって、意識など存在するはずもないのに、人間は、その登場人物に対して、愛着を抱いたり、嫌悪感を抱いたり、とにかくある程度はその人格や、架空の意識の存在を感じ取ってしまう。 スターリンだったか、アイヒマンだったか忘れたが、一人の死は悲劇だが、大量の死は統計である、とか言ったそうだ。 そういう社会集団においては、一見お互いが濃厚に共同の現存在意識を共有しているだろうが、実は、お互いのことが全くわかっていない、見えていない状態なのかもしれない。 以前、新聞か何かで読んだ気がするが、霊長類レベルの動物でも、群れを作れる頭数には、当たり前だが限りがあるそうだ。 おそらく、人間だって、親密圏を作れる範囲には限界があって、実際には霊長類レベルの動物と、大差ないだろう。 人間は、言うまでもなく、科学技術の発達によって、コミュニケーションの範囲を拡大し続けているが、ある社会が、一定の方向へ走ってしまう時、というのは、即物的よりも、心理的な階級レベルが存在し、人々がそれに組み込まれていく、というのが一つのパターンだろう。あるいは、共通の目標、夢を追いかけている時とか。 現今のSNS全盛のご時世で、人間の、ほとんど本能的な反応として、ポジティブな評価よりも、ネガティブな評価が気になってしまうこと、逆に言えば、ポジティブな評価よりも、ネガティブで攻撃的な評価を投げつけてしまう現象が数限りなく起きる、というのは、そのほうが、実際には相手の存在を濃厚に感じ取ることができるからではないだろうか。 むしろ、SNS全盛の時代だからこそ、マスメディアよりも、SNSの情報を信じてしまう、あるいは、自分の親密圏、内輪の論理に固執してしまう、というのも、人間の本来的能力の限界、あるいは可能性を表している、と言えるだろう。 しかし、この場合、政治への無関心という側面も現れるのではないか? もちろん、社会には数限りないレベルの社会階層、業界団体、圧力団体があって、政治家は、それぞれの集団の権益を、大きく言えば、国政に反映させるために活動するわけだが、全体として、政治への無関心から、投票率が下がると、政治家の合理的な行動として、明確に組織された圧力団体への訴求力を重視するようになる。 しかし、有権者一人一人が、自分が属する集団の利益を超えて、国家レベルの危機に向き合う姿勢を喪えば、その国は衰退を免れないだろう。

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